7話 「黒い髪の怪物」
「リリアス様、ご夕飯の準備が整っております」
「いい、明日の朝に食べる」
リリアスが王城の三階にある自室へ戻ると、中で控えていた侍女が言った。
侍女の名を〈エルザ・ガーラント〉という。
ゼムナスに侍女がつけられたのと同時期にリリアスに与えられた、物を言う手足である。
「お休みになられますか」
「いや、剣の手入れをする。道具を取って来てくれ」
「かしこまりました」
エルザは人形のような少女だった。
年の頃はリリアスと変わらない。リリアスと同じ黒い髪に、紫の瞳。侍女服に身を包んでいなければどこぞの貴族のように見える整った容姿をしているが、リリアスは侍女服以外に身を包む彼女を見たことがない。
「こちらを」
「ああ」
エルザに渡された手入れ用の道具を受け取り、リリアスは部屋の片隅に立てかけておいた剣を手に取った。
「明日、白兵部隊に混じって戦場へ向かう」
「そうですか。お供いたします」
エルザは白黒の侍女服を微塵も揺らさずに淡々と言った。
その返事を聞いて、リリアスはようやくエルザの目を見る。
「本当にどこまでもついてくるんだな」
「それがわたくしに与えられた役割ですので」
「まるで枷だ」
エルザはリリアスにとって手足であると同時に枷でもあった。
いわゆる監視役である。
リリアスは自分がマナフ王国にとってどういう存在であるのかをこの時点で知っていた。
「お前はそれでいいのか」
「いいもなにも、それが存在意義ですので」
「まるで人形だな」
「あなたがそれをおっしゃいますか」
「はは、前言を撤回しよう。ちゃんと怒るお前は人間だ」
エルザは丹念に作り込まれた人形のように美しい容姿をしていたが、それでも完全に人形ではなかった。
こうして皮肉を言うと、たまに切れ長の目をつり上げてわずかな怒気を見せる。
「お前はどこで俺の本当の存在理由を知ったんだ」
「言えません」
リリアスは自分の本当の存在理由を知らされた日から、そのことについて一切口外したことがない。
そして自分にそのことを知らせた者からも、『今後一切、たとえ相手が私であろうともお前の本当の存在理由を語ってはならないし、それを知っているというそぶりすら見せてはならない』と強く口止めされている。
「言わないじゃなく言えないか」
だがエルザは知っていた。
そのことがずっとリリアスの心に引っ掛かりを作っている。
「まあいい。『言えない』のであれば、お前がそれを誰かに伝えることもしないだろう。――ところで、両親は元気か」
「あなたには関係ありません」
リリアスとエルザは、お世辞にも仲が良いとは言えなかった。
なぜかはわからないが、互いの言葉が妙に耳に響く。
ささいな皮肉が、無視できない。
――俺もおとなげないな。
もしかしたら同族嫌悪なのかもしれないと、最近では思うようになった。
「そう言うな。そのために王国に魂を売ったんだろう。没落しかけの貴族も大変だ」
「それ以上はリリアス様でも許しません」
「わかってるよ。でも、不毛な役回りだ。心配しなくても俺は自分の存在意義を民衆にバラしたりはしない」
「……なぜですか。あなたは自分を待つ悲惨な運命を知っている。わたくしなんかよりよっぽどひどい役回りを与えられている。なのに、なぜそんなにも平然としていられるのですか」
ふと、エルザの声に力が込められているのに気づいて、リリアスは少し驚いたように彼女を見た。
「わからないよ。でも、俺は案外この役回りを嫌だとは思ってないのかもしれない。それに、よくもわるくも生まれた意味が最初から与えられていたから、少し楽だ」
「生まれた意味、ですか」
「たまに考えるんだ。俺には親がいない。そして血が繋がる家族もいない」
リリアスは柄に滑り止めの布を巻きながら淡々と続ける。
「俺は、誰かに望まれて生まれたわけじゃない。だから、本来なら生きる意味を自分で見つけなきゃならなかった」
「多かれ少なかれ、誰もがそうだと思いますが」
「まあ、そうかもしれない。でも、俺はこの世界にとって異物だから」
血の繋がり。故郷。民族への帰属。
普通ではない生まれ方をしたリリアスには誰もが無条件に生まれ持つものがなかった。
「そんな俺が、この世界で生きる意味をみつけるのは、少し難しい」
ゼムナスも同じだったかもしれない。
しかしゼムナスは街に出るようになってすぐにそれを見つけた。
リリアスはあのときゼムナスの問いに答えられなかった。
――俺はまだ、この国を心から好きだとは思えないよ、ゼムナス。
「でも、そんな俺にあるとき生きる意味が与えられた」
それはゼムナスが生まれ、そしてゼムナスの力がマナフ王国の英雄にふさわしいものと認められたときに与えられたものである。
「俺は与えられた役割を全うする。それが、俺の生きる意味だ」
リリアスは手元の剣の刃をじっと見つめる。
その目には確固たる意志が宿っていた。
