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17 ローズマリア、恋敵に宣戦布告する

「仕事をしてください、ジル様」


己に忠実な侍従の叱責も聞こえないほど、うっとりとなにもない空間に蕩けた眼差しを送っているジルサンダーは甘やかな吐息を洩らした。


人生初のサーカスデートから無事に生還した主は数日経っても、その幸福の余韻に浸り、一向に仕事が進まない状況に陥っていた。


未決済の書類がデスクの右端にどんどん積み重ねられ、あと数枚でも加えられたら雪崩を起こすことが必須である。今までこんなことはなかったのだが、恋に溺れるジルサンダーは馬車のなかでの触れ合いや、サーカスを真剣に見つめるレティの可憐さに腰砕けどころの騒ぎではなく、魂そのものがあの世に片足を突っ込んでいる状態だった。


さすがのギルバートも主がここまで恋愛バカになるのは想定外だったので、どう対処すべきか、悩みに悩んでいた。


次のデートにも漕ぎ着けてない身の上で、ジルサンダーはすでに結婚式のことまで妄想し、指輪を注文するためにデザイナーを呼べ、とギルバートに指示して、まずは2回目のデートの約束とお互いの気持ちを伝え合ってからです!と注意を受けた。


初デート以降も毎日のようにアレクシスが動物たちの情報を報告に来ているので、レティがどれほどデートを楽しんだのかも、そして生まれたばかりのジルサンダーへの想いも、ギルバートは聞いて知っていた。

もちろん、同じ報告を聞いているジルサンダーもレティの淡い気持ちに天にも昇る思いだった。

むしろ昇りすぎて降りて来られない、とも言える。


よってギルバートはふわふわと物理的にも身体を浮かせそうなほど勝手に盛り上がって妄想爆発させているジルサンダーの尻を叩いて仕事をさせなくてはならない羽目になっていた。


このままではレオンを王にしたほうがいいのではないか?と最近では本気で考えてしまう自分にギルバートはため息をつくことしかできなかった。


脳内結婚式を挙げたあと、すでに愛しい女神が聖母のような清廉な微笑みを浮かべて可愛らしい赤子を抱いている姿までを爆烈妄想中の締まりのない、けれど全身から舞い散る花弁を思い起こさせるような幸せそうなジルサンダーがギルバートにはじめて殴られた、ちょうどその頃、ウキウキで弾む足が地についていないとカレンから揶揄われていたレティのもとにやってきた悪災のために、ふんわり頭お花畑状態のふたりの心が引き裂かれることになるのだが…


まさにその悪災が昼休憩中、店前の花壇の草むしりを鼻歌交じりでしていたレティに近付いて来ていた。


路地に座り込んだ彼女の横にはいつもの通り護衛よろしくミルクティカラーの毛並みが美しい犬も座っていた。彼女のことはエレノアとレティは呼んでおり、ふわふわと巻いた毛並みが柔らかく、レティはいつか一緒に寝ようと秘かに願っていた。

そのときレティは馬車のガラガラと路地を走る音にふと顔を上げた。下町は表通りから路地を通って入ることが普通なので、滅多なことでは馬車が走ることがない。馬車に乗るような身分の人は元より下町で買い物をしないし、仮に買うものがあっても使用人に来させるので、やはり馬車は必要ない。

なにより下町通りは道も悪いし、狭い。

一頭立ての1人乗りくらいに小振りなものでなければ通行も難しいだろう。

だから蹄と車輪の音を響かせて迫り来る鮮やかなターコイズブルーに彩られた小さな馬車を眼にしたとき、レティの胸に重い不安が去来した。


目的がうちでなければいいのに…


すでに朝のパンは売り切れで、14時のパンが焼き上がるまでにはまだ間がありすぎる、このタイミングでパンを買いたいとゴネられでもしたらどうしたらいいのだろう、とレティは不安な頭で考える。

見るからに豪奢な装飾が施された馬車だけでも来店したのが高位の貴族であることは確かだ。そしてこの国に生まれ育ってターコイズブルーの意味を知らないものはない。

下手をしたら不敬罪であっという間の牢獄行きかもしれない、とレティは恐れ(おのの)いた。


うちではありませんように…

うちではありませんように!!


