46 父は怒ります
その日、いつものように早朝から登城すると、祭礼儀礼を司る高家の神祇官として与えられた執務室に向かう途中で、国王陛下の近衛騎士に呼び止められた。
「なにか?」
本日の執務内容を頭のなかで整理をしながら熟す順番を考えていたブラッディ卿は幾分邪魔をされた不満で顔を顰めた。
「陛下がお呼びでございます。謁見の間ではなく、私室のほうへお願い致します」
その言葉にブラッディ卿の胸に不安が去来する。私室に呼びつけるということは仕事ではない。完全にプライベートだ。
だからといって断ることもできない。
「承知した。すぐに伺うと伝えてくれ」
「はっ!」
踵を返した騎士を見送ったあと、一旦己の執務室に入り、手荷物を置いた。本来、従者が付き従うので荷物など持たなくてもいいのだが、ピナール・ブラッディ卿は王城の奥にある執務室まで従者を連れてくることを拒んだために己で持たなくてはならなかった。
けれど王家に対する守秘義務を課される立場にあるので、ブラッディ卿は己で荷物を持つことすら誇りとしていた。
急ぎの書類がないことを確認してから、ブラッディ卿は王の私室に向かった。
疚しいことは何一つない、と自負するだけに堂々と歩みを進めたが、かといって呼ばれる心当たりがないことで妙に胸騒ぎも感じていた。
なんだろう、と逡巡しているうちに男子禁制の後宮に程近い国王陛下の私室前についてしまった。
先程呼び止めた騎士が重厚な扉を護るように立っていたが、ブラッディ卿の姿を確認するとドアを開けてなかで待機していた侍従にブラッディ卿の来訪を告げた。大して待つこともなく中へ通されたブラッディ卿は侍従が勧めたソファに浅く腰かけた。
「陛下はすぐに参ります」
ちらりと部屋の奥にあるドアに視線を送りながら伝えると、手際よくティセットを並べていく。
その苦い表情から、また陛下はわけのわからない女をベッドに潜り込ませたのか、と推察されてブラッディ卿の頬から血の気が引いて青白くなった。
デイグリーン前公爵が知ったら大変だな、と口のなかで呟く。
王妃は両親から溺愛されている。
それこそ王家の慣例など捨て置け、と声高に叫び、マリオットとの婚約から逃れようとしたし、いざとなったら国外逃亡だ、と荷物をまとめてリッテ国へ亡命希望を出したりもしていたのだが、ダリア本人が嫁ぎたい、と強い意志を示したことで無事に現在もデイグリーン公爵家がロマリア王国に存在していた。
無駄な心配をしつつ、出された紅茶を一杯飲み終わる頃、やっと夜着のうえにガウンを羽織っただけの姿のマリオットが悪びれた様子もなく現れた。
「待たせたか?」
ブラッディ卿は立ち上がり、敬礼をする。
「いえ、私こそ早朝より失礼致します」
「構わぬ、呼び立てたのは私だ」
言葉は柔らかだが、態度はかなり怠そうで力がない。相変わらず朝が苦手なようだ、とブラッディ卿は思う。夜遊びが過ぎるのではないか、と。
「何用でしょうか?」
「うむ」
デスクに向かうとマリオットは一枚の紙を手に持ち、それをブラッディ卿の眼前にぺらりとみせた。
「ジルサンダーが婚約解消したのは知ってるか?」
唐突な話題にブラッディ卿は先が読めずに返事に躊躇い、頷くだけで応えた。
「ジルに好きな女性ができたからなんだが、解消したことだけが独り歩きしてるみたいでな、貴族の婚約解消申立てが頻発してるんだが、そのなかに婚約無効を申し立てるものがいてな」
話の展開に嫌な予感を覚えつつ、差し出された書類を手にしたブラッディ卿の眼に己の娘の名前が見えた。
案の定というか、信じたくなかったというか、逆にやはり…と思ったり、複雑な感情をもて余し、思わず書類を握り潰しそうになる。
