62 マルガの都に向かいます
意図せずして風光明媚な観光地マルガのザッハ地区に滞在すること4日。
ロマリア王国王都ロマンよりも肌寒い朝にやっと慣れたと思っていたレティのもとにマルガ国の王妃レイチェルが訪ねてきた。
それも少し困ったように。
「おはようございます。レイチェル王妃陛下」
身支度を調え終えたばかりのレティがカテーシーで挨拶をすると、
「おはよう、レティ。それから私のことはレイチェル叔母様、と呼んでほしいのだが、いつになったら呼んで貰えるのだ?」
と、毎朝の恒例挨拶の返しがきた。そして茶っ目たっぷりのウインクを投げて寄越す。
「でなければ私もレティをレティ様、と呼んでしまいそうだ」
「おやめください!畏れ多くてベッドから出られなくなります!」
身を起こして慌てるレティにレイチェルは朗らかな笑みを向ける。
「それほど我が国のベッドを気に入っていただけとあらば、実に光栄!婚約祝いにプレゼントでもしようか」
「レイチェル、叔母様、勘弁してください!」
「ふむ、良い響きだ!嬉しくてウズウズするな。それにジルがレティを揶揄うのもわかる気がしてきたぞ」
「本当に、勘弁してください…」
恐縮と恥ずかしさに小さく身を竦めるレティを愛でるように眼を細めたレイチェルは愉しそうに呵呵と笑うと、ソファに腰かけろ、と手で示した。
レイチェルが座ったのを確認してから、レティもその向かい側に浅く腰掛けた。
「私としてはもう暫くザッハを満喫したかったのだが、マルガリッテに戻るように煩く言うのがいてな、今日の昼頃に立とうと思う」
マルガリッテとはマルガの都であり、レイチェルの自宅のである城の建つ都市でもある。特に目立った産業はないが、絹製品の質の良さは随一で、アレクシスにはじめて挨拶に行ったときにレティが着ていたオーガンジーのドレスの素材がここから仕入れられていた。
というのも、マルガリッテの東側にあるシーガルが養蚕の街として栄えているからだった。
マルガの高官の多くがマルガリッテに住むので、どうしても絹製品の需要が高いのだ。それに伴い、シルクを扱う職人がマルガリッテに集まり、職人街を作り上げていった経緯がある。
だからマルガの絹製品は高品質で低価格だと人気が高いが、他国では手に入りにくい。
レイチェルのおかげでロマリアでは比較的品揃えはいいが、やはり人気に比例して価格は高い。
儲けで笑いの止まらない豪商が両国にあるのだろう。
「そうですか、寂しくなります」
数日のうちにロマリアに戻るつもりのレティが俯き加減で呟いた。が、レイチェルは驚いたように声を上げた。
「レティも一緒に帰るんだぞ、マルガリッテに。どうしても会いたいがマルガリッテから離れられないから連れてこい、と言い渡されてるからな」
「え?私も、ですか?」
「そうだ、私だけがレティに会うなど狡いではないか、と叱られてしまったよ」
そのわりには可笑しそうに微笑むレイチェルにレティはこてんと首を傾げた。
「レイチェル叔母様を叱るなんて、どなたなんです?」
王妃を叱れるくらいなのだから、よっぽどの肝の据わった人か、ジルサンダーにとってのギルバートのような立場の人か、とレティは考えたが、
「カジィだよ、カザーロマルタ。私の夫さ」
あっさりとマルガ国王カザーロマルタ・マルガの名前がレイチェルの口から飛び出して、レティの眼も飛び出るかと思った。
「名前が長くて面倒だろう?マルタと呼んでやる、と言ったらカジィと呼んでほしいと頼まれてね」
そこでレイチェルにしては珍しく上目遣いでにやりと笑んだ。レティの胸に嫌な予感がふわりと舞い落ちる。
「だからレティもカジィと呼んでやってくれよ」
やっぱり!
「………承知しました」
予感の当たった喜びなど沸くはずもなく、レティは嘆息とともに了承するしかなかった。
朝食に食堂を訪れていたジルサンダーは誰よりも一番乗りを果たしているレイチェルが席にないことに驚いてギルバートに視線を送った。ギルバートは給仕からジルサンダーの珈琲を受け取るとテーブルにセットしながら
「レティ様にご挨拶に伺ってるそうです。なんでも本日の午後にマルガリッテに急遽戻ることになったとか」
「そうか、レティも順調に快復したようだし、俺たちもそろそろザッハを立ってロマンに帰るか」
マルガの主食である小麦粉を水と塩で練って薄く焼いたパンで挽き肉のスパイシー炒めをくるんで口に放り込んだジルサンダーが言った。
滞在も長くなったし、戻らなければパーシバルも大変だろう、とも考える。そこにギルバートから予想外の返しがきた。
「左様ですか?ではわたくしもロマリアに戻らなくてはなりませんね」
「は?」
「おや、お聞きではないですか?カザーロマルタ王様の希望でレティ様はマルガリッテに向かうそうでございますよ。アレクシス殿下もよい機会だから一緒に行くとおっしゃっておりましたので、ジル様も当然行かれるものとばかり思っておりましたが」
「はぁ?レティがマルガリッテに?カジィ叔父上に会いに行くだぁ?!」
しれっとギルバートはジルサンダーの皿におかわりのパンを置いてにたりと口許を歪めた。
「わたくしはそうレイチェル王妃様からお聞きしましたが?」
「俺だけ除け者か?」
「ジル様はレイチェル王妃様を避けてらっしゃるようでしたから、お話しする機会がなかっただけではないですか?」
「そんなことはな………くもないが、それにしても用意があるのだし、報せくらいはしてくれてもいいだろうが!」
不貞腐れたジルサンダーが手にしていたパンを無理やり口に詰め込み、頬を膨らませて咀嚼する。その様子にギルバートは眼を細めた。
いつもの張りつめた態度とは違って本来の大人になりきれない子供らしさが垣間見えて、侍従としては嬉しかったのだ。
レイチェルはジルサンダーを甥として愛している。それを隠すこともなく、照れることもなく、全面的に態度に表して接してくる。
アレクシスなどは上手に甘えているが、ジルサンダーはそれに慣れない。もともと両親から愛されていないと感じて育ったので、真っ直ぐに向けられる親愛の情に耐性がないのだろう。
どう対応していいのか、わからずに戸惑うばかりなのだ。けれどそれもはじめのうちだけで、暫くするとジルサンダーはレイチェルからの愛情を受け入れ、心地よく感じて素を曝け出す。
素を見せても嫌われない、と確信するからだ。
それがギルバートには喜びでもあり、僅かな嫉妬を覚えるものでもあった。
できれば己がジルサンダーにとってレイチェルのような唯一無二の存在でありたい、と願ってしまうからだ。
それすらも本来は不敬なのだろうが…
「では俺も叔父上に会いに行こうか」
主のなぜか遠慮がちな呟きを受けて、ギルバートは移動準備のために食堂を辞した。




