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20 薔薇の心

言葉を交わすこともなく、沈黙に支配された玉座の間に先に入ってきたのはローズマリア・ブルーデンだった。相も変わらないターコイズブルーのドレスを翻して玉座の前まで来ると、誰もが感嘆のため息を溢してしまうような優美なカテーシーを披露した。


「よいよい、楽にするがよい」


礼儀に則り、王からの声掛けを待ったローズマリアは姿勢を伸ばすと、その場にいるものすべてを魅了する淑女の微笑みを浮かべた。


「陛下におかれましてはご機嫌も麗しいご様子と存知奉りまして、誠に結構なことでございます」


「堅苦しい挨拶など抜きでよい」


「はい、ではローズマリア・ブルーデン、罷り越しましてございます」


王だけの玉座に視線をやったあと、ローズマリアは己の父である宰相と婚約者であるジルサンダーにゆっくりと艶やかな眼差しを送った。


「そなたに話がある。ジルサンダーが話すか?ブルーデン卿か?」


「娘のことなれば、わたくしから」


陛下の言葉に飛び付くようにブルーデン卿が言った。ジルサンダーに話されては困ることがあるかのようで、僅かにローズマリアが眉を顰めた。


「ジルサンダー殿下はローズとの婚約を解消したいと仰せだ」


単刀直入に、かつ簡潔に言って、ブルーデン卿は娘の様子を窺った。


何故(なにゆえ)でございましょう?」


暖かみのある蜂蜜色の瞳から吹雪く冷気を発して、ローズマリアはジルサンダーをひたと見据えた。


「ローズマリア嬢に非はない」


冷徹王子の渾名に相応しい、こちらもすべてを凍らせるほどの冷淡さで答えた。


「では解消理由はお聞きできないのでしょうか?」


双方に感情の隠らないやり取りに、玉座に座る王だけがふるりと身体を震わせる。


「いや、理由なく解消はしない。俺がローズマリア嬢を愛せないのが問題なんだ」


言葉だけなら真摯に対応しているようにも感じるが、彼のローズマリアに向ける視線は殺気を帯びている。レティに害なす敵として、すでにジルサンダーのなかでは戦闘態勢に入っていたのだ。


「では殿下は他に愛する方ができたとでも?お戯れでなく、本気で?」


レティの存在を知っているローズマリアはそれを仄めかしたが、ブルーデン卿がそこに割って入った。


「ローズよ、ジルサンダー殿下は王位継承権を放棄なされるお覚悟だ。当家としてはレオン殿下との婚姻を有り難く受けたいと考えている」


父親の言葉にローズマリアは眼を向いた。

そこへ呼ばれたレオンがギルバートを伴って入室してきた。


「父上、罷り越しましてございます。ご用のほどはなんでしょう?」


礼もお座なりに言って、集まった顔触れを一通り眺めた。そしてその深紅の瞳がローズマリアを捉えた瞬間、ふわりと溶けた。すぐに彼女の前に進み出て、レオンは跪くと、手入れの行き届いた手を取って、その白い指に口付けを落とした。


静寂に包まれた空間に派手に鳴らしたリップ音が卑猥なほど響いた。


「我が愛しの君、このような場で会えたこと、なによりの僥倖と感謝します。ローズ、私の心は貴女でいつでもいっぱいなのです。どうかその清らかな聖心に私のことを留置きください」


恭しく、まだ兄の婚約者であるローズに生々しい愛の言葉をレオンは囁いた。ブルーデン卿からジルサンダーさえいなくなればローズマリアはレオンのものだ、と確約されていたので、彼の残念な脳内では、すでにローズマリアは己のものと認識されてしまったらしい。


その様子に皮肉な笑みを浮かべたジルサンダーは大仰に腕を広げて、父王にその様子を見せ付けた。些か芝居懸かってはいたが、このタイミングはなかなかいいではないか、とギルバートは無表情のまま、心のなかで愚かなレオンに喝采を贈った。


「陛下、このようにレオンはローズマリア嬢を慕っております。私などよりもレオンの方が彼女を幸せにするでしょう」


婚約者であるジルサンダーでさえローズマリア嬢と呼ぶのに、レオンは愛称であるローズと呼び掛けたのだから、実際は別として客観的にみれば親密さはジルサンダーの比ではない。王も納得するように何度も頷き、ジルサンダーに微笑みかけた。


