22 レティだって嫌なこともある
ローズマリアがレティのもとを訪れ、婚約者爆弾を投下した日からはじめての恋に浮かれていたはずの娘が突然数倍の重力が彼女にだけかかっているような緩慢な動きしか出来なくなったことにカレンはいつも通りを装いながらもハラハラと見守っていたが、娘を溺愛するアルフィは心配しすぎて、20年以上失敗しなかった生地の発酵をしくじってしまった。
おかげでその日の昼と夕方の販売は急遽なくなり、アルフィのパンは臨時休業となってしまった。こうなるとさすがに見過ごすこともできず、時間もできたので、カレンは緊急家族会議を開催すると、向い側のカフェでテイクアウトしてきたランチをダイニングテーブルに載せて、珈琲を淹れてから宣言した。
ローズマリア爆弾投下から5日目のことだった。
「じゃ、パパ!なんで失敗したのかしら?」
繁盛店なので一日休む程度では生活に影響は少ないが、店のドアに貼り出された臨時休業の紙を読んでガッカリと肩を落として戻る客の姿に罪悪感を覚えていたアルフィがガタイのいい身体を小さく窄め、項垂れたまま、すまん、と低く謝った。
「怒ってるわけじゃないわよ、理由を説明してほしいの」
買ってきたランチボックスからロールパンに玉子が挟んであるものをパクパクと食べながらカレンは言った。
アルフィもレティもランチボックスすら開けてない。ふたりとも項垂れて、まるで雨に濡れそぼった野良犬のような有り様だ。
「レティに元気がなくて、それが心配で、酵母を入れ忘れたんだ…」
ぼそりと呟かれた理由にレティが驚いて父を振り仰いだ。
「酵母、忘れちゃ、ただの小麦だね!」
確かに膨らまなかった生地は焼いても甘くないクッキーのようだった、とカレンは思って、クスリと笑った。
「ごめんなさい、お父さん」
悄然とした父親の背中に手を当てて謝るレティにカレンがちらりと視線を送った。
「それで、レティが元気ないのはどうしてかしら?」
「…………」
「言いたくないのはわかるけど、これ以上親に心配させないでちょうだい」
アルフィに対するときよりも幾分強めの口調にレティは諦めて口を開くとことにした。
家族に秘密なし、がモットーだと育ったのだから。
「ジル様に婚約者がいたの」
たったそれだけの説明だったのに、カレンの眉尻は下がりまくり、アルフィは烈火のごとく怒ってテーブルを叩いた。普段からパン生地を捏ねる力強い腕力にテーブルのうえのカップが振動で転がり、なかの珈琲が流れ出た。
レティが慌てて布巾で拭いてランチボックスが濡れるのを防いだが、両親はそれどころでなく、矢継早の質問を繰り出して、レティから事情をまるごとすべて聞き出した。
聞かれて話す度にレティの心は軽くなっていった。眼前で娘を想ってジルに対して怒る両親に有り難く感謝しつつも、レティはジルを悪く言われることに生まれてはじめて両親に対して反発心も覚えた。
それに気付いて、思わず狼狽える。
「そんな不誠実な人じゃないわ、彼」
婚約者がいることを隠して初な娘を誑かしたという評価にレティは不満も露に擁護した。
「きっと事情があるのよ、それにサーカスはお礼だって言ってたし、次の約束をしてるわけじゃないんだもの。ジル様だって私を騙そうなんてしてないわ」
自分で言いながら、たった一度のデートだけで彼に愛されてるのかもしれないと思い込んだ幼い己にレティは恥ずかしくなってしまった。けれど塞ぎこんでいた気分が晴れる気がする。
はっきりとした態度は取られていた気もするが、しっかりと言葉で伝えられたわけではないのだ。
レティが勝手に愛されてるかも、と感じ、彼の行動に心をときめかせただけなのだから。
「彼は悪くないわ。私が子供すぎたのよ」
小さく言い切った娘の姿に、両親は憐憫を思う。
こんな形で成長してくれなくてもいい、とカレンは思ってジルが憎くなった。誠実そうにみえたからこそ、娘を託したというのに、彼は純心な娘から純朴さを奪ったのか、とカレンは歯噛みした。
そのとき店の裏手からごめんください、と声がした。誰が来たのだろう、と小首を傾げてカレンが応対するために立ち上がった。
暫くして眼だけが笑っていないカレンが客人を伴ってダイニングに戻ってきた。アルフィは妻の表情をみて、これほど怒っているのを見るのはいつぶりか、と暢気にも考えた。
「狭いところですけど、どうぞお掛けになってください」
手で誘われて椅子に落ち着いたふたりを眼にしてレティの息が止まった。
「ジル様…に、ギルバート様…」
カレンがアルフィの肩に手を置いて制していなければ娘を弄んだ男に殴りかかっていただろう。
そのくらいの気迫を表して、眼前に座ったジルサンダーを睨み付けていた。
ギルバートが居心地悪そうに身動ぎをしてから、こほん、と空咳を溢した。
「それでご用件は?」
笑顔の様相を呈しているだけで、決して笑っていないカレンが冷たく放つ。
「ジル様は…」
話し出したギルバートを手で制して、ジルサンダーが真っ直ぐアルフィに真摯な眼差しを注いで言った。
「俺はレティ嬢が好きです」
直球の告白に言われたレティだけでなく、カレンすら射抜かれたように頬を染める。
「7歳のときに親が決めた婚約者がいます。でも一度だって誰かを好きになったことはありません。俺が好きなのはレティ嬢だけです。だから婚約解消を願い出ました」
「解消…」
ジルサンダーの言葉を受けてアルフィが繰り返した。それに頷いて応え、ジルサンダーは続けた。
「けれど相手のご令嬢は解消に承諾していません。そこで彼女は俺との時間を作って…」
そこでジルサンダーは言い淀んだ。言葉を探すように瞳を揺らす。
「俺を落としたい、と思ったようです」
結局適当な言葉が見付からなかったのか、わりと単刀直入な言い方をした。彼の横でギルバートが額に手を当てて首を振っている姿を見て、どうやら言葉を間違えたらしいわ、とレティは意外と冷静に思った。
「俺はレティ嬢以外にこんな気持ちを持てません。だから…」
ジルサンダーは突然立ち上がると、レティの前に跪いた。そして彼女の手を取って、その甲に口付ける。
「俺は貴女だけを愛します。俺を受け入れて貰えませんか?」
耳に痛いほどの静寂が彼らを覆った。
通りを行き交う人々の会話までが聞き取れそうなほどの静けさに室内の誰もが息をしてないのではないかと思われるほどだ。
その空間を切り裂いたのはレティだった。
「嫌です」
たぶん雷、落ちましたよね、今。
ギルバートは跪いたまま硬直して瞬きすらできなくなった主を眺めながら嘆息した。




