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109 罠

眼下の、どこまでも続くようにみえる不毛の砂漠を睨み付けながらジルサンダーは第二城壁の砦の上に立っていた。その姿はすでにレッドドラゴンではなく、隼だ。

遥か遠く蜃気楼のようにコリンナの軍隊が広がっているのが確認できる。所々に立てられたコリンナの国旗と王太子の軍旗が砂漠特有の巻き上げる風に翻弄されていた。バタバタと旗の打ち鳴らす音までもが聞こえそうなほどの静寂のなか、ジルサンダーの早鐘を打つ心音が耳に響いて痛いほどだ。肌も粟立ち、羽毛がざわりと起き上がってくる。

ざわめく気持ちを持て余しつつ振り向いて下を見遣れば、城壁内では次の進攻に備えて兵たちが忙しく走り回っているのが眼に入った。

どの顔にも希望が刻まれ、とても開戦したばかりの雰囲気ではない。


レティのおかげだな…


ジルサンダーは隼の鋭く光る瞳をふわりと緩めた。女神の存在がロマリア兵たちを鼓舞していた。今は炊き出しのテントでスープを彼らに配っているレティを想って、やっとジルサンダーの心が凪いだ。


少し前にアレクシスの鳥から受け取った短い手紙を思い出す。


「巧くやってくれよ、レオ」


低く呟いた隼は地平線と一体化しつつあるコリンナの兵にまた油断のない視線を向けた。


伝令だけは逃さない。絶対に通さない。


鋭く光る隼の冷淡な瞳が微かな動きさえ見逃さない気迫を込めて周囲を見渡していた。





「レオン殿下が?!」


執事から渡されたロマリア国王陛下からの急ぎの書状を一読して、驚愕に震える声を上げたのは些か二日酔でふらふらするマリオデッラだった。頭のなかで小人たちが盛大に鐘を打ち鳴らし、大太鼓を破けるほど叩いている。

そんな妄想にすら囚われてしまうほどの頭痛に歪めていた顔がポカン、と呆けた。


喜びのあまりピナールと呑み明かしたあと、侍従に付き添われて帰宅したマリオデッラは王都の屋敷(タウンハウス)で目を覚ました。

とても爽やかとは言い難い目覚めだったが、それでも頭痛以外の不調を感じない身体に泣きそうなほど悦びを感じていた。


もうローズマリアは起きてアガロテッドとサロンで朝食後のティタイムを過ごしていると聞いて、マリオデッラの胸の内に酷く不快な警戒心が動いた。


それでもコリンナの王太子を無碍にもできまい、と泥のように重い身体を起こして身支度を済まし、マリオデッラはサロンに向かった。その前に己で調剤した二日酔に効く薬を飲むのは忘れなかったので、サロンに着く頃には幾分か気分はマシになっていた。


この頭痛さえなければな。


鎮痛剤を飲まなかったことを若干悔やみながらマリオデッラはにこやかに微笑んでアガロテッドに腰を折った。


「挨拶が遅れましたな、ようこそ我が屋敷(タウンハウス)へお越しくださいました。なにか不都合や足りないものなどなかったでしょうか?」


「気遣いに感謝する、マリオデッラ殿。ローズマリアさえあれば私は外でも構わないくらいだから、充分なもてなしを受けてるよ」


鷹揚に答えたアガロテッドがローズマリアの腰を抱き寄せ、派手な音を立てて彼女の頬にキスを落とした。


「仲睦まじいことですな、安心致します」


痩せた身体がすぐに戻るわけではないが、明らかに血色の良くなった頬を高く上げてマリオデッラは大仰に呵呵と笑った。


朝食など喉を通るか、と思っていたマリオデッラだったが、二日酔の薬が効いたらしく腹が遠慮がちに鳴った。その音を聞き付けたアガロテッドの眉が上がる。


「朝食がまだだったか?」


「いやはや、お恥ずかしい。食堂に行って軽くなにか食べますよ」


「こちらに運べばよいではないか、この通り陽も入って気持ちがいいぞ」


ガラス張りのサロンには確かに燦々と眩い陽が射し込み、その暖かさも相まってうたた寝には最高の場所になっていた。

ここで食べたらさぞかし旨いだろう、とマリオデッラですら考えるが、アガロテッドが前にいてはどのような素晴らしい状況でどのように美味しいものでも味などしないだろう、とも思った。


アガロテッドがロマリアを内から崩そうと画策していることくらい、同類だと認識しているマリオデッラにはお見通しだった。

それでいい、と思っていたが、祈年の儀で女神の奇跡を体験した今は例え婿であろうとも己にとっては敵以外に成り得ない。

傍で見張ってアガロテッドの動きを封じてやろう、とマリオデッラは狙っていた。そこへ慌てふためいた執事がマリオットからの急ぎの書状を持って駆け込んできたのだ。


「どういうことなんだ?!」


書状を持つ手が震える。

マリオデッラの様子にアガロテッドが面白そうに眼を細めて傍に寄ってきた。そして覗き込むように顔を書状に向けると視線だけで中身を確認する。


ざっくりと読んだアガロテッドが鼻で笑って、ローズマリアに向き直った。彼女は理知的な瞳を不安げに揺らしてコリンナ国王太子を見つめていた。


「ロマリア国王陛下が次期国王に末弟アレクシス殿下を指名したことに不満を申し立てたレオン殿下が王城内にレオニティを引き込んで挙兵したそうだ。ドリューのバーバラ殿下との婚姻も勝手に決められたことだと怒りを表明しているらしい。現在、国王陛下夫妻、バーバラ殿下、アレクシス殿下を人質に王城深部に立て籠っているとか。マリオデッラ殿、ミケーレ殿に助けを求めた内容だな」


