12 ジルサンダー、アレクシスの報告を心待にする
早朝から執務室で書類と格闘していたジルサンダーは落ち着かない気分でちらりと時計を確認した。その視線の動きを追ったギルバートが小さく笑ってベルを鳴らし、執務室横の控室で待機している侍女にお茶の用意を頼んだ。
「そろそろアレクシス殿下がいらっしゃる時間ですね」
時間を確認してからそわそわし出したジルサンダーは侍従の台詞に、空咳をわざとらしく洩らして居住まいを正した。手元の書類に眼を落とし、印章を手にして所定の箇所に丁寧に捺印した。
ロマリア・ロマリアが建築した城壁の一部に破損が見付かり、その修繕費用に関する嘆願書だった。城壁の外は魔獣のテリトリーだ。
仮に国庫が空であろうとも、この費用の捻出は急務だろうとジルサンダーは思うのだが、宰相であるブルーデン卿からの許可が下りない、と嘆いた土木建築部の文官がジルサンダーに嘆願書という形で泣き付いてきたのだ。王命ほどの強制力はないが、ブルーデン卿よりは強い効力を発する王子の印章が捺された書類一枚で国土と民を護れるなら、ジルサンダーは迷いなく捺す。それを採択の文箱に入れたとき、侍女が紅茶とともにアレクシスの来訪を報せた。
途端に平然を装っているジルサンダーの胸がどきりと高鳴った。
ジルサンダーは己でもこの高鳴りがなにを意味するのか、まったくわからなかった。アレクシスから聞くレティの生活を想像して心が弾み、彼女と寝所を共にする猫の話を耳にして胸に疼く痛みを感じ、彼女の優しさを語る犬に対して微笑ましさに頬を緩める。
アルフィのパンを焦がれる気持ちと同じくらい、レティのことを聞くだけで彼のなかで言い知れない感情が蠢くことに、ジルサンダーは頭を悩ましていた。
これはなんなのだろう、と考える。
もしもその疑問を素直にギルバートに伝えれば
「それを人は恋と呼ぶのですよ」
と、さも愉しそうに揶揄っただろうが、聞かれもしないことを口にするわけにもいかず、悩む主にギルバートはジレンマを覚えた。
「ジルにいさま!」
溌剌としたアレクシスが入室してきたので、ジルサンダーはデスクからソファへと移動した。すでにテーブルには2人分のお茶の用意が済んでいる。アレクシスが特に気に入って飲んでいると聞いた侍女が準備したローズヒップティだ。
カップのなかの鮮やかな赤色の水面に窓から射し込んだ陽射しが当たってゆらゆらと煌めいていた。
「今日は昨夜一緒に寝た猫から面白い話を聞きましたよ!」
相当急いできたのか、まだ熱いはずのお茶をアレクシスが一気に飲み干した。喉が乾いていたにしても王族らしくない態度である。呆れたようにジルサンダーは笑って、おかわりを注いでやった。
「一緒に、寝た、猫、か…」
声に僅かな羨望が混じった気がしたが、それには気付かなかったふりをする。
「はい!ジルにいさまは知ってましたか?来月の祭りで王都名品コンテストが開かれるそうなんですよ!」
「来月の祭り、て建国祭のことだろう?」
ロマリア・ロマリアが女神ソフィテルとロマリア王国を築き、婚姻を結んだ日を建国の日として盛大に祝う祭りが、ここロマリア王国では代々欠かさず続けられてきた。王都であるロマンはどこよりも賑々しく、王家主催で執り行ってきたのだが、ジルサンダーはその名品コンテストとやらは知らなかった。
「王都の商業組合開催のものらしくて、街で話題の商品から優勝商品を選ぶんだそうです!」
「ほう」
「優勝した商品は王家御用達の称号と賞金が与えられるそうなんですけど、レティの店のパンがノミネートされてるんだとかで、昨夜は眠れないくらい興奮して、猫にキスの嵐で大変だったそうです」
報告に来た猫の憔悴ぶりを思い出したのか、アレクシスがクスクスと口元を覆って笑みを溢した。ちなみに昨夜の猫はレティからアレックと名前を付けられた、といくぶん迷惑そうに教えてくれた。アレクだったら己の愛称になったのに、と聞いたときに残念に感じたことは黙っていた。
「キスの嵐…」
呆然と呟く主の横で、いや、そこじゃないだろ!とツッコみたいのを必死に耐えながら、ギルバートはにこやかに言った。
「それはそれは、あのパンが宮廷内で食べられるようになるかもしれないんですね。数ができないでしょうから、それこそ王族の方だけでお召し上がりになるのでしょうが」
「そうなんですよ!僕は今からそれが楽しみで仕方ありません!」
ほくほくと頬を染めてアレクシスが歓喜した。
王家御用達ということは王宮に商品を卸しても構わない、と許しを得たことになる。つまりアルフィが望む望まないにかかわらず、彼のパンの一定数を王家で買い受ける話になるのだ。
「レティは喜び半分不安半分みたいで、アレックを抱き締めて何度も大丈夫か、とアルフィがどうなるのか、と話していたそうですよ」
「抱き締め…」
「アレクシス殿下、レティ様の不安は当然でございますよ。陛下がパンをお気に召せば、アルフィを宮廷料理人の一人として召し上げる話にならないとも限りませんし、そうなると店の存続は難しいですし、何より通いでなく住み込みになるでしょうから、家族で宮内に住むことになるかもしれないのです。レティ様にとっては環境の変化が著しく、不安が募るのも無理ないことでしょう」
猫に嫉妬する主を余所にギルバートがレティの心情を代弁した。王族に仕える侍従侍女、近衛兵、料理人はよほどの理由がない限り、通いは許されない。王族を害する機会を、隙を、少しでも排除するためには致し方のない処置だろう。
過去に王に気に入られた王都の職人や料理人が召し抱えられる度に彼らにすり寄り、衣服に毒針を仕込ませたり、食器に毒を塗り込ませたりする事件が起きていた。そういったことを起こさせないためにはやはり通いでなく住み込みにする必要があったのだ。
レティが宮に住むかもしれない。
この可能性にジルサンダーだけでなくアレクシスまでもが高揚して、頬をうっすら桃色に染め上げたのを眼にして、ギルバートは面倒そうに眉根を顰めた。
「おや、アレクシス殿下、そろそろ授業のお時間ではないですか?お部屋で教授がお待ちかねですよ、きっと」
大仰な態度で眼を丸く回してギルバートが弟殿下に注意を促した。慌てた様子で時間を確認したアレクシスがまた明日参ります、と告げると、彼の侍従とともに辞していった。
残されたジルサンダーはぼぉとしてアレクシスが帰ってしまったことすら意識にないようだった。
確かにレティ様は可愛らしく、健気で、優しい女性ですが、なにがこうまでジル様を虜にしたのでしょう?
疑問に思ってギルバートは首を傾げた。
言葉も交わしてない。
それをいえば視線すら掠りもしていないのだ。
ほぼお互いを知らないはずなのに、ジルサンダーはアルフィのパンにのめり込む以上の執着をレティにみせていた。
まさか、パンの代わりにレティ様を?
不毛な思索を振り払うように頭を振って、呆然としている主を残し、ギルバートは仕事に戻った。