「確かにジルの言う通りだ。ならばおまえの婚約は解消しよう」


「なっ!」


王の判断に淑女らしからぬ声をあげたのはローズマリアだった。レオンの手を失礼にならない程度の力で払い除けて、玉座に向かって軽く膝を曲げて一礼をした。


「陛下、発言を許していただけますか?」


「なんでも申すがよい」


鷹揚に許しを与えて、事は治まったと、ゆったりと玉座に座り直した王は優しげに眼を細めてローズマリアを眺める。

どのような状況であっても美人を愛でるのは愉しいらしい。王から微かに鼻唄が洩れた。


「ありがとう存じます。わたくしはこの度の婚約解消を承諾致しません」


ローズマリアのはっきりとした否定に今度はブルーデン卿が悲鳴を洩らした。レオンの容量の少ない脳では情報処理ができないのか、払われた己の手を彷徨わせたまま眼前にて凛とした佇まいで王に対する彼女を見上げているだけだ。


「しかし、ローズマリアはレオンと仲が良いのではないのか?」


「いいえ、わたくしはジルサンダー殿下をお慕い申し上げております」


その爆弾発言に驚いたのはジルサンダーだった。


「ローズマリア嬢、そのような戯言はやめていただきたい!」


声をあげたジルサンダーをつり上がった眦で睨みつけながらも、その瞳に甘さを含ませてローズマリアは断言する。


「いいえ!わたくしは婚約する以前からジルサンダー殿下だけを想って参りました。婚約解消には承諾致しません。貴方が側妃を迎えようとも、愛人を囲おうとも構いません。わたくしを正妃にしてくださるなら王族でなくても構わないのです!」


「なにを言うんだ!」


王家に嫁がせることを目標に、ローズマリアを育て上げてきたブルーデン卿が金切声をあげて娘を叱りつけるが、ローズマリアは父に視線すら寄越さない。


王族ではないジルサンダーに価値はない、とブルーデン卿は焦った。ローズマリアが産まれたとき、赤子が女の子だと知って狂喜乱舞した己の歓喜が打ち壊されて粉々に砕け散るようだ。


「お父様、わたくしはこれだけは譲りません。ジルサンダー殿下と結婚するのはわたくしです!絶対に下町のあんなチンケな娘ではありません!」


「ローズマリア嬢!」


レティを貶されたことに一気に沸騰したジルサンダーがローズマリアの名前を呼ぶと同時に、主の怒りを抑えるためにギルバートが傍らに立った。

たったそれだけで、ジルサンダーは急速に冷静さを取り戻す。


「下町の娘とは?ジル、どういうことなのだ?」


臆病風から成り行きを見守っていた王がローズマリアの台詞に反応した。ジルサンダーはその場で跪き、軽蔑すらしている父親に頭を下げた。


「俺は、俺には愛してる女性(ひと)がいます」


今度はレオンが奇妙な声を出した。

やっと状況が飲み込めたのか、とギルバートは気付いて呆れたように主の弟をじっとりとねめつけた。


「兄上、それならローズとの婚約は?!」


「もちろん、解消したい」


叫んだレオンにはっきりと答えたジルサンダーは顔を上げて、真摯に王を見つめた。


「しかしローズマリアは解消には反対だと…どうするのだ、ブルーデン卿」


「娘にはレオン殿下が似合いでございます」


「お父様!!」


「ローズ、ジルサンダー殿下に想い人があるというならば、おまえが我を張って結婚しても互いに幸せにはならん。ここはおまえを愛してくれるレオン殿下に嫁がせたい、と思うのが親心というものだ」


たまには良いこと言うじゃないか。


ジルサンダーとギルバートがほぼ同時に思って、視線を交わした。ふたりとも、うっすらと笑みが浮かぶ。


「いいえ!いいえ!愛されなくてもいいのです!わたくしが愛することが大事なのです!」


「レオン殿下の愛に触れればおまえもレオン殿下を愛すようになる」


「そうです、ローズ。どうか私の愛を受け取ってください」


跪いたままだったレオンは縋るようにローズマリアのドレスを掴んだ。それを乱暴に払って、彼女はジルサンダーに近寄っていく。


「俺は貴女を愛せない。幸せにしたいとも思えない」


彼女が近寄った分だけ、ジルサンダーは一歩下がる。


そのことに傷付いたローズマリアは拳を震わせて、俯いた。足元にはドレスの裾を握り締めているレオンがいて、直向きに己を見つめる熱い瞳と眼があった。

唇を噛んで、ローズマリアは涙が流れるのを必死で耐えた。


「では、憐れなわたくしに最後のチャンスをくださいませ」


傲然と顔を上げてローズマリアは言い放った。


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