55 久々の甥との再会
ザッハ地区はマルガ国の南に位置する風光明媚な観光地だ。メインとなる大きく美しいレンティーニ湖の周囲を見事な別荘や煌びやかなホテルが囲んでいる。
湖畔に近いほど豪華な屋敷が建ち並び、離れるほどにこじんまりとした邸が所狭しと密集するような、格差が顕著な土地柄でもある。
バロー伯爵の所有する屋敷ラーナ邸は湖畔からは程近いが、レンティーニ湖に面してはいなかった。
広い庭のなかに背の高い塔を持つ比較的小さな屋敷だった。おそらく景色を楽しむために建てられたのだろう、塔の中層にぼんやりとした灯りが湖畔独特の濃い朝靄のなかでうっすらと見えた。
ラーナ邸をぐるりと囲むのはレイチェル率いるマルガの兵たちと、先程合流したばかりのジルサンダー一行だ。
「久しいな」
眼を細めて久々に再会する甥を抱き締めると、レイチェルはジルサンダーの背後に控えていたアレクシスに視線を留めた。
「なんと!アレクシスまで来たのか!これは楽しいザッハ滞在になりそうだな!」
「お久しぶりです、レイチェル叔母さま」
屈託なく笑ったアレクシスがレイチェルの腕に飛び込むように抱きついた。
「背が伸びたな、いつの間にやら私と変わらないじゃないか!」
「はい、僕は成長期ですから!」
くしゃりと頭を撫でられて嬉しそうにしているアレクシスの横でジルサンダーは呆れたように叔母をみた。
「叔母上、俺は早く突入したいですよ、気が気じゃない!」
暢気に挨拶を交わしている場合ではない、とジルサンダーは地団駄を踏みたい気分だったが、鷹揚にレイチェルは声を出さずに笑うとジルサンダーの肩を強く叩いた。
「もう少し待て。斥候が正確な場所を確認している」
「ですが、塔のなかほどしか灯りはありませんよ」
「だが、バローとかいう色男もどきはここに女を囲っているのだろう?それと間違えるわけにはいくまい?」
「それはそうですが…」
歯噛みする甥を眇めたレイチェルが肩を竦めて
「ジルがここまで肩入れする女性に出会うとは奇跡だろうか?私は嬉しいよ、人を愛することを知るのはなによりも得難い経験だからな」
と真剣な眼差しを注いで言った。口調に揶揄う気配もなく、ジルサンダーは妙に照れてしまい、顔を背けた。
「だが男には忍耐が必要だ。それではいずれレティ嬢に嫌われるぞ」
くつくつと笑ってレイチェルがジルサンダーの頭をくしゃりと乱した。ギルバートに何度も強引だと嫌われる、と警告されてきたが、さすがにレティと同じ女性から似たようなことを言われるとジルサンダーは落ち込んだ。
「まぁ、それもあと少しだな、ほら来たぞ」
レイチェルが顎を上げて示した先にはラーナ邸に忍び込んでいた影たちが陽が射してもなお濃く残る霧に紛れて戻る姿があった。すぐにジルサンダーの胸が大きく弾む。
「いたか?」
レイチェルの質問に影はそっと跪いて答えた。
「塔にはおりませんでした」
「ではあの灯りは?!」
目算が外れたジルサンダーは影に掴みかからんばかりに詰めよった。
「最前まで囚われていたのが塔のあの部屋のようですが、今はおりません。地下に移動しました。地下へ行くのに中へ入らずとも屋敷裏にある通路から降りられることは確認しました。降りてすぐ右側に見張りがおります。さらにその奥に灯りのついた部屋がありました。お姿は確認できませんでしたが、ここへ戻るまえに食事が運ばれていくのをみましたので、ご無事ではないかと思われます」
ほらな、とレイチェルの眼がちらりとジルサンダーわねめつけた。
居心地の悪さを感じたジルサンダーがリチャードとギルバートを傍に呼びつけ、地下に潜るために屋敷裏に廻る、と告げた。その姿にレイチェルはまだまだ子供なのだと苦笑した。
ちょうどその頃、ロマリア王国の王城内ではちょっとした騒ぎがレオンによって起こされていた。
毎朝の最上級の愛の叫びである深紅の薔薇を断られてからもレオンは一目でもいいから会いたい、とレティの部屋を柱の影に隠れて窺う日々を過ごしていた。
ローズマリアもびっくりの媚薬の効き目は薄れることなく、むしろ効果を増しているかのごとく、レオンのレティを想う心は日に日に募るばかりだった。それなのに薔薇を断られて素直に引いたのは双子の戦略のおかげだった。
まだレティが寝ている早朝に廊下を彷徨いているレオンを呼んで居間を見せたのだ。レオンから贈られた薔薇で真っ赤に染まっている居間を。
ジルサンダーの青色も銀色もどこにも存在する隙のない、レオンだけが占拠している居間を。
