49 第一王子妃候補誘拐事件発生
「困ったわ、ここがどこかもわからないし、メアリーもナタリーもいないし、なにが起きたのかもわからないし…」
レティはひとり呟いて嘆息した。
周囲を見渡せばそれほど悪くない待遇だとレティは思う。窓はしっかりと鍵が掛けられて開けようとしてもぴくりともしないだろう。さらに厚いカーテンがひかれているため、室内は隙間から零れる夕陽の明かりだけで、薄暗いことこの上ない。
だが、どこかの廃屋というわけでも、地下牢というわけでもなく、閉じられた空間ではあるが、そこはきちんとした普通の部屋だった。
レティは部屋の中央に置かれたソファに座っていた。後ろ手に拘束されたまま、立ち上がるのも苦労するほどの柔らかいソファにしっかりと身体が沈み込んでいるので、座るというより横になっている、と言ったほうが正しいのかもしれない。
そう思えば、普通よりも上質な部屋かもしれない。
薄暗いので判別は難しいが、置かれている家具はどれも高級感が溢れたものばかりだ。
重厚なソファテーブルには見事な切子細工の水差しと硬そうなパンがある。この手でどう飲食するというのか、と自虐的に考えて、レティは乾いた笑いを洩らした。
部屋の奥には天蓋付きベッドが置いてあり、それがレティの不安を煽っていた。己をここに担いで運んできた男を思い出して、レティは身震いをする。
純朴で育っても下町の、お年頃の女の子である。男に拐われた女性の末路は難なく想像がついた。もしもその最悪の事態になったとき、ジルサンダーとの未来はないのか、と考えてレティは瞳に涙を滲ませた。
こんなとき女神がなんの役に立つのか、とレティは悔しさに拳を握りしめる。
癒しの力があっても逃げることすら叶わない。
「だけどそんな人にも見えなかったのよね…」
誰もいないからこそ、つい言葉を声に出してしまうレティは己を連れてきた男を思い出して、ふと思う。これからどうなるのか、という不安はあれど、連れてきた無頼漢に対する恐怖は不思議となかったのだ。
この部屋に入ってベッド前に行ったにも関わらず、男は暫し迷ったあとレティをソファにそっと丁寧に下ろした。その男の顔は心底申し訳なさそうな表情が張り付いており、哀しげに眉が下がっていた。
言葉を発さなくてもレティに対して疚しい想いなど抱いているようには到底見えず、どちらかというとひたすら気の毒に思っているように感じていた。
「本当にどうしてこうなったのかしら?」
そしてメアリースーナタリースーの双子はどうしているだろうか、と常に傍にある優秀な侍女たちの身を案じて、またレティはため息を溢した。
そもそもレティが囚われの身になったのはこの日の昼前のことだった。
昼から時間があるから、と久々にレディ・ロジェールのダンスレッスンでもしようか、と前々から約束していたのだが急な茶会が入ったと前夜に連絡があり、夜会デビューが決まったことに焦りを感じていたレティはがっくりと肩を落とした。
だから朝、爽やかに目覚めてもどこか淋しさを感じてレティは挨拶前に洩れる吐息を我慢できなかった。
そのとき、
「レティ様、ジルサンダー殿下の伝言でございますが…」
寝室のドアにノック音が響き、メアリースーが僅かに開けた隙間から覗くようになかを窺った。レティがベッドの上で起き上がっているのを眼にして、ホッとしたようにするりと入ってくると居間でジルサンダーの護衛騎士が待っている、と教えてくれた。
急いで身支度を頼むと、ナタリースーも寝室に入ってきて、ふたりがかりで素早く人前に出られる程度の格好にして貰い、レティは居間で護衛騎士と対面した。
「本日の茶会が延期となり、予定通りにレディ・ロジェールのレッスンを受ける算段がついたとのことです。昼食も一緒にしたいので昼前に迎えを寄越す、とのことでした」
頭を軽く下げ、胸に拳を当てた騎士の礼のまま口上を述べた護衛騎士にレティが感謝を伝えると、俯き加減のまま騎士は下がっていった。
