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60 閑話 ジルサンダー(前編)

長くなりそうなので2回に分けます。

ジルサンダーの半生です。

俺が自我を自覚したのは5歳のときだったように思う。


母上の腹から出ようとする弟のためにくぐもった獣じみた唸りを洩らしながら痛みに耐える母上を傍でみて、産まれてくる弟を憎く思ったのがはじめて自覚した感情だった気がする。


その3年前、つまり俺が2歳のときに産まれたレオンの記憶がないのだから、やはりアレクシスのときに自我が芽生えたんだろう。


だいたいその頃から記憶が色鮮やかに鮮明になる。アレクシスを腹に宿した頃から父上は家族と触れ合うことを避けはじめ、それまで共にしていた食事も別に摂るようになっていた。

母上の悪阻を見るのが忍びない、ともっともらしい理由があったらしいが、悪阻が治まり、安定期に入っても生活が戻ることはなかったから、なにを切っ掛けに嫌になったのかは知らないが、父上は母上を見たくないほど嫌いになったのだろう、と俺は考えていた。


7歳までは母上の傍で育った。

これは母上の希望だったらしい。できるだけ自分の手で育てたい、と。だから俺には乳母がない。乳兄弟もない。けれど母上の采配で、6歳の誕生日に似た年頃の貴族令息が集められ、俺の遊び相手として引き合わされた。

ギルバートとはそこで知り合った。


誕生日パーティーに招待されたのはギルバートではなく、その弟だった。三男のヘンリーだ。

ギルバートはヘンリーの付き添いだったのだが、俺はヘンリーよりもギルバートと遊ぶ方を選んだ。やはり5つ年上だと遊び方が過激で面白かったのだろう。

今のギルバートなら目くじら立てて怒っただろうが、年上といってもまだ子供だったギルバートはいかにも男子好きするちょっと危ない遊びが得意だったんだ。


さすがに木のうえに秘密基地を造るんだ、と張り切りすぎて背中から落ちたときは死ぬかと思ったし、確かに痛かったし、かなり叱られてヘコんだりもしたが、発案者のギルバートが俺を助けるために下敷きになって肋骨と上腕骨を折ったバキリという音を耳にしたときほど辛いことはなかった。

もう遊んで貰えないかと、号泣しながらギルバートに俺は謝った。嗚咽でごめんなさいも伝えられないくらいに哭いている俺をギルバートは折れてない方の手で優しく撫でて、慰めてくれたことも、胸の痛みを伴って思い出す。


この事故があって、俺が13歳になったときギルバートが侍従として傍にあるようになった。


母上が言うには、俺を護るために強くなければ、とギルバートはまだ11歳だったのに騎士団入りして鍛えまくったそうだ。その努力に報いたい、と母上の独断でギルバートを侍従にしたらしい。そこに父上の意見はなく、伝えれば頷いただけだったと父上の侍従からあとで聞いて、俺はがっかりしたのを覚えている。


7歳の誕生日には令息令嬢を集めた茶会が開かれた。特別面白いものでもなく、前年と違って大人しく座って紅茶を飲むだけだったので、俺はすぐに飽きてしまった。

しかも令嬢たちが猫なで声ですり寄るのが気色悪くて、俺は早々に席を立った。

不愉快だった。

せめて令息たちと遊べなくても話だけでもしたかったのに。


それから暫くしてブルーデン公爵令嬢との婚約話が持ち上がった。


正直、俺は嬉しかった。


ロマリア王国には三大公爵家がある。権力が偏らないように配慮されたのか、王妃になる令嬢は三大公爵家から選ばれる。

それも余計な争い事を避けるために持ち回り式で、だ。おじいさまはブラッディ公爵家から娶り、母上はデイグリーン公爵家の令嬢だった。

次期国王に指名されるものはブルーデン公爵家から娶らなければならない。


女神の顕現を待ち続けているロマリア王国の民として、王家は婚約者を立てない。誰が次の王かはわからないからだ。レオンかもしれない。アレクシスかもしれない。もちろん俺にも権利はある。


それなのに次期王妃のローズマリアとの婚約が結ばれると知って、父上が俺を認めてくれたのだ、と本当に嬉しかったんだ。


茶会に来ていたらしいローズマリアの顔なんか記憶の片隅にもなかったが、俺は一も二もなく婚約を喜んで受けた。


それを切っ掛けに俺の教育が一般的なものから帝王学にシフトした。


かなり厳しく難しいものだったが、父上の期待を裏切らないように俺は必死で食らい付いた。次期国王として恥ずかしくない自分でありたい、と常に国民の眼を意識した。


俺が14歳のとき、閨の教育が始まった。


子を残すことが国王として、まずすべきことだと諭された。教師として派遣されたのがブラッディ公爵家由縁のパトリシア・コックス伯爵夫人だった。このときの俺はおばさんかよ、と思っていたが、実際にはまだ30にもなっていない女性だったんだ。

