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13 ジルサンダー、女神に一目惚れしたことを自覚する

瀕死の黒猫を抱き上げた彼女。

オレンジの強い赤毛を頭頂部で団子に纏めた髪がほつれて青白い頬に零れ落ち、それがまた彼女の憐れを誘っていた姿を。

タンザナイトの瞳から惜しげもなく流れる気品高い涙を。

そしてまじないを呟いた彼女の掌から放たれた奇跡の光を。


ジルサンダーは忘れない。

否。すでにその瞳にすべてが焼き付き、忘れることなどできない。


女神の癒しによって回復した黒猫を慈しむように細められた瞳も、喜びに緩んだ瑞々しい唇も、じゃれる猫に差し出された麗しい指も。


レティのなにもかもがジルサンダーの心を捕えて離してはくれない。


忙しい店の手伝いの時間を縫って強請る近所の子供と遊んでいた、と鳥から聞けば、その可憐な姿を想像してときめき、配達の途中で困っていた年配の女性を助けたと警護の犬から教えられれば、あまりの心根の美しさに胸打たれ、寝る前に猫の毛並みを整えながら軽やかに歌を唄うと知れば、その歌声を独占したくて身悶える。


許されるならば、己の腕に抱き締めて、己のためだけに微笑ませ、己以外ものの眼に触れないように、己だけの耳に彼女の声が聴こえるように、宮の奥深くに隠してしまいたい。

そして己だけを愛してほしい。


己の愛の囁きだけを聞いてほしい。


そこまで妄想して、やっとジルサンダーは自覚した。


「俺はレティを愛してしまったのか?」


黒猫を抱いた手から零れるように溢れ出た淡い可憐な光を見たとき、ジルサンダーは彼女に恋をした。


あたりにも貴く美しい光景に高鳴る胸を抑えることができなかった。


元気に跳ねる黒猫を愛しげに眺めていたレティの姿にジルサンダーは愛を感じた。


アレクシスを通して動物たちから彼女を知る度に彼のなかで芽生えたはじめての愛は大きくなっていった。


けれど愛を知らずにきた第一王子は己の胸を圧する感情がなんであるのか、理解できなかった。


しかし、愛することを知ってしまったからには戸惑いはありつつも、留まることはできない。

レティに会い、レティと仲良くなり、レティに愛を伝え、レティからの愛を得なければ、それを成すのが己以外の男であることなど耐えられない。


ジルサンダーは腹を括った。


彼女を得るために、一歩を踏み出す勇気をもたなくてはならない、と。


アレクシスの言っていた名品コンテストで、王族のものたちにレティを知られる前に動かなくてはならない。彼女が救国の女神だと知られれば、誰がレティを奪おうとするか、わからない。


女神が愛せば王なのだ。


身分も出自も関係ない。


そんなことで可憐なレティが苦しむのは見たくない。できれば彼女を本気で心から愛するものと結ばれるべきだ。


「俺のような!」


零れた言葉は意思をもってジルサンダーのなかで重く響いた。


「ギルバート!」


頼りになる己の侍従の名を叫ぶ。すぐに現れ、恭しく一礼をしたギルバートに急くようにジルサンダーは聞いた。


「俺はレティを手に入れたい。すぐにでも彼女と知り合いたい。どうすれば自然に出会えるだろうか?」


聞きたかった主の言葉をやっと得たギルバートは不敵な笑みを浮かべた。


「アレクシス殿下から猫を貸して貰いなさいませ」


「猫を?」


「さようです。そしてその猫を連れて彼女に会いに行き、世話になった礼をするのですよ、レティ様の喜びそうな礼を示せば、きっと受け入れてくれるはずでございます」


「礼…」


ギルバートは手元の手帳を広げ、思案深く眺めたあと、満足げに微笑んだ。


「折よく、王都の端の丘でサーカスがリッテの国から来ておりまして、どうやらレティ様は行きたいご様子ですが、機会がないと嘆いておられたとか。チケットを用意致しますので、礼で誘ってみられてはいかがでしょう?」


「サーカス…なるほど、ではギルバート、頼む」


どこで仕入れた情報か、ギルバートの手帳に好奇心が疼くが、ジルサンダーはまずアレクシスに猫を借りなくてはならない、といい加減にならない程度の良い加減なスピードで書類を処理すると弟の部屋へと駆けていった。


その後ろ姿を見送ったギルバートは己の使う影のものにチケットの手配を頼んだ。あとはレティに時間を作らせるための手配をしなくてはならない。

ごく自然に彼女が暇になるように、と。


それはなかなかの難問だ、と呟いてからギルバートは自室に与えられている部屋に向かった。


それから数日後。


ジルサンダーはアレクシスから借り受けた猫を抱いていた。彼の名前はアレック。

そう名付けたのはレティだと知って、ジルサンダーは僅かに猫が憎くなる。

グレーの地にブラウンの縞が入った雄の猫だ。

瞳はオパールのように複雑な色合いで光り、なぜか眉間に皺が寄っているようにみえる。

アレクシスから言い聞かせられているようで、大人しくジルサンダーのがっしりとした腕に抱かれているが、その機嫌は最悪のようだった。


ジルサンダーの猫なのだから、とアレクシスのところから抱いて戻ってきたアレックをギルバートは無理やり風呂に連れていったのだ。

嫌がり、暴れるアレックを侍女3人がかりで押さえつけて洗われたので、機嫌が悪いのも当然である。


しかしその甲斐あってアレックの男っ振りはかなり上がっていた。下手したらレティにアレックだと気付かれないかもしれないほどだ。


緊張に顔色が悪いジルサンダーの胸ポケットにサーカスのチケットを捩じ込むと、ギルバートは満足げに頷いた。


「どこからどうみても紳士でございます」


「そうか?」


「はい、これならレティ様も王子とは思わないでしょう。完璧でございます」


平民使用の白シャツにグレージュのスラックス。

ほんの少しだけ素材のいいベージュのジャケットを羽織ったジルサンダーは装飾のない分だけ、地の良さが際立った。ひとつに纏めて背中に流した銀髪がさらさらと艶やかに光を放っている。

履き慣れない靴だけは危険だからと、いつものブーツにしたが、仕立ての良さが全面に出てしまい、仕方ないのでギルバートは騎士風に腰に飾り気のない剣を差させた。騎士なら多少高価な靴を履いていても違和感はない。


「では、行ってくる」


緊張に、込み上げる吐き気を我慢しながらジルサンダーは猫のアレックを抱き締めて馬車に乗ってアルフィのパンに向かっていった。

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