19 ジルサンダー、交渉する
「ローズマリア・ブルーデン嬢との婚約を解消していただきたい」
沈黙が支配する謁見の間に静かながら強い意志の隠ったジルサンダーの声が木霊した。
犬のエレノアから話を聞いたアレクシスの急報によってローズマリアがレティに対してジルサンダーに近付くな、という警告を発したことを知ってからのジルサンダーの動きは早かった。
朝イチにアレクシスが兄の執務室に駆け込んできたのが8時、話を聞いて陛下に謁見を申し込んだのが9時。
ジルサンダーからの謁見申込みが陛下の侍従に伝えられたとき、王はまだベッドで朝陽の射す心地よい微睡みのなかにいた。隣には廊下で見掛けた侍女が寝ている状態で、またもやこの好色陛下は見境なくベッドに連れ込んだのかと、首を振って侍従は呆れた。
先代王は勤勉な方だった。
ブラッディ公爵令嬢を娶り、生涯ただひとりの王妃を慈しみ、4人の子供を遺した。
政治に真摯に向かい、民の生活を憂いてはいたが、先代ブルーデン卿の権力にいつも歯痒い思いを抱えていた。王なのに宰相の意見の方が通ったのだ。失意のなか病に倒れ、第一王子を次期王に指名したのだが、御しがたいと判断されたのか、ブルーデン卿の強硬な反対にあって、現王である第二王子が即位した。
最後の最期まで王の意見は通らなかったのだ。
ふたりの王女はそれぞれリッテ国とマルガ国の王族に嫁いで国交の重要な一端を担った。
現王が即位後、暫くして第一王子が逝去した。
服毒死だった。
毒はブルーデン公爵家のお家芸だとまことしやかに王宮内で囁かれだが、結局証拠もなく、王位に就けなかった失意のための自殺だと判断された。
先に天国で待っていた先代王が歯噛みして悔しがっただろう、と忠誠を誓っていたデイグリーン公爵でロマリア王国の将軍は胸を痛め、予定よりも早く息子に爵位を譲って引退した。
彼はその後、出家して死ぬそのときまで先代王の墓を守り続けたという。
忠義物語として、ロマリア王国で伝説の男になっている。
現王陛下は女にだらしなく、政務にヤル気のない、優柔不断などうしようもないダメ男だった。
ジルサンダーは眼前の玉座に座る父を見て、やはり尊敬の念は起きないのだ、と心のなかで残念に思っていた。
デイグリーン公爵家から娶った王妃がアレクシスを産んだのを最後に、公務以外での接触を避け続け、その代わりとでもいうのか、眼に付く女にところかまわず声を掛けては寝所に連れ込んだ。
陛下の落とし胤だという子供が突然現れても、おそらく誰も驚かないだろう、と彼を知るものは皆思っていた。
王妃の腹から出た3人の王子だけを王家の血筋として王族系統に入れていたので、王は平気な顔をして己が面倒だと放棄した政務を息子たちに押し付けて、日がな一日、女と戯れる日々を送っていた。
「しかし王家と公爵家の婚姻は慣例として決められておるのだぞ?」
横で眉根を顰めて渋面を作っているブルーデン卿をちらりと陛下は窺う。その気弱な態度にジルサンダーは心のなかで舌打ちを洩らし、毒付いた。
たがら父上は無能と呼ばれても平気で過ごせるのだ!
「私の勝手による解消ですから、賠償金だろうと慰謝料だろうと私財から贖います。それから王家との婚姻が慣例ならば、王族でいいのですから、私でなくともいいはずです」
それからジルサンダーは睥睨するようにブルーデン卿を鋭く睨んだ。
「ローズマリア嬢は素晴らしい淑女でしょう。彼女が王妃に相応しいと陛下がお考えなら、彼女と結婚するものを次期王として指名されれば宜しいかと。私は解消さえできれば王位継承権を放棄します」
ジルサンダーを筆頭に3人いる王子それぞれに平等に継承権はある。誰が王位に近いなどの順列は表向きには存在しない。
だからジルサンダーが放棄することも特別問題のあることではなかった。
ジルサンダーからすれば王妃には必ず三大公爵家の令嬢を娶るという仕来りのほうが異常だと考えていた。
しかも持ち回り式である。
先代王妃がブラッディ家から、現王妃はデイグリーン家から、よって次期王妃にはブルーデン家の令嬢が必然的に選出された。
ただそれだけのことだった。
仮に持ち回ったときに年頃の合う娘がいなければ、遠縁から、それでもなければ配下の伯爵家から養女に貰ってでも嫁がせるのだ。
己も含め、今の王族に初代王ロマリア・ロマリアの血がどれほど流れているというのか。
ジルサンダーは皮肉めいた笑みを口許に浮かべて思う。所詮、公爵家の血のほうが濃いに決まっている、と。
「ジル、それがどういうことか、わかっているのか?」
「はい、望まぬ婚姻を結ぶくらいなら私は王族であることを放棄します。ローズマリア嬢にはレオンが相応しいとも思いますし、ブルーデン卿にとってもレオンと親しいようなので、先のことを考えれば、その方が良いのではないかと判断します」
現王家など、ジルサンダーにはお呼びでない。
己は己で国を起ち上げよう、と覚悟した上での申し出だった。
もしもレティがジルサンダーの気持ちを受け入れてくれれば、必然的に彼が神より認められた王となるのだ。仮にレティが女神でなくとも、ジルサンダーはアルフィに弟子入りして、ゾッコンに惚れ込んだパンを作って生活するのも悪くない、と思っていた。
レティを知ってしまった今、そして彼女を害そうとするものがあるのならば、なにを擲ってもレティを護るのだ、とジルサンダーは固く決意していた。
「ブルーデン卿、ジルサンダーの申し出、いかが考える?」
陛下の横に立っていたブルーデン卿が如何にもわざとらしく腰を深く折って一礼をしてから、厭らしいほどの営業スマイルを浮かべて話し始めた。
思わぬ展開で目の上のたん瘤だった第一王子を労苦なく排除できる機会に、ブルーデン卿の口が醜く歪む。
「娘の気持ちも大事ですが、ジルサンダー殿下の気持ちに勝るものはございません。レオン殿下さえ了承くださるなら、わたくしとしても異論はございません」
己の正義が一本芯通っているジルサンダーよりもすでにブルーデン卿の傀儡と化している幾分おつむの弱いレオンのほうが御しやすい、と常々苦々しく思っていたブルーデン卿からすれば、なんとも美味しい話なのだ。ここは王家に非をもってすんなりと解消したいところだ、と宰相は考えた。
「そうか、ではローズマリアを呼びなさい。彼女の気持ちも聞こうではないか」
傍に控えていた侍従が陛下の言葉を受けて、王妃教育のために城へ出仕しているローズマリアを呼ぶためにするすると下がっていった。
「ならばレオンも同席すべきでしょう」
ジルサンダーは宣言して、己の侍従に目配せをした。ギルバートは小さく了承の挨拶を返してから、レオンを呼ぶために訓練場へと駆けていった。
ここからが正念場だ。
ジルサンダーは瞳を伏せて深く深呼吸すると、再度己に気合いを入れた。




