1.前世の私
「先輩!先輩!聞いてますか!?」
彼女の声に私ははっとする。慌てて視線を声の主に向ければ、私の後輩である彼女はふてくされたように頬を膨らませ、私を見ていた。
「もう全然聞いてないじゃないですか!」
彼女はそう言って、私を責める。それに「ごめん、ごめん」と言いながら、私は再びパソコンへと目を走らせる。
後輩の愚痴に付き合うことも大事だが、この仕事を少しでも早く終わらせ、期日に間に合わせる様にすることも大事だ。
私は素早く、手元の資料に目を走らせ、誤りがないか確認し、再びパソコンの画面を睨んだ。
「先輩って、本当に真面目ですよね」
私のそんな態度を見て彼女は呆れた様な表情をする。彼女は優秀であるが、私ほど仕事が好きではないらしい。能力があるにも関わらず、いつもほどよく手をぬくくせがあった。
「仕事だって本気でやれば楽しいわよ。貴方もたまには真面目にやってみたら?」
「結構です。私、他にやりたいこといっぱいあるんで」
そう言って、彼女はため息をつき、携帯を取り出す。
「こらこら、上司である私の前でそんなもの見ないの」
「大丈夫ですって、ここには私と先輩しかいないんですから」
たしかに彼女の言うとおりだ。今は私と彼女の2人しかいない。
既に定時を過ぎており、ほとんどの社員は退社していた。最初は少しだけ残るつもりだったのに、つい仕事が興にのってしまい、今に至る。既に定時は2時間ほど過ぎていた。
彼女は最近できた彼氏と待ち合わせをしているらしく、約束の時間になるまで、私にその彼氏の愚痴を一方的に聞かせていたのである。
「先輩って本当に仕事にしか興味ないんですか?」
「何言ってるの。私はこう見えてもアウトドア派なのよ?外で遊ぶことは大好きだし、一通りのスポーツは何でもできるのよ?」
「そうじゃなくて。そう、例えば恋愛とか!恋人を作ろうとか思わないんですか?」
恋人。その一言にキーを打つ指が止まった。
彼女の視線は携帯に向けられたままで、私の顔色が変わった事には気付いていない。
「その年で役職について、仕事もばりばりできて、先輩のこと本当に尊敬しているんですけど、そのへんは心配なんですよね」
心配だって。余計なお世話だ。
そう言い返したかったが、いくらなんでも大人気ない。私は黙って彼女の言葉を聞いていた。
「恋愛したいとか思わないんですか?仕事なんかよりずっと楽しいですよ?」
無意識に顔がこわばる。本当に彼女が携帯の画面に夢中で良かった。今、確実に顔がひどいことになっている。
「あ、彼氏から連絡きました!すみません、先輩お先です!」
そう言って、彼女は携帯から顔をあげるとすぐさま自分の荷物をまとめて立ち上がり、部屋から出て行く。こちらなど一度も見ることなく、いちもくさんに彼氏のもとへと駆けていく彼女の背を私は無言で見送る。
所詮仲がよい先輩、後輩でもこの程度だ。私は大きなため息をつくと保存のボタンを押す。もう仕事をする気にはなれなかった。私も帰ろう。データが保存されたことを確認するとパソコンの電源をきり、荷物をまとめ、私もまた会社を後にした。
「恋愛したいとか思わないんですか?」
会社からの帰り道。彼女に言われた一言が頭によぎる。
恋愛したくないかって?そんなの。そんなの。したいに決まってるでしょう!?
