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54 こんなときまで妄想族はおやめください!

ジルサンダーは駆けていた。


草原を抜け、疎らに歪な木が生える林を駆け抜ける。道中、襲い掛かってくる魔獣を斬り伏せ、ようやくマルガを護る城壁が遥か先に陽炎のように見えたときには東の地平線が日の出前の一瞬に朱く染まる直前だった。


ソフィテルの浄化を受けていない土地を走ってきたので、手持ちの水しか飲めなかった面々は空の水筒を腰に付けたまま、安堵の吐息を洩らした。

旅行者のために整備された道はあるが、魔獣を避けるために大きく迂回しており、急ぐあまりに今回は使用していない。

ひたすらマルガ目指して直線的に進んできていた。


「あと少しだ!行くぞ!」


ジルサンダーの号令で、一同は馬の腹に最後のひと蹴りを入れた。どの馬も愛されているためか、高く嘶くと、力強く地を蹴って再び駆け始めた。


馬上にありながら、ジルサンダーは飛んでいけたらどれほど早かっただろう、と悔しがる。

その能力を持つのだから、当然といえばそれまでだが、鷹にでもなれば、距離などもろともせずにレティの傍に飛んでいけたのに、と口惜しい。

いくら妄想しようとも、ジルサンダーが変化することはなく、やはり馬上で馬任せだった。


今頃レティはどうしているだろうか…


痛い思いは、怖い思いはしてないだろうか、とレティの憐れな姿が何度も頭に浮かび、不吉なことを考えただけで実際に起きてしまうのでは、と懸念して打ち消しては首を振る。


旧ラーナ邸はかつて権勢を奮った豪商が建てた小さいながらも豪華な邸宅で、豪商が手放したあとマルガの高官によって気品あるものへと改築されたとジルサンダーは聞いていた。

現在の持ち主はバロー伯爵で、彼の祖母がマルガ出身であることから貿易商を興して財を蓄えた。

伯爵領から上がる収入だけで女を購い、ザッハの屋敷(セカンドハウス)で囲うことなど到底できない。


囚われのレティ…


ジルサンダーの脳内でなぜか薄い夜着一枚のレティが縄でぐるぐると巻かれているイメージが再生される。荒々しい扱いに乱れた赤毛が彼女の首筋を這い、哀しみに潤んだ菫色の瞳が切なく見上げている。

恐怖に震える唇は興奮にクラシックローズが咲き誇るようで、縛られた縄によって強調された胸が荒い呼吸に大きく上下していた。

(なまめ)かしくも美しいレティのまえに立ちはだかるのはロマリア王国の騎士服を生意気にも着こなした凛々しい体躯のアーロン。

カリーナへの愛を忘れたかのように、レティを見る眼に熱く滾る色香が宿って、妖しく光る。


怯えるレティにねっとりとした視線を絡ませたまま、アーロンは騎士服のボタンをパチリパチリとゆっくり外していく。

その淫靡に響く音に、レティは頬を染めながら縛られた身体で後退さる。


レティの儚い可憐さに高揚するアーロンが乱れた息を調えるためか、己の唇にペロリと舌を這わせた。


「ひっ!」


小さくレティが悲鳴を上げて…………


俺は頑丈に鍵の掛かったドアを蹴り開けて、その勢いのままアーロンに斬りかかった。一撃でアーロンが倒れ、俺はレティの傍に跪く。ナイフで彼女の縛めを解けば、痺れる手でレティは俺に抱きついてきた。

それを受け止め、抱き上げた俺は彼女の頬に唇を落とし………


恋情の隠った菫色の瞳が過分な熱を孕んで俺を見上げ、安堵したように緩む。そしてそっと閉じられた。


頬をピンクローズに染め上げたレティの可愛らしい唇が僅かに窄められ、俺は己のそれを重ねるように顔を近付けて、はじめての口付けを………


「ジル様!!」


ギルバートの、珍しく甲高い呼び声にジルサンダーははっと己を取り戻した。すでに眼前に迫るようにマルガの城壁があり、その一部をくり貫いたような門前にはレイチェルから派遣されたマルガ兵たちがマルガの紋章が入った旗を交差させて待っていた。