「このような状態でございます。殿下からのものを無下にもできませんので、暫く控えていただけますと、わたくし共としても大変助かります」
感情の隠らない侍女らしい言い種でメアリースーが言えば、レオンは満足して快く頷いた。
レティの香りに混ざる己が贈った薔薇の芳香を感じ取り、彼女が過ごしている空間に触れた幸福に、レオンは死ねと言われても首肯しただろう。
そのくらい彼は顔を蕩けさせて、スキップしながら去っていったのだから。
思い込みの強いレオンはレティが拐われた翌朝も雲の上を歩くような足取りで愛しの彼女の部屋をいつもの柱の影から窺っていた。
しかしいつもなら出入りする侍女も、ドアの前に張り付く護衛も、朝の挨拶を交わしに来るジルサンダーの姿もなく、脳筋のレオンもさすがにおかしいのでは?と首を傾げていた。
念のため、とドアをノックしてみたが返事はなく、扉には鍵がしっかりと掛かっていた。ロマリア王国では王族の部屋には鍵を掛けないのが普通で、掛かっているのは留守のときか異常事態発生のときのみだ。
常に誰かが出入りし、在室し、部屋の世話をしているのだからいちいち鍵を掛ける必要もない。
見れば、ジルサンダーの部屋の前にも護衛はない。
レオンの額から汗がぽたりと落ちた。
「誰か!誰かいるか!」
第二王子の切迫した叫びにレオン付きの護衛騎士が駆け寄ってきた。
「レティは部屋にいるのか?鍵が掛かってるぞ?!兄上は執務室なのか?!」
要領を得ない話ながらもレオンに馴れている騎士はレティのドアノブを遠慮がちではあるが、回してみる。鍵が確かに掛かっていることを確認してから、レオン専属執事のもとへ行こうと踵を返した、そのとき、廊下の奥から騒ぐな、と怒声が上がった。
弾かれたようにその場のものたちが声の方を見れば、そこにはパーシバルを従えたミケーレとピナールがいた。
「ジルサンダー殿下と妃候補レティ様はマルガ国王妃レイチェル陛下のご希望により訪問するため、昨夜王城を立ったのだ」
身分の差なく、己の認めたもの以外に謙るつもりのないミケーレが尊大に宣い、
「わたくし共は今から陛下にその旨をお伝えしに行くところでございます。レオン殿下におかれましてはあまり騒ぎ立てせずにお二人のご帰国をお待ちいただければ、と存じます」
今度は慇懃にピナールが軽く膝を折って言った。
ミケーレの言葉の選択に苛立ったレオンはあからさまに不機嫌さを醸して舌打ちをすると
「レティはまだ誰のものでもないし、私の妃になる予定のものでもある。決め付けたようなことは言葉にするな」
と恫喝した。
様々な情報をリチャードの手紙から得ていたミケーレだったが、レオンがレティに傾倒していることはどこにも記載がなかったので、さすがに驚き、眼を眇めた。横で澄ました顔をしているピナールすら
これは面倒なことになっておりますな
と、内心で嘆いていた。
ただでさえ公爵家の命運が賭かっているマリオットとの会談を前だというのに、これ以上の面倒はご免だ、と横に飄々とした態度で立つミケーレに視線を送った。
「これは私の思い違いであったか?ジルサンダー殿下とレティ様は大変仲睦まじいとお聞きしていたので、まさかレオン殿下までもがレティ様の虜になっているとは考えもしなかった」
「では訂正しておくことだな、レティは私のものだ。今はまだ兄上が離さないが、彼女はすでに私を選んでいるはずだ」
胸を張り、とろんと夢見る真紅の瞳を光らせたレオンは公爵家当主ふたりを睥睨した。
「左様でございましたか、承知致しました。ではわたくし共はこれにて失礼して、陛下のもとへと参ります」
「あぁ、父上のことだからまだ起きてらっしゃらないだろうが、宜しく伝えてくれ」
さっさと行けというように掌をひらひらと振ってレオンは踵を返した。その後ろ姿に一抹の不安を抱いたミケーレが
「して、殿下はどこに?」
と聞けば、レオンは顔だけを振り返ると不敵に笑んで、
「さぁて、私も久々に叔母上に会いに行くのもいいのでないか、と思ってな」
とだけ呟いた。
これはまた更なる面倒事が起きるかな、とピナールは思ったが、マルガにはレイチェルがいる。
なにが起きてもあの女傑なら笑顔で難なく解決してしまうだろう、と放っておくことにした。
まずは己の身の振り方と国王陛下への報告が先決だ。
人の恋路の先を心配してやるほどの余裕などピナールにあるはすがなかった。




