29 平民出身ですが、なにか?
慌てて駆け付けた玉座の間にはローズマリアでさえ、眼にした瞬間から敵わない、と嘆息するほど礼儀正しく、かつ華麗なカテーシーを披露する乙女の姿があった。
まるでオレンジのガーベラから、たった今、生まれてきたような可憐な花の精がジルサンダーの熱く蕩けた視線を一身に浴びて、その可愛らしい儚さに思わず玉座から身を乗り出した王の前にいた。
王城に着いてすぐ、ローズマリアはジルサンダーの執務室に淑女として許される範囲で走った。しかし部屋には誰もおらず、ドアの前を警固する騎士に聞けば王に忌々しい娘を連れて謁見に行ったと聞き、玉座の間に向かったのだ。
そして眼前に広がる優美な光景を見た。
「面を上げよ、よく顔を見せておくれ」
王の言葉に体幹のしっかりとした態度で膝をゆっくりと伸ばし、物怖じすることなく、レティは真っ直ぐに玉座に座る男を見据えた。
「お初にお目にかかります。レティと申します。貴きご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ奉ります」
冷々とした間が一気にほわりと暖かい春の陽気に変わる笑顔をレティは溢した。ジルサンダーはその笑顔に釣られるように彼女の肩を抱き、微笑みを向けられた王は身を乗り出しすぎて危うく玉座から滑り落ちそうになり、傍に控えていた侍従に支えられた。
「陛下、こちらのレディが俺の想い人です」
自慢するようにジルサンダーがレティを見つめ、さらにきつく抱き寄せた。レティは抵抗なく、それを受け入れつつも淑女の節度を示すように彼に凭れるようなはしたない態度は取らずに凛とした姿勢でジルサンダーを見上げた。
その姿、雰囲気、そして佇まいは平民のものではなかった。一国の王妃にさえ匹敵する。
己が下町のパン屋の前で会った女とはまったくの別人ではないか、とローズマリアは身が震えた。
そこはかとなく得体の知れない恐怖がじわりじわりと胸の奥から沸き上がってくる。
「これはまた、ジルもなかなか、眼が高い」
食い入るようにレティを見ていた王がぽつりと漏らした。
平民だと侮っていた王城のものたちもレティの所作や礼儀には大いに驚かされた。仕草ひとつひとつに気品が漂い、ちらりと視線を流す姿には溢れる神々しさすらあった。見目麗しいジルサンダーの横にいても、人々の眼は確実にレティへと熱く向けられた。
否、彼女以外が見えなくなるのだ。
まるで魅了の魔法がかけられたかのように…
その様子を誇らしげに眺めながらジルサンダーはレティの腰を抱き寄せて、彼女の艶やかな髪に顔を埋めてキスをした。
「では陛下、下がらせて貰いますよ」
ジルサンダーはレティをがっしりとエスコートして辞去していった。王もローズマリアもただ仲睦まじいふたりの後ろ姿を見送ることしかできなかった。
「ふぁああああ!緊張したぁ!!」
ジルサンダーの執務室に入るなり、レティは腰が砕けたようにへたりこんだ。その姿に慈しみの眼差しを向けたジルサンダーも座り、彼女を両腕で包み込んだ。
すると先程までは平然としていたレティの頬が火が噴いたように紅潮する。
「全然そんな風にはみえなかったけどな」
いやいやするように首を振って、レティは両手で顔を覆った。
「ソフィテル様の記憶のお陰で貴族令嬢みたいに振る舞えましたけど、心臓が口から飛び出るかと思うくらい緊張しましたッ!」
それから指の間から己を覗き込むジルサンダーを窺って、
「それに、隣にジル様がいてくれたから、心強かったんです」
と、尻窄みに呟いた。
その言葉に破顔して、ジルサンダーはひょいとレティを横抱きに抱き上げてソファに座った。
もちろんレティは彼の膝の上でしっかりと抱き締められている。突然のことにわたわたと焦っているレティに向かって、ジルサンダーは爽やかな笑顔に黒いものを纏わせて言った。
「じゃ、あとは俺が溺愛するだけだな」
「で、溺愛?!」
眼を丸く剥いたレティの髪に愛おしげに指を通す。その仕草から無駄なほどの色気が駄々漏れして、またレティは赤面して俯いた。