「第一王子としての口上を願いますよ!ぼうっとしないでください!!」


「あぁ、もう着いていたのか…」


愉しい妄想中は時間の過ぎるのが早すぎると口のなかで呟きながら、ジルサンダーは周囲を見渡した。そして馬上で胸を張ると、よく通る低い声で宣言した。


「ロマリア王国第一王子ジルサンダー、叔母でありマルガ国の王妃であるレイチェル陛下、謁見のため罷り越した!お通し願う!」


「王妃様より承っております!どうぞお通りくださいませ!」


交差していた旗が起こされ、門がギギギ、と音を立てて開いていく。

ジルサンダーは馬に乗ったまま、門内へと進んでいった。


その頃レティはジルサンダーの妄想とはかけ離れた、まさかの状況にあった。

アーロンから人生相談を受けていたのだ。


一緒にいた侍女たちはどうなった、これから私をどうするつもりか?と意を決して聞いたレティにアーロンが堰を切ったように泣き言を溢し始めたのが切っ掛けだった。


「ではアーロン様は今回のことは不本意だったと反省されているんですか?」


「私は清廉潔白に、清く美しくあってこそ崇高なカリーナ嬢に相応しいと思っているから、このような犯罪紛いのことはしたくないのだ」


犯罪紛いでなく、犯罪そのものですけどね、とレティは心のなかでツッコんだ。けれど眼前で床に膝をついて項垂れる男を追い込むようなことは口が裂けても言えない。


「カリーナ様はなぜ私を?」


「彼女は貴女の評判を落とすことでジルサンダー殿下に相応しくないことを明らかにしたいのだと…」


「でもアーロン様はカリーナ様を愛してらっしゃるんですよね?殿下に私が相応しくないとなって、仮にカリーナ様が婚約者に選ばれたらアーロン様にとって良いことなどないじゃないですか?」


「カリーナ嬢はブラッディ公爵を継ぐ身。一時の恋人気分を味わったら私のもとに戻ると約束してくれたのだ。そのときは全身全霊を掛けて私を愛してくれると……約束してくれたのだ」


そんな馬鹿な話があるわけがない。

高位貴族のなかでトップであったとしても、所詮は臣下にすぎない公爵令嬢が王子の婚約者に収まっておいて公爵家存続のために別の人と縁を結ぶなど、誰が考えても不自然な嘘だ。

だったらジルサンダーが公爵家に降りれば済むだけ。別の人を立てる必要がない。

そんな平民にでもわかる道理が理解できないほどアーロンが愚かとも思えないレティは今にも泣きそうになっている男に疑問をぶつけてみた。


「おかしいとは思わなかったのですか?」


「……………」


項垂れて黙ったアーロンは話すべきかを迷うように下唇を咬んでいたが、ポロリと大粒の涙を落とすと絞り出すように吐露した。


「カリーナ嬢がはじめて私を抱き締めて…」


ぐぐっとアーロンの喉が鳴る。


「キスをしてくれたんだっ!」


レティは息を飲んだ。

嘘だと思っても、信じたかったのだ。

はじめて感じた愛する人の唇の温かさを、抱き締めた身体の柔らかさを失いたくなかったのだ。

たった一度の、これから先は触れられないかもしれない、などと考えたくもなかったのだ。

カリーナとの未来を信じたかったのだ。


「私のもとに戻ると約束したことを信じてほしい、と彼女は言ってキスしたんだ!私はそれを信じるしかない!!それしかできなかったんだ!!」


「愛してるなら、信じたいですよね」


未だ後ろ手に縛られたままのレティが呟けば、アーロンは放心したように彼女を見つめた。そして緩慢な動作でレティの傍まで這っていき、彼女の肩を片手で押さえ付けると腰に差していたナイフを抜いた。


「すまない………」


罪に押し潰されそうに、か弱く囁くとアーロンはナイフを振り上げた。部屋に灯る弱々しい光の中にあって、なお輝くばかりに光を反射する刀身にレティは見惚れたように呆然と、己に向かって振り下ろされるナイフを眼で追っていた。


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