コックス伯爵夫人は上品な笑い方に、柔らかな話し方をする綺麗な人だった。いつもドレスから乳房が溢れそうなほどにコルセットを締め上げているのが、俺には不快だったが、教育内容は至極真っ当なものだった。

けれど彼女は信頼を寄せはじめた俺に突然牙を向いたんだ。


「知識としてはもう充分でございましょ?」


鈴の音のように軽やかに笑ったコックス伯爵夫人が俺の横にそっと寄り添うとその白く細い指を俺の股に走らせた。


「そろそろ実地といきましょうね、ジル様」


囁かれた甘い声に、触れられた股の付け根に、舐められた首筋に、雷に撃たれたような衝撃と同時に激しい嫌悪を感じて俺はコックス伯爵夫人を突き飛ばした。


7歳で母上の傍から離れて暮らし、10歳から剣術指南を受けていた俺は、この日はじめて母上の部屋に駆け込んだんだ。


コックス伯爵夫人の仕出かした所業を半分泣きながら訴えた俺を母上は優しく慰めてくれた。そして様々な赤面するような質問(口頭試問)をしたあと、閨教育は終わりでいい、と告げられた。

以来、コックス伯爵夫人とは会っていない。


この話が父上に伝わったとギルバートから聞いたとき、俺はほんの少しだけ怒ってくれるのではないか、と期待した。

けれどギルバートの口から信じられない言葉を耳にした。


「なんだ、勿体無い、やってしまえばいいんだ。パトリシアはいい身体をしているのに。そうか、それほど欲求不満なら私が今度誘ってみよう」


そう言ってにやりと下卑た笑いを浮かべたそうだ。


このときから俺には父上でなく、ただの好色な国王陛下になった。それも倒すべき相手として。


しかしそんな決意もすぐに薄れた。


レオンが風を操る能力を覚醒させたからだ。

落ち葉を舞い浮かせる程度だったが、俺にはない力だった。王族にはごく稀に能力をもって産まれるものがあるという。

それは神から与えられた加護によるもので、ロマリア王国は女神の加護によって王が選択される伝説があるため、どうしても能力があるほうが王として相応しいと判断される傾向にあった。


レオンが次期国王だ。


俺は諦めた。

なんの能力も持たない俺が王になどなれるわけがない、と。そして国のためになにができるかを考え、レオンの補佐をしていこうと決めた。完璧な補佐を。


となればローズマリアはレオンに娶られるべき人だ。みればレオンはどうやらローズマリアに恋をしているようだった。

ローズマリアに特別な感情を抱いてもなかった俺は婚約者としての義務を一切放棄した。完全に身を引くことで、玉座に対する憧れと父上に期待していた想いを断ち切ろうとしたんだ。


学問を、剣術を、そして政治学に哲学、俺は国を補佐するために必要だと思われるものを片っ端から修得するために弛まずに努力を続けた。


近寄る令嬢たちに嫌悪を覚えるようになったのも、コックス伯爵夫人が原因ではあったが、それ以上に彼女たちは邪魔でしかなかった。冷たい態度を取れば去るかと思えば、冷徹な対応に痺れる、とほざく女どもを蹴散らしてしまいたかった。

実際に蹴り倒そうかと思うことは何度かあったが、すべてギルバートに止められて事なきを得ていた。


そうしていうるうちに冷徹王子は女が嫌いで寄せ付けない、と噂が広まり、母上からもコックス伯爵夫人のことがあったからか、心配をかけたりもしたが、実に快適な日々を送れるようになっていた。


17歳になったとき、ギルバートが羊の串焼きを食べさせてくれた。誕生日プレゼントだと言って。冷めてしまって少し獣特有の臭いがあったが、味わったことのないスパイスと香ばしい炭の香りに俺は酷く感動した。

どこで手に入るのか、と問えば、王都の下町で買ってきた、とギルバートに教えられた。


それから俺はギルバートを伴ってお忍び王都探索をすることでストレスを発散する術を会得した。


お忍び王都探索は楽しかった。


知らない世界が広がり、自分の視野がいかに狭いかを気付かされた。そして自分がかなり恵まれた環境にあることにも。

国民は苦しんでいた。

必死に笑って生きようと頑張ってはいたが、その努力が報われるだけのものが還ってはきていないのが、ありありと見えた。


その場だけを取り繕うように施しても、明日の施しはない、と気付いて、俺は彼らの苦しみを胸に刻み込み、眼前の環境に眼を瞑った。

必ず俺が国という単位で改善してみせる、と心に熱く決意して。


根本から糺さなければ、隅々まで行き渡らない。

富めるものだけ見ていては真実を逃す。


お忍び王都探索が楽しみでなく、俺の決意を鈍らせないためのアイテムになるのに、そう長い時間はかからなかった。

いつもありがとうございます!

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