が、神祇官として公式かつ神聖な書類を粗雑に扱うわけにもいかず、震える手でそっとテーブルのうえに置いた。
「婚約を結んだのは父の一存であり、カリーナの預かり知らないこと、よってこの婚約は無効である、とおまえの娘は申し立てているが、どうする?」
許可の御璽を押せばまかり通るが、このまま保留にすることもできる、とマリオットは相談しているのだ。その心遣いに感謝して、ブラッディ卿は深く頭を下げた。
「恥ずかしながら私の許可なくカリーナが申し立てたようでございます。一旦、持ち帰って娘と話し合いの機会を持ちたいと思いますが、それでも宜しいでしょうか?」
「構わんよ。このまま見なかったことにしようかと思ったくらいだからな」
あっけらかんと笑ってマリオットはやっとブラッディ卿の向かい側に座った。すぐに侍従が朝食のプレートを運んでくる。
フルーツにクリームたっぷりのスコーンが盛られていて、それをみたマリオットの顔が僅かに歪んだ。
夜更かしした翌朝の朝食としては重たいだろう、と気の利かない侍従を持つ王をブラッディ卿は気の毒に思った。
「では、こちらはお預かりして、私はこれで失礼します」
テーブルから書類を取り上げるとブラッディ卿はさっさと立ち去った。
その夜。
帰宅するなり、己の執務室にカリーナを呼びつけ、婚約無効申立書類を眼前に叩き付けた。
「どういうことだ?!」
「見ての通りです」
顔色ひとつ変えず、カリーナは父親を睨み付けると吐き捨てた。怒りにピナール・ブラッディは身体全体を大きく震わせる。
「アーロン殿との婚約はおまえの幸せを思って私が決めたことだ!勝手に解消など絶対に許さん!」
「解消ではございませんわ、無効ですもの」
「私はあのときちゃんとおまえに確認したぞ!私の話を聞かずに返事をしたおまえの責任だ!無効であるはずがあるか!」
ジルサンダーに恋い焦がれていた当時のカリーナは誰がなにを言っても脳内お花畑状態でまったく理解を示さず、長い間、会話の返事は
「ええ、そう」
「わかったわ」
「よろしくってよ」
の3つしかなかった。
その期間に打診のあった婚約話なので、適当に返事をした結果であり、決してカリーナを無視したものではなかった。
「だとしてもわたくしはアーロン様を慕っておりませんもの、無効でしょ?」
しれっと言い切る根性にピナールの苛立ちはさらに募る。
「仮に無効だとして、おまえがジルサンダー殿下を慕ってもあの方がおまえを慕ってないのだから、身分的にもこちらから婚約を申し込むことはできないぞ!」
「慕っていただくように努力するまでですわ」
「前向きなのは良いことだが、現実を見ないのは愚かだ。ジルサンダー殿下には別に慕うお相手がある。だからこそブルーデン公爵令嬢との婚約を解消したのだ」
「え?」
「すでに城に入られ、妃教育を受けておられる」
「なんですって?!」
「おまえはよくできた娘だと私は誇らしく思うが、歳を考えろ。今から妃教育は遅すぎるだろう、ましてや殿下に想われてもないのだぞ?その点、アーロン殿はおまえに惚れている。なぜかはわからないがな」
ピナールは心底不思議だと最後に呟いたが、新たな真実に打ちのめされ、茫然自失になっているカリーナの耳には届いてなかった。
「この無効自体を無効にするからな。アーロン殿に噂ひとつでも届いてしまったら申し訳ない」
黙った娘に、承諾を得たと思ったピナールは婚約無効申立書類を破り捨てた。
これで終わったと思ったのはブラッディ卿だけで、むしろカリーナとしてはスタートに過ぎなかったことにピナールが気付くのは後戻りできなくなってからのことだった。
この親子喧嘩の翌日にレティは下剤入りの薔薇ジャムを手にすることになるのだった。




