4 城下町の下町パン屋の娘は目覚める
ここはどこだろう…
薄闇に包まれた見慣れない場所を見渡して、レティは首を傾げた。昨夜もパン屋の2階にある自室で、両親におやすみのキスをしてから寝たはずなのに、と思いながら、彼女は両手を前に付き出して辺りを探った。
暗いからなにも見えないのかと考えていたが、どうやらそうではなく、本当になにもない空間らしいとわかると、レティはパニックを起こしそうになった。
心臓が喉元までせり上がり、その拍動に吐き気を催す。
「ここはどこなの?」
恐怖を収めようと、あえて声に出して呟いたが、怖れに飲まれつつある掠れた声はふわんと木霊するだけだった。
「私、なんでこんなとこに?」
もう少しで悲鳴を上げそうになったとき、彼女の眼前に柔らかい光が降り立った。触れればほわほわと暖かいのだろうか、と感じさせるような優しい光。
それが唐突に瞬き、声を発した。
あまりの驚きにレティはひっと息をのんだ。
「私の可愛いソフィテルの魂を持つ子よ」
「ソフィテル?」
私はレティよ、と否定しようとして、喉から声が出せなくなっていることに気付く。口をパクパクさせるだけで、音が出せない。
「救国の女神として、そして癒しの乙女としてソフィテルの意志を継いでくれ」
光がレティに降り注ぎ、やはり暖かいのだ、と思う。
「おまえに癒しの加護を。そしておまえの愛するものには愛の加護を与えよう」
レティを包む暖かさが胸の一点に集中する。
「忌まわしい、このロマリア王国をおまえの心に従い、救ってくれ」
その言葉に促されるようにレティは頷き、眼を閉じた。そして胸の暖かさが消えたとき、彼女はいつもの天井を見上げていた。
幼い頃、木目が怖くてひとりでは眠れなかった、自室の天井。横を向けば、朝陽がキラキラと射し込んでいる丸い窓。反対を向けば、昨日まで読んでいた本が置かれている机。
いつもの自室。
いつもの自分。
「夢だったの?」
起き上がって暖かった胸を押さえる。穏やかな心音が掌を通して伝わり、レティはゆっくりと瞼を閉じた。
「レティ、起きてる?そろそろ焼き上がるから手伝ってちょうだい!それが終わったらご飯にしましょ!」
すでに働き始めている母親の声が階下から聞こえ、レティは慌てて返事をした。ベッドから飛び降り、急いで着替えを済ます。若さで艶めく赤毛を三角巾で覆うと最後に鏡で全身をチェックしてから勢い良く階段を駆け降りた。
「ごめんなさい、すぐに手伝います!」
来るなり、手を洗ってパンを並べ始める娘を細めた眼で慈しむように見たあと、母親は厨房から次のパンを持って来るため奥に引っ込んだ。
レティの実家であるアルフィのパンは朝7時と昼2時、それから夕方5時の3回に分けてパンが焼き上がる。客は焼き立てを求めるので、どうしてもその時間に混み合うことになる。並べるパンは3種類しかないが、どれも味がいいので、下町にある店にも関わらずアルフィのパンは王都の人気店のひとつだった。
特に昼2時に焼き上がるサクサクのデニッシュパンの人気は凄まじく、店頭に並ぶなり飛ぶように売れていくので、30分もすると完売するほどだった。
生地を仕込むのに体力と時間と手間が掛かるので、デニッシュパンは1日1回の販売に絞られているのも人気の秘密かもしれなかった。
それ以外は定番のカリッと食感のバケットとふわふわがウリの白パンである。
どれも小麦の薫りが旨味を引き出す、美味しいと評判のものだ。
レティが忙しく焼き上がった端から並べるパンを、すでに店の前で開店を待っている客がヨダレを垂らしそうな顔をして眺めているのが眼に入り、彼女はさらに急き立てられた。
湯気の立つパンはどれもこれも美味しそうで、朝食をまだ食べていないレティには酷なほどだ。
眼に毒、てこういうことよね。
思って彼女はふふふ、と笑った。
己の父親が精一杯の気持ちを込めて焼いたパンが愛おしくて、頬摺りしたい気分だった。
「さぁ、開けるよ!」
母親の元気な声が響き、店のドアの鍵が外されると、すぐに雪崩れ込んだ客が店内に溢れ返った。
レティは次から次へと会計を求める客を捌き、母親はすぐに無くなるパンを補充するために走る。
8時を迎える頃には店内からパンと客が消え失せ、厨房では父親が壁に凭れて喘いでいた。
仕込んだ生地は粗方なくなり、二次発酵中の生地が棚にところ狭しと寝かされていた。
やっと終わった、と家族みんなで朝一番の完売を喜び、感謝して完売の札をドアに掛けると朝食の準備を始めた。
15歳まで学校に通い、読み書き計算の基礎学力を学んだレティは16歳になってからアルフィのパンで両親の手伝いを始めた。
やっと慣れてきた今、彼女は18歳になっていた。
貴族なら婚約者がいて、次の誕生日までには結婚する歳ではあったが、平民である自分には関係ない、とレティは考えていた。そもそも結婚自体もどうでも良かった。今の暮らしが幸せだったので、このまま家族3人で過ごせれば、ほかになにも求めるものがなかったのだ。
父を尊敬して、父の作るパンを愛してくれる男性が現れ、レティを愛してくれるような奇跡があれば、アルフィのパンを継いで貰うために結婚するのも悪くはない、くらいの気持ちだった。
朝食を食べ終えて、つかの間の休息のとき、レティは今朝見た夢を思い出していた。
あの胸を包んだ暖かさも。
そっと胸に手を当てて、レティは瞳を伏せる。
すると自分の手からほんわかと柔らかい熱が発された気がして、視線を向けた。
「うそ…」
そこには淡い煌めくような光をふわりと放つ掌があった。それは紛れもなく自分の手で、レティは慌てて手をブンブンと振ったが、光は纏わり付いて離れない。
「なによ、これ…」
両手をスカートで拭うと、彼女は手を洗おうと手洗い場に向かった。
この世界では魔法という概念がない。
ごく稀にその能力を保持して産まれてくるものがなくはないが、数百年にひとりと云われていた。かつて古代の人々は強弱の差はあれど、誰でも魔法が使えたのだが、神への大罪を犯した咎で彼らに与えられた魔法という加護を失った。
今では神から直接の加護を与えられたものにだけ扱える特権的能力となっていた。
だからレティは己の掌から放たれる光が癒しの浄化能力とはつゆ程も考えなかった。ただ、不思議だが、奇妙で気持ち悪い、と感じただけだった。