私は苛立ちながら、周りに視線を向ける。イルミネーションで彩られた道を仲良さげに歩くカップル達。歩き辛いくらいに身体を密着させて、手なんかつないじゃって。本当に何を考えてるんでしょうね!?仲良さげなカップルを見て、私は思わず、ぎりりと奥歯をかみしめる。
私は今年で32歳になった。社会人になってからは仕事に追われ、恋愛なんてものに興味をさく時間もなく、仕事にあけくれた。
やっと仕事がそれなりにできるようになってくると今度は仕事が楽しくなり、仕事にばかみたいにのめりこんだ。おかげで私はこの年で役職につくことができ、お金に困ることはない。そう、ある意味では人生の成功者である。ある意味では。
私は深々とため息をつき、ちらりとカップル達を見る。楽しげにする彼らを見ていると胸の奥がちくりと痛んだ。
ある意味では成功者である私。しかしその代償というわけではないが、私は今まで恋愛というものをしたことがない。
学生時代、負けず嫌いな性格がたたり、勉強のできばかりを気にし、恋愛など目もくれなかった。そして社会人になり、今度は仕事に夢中になり、気付いたらこの年だった。
結果、私は32年間、異性と恋愛関係になったことが一度もない。それどころか仲良く話せるような異性もいない。そう、まさに年齢=恋人いない歴である。
「別にいいのよ。気にしてないから」
自嘲気味にそう呟く。
そう、それがどうしたっていうの?別に誰に責められる訳でも、迷惑をかける訳でもない。恋愛なんてしなくたって生きていける。仕事があれば別にいい。そう別に。別に……。
楽しげな家族連れが横を通る。まだ若い母親と父親、そしてその娘。仲良く手をつないで歩く、その様子に私は思わず足を止め、その姿を目で追った。
「別に後悔している訳じゃないんだけどね」
遠ざかる家族を見ながら、私は思わず、ぎゅうと唇をかみしめる。
別に後悔はしていない。勉強をたくさんしたからこそいい仕事につけ、たくさん仕事をしたからこそ出世できた。恋愛以外のものに目を向けてきたからこそ、今の私がいる。それを後悔している訳じゃない。でも、でも時折、ほんの少しだけ思うのだ。もしも別の道を選んでいたらと。
仲の良い同級生は次々と皆結婚し、子供ができたと報告してくる。そんな中、私は未だに独り身だ。
家に帰っても1人。どこかに出かけるにしても1人。お金を使うのも1人分。これから先もそうして1人で生きていく。さすがにこのままで本当にいいのかと自問自答していた。
とは言え、今さら恋愛なんてと思う自分もいる。32年間したことがなかったのだ。今からいきなりしようと思っても何をすればいいのかわからない。
「恋愛したいと思わないんですか?」
再び脳裏によぎる後輩の一言。
したいよ。そりゃあ本当はしたいと思ってるよ。でも、どうやったらいいかわからないし、どうすればいいかもわからない。今すべきなのかも、まだ待つべきなのかもわからない。変わらないといけないと思ってる反面、このままでいたいとも思ってる。
全く矛盾する感情。本当に私はどうしようもない。
「そうね。もしも来世があるなら、そしたら今度は思いっきり恋愛がしてみたいな」
現世は恋愛以外に生きたから。もしも来世があるなら今度は恋愛に生きてみたい。
ラブロマンスの様に甘くて、苦くて、辛くて、でも楽しい、そんな恋愛をしてみたい。たとえ失敗したとしても今度こそ思いっきり恋愛をしてみたい。
「なんてね。あーもう、やめやめ。早く帰ってご飯食べなきゃ」
本気半分、冗談半分でそんなばかみたいなことを考える。
本当になにやってるんだろう。そう思いながら一歩、足を踏み出したその瞬間だった。
突然、クラクションの音がすぐ近くで聞こえた。あっと思ってそちらを見れば、こちらを照らすライトの光が目にうつる。そして次の瞬間、すさまじい衝撃とともに私の身体が吹っ飛んだ。
息がつまる。身体がこなごなになったんじゃないかと思うほどの痛みが全身を襲う。そして世界が真っ暗になった。
薄れゆく意識のなか、最後のばかみたいな考えが私の脳裏によぎる。
来世があるなら今度こそ思いっきり恋愛をしてみたい。
今度こそ、恋愛に生きたい。