第一話 異変
――気がつくと、俺は白い景色を見ていた。
いや、正確に言うと白い天井を眺めていた。俺はベッドに寝かされているようだ……。あの後、近くの病院にでも運ばれたのだろう。それにベッドが一つしかないこと、俺一人しかいないことから個室であることが分かる。
ムクリ、と身をよじらせながら起きて状況を把握する。
「よし、まずは人を呼ばなくては……。」
頭だけでは思考がまとまらず、つい口に出てしまう。
しかし、静かすぎる。病院のような作りなので静かなのは当たり前だが、それにしても異様というか、気味の悪いモノを感じる。
こういう時は「実際に目で見て調べるに限る。」そう思い、ベッドから降りようと地面に右足を着けた瞬間。
バタン!
体を前に倒し転んでしまった。幸い、誰にも見られていないからいいものの、誰かに見られていたら皇國憲兵として恥である。
ここにきて右足だけがうまく動かせなくなっていることに気づいた。そこで撃たれた直後にひどく痙攣していたのを思い出した。間違いなくあれが原因だろう。しばらくすれば治るであろうことは医学に精通していない俺でも分かる。
しかしこの静けさ、すごく気になる。確かめたい気持ちが次第に強くなっていく。不気味さよりも好奇心の方が勝ってきている。
だが足がこれではどうにもならない。諦めきれずに周囲をグルッと見回すがこの部屋にあるのは、今、俺がもたれかっているベッドとポツンと壁に配置されている窓だけだ。
「何て殺風景な部屋だ。」
また独り言を言ってしまった。しかし思わざるにはいられない。どうしたものか……。
――ゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾ。
急に後ろのベッドから生ぬるい感触が体中を襲った。あまりの気持ち悪さに体が反射的にベッドの方を向いていた。
するとベッドの上に、さっきまでは存在しかなかったはずの松葉杖が置いてある。さっき周囲を見渡し、ベッドと窓以外には何もなかったはずだ。なのにもかかわらず、シーツの上に元から置いてありましたよ。と言わんばかりである。
「凄く気味が悪い。」と常人なら思うだろう。しかし戸城が抱いているこの感情は恐怖や不気味さとは違う。
「安心感」であった。狂ってると思うだろうが何故か、昔からの知り合いにでも会ったかのように「安心」するのだ。
それに今、自分がしたい事はこの病室と思われる場所で起こっている異常事態を究明することである。
異様な静けさ
に対する知的好奇心を前にしては迷う事など何もなかった。
米久は松葉杖を手に取り、脇にしっかりとはさみ、病室のドアを開け前へと進みだした。
「無秩序」、それがこの場の状況を表す時にもっとも適した表現だろう。病院の廊下といえば清潔感漂うものだが、これは何だ。床には乱雑に白服や書類が散らばり、乱雑にベッドや机が配置され、妙にゴミやチリでいっぱいである。それだけにはとどまらず壁にはシミができ、さらに不気味さを掻き立ててくる。
「何が起きたんだ?」
なぜこうなったかが分からずに頭が混乱する。頭を抱え、ふと目線が廊下の壁の方を向く。
白い線。そこには何かが引っ掻いた様な白く細い痕が一本残されていた。これはかなり鋭利な物、例えば刀やナタでないとこんな跡はつかない。それにしっかりと真っ白な傷痕がついていることから男性であることが伺える。女性ではよほど筋肉質でもない限りこんなに痕はつかないだろう。
米久の感情は不気味さを通り越して恐怖に変わろうとしていた。怪我をした状態で刃物を持った男を相手にすることになるのはマズイ。ここで探索をするのをやめるべきかと頭がほんの一瞬思った瞬間……。
ザッ、ザッ、ザッ―。
何かがこっちに向かってくる音がした。音からして軍靴だろう。
八島皇國では女性兵士はいない。つまり、コイツは男性で軍人ということになる。先程の壁の白い傷痕の犯人はコイツでほぼ間違いない。そうなるとコイツは最低でも刃物……おそらくでも軍刀で武装していることになる。
「この痕を残した犯人か……。だとしたら只者ではないだろうな……。さてどうするべきか。」
米久はつぶやく。
―ザッ、ザッ、ザッ、ザン……。
今なら逃げられる。何分、松葉杖を使用はしている身なので速くはできないが、静かに少しでも距離を離さねば。
そう思った矢先――。
……、ザッ、ザッザッザッザッザッザッ。
まずい、ますます、まずい。足音の間隔が短くなり、それがこちらに近づいている。俺の耳がそいつが走り始めたことを告げた。
米久はうつむき、十秒ほど無言になる。
「…………来いよ。」
沈黙を破る。そして次の声が院内に響く。
「来るなら来い。俺は逃げも隠れもしない。いっそ刺し違えてやる!」
俺は臨戦態勢をとり、松葉杖を武器にしていつでも迎撃できるようにした。
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ――。
足音が次第に大きくなる。どうやら向こうは俺を認識しているらしい。足音が大きくなっているのがその証拠だ。
ヤツの姿が遠くから見えてきた。黒い軍服のようなものを見に包んでいた。腰には軍刀を下げていて、走っているため柄が上下に揺れている。次第に見える姿がハッキリしてくる。
ヤツの姿が少しずつ見えてきているのに比例するかのように疲れてきた。やがて立ちくらみをし、体が前に倒れそうになる。ヤツが二十メートルほどまで近づいてきた。
そして姿が完全に見えた――。
そこからはあまり覚えていない。
ただ一つだけ、これだけは忘れられない。
俺は今までにないくらいの「恐怖」を味わった。