説明を終えたアガロテッドが可笑しそうに身体を屈めて笑ってから、


「そうそう、マルガのレイチェル王妃陛下は女神とジルサンダー殿下を連れてマルガに逃げたそうだよ、なかなか人情味の篤い方たちだね」


と痛烈な嫌味を放った。


「助けを、と言われてもミケーレと違って私は文官だぞ!私兵など持つはずもないのに、どういうことだ?」


護衛としてある程度の数の騎士を雇っていたとしてもあくまでもそれはボディガードと屋敷の警護が主体のものたちである。マリオデッラに率いる兵などあるはずもないことはマリオットも知っているはずだ。

二日酔の頭痛を抱えた頭で冷静な判断が難しい、とマリオデッラは眉間に深く皺を刻む。

なにより奇妙なほど違和感を覚える。なにかを見落としているような、記憶にあるのに言葉にならない、焦れた感覚がマリオデッラを苛む。


「ローズ、これをどう見る?」


アガロテッドが嫌らしいほどに口許を歪めて、鋭くローズマリアに問う。

問われた彼女は迷うことなく断言した。


「レオン殿下はロマリア国王陛下になることにかなりの執着をみせておりました。ジルサンダー殿下に対しての敵対心も強く、アレクシス殿下のことは酷く下にみておられました」


僅かに俯き、ローズマリアは、


「それにレオン殿下はわたくしにも恋着されております」


と弱々しく呟いた。


「バーバラ殿下と仲良さそうにお見受けしたが?」


アガロテッドのこの言葉にマリオデッラは眼の覚める思いだった。二日酔など吹き飛んだように頭が回転数を上げて、ふいに真実が見えた気がした。


「わたくしの媚薬でレティ様に想いを寄せていましたが、薬効が切れればもとの気持ちを取り戻します。お茶会でもレティ様へのお気持ちが見えなかったですし、わたくしを気遣う素振りもございました。陛下の言い付けにバーバラ殿下との婚姻を一度は受け入れてはみたものの、直情型のレオン殿下ですから、我慢の限界を越えたのでしょう」


ふぅと小さく息を吐いてから、


「レオン殿下は我慢が苦手な方ですから」


とローズマリアは締め括った。


「ならばマリオデッラ殿」


ローズマリアの見解を聞いて、アガロテッドがマリオデッラに向き直った。その細い瞳に残酷なまでの黒い光が宿り、視線が絡まった刹那、マリオデッラは身震いした。

恐ろしいよりも気味が悪かった。


「はい、なんでしょう?」


それでもマリオデッラは取り乱したフリをしつつ、平静を演じて殊勝な態度で応えた。


「私兵がないというなら私の兵をお貸ししよう。このまま王城に向かい、望み通りに陛下を助けようではないか!」


快闊に言ったアガロテッドにマリオデッラは深く深く腰を折った。


「誠に有難い申し出、感謝致します」


頭を下げたまま、マリオデッラは僅かの間、考え込む。ここが勝負時だ、とロマン王宮を泳いできた本能が警告を孕んで告げている。


アガロテッドの私兵を連れて王城に巧く攻め込ませるために、けれどブルーデン公爵家が先導したのではないように、マリオデッラは立ち回らなくてはならない。


なぜならこれはアレクシスの張った罠だから…


今ここでレティより受けた奇跡の恩返しをしなくては、神の怒りに触れて今度こそ雷に撃たれてしまうかもしれない、とマリオデッラは怯えていたのだ。

奇跡を体験したからこそ生まれる現実味を帯びた神の怒り。それがマリオデッラにはなによりも恐ろしい。


「ですがそれではアガロテッド殿下、引いてはコリンナ国に迷惑をお掛けしてしまうのでは、と懸念しております」


無駄に流れる汗のため、マリオデッラは慇懃に話ながらも顔が上げられない。己が原因でアガロテッドに勘づかれてはならない。


レオンがバーバラに一目惚れしたという話は一気に王宮内のトップニュースになっていた。噂どころではない真実に、非常に仲睦まじい2人の姿があちらこちらで目撃されていたのだ。マリオデッラはレオンにもまた女神の奇跡が起きたのだ、とわかった。

今の彼にはローズマリアへの滾る想いも、ロマリア国王陛下の座る玉座に対する執着も、ジルサンダーに抱いていた劣等感もなく、バーバラとの未来を見据えることしかなかった。

それはたった半日彼を見ているだけでもマリオデッラは理解できた。ピナールも苦笑しつつ、レオン殿下には幸せになっていただきたいものですよ、と溢していた。


だから彼に不満などあるはずもない。

これはアガロテッドに兵を連れて王城に行かせるための罠だ、と昨夜から急に忙しそうに動き出したミケーレのことも同時に思い出しながらマリオデッラは確信した。


「なに、我が愛しのローズの父のためなら、私は()()()()()()()やるよ、マリオデッラ殿(未来の義父)


頼まれずとも。

言質は取った。


にやりとマリオデッラは笑んだ。そしてさも感動したかのように瞳を潤ませて顔を上げた。


「なんとお優しい方だ!ローズを任せた私の判断は間違ってなかったな!ローズ、そうは思わないか?!」


「………」


機嫌よく高笑いするアガロテッドをねめつけるように眇めたローズマリアは父親の言葉をさらりと流す。

それでいい、とマリオデッラはほくそ笑み、返書を書くので失礼する、とサロンを辞した。


心の奥底から湧いてくる笑いを抑えるためか、マリオデッラの痩せた肩が上下に激しく震えていたことを知るものは誰もなかった。

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