5話 「青い瞳の勇者」
リリアスとゼムナスは、基本的にマナフ王城の敷地外に出ることがなかった。
学問を教える講師たちから書物を使って世界の常識などについては学んでいたが、すべて机上の知識でしかない。
「兄さん、昨日の歴史の講義内容は覚えてる? 〈第二時代〉の話」
「なんか勇者と魔王が出てきた」
「まあ、それで合ってはいるんだけど、ちょっとざっくりしすぎかなぁ……」
王城の蔵書室でいつものように魔術の教本を読んでいたリリアスにゼムナスが訊ねた。
「勇者が魔王を倒した。で、その勇者がなんか知らないけど発狂して時代を滅ぼした」
「要約するとそうなんだけどねぇ……」
ゼムナスがやれやれとため息をついて蔵書室の壁上に貼られたステンドグラスを見上げる。
「僕はとても興味深い話に思えたよ。――昔、とても強くて意地の悪い王様がいた。赤い瞳が特徴的だったから、〈赤い瞳の魔王〉と呼ばれた。それで、そんな魔王を倒すべく、ひとりの英雄が立ちあがった」
「〈青い瞳の勇者〉」
「そうそう。その青い瞳の勇者もまた、魔王と同じくとても強い力を持っていた。で、最終的に一対一で対峙した二人は、熾烈な戦いを繰り広げた最後、勇者の全霊を込めた一撃で魔王が死ぬという結果で終わった。――でも話はここで終わらない」
ゼムナスは思案気に目を細める。
「その後、なぜか勇者は、魔王との戦いの中で目覚めた力を使い、人々を、そして文明の大半を葬った」
「どうかしてる」
「僕、あの話を聞いたあといろいろ調べてみたんだけど、勇者が狂気におちいった理由については諸説あるみたいなんだ」
「ふーん」
リリアスは魔術の教本に夢中なようで、いっこうに顔をあげる様子はない。
「兄さんって興味ない話のとき露骨にそっけなくなるよね」
「そんなことはない。ちゃんと聞いてる」
それでも視線は教本に向かったままだ。
「ま、まあいいや。話の続きだけど、なんでも、勇者が倒した魔王は実は勇者の弟だったって話があるんだ」
「へえ」
「あるいは、魔王は悪の親玉のように扱われていたけど、その実なにも悪いことをしていなかった、とか」
「なにをもって悪とするかなんて人それぞれだろう。正義も同じだ」
「そうだね」
リリアスの即答にゼムナスは「兄さんは冷めてるなぁ」と苦笑する。
「でも僕は、根源的な悪もあると思う。善悪は基本的に法によって定められるけど、こう、一個の人間として絶対に行ってはならないことってあると思うんだ」
「そうかもな」
「で、もし〈赤い瞳の魔王〉が誰かに仕立て上げられた無実の悪者だったら、それはとても悲しいことだと思う」
「ああ。――でも、よくあることだ」
リリアスはそのことに嫌悪感こそ抱くものの、かといって人間に絶望したりはしない。
それは、人間がそういう生き物であると頭のどこかで達観していたからかもしれない。
「ねえ、もし僕が魔王になって、兄さんの前に現れたら、兄さんはどうする?」
ふと、ゼムナスがそんなことを訊いた。
そのときはじめて、リリアスが顔をあげる。
そうしてあげた顔に浮かぶ表情は、どこか怒っているようでもあった。
「そんなことはありえない。逆はあっても、お前が魔王になるなんてありえない。仮にそうなったとしたら、俺がお前より派手に悪さをして魔王になる」
かなり無茶な理屈だったが、リリアスの言いたいことはゼムナスに伝わっていたようだった。
「兄さんは優しいね」
「別に優しいんじゃない。そうなるものだと知っているだけだ。お前は、英雄になるんだ」
すでにこのとき二人は、自分たちがなにかと戦うために生まれたのだということを知っていた。
普通の子どもたちのように教育施設に通わされるわけでもない。
王城の中に閉じ込められ、戦いに必要な知識と技能だけを詰め込まれていく日々。
生まれたときに言われた〈英雄〉という言葉が脳裏をよぎる。
たぶん自分たちは――それになるために生み出された。
「おまえは、英雄になる」
そしてゼムナスが、その英雄という存在に憧れていることを、リリアスは知っていた。
「勇者じゃなくて?」
「アレはだめだ。最終的に時代を滅ぼした勇者は、魔王とそう変わりない」
リリアスは首を振って言った。
いくつかある勇者への見解の中で、一点だけ共通しているところがある。
それは、勇者が現実に耐えられず、自暴自棄になったというところ。
「お前はなんとなく、あの〈青い瞳の勇者〉に似ている」
「目の色だけじゃない?」
「『人の本質は目に現れる』ってどっかの本に書いてあった」
「こういうときだけ識者ぶるね」
にやにやとした笑みをゼムナスが浮かべた。
