57 一件落着なのでご飯にしましょ!
ジルサンダーがリチャードを従えて地下へ降りてから四半刻が経っていた。
アレクシスはレイチェルと待ちながら、現状を報せる手紙を書いていた。詳細を省き、必要なことだけを簡略化する作業は殊の外難しく、待つだけなら途方もなく永く感じたであろう時間を実にストレスなく過ごすことができていた。
手紙を書き終える直前に地下への出入口がざわめき、集中していたアレクシスの注意を引いた。
視線を上げてみれば、ジルサンダーがぐったりとしたレティを横抱きに悲愴な表情で出てきたところだった。アレクシスは慌てて立ち上がると、ペンを放り出して駆け寄った。
「ジルにいさま!レティ嬢は?!」
「わからない!叔母上!!医師をお願いします!」
「王属の別荘にて待機してある」
レイチェルがジルサンダーを案内するように兵に指示を出す。ジルサンダーはレティを一旦小脇に抱え直すと、ひらりと馬に跨がり、今度は己の前に抱き抱える。
「はっ!」
兵の案内に従って馬を走らせ、ジルサンダーは旧ラーナ邸から勢いよく飛び出していった。
ジルサンダーのあとから今度は縄で拘束したアーロンを引き立てるように出てきたリチャードにアレクシスは向かった。そして呆然としたままのアーロンを鋭く睨み付けた。
「レティ嬢になにした?」
返ってくるのは虚ろな瞳と無言の空気だけ。
苛立ちを隠すこともなく、アレクシスはアーロンの胸倉を掴むと、また怒鳴った。
「なにをしたんだ?!」
「アレクシス殿下、アーロンは自失しております。暫くはなにも答えることはないでしょう。レティ様には怪我ひとつございませんでしたし、生きてはおりましたので、毒の類いではなければ心労だけかと存じます」
アーロンに代わりリチャードが告げ、張りのない態度で弟を連れてアレクシスの前から辞した。
取り残されたアレクシスはデイグリーン兄弟の後ろ姿を寂しそうに眺めていたが、ふと横に立つ気配に視線を向けた。そこにはギルバートがアレクシスを気遣う色を瞳に浮かべて立っていた。
「ジルにいさまについて行かなくていいの?」
ぽつりと溢した言葉にギルバートは優しい声音で
「パーシバルがいないのですから、わたくしを傍に置いてくださいませ」
と囁いた。ほわりとアレクシスの胸に暖かさが宿り、嗚咽が込み上げてきた。それが情けなくて、アレクシスは腕で顔を隠すように覆った。するとレイチェルが傍に来て、まだ大人に成りきれていない甥の肩を掴むとぐっと抱き寄せた。
「マルガの医師もなかなかの腕だぞ、案じることはない。さぁ、我らもマルガ王家の誇る別荘で休もうか」
それから周囲の兵たちに向かって号令を叫ぶ。
「撤退だ!」
凛とした声に、一斉に兵が動き始めた。
レイチェルがアレクシスの肩を抱いたまま湖畔に面した別荘に着いたとき、ジルサンダーはレティの部屋から追い出されて玄関ホールで立ち尽くしていた。
「どうした?ジル」
「邪魔だと医師に追い出されたのです。マルガの医師はなかなか気が強い」
憮然としてジルサンダーが答えれば、レイチェルはさも可笑しそうに大きく笑った。
「おまえが嫌がると思って腕のいい女医を用意していたが、お気に召さなかったか!」
「女性であることには感謝しましたけどね」
不貞腐れて下唇を尖らすところなど、レイチェルからしたらまだまだ可愛い盛りで、不届き者の犯したことが発端とはいえ、こうして会えたことに心から喜びを感じていた。
「それで医師の見立ては?」
「おそらく睡眠薬でも飲んだのだろう、とそのうち起きるから出ていけ、とそれしか聞いてませんよ」
「なるほど、では遅くなったが朝食にしようか」
レイチェルが宣言すれば、すぐに食堂のほうから執事が現れ、ジルサンダーたちを誘導した。通される前から空腹を刺激する良い匂いが漂ってきて、アレクシスの腹の虫が盛大に鳴き出した。
「僕、お腹空いてたみたい!」
恥ずかしかったのか、頬を染めて言えば、レイチェルは楽しそうに笑い、ジルサンダーは申し訳なさそうに眉を下げた。かなりの強行日程で飛ばしてアレクシスに負担をかけていたことに気付いたのだ。
「まずは腹拵えだな!」
食いしん坊のレイチェルは両手を擦り合わせながら食堂に足を踏み入れた。
その頃、アーロンを連れたリチャードは王属別荘の地下にある牢のなかにいた。向かい合って座る弟に事実を伝えているところだった。
「おまえはカリーナ嬢に騙されていたんだ、それはわかるか?」
虚空を眺める瞳に動きはない。
光もない。
「カリーナ嬢はレティ様に嫌がらせを繰り返していた。殿下はそれを実に不快に思っておられる。ブラッディ公爵の判断でカリーナ嬢はミシェーラ修道院に送られることになる」
何代前かの王女ミシェーラが設立した修道院で、北に位置する王都から最も離れた南の辺境に建てられた。時の辺境伯の嫡男に恋い焦がれたミシェーラが添い遂げられないのならせめて傍に、と神に一生を捧げながら愛する男性への貞操を護るために建てたといわれているが真相はわからない。
ただ建設当初からミシェーラ修道院は貴族専用の駆け込み寺になっている。
修道院なのだから当然神に帰依するのだが、その生活は貴族の寄付から成り立っており、さらに王家からの予算もあり、潤沢な生活が約束されていた。
煌びやかな宝石も凝ったデザインのドレスもないが、少なくとも温かい豪奢なベッドに、ダイエットに不向きな食事に、素材だけは最高級品のドレスは保証されている。部屋も一人部屋が与えられ、仕事はない。
バザーに出す刺繍作品を刺すくらいはあるが、ちゃんと専属の侍女が付き、敷地内であれば日々を自由に過ごすことができる。
カリーナは残りの長い一生をそこで費やすことになる。日々の生活に悲鳴を上げている人々からすれば実に贅沢な待遇だろう。
「おまえはデイグリーン公爵家から廃される。今後はアーロンだけで家名は名乗れない」
それには微かに頷いて応えたので、リチャードはどうやら聞いてはいるらしいと知った。
「ブラッディ公爵家の次期当主は縁戚から迎えることになった。おまえは辺境部隊に入る。それも一番下の階級からだ」
アーロンはまたこくりと首肯した。
「場所はミネルバ州だ」
アーロンが唐突に顔を上げると、リチャードを瞠目した。それをみてリチャードはにやりと笑った。
「あそこの辺境部隊はミシェーラ修道院の警護も担当してたか?」
アーロンの瞳に喜色が浮かび、生きる気力を示すように光が宿る。
「運が良ければ姿くらいは見れるかもな」
騙されてもなお愛する心は消えないのか、と己の弟ながらその執着の強さにリチャードは呆れた。
と、同時に羨ましいとも思った。
それほどの想いを抱いたことのないリチャードがなぜか人として不完全なものに感じて仕方なかったのだ。
レティを想うあまりに一晩で汚れた土地を駆け抜けたジルサンダーも、兄のためにその気持ちに黙って寄り添うアレクシスも、リチャードにはとても眩しく映っていた。
好きな女に騙されて、身分を剥奪された挙げ句、騎士団の副団長を任されていたのに一騎士からの再スタートを言い渡されて、今は牢に入れられているのに幸せそうに微笑むアーロンも、やはりリチャードには眩しい存在だった。