そのときレティは見たことのない顔だな、と微かな違和感を覚えたのだが、レディ・ロジェールと会えること、そしてジルサンダーと踊れることに心が浮き立っていたので、大したことでもない、と流してしまった。
実は双子も誰だろう、と思ってはいたのだが、まさか第一王子の護衛騎士の紋章を着けた騎士を疑うなど考えも付かなかったので、やはり新人だろうか、と思うだけだった。屋敷の影も動いているとギルバートからも聞いていたので、知らない顔があっても警戒するほどのこともない、と判断したのだ。
軽めの朝食のあと、レティは湯浴みを終えてからダンスレッスンに相応しい夜会を意識したドレスに着替え、朝食に飲み損ねた珈琲とサブレをお伴に、双子を相手におしゃべりを楽しんでいたとき、アレクシスから妃教育の誘いを受けたが、ダンスレッスンがあるからと断った。部屋まで来たアレクシスはレティのドレス姿を眩しそうに眼を細めて眺めてから、なぜか嬉しそうに頬を染めてまた明日、と言って辞していった。
そうしているうちに迎えの騎士の来訪が知らされる。
今朝、ジルサンダーの伝言を述べに来た護衛騎士で、レティはやはり違和感を覚えた。
「ジルサンダー殿下は…?」
ランチまで一緒に、と誘ったジルサンダーが自ら迎えに来ないのは今までになかったことで、レティは違和感そのままに口をついて聞けば、
「先にサロンにて待つ、と」
とこれもまた意外な言葉を耳にした。
ジルサンダーが忙しいため、あまり食事をともにすることはなかったのだが、ときどき食べられることもあり、そのときはレティが気兼ねなく食事を楽しめるように、とジルサンダーの私室で食べることがほとんどだったのだ。
もう食事の所作を気にしなくても自然と綺麗な正しいマナーで食べられるようにはなったが、それでも食堂やサロンでの食事は緊張するだろうと、ジルサンダーが避けてきていた。
でも夜会も近いし、そろそろ慣れるように気を遣ってくれたのかしら?
レティは己を納得させると、護衛騎士を従えて、サロンに向かうことにした。もちろん背後を護るように双子も傍を歩調合わせて歩いている。
しばらくしてメアリースーがあら?サロンは…と一言呟いた。それが引き金になったのか、護衛騎士が突然ナタリースーの首筋に手刀を入れた。
間髪おかず、振り向き様にメアリースーの首筋にも打撃を与え、どさりと倒れる音をレティが耳にした瞬間には口元にハンカチを当てられていた。
鼻にツンとくる刺激的な薬臭に包まれ、しまった、と息を止めたときにはすでにとき遅く、レティは暗闇に落ちていた。
まさに電光石火の早業だった。
教会の鐘が脳内で盛大に鳴らされているような耐え難い頭痛を抱えて目覚めたとき、レティは窓を黒く塗り潰された馬車のなかで揺れていた。随分と乱暴に走っているのか、はたまた道が悪いのか、頭痛とは別に酔いで吐き気まで込み上げてきて口を押さえようとしてレティははじめて己が拘束されていことに気付いた。
双子がいないわ。
己ひとりだけが乗っている車内に視線を這わせ、レティは彼女たちが床に崩折れた姿を最後に目撃したことを思い出し、急に全身から汗が噴き出した。大丈夫だろうか、一緒でないなら無事に城で保護されていてほしい、と必死で祈る。
そして慣性の法則で身体が前に投げ出されるほどの勢いで馬車が唐突に停まると、レティは目隠しの上、現在いる部屋に放り込まれたのだった。
「さて、どうやって逃げようかしらね…」
呟く声は奇妙なほど静かな屋敷のなかを僅かに木霊して儚くも消えていった。
物語の最後は決まっていて、そこへ向けて頑張っているのですが、なぜか終わりが見えないまま49話まで来てしまいました…
ここまでお付き合いくださり、本当に感謝しています。まだまだ続くと思いますが、飽きずに読んでくださいますよう、宜しくお願い致します。
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