「おまえ、最近皮肉っぽくなってきたな。……とにかく、おまえはあの勇者のように世界共通の敵に立ち向かうようなことはするな。英雄になりたいならマナフで英雄になれ」
全世界にとっての英雄――〈勇者〉ではなく。
「はは、兄さんは心配性だなぁ」
ゼムナスはそんなリリアスの言葉を聞いて、あっけらかんと笑った。
それからふとまじめな顔に戻って、続ける。
「大丈夫だよ。僕は勇者になれるような器じゃない。世界にとっての英雄になるには、とてつもない才能と、そのうえに積み重ねた努力が必要だ」
「〈青い瞳の勇者〉は魔術を使えなかったっていうけどな」
「だからこそ努力したんじゃないかな。なんか、こういうところは兄さんとちょっと似てるよね。ちなみに〈青い瞳の勇者〉は黒髪で、僕が呼んだ本の中には『人の性質は髪の色で大別される』って書いてあったんだけど」
「おまえ、本当に皮肉っぽくなってきたな」
リリアスは魔術を使えない。
しかしリリアスはそれ以外の訓練で馬鹿げた量の鍛練を積んでいる。
最近ではほとんど一緒に訓練をすることはなく、リリアスからその内容を聞くこともあまりないが――ゼムナスはそのことを知っていた。
◆◆◆
――たぶん僕は、戦うということに関して兄さんに一生敵わないだろう。
一度だけ模擬戦と称してリリアスと手合わせをしたことがある。
そのときゼムナスは、リリアスの積み重ねている常軌を逸した研鑽と、その研鑽をあますことなくものにできる才覚、そして戦場においてもっとも大切な――燃え盛るような生への執着心をリリアスの中に見た。
――あれは、獣だ。
普段は冷静で、どこか達観していて、それでいてたまに子どもっぽいところもあるリリアスだが、あの場でだけは、まったく別の生き物のようだと思った。
「どうかしたか、ゼムナス」
「え?」
ふと、リリアスがいぶかしげな目でゼムナスを見ている。
「あ、いや、なんでもない」
まっすぐなリリアスの視線に、ふと心のうちをなでられた気がして、ゼムナスは少したじろいだ。
「……兄さんはさ、たぶんなにかを為す人だよね」
ゼムナスにとってリリアスは、心の拠り所だった。
そして同時に、ライバルでもあった。
「なんだそれ」
「なんとなくそう思うんだ」
だからたまに、リリアスの力強さを間近で感じると、自分が小さく見えてしまうことがある。
「……なに考えてるのかは知らないが、さっきの続きだ」
そんな内心を知ってか知らずか、リリアスがなかば強引に話を戻した。
「〈青い瞳の勇者〉は魔王との戦いのなかで魔術に似た力に目覚めたって言うだろ」
「うん、そこがいまだに解明されていないところだね。世界を半壊させてしまうような魔術を使えば、間違いなくそこに込められた魔素の残滓とかが地脈や空脈に刻まれるはずだけど、そういうのがまったく見つかっていない。でも魔術以外にそんな大規模な災厄をもたらす方法はないだろうし……」
「〈第一時代〉の爆弾? を使ったとか」
勇者と魔王の戦いによって滅びる前に存在していた文明は、いまよりずっと高度だったという。
「……どうだろう。第一時代の情報はもうほとんど残ってないから」
ゼムナスが「うーん」と思案気にうなる。
「ともかく、お前は天才だ。それに努力もしてる。だからもしかしたら〈青い瞳の勇者〉をすら越えられるかもしれない」
リリアスは左手に持っていた教本を指差して言う。
その顔は少しゼムナスをうらやましがっているようでもあった。
「兄さんは僕を買いかぶりすぎだよ。身内びいきってやつ?」
「事実を言ってるだけだ。とにかくお前は、勇者にはなろうとするな」
リリアスはまたそう言った。
「わかった、わかったって」
「……わかったならいい。じゃあおれは魔術の勉強をするから」
リリアスは教本に視線をおとす。
「兄さんから勉強って単語が出るとなんかおもしろいよね。教養の講義はいつも睡魔と戦ってるのに」
「……」
「ちなみに今度はどういう術式を勉強してるの?」
「……翼」
「翼?」
「せっかくこの世界には魔術があるんだから、一度くらい空を飛んでみたいだろう」
「いやまあ、昔から空を飛ぶのは人類の憧れだったっていうけど……」
「だから、翼を生やす術式がないか調べてる」
「ぷっ」
ゼムナスの噴き出すような声を聞いて、リリアスは一度落とした視線をじとりとさせて再びあげる。
「お前、皮肉っぽくなってきただけじゃなく、意地まで悪くなってきたな」
「あはは、兄さんほどじゃないさ。それにしても兄さん、普段はそんななのにやっぱり発想が子どもっぽいよねぇ」
「うるさい」
そうして二人の会話はいったん終わりになった。