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37 薔薇には棘があるんです

「ではまだ、あの方にはお会いしてないんですね」


ローズマリアが決済するはずの書類が王城内に与えられた彼女の執務室から消えて6日が経った。ここは第一王子の婚約者として、そして次期王妃候補として妃教育を施す場所であり、現王妃の公務分担処理する部屋でもある。

デスクとソファセットだけの質素な部屋だが、設えはさすがに見事なものばかりである。ブルーデン公爵家からの持ち込みの家具もあれば、国宝級の装飾品もあり、部屋の主同様に雅やかで華やかな雰囲気を醸している。

その高貴なソファに鷹揚に遠慮なく座っているのはローズマリアを焦がれてやまないレオンだった。


「兄上が出し惜しみをしてるのさ。アレクシスのところへは出入りしてるようだがね、私には挨拶もない。礼儀知らずも甚だしいもんだ」


出された紅茶を飲み干して、にやりとレオンが口元を歪めた。


「しかし連れてきたのだから、これで貴女と兄上の婚約はまた少し遠退いたことだし、私としてはホッとひと息だけれどね」


ローズマリアが婚約解消に承諾しなかったにもかかわらず、娘にすら内密にブルーデン公爵は婚約を白紙に戻していた。それを知ったのは数日前のことで、ローズマリアは激昂した。

が、すでに書面で交わしてしまっていたこともあり、あとの祭りと諦める以外なかった。


これでローズマリアとレティの立場は婚約者候補という同じ土俵に立たされたことになる。

そしてどれほどローズマリアが不満に思っても、ジルサンダーの心を鷲掴みにしているレティのほうが有利なのは変わらない。


実に腹立たしい、と美しく取り繕った表情の下に、ローズマリアは腸の煮えくり返る怒りをなんとか押し込めていたとき、先触れのないレオンの訪問を受けていた。


「貴女はお会いしたと聞いてるよ」


揶揄するような口調に、玉座の間及びアレクシスの部屋に不躾にも突撃したことが耳に入っているのだとわかって、さらにローズマリアの機嫌は悪くなる。もちろん、淑女として露にすることはないが。


「えぇ、少しだけですけれど。いかにも下町の小娘といった風情で可愛らしい方でしたわ」


「そう、巷の噂ほどあてにならないものはないね」


紅茶とともに饗されたフィナンシェをひとつ口に放り込むレオンにローズマリアは眼を眇める。


「え?噂?」


意地の悪そうな笑みを湛えてレオンはローズマリアを一瞥した。


「貴女ほどの事情通がご存知ないとは驚いたな。兄上の連れてきた婚約者候補様はかの蒼の貴婦人にも劣らない所作と礼儀を持ち、その立ち居振舞いはまるで女神のように神々しく、薔薇のような唇からは万物を癒し給う極上の笛の音がする、と大変評判になっているよ」


書類のないデスクから動かなかったローズマリアがふらふらとソファに寄ってきたのを可笑しそうに眺めながら


「その姿は可憐で儚く、けれども気品に溢れ気高さすら感じさせる、と大絶賛だったからね、さすがの私も会ってみたくなるよ」


と続けたが、近くに来たローズマリアの手を取ると、己の横にやや力付くで座らせた。


「私には貴女を超える美しさなど存在しないけれどね」


レオンは茫然としているローズマリアの腰を強く抱き寄せると、その頬にキスを落とした。


「それで、実際の彼女はやはり下町のパン屋の娘なわけだ」


くつくつと己の腕のなかに大人しく座るローズマリアを愛でながらレオンは笑った。レオンの腰を撫でる掌の熱に我に返ったローズマリアはそっと身を離して拒絶を示したが、ふいに瞳を緩めると阿るように隣で機嫌よく己を抱くレオンを見上げた。

その瞳は潤み、僅かな熱量も隠っている。

レオンは視線を絡め、思わずごくりと唾をのんだ。


「お会いになってみればわかりますわ、レオン様」


とろりと甘さの含んだ声音がぞくぞくとレオンの耳を刺激する。沸き上がる激情のままにローズマリアをきつく抱き、その首筋に唇を這わせたが、抵抗もなく、あろうことか、その麗しい唇から蕩けるような吐息が洩れた。背中を感じたことのない快感が走った。


「わたくしを誰よりも美しいとお感じなら、是非とも会ってみればいいのです」


抱き締められたまま、ローズマリアはレオンの耳許で妖しく囁く。


「今ならアレクシス殿下のところですわ、是非とも行かれなさいませ」


「ローズが望むなら」


欲情に掠れた声でレオンが答える。


「えぇ、会っていただきたいわ。でもその前に喉が渇いたんじゃありません?声が掠れてらっしゃるもの。珈琲をお淹れしますから、飲んでから行かれたらどうですか?その間に先触れも出せますし」


「珈琲か、頂こう」


その言葉を切っ掛けにローズマリアはレオンからするりと身を離した。そして暫く見つめあったあと、熱の隠る指先をレオンの頬にふわりと走らせた。

ぶるりとレオンが身を震わせたのをみて、妖艶に微笑む。


「わたくしが淹れますわね」


侍女に珈琲の準備を頼み、ドア前に立つ護衛の騎士にアレクシスへのレオン訪問を伝えるように指示をして、ローズマリアはデスクの抽斗からそっと小さな薬瓶を出した。


やっと調製が終わったばかりの新薬。


無色透明だが、僅かな苦味とフルーティな薫りが残ってしまった魅惑の新薬だった。


紅茶では混入に気付かれる可能性があるが、珈琲ならば誤魔化せるだろう、とローズマリアは考えていた。

ちらりとソファで惚けているレオンを見遣り、侍女の用意した珈琲カップにそれを垂らす。


仮に薬瓶そのものを口元に持っていっても今のレオンなら疑いもなく飲むだろう、と思ってローズマリアはにたりと眼を細めた。


「さぁ、どうぞ。領地から取り寄せた豆で、微かに薫るフルーティさが特徴なんですよ」


カップを差し出し、レオンが嬉しそうに珈琲を喉に流し込んだとき、護衛の騎士がドアをノックした。


「アレクシス殿下が執務室のほうでお待ちするとのことでした」


「すぐに行く」


答えたレオンが珈琲を飲み干してから、名残惜しそうにローズマリアの髪に触れ、じっとりと潤んだ瞳を彼女に注いだ。きゅっと唇を締めると、諦めたようにひとつ息を吐いて踵を返した。


ローズマリアは満足げにそれを見送り、レオンの使ったカップをゴミ箱へと投げ捨てた。


ちらりと時計に視線を向ける。


あと四半刻(30分)


久々に胸踊る愉しさにローズマリアの頬が桜色に染まっていた。

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