「――俺が、ゼムナスを英雄にする」
もしゼムナスという男が自分の嫌いな人間だったらこうは思わなかったかもしれない。
けれどリリアスは、ゼムナスに対してだけは親愛の情を抱いている。
「こんな役回りに、あなたは命を捧げられるのですか」
「ああ」
「不気味な人です、あなたは」
「俺もそう思うよ」
リリアスは自嘲するような笑みを浮かべる。
ふとエルザを見ると、その顔がほんの少し悲しげに見えた。
「でもエルザ、おまえもたいがいだからな」
「なんとでもおっしゃってください。まあ、目的のために自分を殺しているという点では、わたくしたちは似ているのかもしれませんね」
「そうだな」
「あなたなんて、いつもそうやっておとなぶっていますが、実際のところ中身はもっと子どもでしょう」
「おい、急になんだよ」
「いえ、いつも皮肉ばかり言われるので今日は少し言ってやろうかと。わたくしはあなたが市井の露店で見たこともない食べ物や道具に目を輝かせているのを何度も見ているので」
エルザが勝ち誇ったように鼻を高くする。
リリアスは所在なさげに視線を泳がせた。
「いずれにせよ、わたくしはどこまでもあなたについて行きます。それがわたくしの役回り」
「本当に、不毛な役回りだ」
リリアスはあきれたように笑って、最後に付け加えた。
「だがまあ、死ぬなよ。俺が死んでも、お前は死ぬな。こんなことで命を捨てる意味はない。――いざというときは俺を見捨てろ。そして生き残って、またどこかで生きていけ。俺が死んだとき、お前のこの不毛な役目は終わる」
「もしあなたが死んでも、わたくしはマナフ王国にとって〈英雄産業〉の実態を知る厄介な存在になります。だから、この国には戻れません」
「だろうな。だから『どこかで』と言った」
「どこかとは、どこですか」
「自分で考えろ、人形」
それ以上二人は言葉を交わさなかった。
リリアスはただ無心に剣を研ぎ、エルザはその様子を傍らでじっと見つめる。
冬の冷たい空気が、二人の間で静かに踊っていた。
◆◆◆
やがて二人は戦場へ出た。
それがマナフ王国の〈白き英雄〉を世に広める最初の舞台となる。
一方、その影でひとりの怪物が戦っていたのを、多くの者は知らない。
そしてその男が、のちに〈ベスジアの王〉と呼ばれることになるとは、誰も知らなかった。
◆◆◆
空から弓矢が降ってくる。
「リリアス様! 奥に弓兵の部隊が!」
「俺が行く! 戦線を維持しろ!」
マナフ王国から北へ向かって二つの国境を越えたあたり。
戦場として選ばれたのはひらけた荒野だった。
その荒野を、黒い髪の男が剣を片手に駆けている。
向かう先には完全武装した無数の兵士の群。
「くっ!」
「遅い」
数という点ではまるで勝負にならない差だった。
しかし、その敵の軍勢に真正面から特攻したリリアスは、先頭にいた近接歩兵を一撃で斬り伏せ、さらにぐるりと体を回転させて左右に迫ってきていた敵の首を一瞬で斬り飛ばし、軽々と敵の中へ斬り込んでいく。
単騎特攻など本来なら叱咤されてしかるべき無謀だが、ことリリアスというたぐいまれな近接戦闘者にあっては、おそるべきことに無謀で終わらなかった。
「バ、バケモノめっ!」
敵の中を剣一本で切り抜けるリリアスを見て、敵兵が憎々しげに言う。
やがてリリアスの体が敵の歩兵軍を抜けた。
「――」
瞬間、奥に展開していた敵の弓兵団からリリアス目がけて一斉に弓矢が放たれる。
「味方もろとも、か」
蒼空を駆ける羽根矢の群。
その速度も相まってとても常人でかわしきれるようなものではない。
「お互い、戦いに慣れていないと大変だな」
そう口にした直後、リリアスが腰のベルトに括り付けていた六つの魔石のうち一つがパリンと割れた。
そして、リリアスの背部にまばゆい後光を放つ円形の術式陣が現れる。
そこからはまるで、リリアスだけが別の時間軸で動いているようだった。
「っ」
半身、屈み、ときに剣で斬り落とし。
次々に襲い来る矢を身一つでかわしはじめる。
「ば、ばかな……」
すべての矢が落ち、リリアスは――無傷だった。
「ありえない……」
味方の矢によって地面に倒れた敵兵のひとりが、その様子を見て震えた声をあげる。
そのとき彼は、リリアスの腕に浮かぶうつくしい術式模様を見た。
「貴様……いったい何者だ……」
「――〈廃英雄〉」
その歩兵が絶命する間際、リリアスが小さな声で言った。
「いもしない〈ベスジアの王〉に殺されることが決まっている、哀れな英雄だよ」
リリアスが再び駆け出す。
歩兵という防御を失った敵の弓兵団に、リリアスという黒い髪の怪物を止める力はもうない。
そこからは一方的だった。
……誰が信じただろうか。
離れた場所でゼムナス・ファルムードという魔導の天才が多くの味方を引き連れて戦っている最中、そんなゼムナスたちを急襲しようと回り込んでいた敵の伏兵を――日輪を背負ったたったひとりの怪物が壊滅させてしまったことを。