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35 妄想が過ぎますよ、殿下

「おかえりなさい」


あぁ、レティがいる!


ぐっしょりと水を吸ったボロ雑巾のような身体を引き摺って帰宅した俺を弾ける笑顔で迎え入れてくれたのは、この世でなにものにも代え難い最愛のレティだ。

玄関を開けた途端に鼻を心地よく刺激するシチューの香りにたまらずに腹の虫が騒ぎだした。

その可愛くもない野太い虫の音がレティの耳にも届いたのか、口元を両手で隠して小さく彼女が笑った。


全世界を壊滅的に破壊し尽くすほどの微笑みに俺はその場で崩折れた。


なんなんだ、この可愛い生き物は!!

帰宅一秒で秒殺する気か?!

いや、もう、この愛しさに死ぬなら本望か?!


白のフリルエプロンを翻し、駆け寄るレティが俺と目線を合わせるように屈み、こてんと首を傾げる。


「お疲れですか?」


くぅぅぅっ!!!


心配そうに美しいバイオレットの瞳を揺らされたら、俺の理性が吹っ飛ぶじゃないか!


オレンジの強い赤毛がさらりと彼女の頬を撫でて、それを邪魔そうに耳にかける仕草にふわりと色気が溢れた。


これはなにかの試練なのか?

俺を試してどうするというんだ?

王族として婚姻するまでは、ケジメが、ケジメが!!!


「旦那様、お疲れでしたら先に休まれますか?お食事の用意もしてますけど…」


え?

旦那様?!


レティ、なにを言ってるんだ?


俺たちは婚約もまだなんだ、ぞ?


あれ?まだだよ、なぁ………?


そんな俺の心など知らないレティがふいに妖艶に微笑んだ。


「お風呂にされます?」


それから顎に人差し指を当ててから、上目遣いで俺を見上げる。小さく傾げた頭のせいで、せっかく耳にかけた髪が一房ぱらりとまた落ちた。


「それとも私、に、しますか?」


大胆に囁いて、すぐに恥ずかしそうにレティは両手で顔を覆う。首筋まで赤く染めた彼女から迸る艶気が俺を大波に拐うように襲ってきた。


知らない間に結婚してた?!


そんなレティの次に大事なイベントを忘れてしまった人生最大の悔恨など、瞬時に吹き飛ばし、俺は眼前に差し出された生贄に噛み付く勢いで飛び付いて……………





「有り難くいただきます!!!」


ぐっすりと眠り込んでいたジルサンダーの、唐突かつ大きな寝言にベッド脇の椅子に座って刺繍を嗜んでいたレティも、食事の後片付けをしていたメアリースーも、そろそろレティの湯浴みの準備でもと考えていたナタリースーも、翌日の公務のために書類の選別をしていたギルバートも、弾かれたように顔を上げた。


どの眼も驚きに丸く見開かれている。


しかし誰よりも驚愕したのは声の主であるジルサンダーだった。


己の大きな叫びに心臓をハコハコさせて目覚めたのだ。直前までみていた幸せな夢のせいで、現実が掴めない。というか、現実逃避したい心情だというのが本音だろうか。


全身を硬直させたまま、ジルサンダーは瞳だけを動かして状況を把握しようとした、そのとき、幾分かボヤけた視界に夢のなかでまで望んでいた恋しいレティの姿が入ってきた。


「レティ!!」


がばりと勢いよく起き上がると、その勢いのまま彼女を抱き締めた。手に持っていた針でジルサンダーを傷付けないようにレティは腕を広げてわたわたした。すぐにメアリースーが傍に来て針を受け取って針山に戻す。ナタリースーは眼をひん剝いてジルサンダーを引き剥がしにかかった。

ギルバートはもうすでにトレードマークになりつつある呆れ顔でため息をつきながらベッドのところまでやってきた。


「ジル様、レティ様が呼吸困難におなりです、離して差し上げてください」


きつく抱くジルサンダーの腕を抉じ開けて我が身を差し込んでまで離そうと汗を流すナタリースーを身を捩って回避する主にギルバートは冷静に語りかけた。


「嫌だ!夫になったんだから離れるなんて金輪際あり得ない!!」


「婚約もまだなのですから、婚姻も当然まだまだ先のことでございます」


不敬にもぺしりと頭部を(はた)きながらギルバートは言い、身体を捩じ込むナタリースーの肩を掴んで牽制した。


「ジル様、力、弛めて、くだ、さい!」


ジルサンダーの腕に巻き付かれ、僅かな隙間をナタリースーに入り込まれた状態のレティは息も絶え絶えでか細く訴えた。その細い懇願に我に返ったナタリースーが先に素早くふたりから身を剥がす。


それだけで少しだけ呼吸を取り戻したレティは抱き締められたままではあったが、何度か浅い呼吸を繰り返して空気を得ることができた。

気分はまさに九死に一生を得る、だろうか。


「え、結婚したよな?な、レティ?俺を旦那様と呼んでくれただろう?」


「夢でございます」


抱いた腕のなかのレティを覗くように妄想を口にするジルサンダーの頭をもう一度叩くギルバートが感情なく言い切った。その言葉にレティも頷いて肯定を示す。


「だって、レティは食事にするか、風呂にするか…」


その後になにが続くのか察したギルバートが身の熟しも優雅に後ろから主の口を片手で塞いだ。そしてにこやかに微笑むと、その姿勢から羽交締めしてジルサンダーの拘束を解いてやる。

その隙を逃さず、メアリースーナタリースーの双子がレティを取り返した。


「あぁ、レティ!!」


「落ち着いてくださいませ、ジル様。あまり強引かつ大胆かつ乱暴なことをされると嫌われますよ」


耳元で囁かれた忠臣なる侍従の言葉にジルサンダーは抵抗をやめた。そして取り繕うように王子然として微笑んだ。が、頬は引き攣っているし、眼は笑っていないし、今更感がハンパない。


それなのにレティは嘘臭い笑顔に頬を薔薇色に染め上げると照れたようにはにかんで俯いた。


「お元気そうでホッとしました」


マジ女神!とナタリースーが腰砕けになっている横で、メアリースーは無表情に


「いただかせませんけどね」


と、先程のジルサンダーの寝言に対して怒気を孕んだ声音でぽそりとツッコんでいた。

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