「どれほど俺がレティを想っているか、知らしめて君を護らないといけないからな」
ご機嫌な調子で言われて、レティは顔も上げられない。レティ嬢から呼び捨てに、そして貴女から君に変化したジルサンダーの想いの変化に擽ったい気分だ。
「なにを馬鹿なことをおっしゃってるんですか。レティ様は明日からさっそく王妃教育が始まるんですから、ジル様が溺愛してる場合ではないんですよ」
レティの髪やら頬やら額やらに唇を落とし続けている主をねめつけながら、紅茶を手にしたギルバートが呆れた声音で注意した。みればレティの頭から湯気が立っている。慣れない愛情表現に魂が口から抜けそうになっているのだろう、とギルバートは気の毒になる。
「王位継承権放棄したんだ、レティにこの国の王妃教育など必要ない」
強く言い切ってジルサンダーは侍従の眼から隠すようにレティを抱き締めた。
「そういうわけにもいかないでしょう。レティ様は女神様ですよ?いずれは貴方の正妃としてひとつの国の、女性のトップに立つべき御方なのですから、ロマリア陛下が造ったロマリア王国の王妃教育はレティ様には必要でこそあれ、邪魔にはならないものです」
ギルバートは先をみる。
ジルサンダーの忠実なる臣下の意識はすでにこの国にはない。女神と手を携えて創るだろう、未来の国へともう心を馳せている。
そのために必要なことは時間を無駄にせずにやっておきたい。
言外にジルサンダーに己の意志を伝えると、ギルバートはテーブルにセットしたカップに紅茶を注いだ。
「しかしブルーデン公爵令嬢の存在が不安だ。俺の傍になければ護れない」
「それならばアレクシス殿下がおられます。殿下の教育係がレティ様もご一緒に、と言われておりました」
手回しの良い侍従の言葉にジルサンダーは臍を噛む。
「レティはソフィテル王妃の記憶があるんだ、さっきだって完璧な淑女だった、今更教育なんて必要ない」
「だとしても、今のレティ様は、言葉は悪いですが、平民でございます。侮られないためにも王妃教育はしておくべきです。対外的な意味で必要だと進言致します」
「…………ぐっ!」
言い包められたジルサンダーから逃れるように身を捩ったレティがギルバートに視線を向けた。その眼差しの真剣さにギルバートの心は踊った。
胆力の強さが滲み出る瞳だ。
まさにジルサンダーに相応しい、いや、王の隣に立つものとしてこれ以上の眼はないだろう、と感嘆する。
「私、受けます。教育、受けたいです」
「レティ!わざわざ俺の傍から離れなくても!」
「ジル様、受けさせてください。私のできることなんて、大してないんです。お勉強を教えていただけるなら、こんな有難いことはないんです」
己が女神である限り、そして愛する男と出逢ったのだから、一国を預かる王妃になる運命の輪をレティはもう回してしまっている。今更逃げることも、ジルサンダーを諦めることもできはしない。
だったら今できる最善を尽くすしかないのだ。
「なら、俺も受けよう」
とろんと蕩けた瞳をレティに注いだジルサンダーは何度も彼女の髪を漉いた。レティの腰を強く抱き寄せ、彼女の耳に口を寄せると派手な音をさせてキスを落とす。途端にレティの口から小さな悲鳴が洩れた。
「貴方には公務がございます」
そんな無駄な時間が使えるか!とギルバートは眉間に皺を寄せる。そして冷たい眼差しを片時も愛しい女神を手離せない主へと射した。
「レティ様から離れたくないのは嫌になるほど理解しましたが、それでは誰のためにもなりません。往生際の悪いことなどお止めになって、観念してください」
「嫌だ」
「ジル様!」
不貞腐れたように唇を尖らせ、眉間に深い縦皺を刻み付けたジルサンダーにギルバートは小声で叫ぶ。
「嫌だ。やっとレティが手の届くところにいるんだ。絶対に離さないぞ」
あまりにも子供のような言い分にギルバートは天を仰ぐ。これがあの明敏で賢明だった主か?と思うと今すぐにでも泣けそうだった。
