39 もう深紅の薔薇は要りません
今朝も窓辺に燦然と咲き誇る深紅の薔薇に視線をやって、レティは悩ましげなため息を溢した。メアリースーがその儚げな吐息に困ったように眉尻を下げたまま、可憐に咲く青色のガーベラの花束を花瓶に活けていた。
レティの部屋は花で溢れ、その芳しい薫りで目眩がしそうなほどだ。
アレクシスの部屋で出会ったあと、レオンは飽きることなく毎朝レティに深紅の薔薇を届けに来た。もちろんメアリースーナタリースーの双子によって追い返されていたので、実際には会ってはいないが、薔薇から放たれる気高い芳香が否が応でもレオンの存在を意識させた。
レオンとの邂逅のあと、話を聞いたジルサンダーがレティのもとへ駆け込んできて、馬鹿弟の触れた箇所を消毒と称して己の唇で上書き消去したことは、未だに思い出してはレティの頬を染めてしまう。
そしてその純朴な美しさにナタリースーは身悶えていた。
「今日は青のガーベラでございますね」
レオンに負けじとジルサンダーも毎朝レティに花を届けるようになり、こちらは追い返されることもなく、居間で僅かな間だけの逢瀬を堪能していた。
当然節度ある範囲かつメアリースーナタリースーの双子に許される限度はあったが。
「花言葉は神秘ですから、レティ様にはぴったりでございますね」
メアリースーがにこやかにテーブルの中央に花瓶を置いた。花瓶の下にはレティが必死で編んだレースの敷物があり、ぼうっと眺めていたレティがハッとして手元の刺繍に意識を戻した。
ジルサンダーに渡そうとしているハンカチには彼のイニシャルがオレンジ糸で、それからガーベラが青糸で刺繍されている。
あと少しで完成するのだが、レティの心が落ち着かず、捗らないまま数日が過ぎていた。
「ジル様に渡せるのはいつになるのかしら?」
溢したため息とともに洩れ出る消極的な言葉に合わせてレティの華奢な肩が落ちた。ナタリースーが気分を変えるつもりか、殊更明るい声音でお茶を飲むか、とレティに伺い、諾の言を得るとそそくさと紅茶の準備を始めた。
テーブルに用意されていく雅な茶器とガーベラの対比が美しく、レティは瞳を蕩けさせた。
「それにしてもジル様の花は綺麗ですね」
ジル様の、と限定している辺り、レティも見た目通りの大人しいタイプではないな、とメアリースーは眼を細めて思いながら首肯した。
「左様ですね、レティ様のように可憐でお美しいです!」
ナタリースーがカップに紅茶を注ぎながら暢気に言った。
居間は赤色で溢れている。
そこかしこに深紅の薔薇が飾られているからだ。
今朝、はじめて青色がテーブルに置かれたが、それも仕方のないことだった。
青色の花で満たされている寝室に飾るべき場所がなくなったのである。
眠るときはジル様に包まれたい、と健気な一言を呟いたレティの希望で、寝室には一片たりとも薔薇を置いていない。代わりにジルサンダーから贈られる青色の花たちが鮮やかに咲き誇っている。
レオンは深紅の薔薇を金糸のレースリボンで纏めて持ってくる。己の瞳と髪の色で、所有を主張するためだ。薔薇は捨てるに忍びない、と半ば諦め気味に飾ってあるが、金糸のリボンに関しては侍女たちに下賜されていた。
それに嫉妬心を煽られたジルサンダーは花の種類は問わず、ひたすらそのサファイアブルーの瞳に近い色合いのものを銀糸で編み込まれたレースリボンで包んでくる。それらのリボンはドレスの装飾や、いまレティの赤毛に編み込まれているように、彼女自身を飾り立てるのに使われていた。
「つまらないわね」
ぽつりと愚痴を溢してレティは朝から何度目になるのか、わからない吐息を洩らした。
通常ならアレクシスの執務室で妃教育を受けている時間なのだが、いつレオンが乱入してくるかわからないから、と暫く休むことになったのだ。
実質、軟禁である。
教師に来て貰えばいいのだ、と淑女のためのマナー教師であるエモンズ伯爵夫人が週に2度ほど通ってくれているが、それ以外の授業は男性が先生だからという下らない理由で却下されていた。
ダンス練習は主にジルサンダーの時間のあるときにレディ・ロジェールから教えを請うているが、なかなか時間を作れないために週に一度あるかないかだった。
レティはレディ・ロジェールが大好きだった。
初対面のときの衝撃は忘れるべくもないが、ダンスで鍛えた美しい姿勢に、均整のとれた体型に、低く柔らかな声に、レティはすっかり惚れ込んでしまっていた。実に心地の良い人なのだ。
「レティちゃん、て呼ばせてね。僕のことはレディ・ロジェールと呼んでちょうだい」
ふわふわと巻いたブラウンの短髪に縁取られた面長の顔はあまり印象に残らない、特徴のないもので、切れ長の眼がふわりと優しかったのだけが記憶に刻まれている。全身真っ黒の服に身を包み、より細マッチョな体型を際立たせていた。
身体のラインを惜し気もなく見せ付けるようなピッタリとしたシャツに、ヒップラインから腿にかけての曲線がはっきりとみえる細身のパンツが彼をより一層魅力的にしている。
彼じゃなくて彼女、かしら?
ふと考えて、レティはふふふ、と笑んだ。
レディ・ロジェールはとある男爵家の次男として生を受けたが、思春期の時期にジェンダーレスであることに気付いたらしい。自ら父親に頼んで、男爵家から籍を抜いて貰うと得意のダンスで生計を立てることにしたとレティに面白おかしく語ってくれた。
スバ抜けたダンスセンスにダリア・デイグリーン公爵令嬢が目を付け、デイグリーン公爵家に雇われ、彼女が王家に嫁いだことを切っ掛けにレディ・ロジェールは王族専用のダンス教師になっていた。
教え方が抜群に巧く、ほとんどダンス経験のないレティだったが、数度のレッスンで驚くほどの上達をみせた。おかげでワルツならジルサンダーの足を踏まずに一曲を躍り終えることができるまでになっている。
「本当につまらない…」
「………こっそりと庭園でも散歩してみますか?」
レティにしては珍しく何度も溢れる愚痴に、とうとうメアリースーが耐えかねたように外出を提案した。弾かれたようにレティはその菫色の瞳を輝かせる。
「いいの?大丈夫なの?!」
ナタリースーと視線を絡ませたあと、困ったように微笑むとメアリースーは小さく頷いた。
「変装、しましょう、赤毛はカツラで隠せますし、化粧をほんの少し変えて、わたくしのお仕着せをお貸ししますので、侍女としてなら気遣いなく歩けるかと思います」
「嬉しい!」
「ただし、長居は無用!ですからね?」
「はい!」
悪巧みを企んだ女子3人は顔を見合わせると、実に可笑しそうに微笑みあってから、ウキウキと愉しげに準備を始めた。