そんな彼女の祈りも無駄に、馬車はアルフィのパンの近くまで来ると馭者が手綱を引いてスピードを落としはじめた。


期待が裏切られ、肩を下げたレティは少しでも失礼のないように、土で汚れた手をエプロンで拭ってから、エレノアを横に従えて、眼前に停まった馬車に腰を屈めて礼をした。


馭者が降りて、踏台を用意してから馬車のドアを開けると、差し出された手を当然のように取って、慣れた仕草で降りてきたのは漆黒の巻き毛が美しい女性だった。年の頃はレティと同じくらいだろうか。


眼にも鮮やかなエメラルドブルーのドレスに、胸元には周囲の光をすべて吸い込んで輝くようなサファイアが施されたネックレス、足元を確認するために伏せられた眼には影ができるほどの睫があり、その睫の奥の瞳は蜂蜜をふんだんに使った飴細工のような金色(こんじき)だった。


あまりの美しさに息を失うレティに、その小さな薔薇のような唇から驚くほど軽やかで華やかな高い声が紡ぎ出された。


「アルフィのパン、というのはここで宜しくって?」


「はい、ここがそうでございます」


畏まったまま、レティは答える。


「そう、では娘のレティとは貴女のことかしら?」


言われてレティの肩がぴくんと震えた。

アルフィのパンが目的ではなく、まさかの自分だったのか?と気付き、パニック寸前だった頭が恐慌に陥る。それでもなんとか震える声で肯定した。


この尊大な態度とカラーから己の眼前に立つのがブルーデン公爵令嬢だろうとレティは確信した。

そうでなければいいと願った思いも無駄だったと落ち込む彼女はロマリア王国筆頭公爵家のご令嬢が己を訪ねる理由を心のなかで探る。が、当然のことながら思い当たる節もなく、混乱が極まった。


「ではジル様とサーカスにいったのは貴女ということね?」


思いも掛けない名前の登場に、一瞬ポカンと口を開けたレティは不敬とは知りつつも、腰に手を当てて傲慢な目付きをして己れの前に立つ令嬢を見つめてしまった。


「貴女なのよね?」


返ってこない答えに焦れたように僅かに荒げられた声にハッとしてレティは再び頷いて肯定した。不審な空気を感じたのか、エレノアが一歩前に出て、レティの足元に蹲った。そして令嬢をねめつけるように額に皺を寄せて上を見る。


「そう、貴女なのね」


肩を怒らせた令嬢は大きくため息を吐くと、レティを指差して静かに口を開いた。


「知らないかもしれないから、一度は目溢しするわ。ジル様はわたくしの婚約者ですの。婚約者のいる男性とふたりで出掛けるなど淑女としてあるまじき行為、今後二度とそのようなことがないように注意なさい。貴女のような平民風情には親しみのない慣習かもしれないけれど、わたくしたちの世界では貴女のしたことは恥ずべきこと、社交界の嗤われものだわ。宜しくって?ジル様に関わらないでちょうだい。それだけよ、難しいことはないでしょ」


矢継ぎ早に言葉を連ねるとブルーデン公爵令嬢はさっさと踵を返して馬車で去っていった。

店前に残されたレティは言われた内容に理解が追い付かないまま、鮮やかなターコイズブルーの馬車が遠ざかるのを見送ることしかできなかった。


この翌日の朝、当たり前のように怒り満載でやってきたエレノアからアレクシスへと報告が入り、幸せに浮かれて脳内妄想が一面ガーベラの咲き誇る架空の草原で笑顔で手を取り走るバカップルで炸裂していたジルサンダーにローズマリアの宣戦布告が報されたのは当然の成り行きだったろう。

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