「ジル様、今までよりは傍にいますよ?」
柔らかくレティが言って、やっとジルサンダーは愁眉を解いた。けれど彼の腕は巻き付いたまま、さらに力を込めて彼女を捉えて離さない。
「レティ、俺は君が好きだ。一秒だって離れるなんて嫌だ。こうして君の暖かさを知ってしまってから、それを手離すなんて、気が狂う」
じっと熱く見つめあってから、吐息混じりにジルサンダーは囁いた。甘く低い声が耳を擽るように響く。
「君の心地よい重さが感じられないなんて、俺には耐えられない。いつでもどこでもこのまま抱いていきたいと願ってるくらいなのに」
その言葉にレティは身を震わせた。
もちろん恐怖からではない、はず。
その証拠に彼女の頬が薄紅の薔薇から深紅のものへと変化している。
「私は歩けます」
ふふふ、とジルサンダーが黒く微笑んだ。
「歩けなくしてしまいたいよ、君を閉じ込めて俺だけのものにしたいのを我慢してるんだからね?」
「?!」
ひっ!とレティは息をのんだ。
とんでもない台詞を聞いた気がして、思わず彼の膝の上で身体を仰け反った。しかししっかりと抱かれている腰が固定されて、逃げることすら叶わない。
ギルバートは嘆息した。
すでに彼の眼は死んでいる。
「そうだな、レティが俺をどう思ってるのか、教えてくれたら俺の不安もなくなるかもな」
「えっ?」
「そうしたら、少しの時間くらい、君から離れていても耐えられるかもしれない」
「えぇ…………!」
ジルサンダーの言葉を受けてレティはちらりとギルバートへ視線を送った。それに気付いたジルサンダーが侍従を一睨みした。
「ギルバート、少しでいい、外せ」
「しかし、ジル様!密室で二人っきりは!」
「ドアを少し開けておけばいいだろう、外せ」
「…………承知致しました」
渋々ながら、ギルバートは執務室を出ていく。僅かにドアを開けておき、なかの様子が窺える程度にドアに張り付いた。
「さぁ、レティ、教えて。君は俺のこと、好き?」
ギルバートが出ていったのを気配で探りながら、瞳はレティに向けたままジルサンダーが爽やかな微笑みを浮かべた。
彼の膝の上で恥ずかしげに身をクネラせてレティは俯いていたが、耳まで真っ赤にしながらも彼女は決然と顔を上げた。
「好き、です」
小さな小さな声。
あまりにもか細くて消えてしまいそうだ。
「聞こえないよ?もう一度言って?」
どれほど消え入りそうでも、この距離で聞こえないはずはない。だけどレティはそれすら指摘する余裕はない。
だから素直に繰り返した。
先程よりは少し大きな声を意識して。
「ジル様、好きです」
ぱぁっ、とジルサンダーの表情に花が咲き乱れたのを眼にして、レティは恥ずかしさで彼の胸に顔を擦り付けた。暖かくて逞しい腕が、そしてほわりと薫る甘い汗の匂いが彼女を包み込んだ。
早鐘を打つジルサンダーの心音がレティの耳を刺激して、己の心臓と重なり合う。
心地よい拍動。
ジルサンダーは彼女の頭にキスを落とし、続いて耳に唇を寄せる。その度にレティは刻むように身を震わせた。
彼の熱い両手がレティの頬を包み込み、顔を上げさせると、溶けきってしまいそうなほどの甘い甘い視線が注がれる。
額にキスされ、目蓋に、鼻に、頬に次から次へと唇が触れていき、ジルサンダーの親指がレティの薄紅の唇をそっと撫でた。
レティは心臓を吐きそうになる。
緊張とときめきで動悸が激しく、息苦しいほどだ。
あまりの苦しさに小さく息を吐くために唇を緩めたとき、ジルサンダーの顔が近付いてきた。
もうその甘やかな吐息を感じるほどに。
死んじゃうかも、と思った瞬間、
「ジル様、そこまでにしておいてくださいませ。レティ様が倒れてしまわれますよ?」
ドア越しから差された注意喚起にレティは肩から力が抜けた。ジルサンダーは鋭く舌打ちをする。
ギルバートはしれっと紅茶のおかわりを手に、執務室に入ってきた。
「溺愛もほどほどに、なされませ」
主の膝の上でくったりと身を委ねているレティを気の毒そうに見ながらギルバートは苦言を呈した。




