もう1つの40年
「―さん、長年の勤務お疲れ様でした!」
「ありがとう、皆。本当にありがとう」
部署の皆が私の退職を祝福してくれる。
今日の午後5時ちょうど、40年に渡る私の会社員としての人生はこうして幕を閉じた。
会社の皆から送別を受けた私は、今から家路に帰ろうとする。だが、妻を早くに亡くし、子供達も独立した今では、安心出来る我が家に帰っても寂しさを感じるだけだ。
どうせなら近くの居酒屋で一杯引っ掛けるのも悪くないかもしれない。そう思いながら足取りは駅から離れ、気付くと街角の商店街に向かっていた。夕方の商店街では買い物客で混み合っているが、私はそんな人達を気にも留めず人通りの少ない細い路地に入っていく。
細い路地を暫く歩くと、見えてくるのは路地の中程にある寂れた建物。看板には薄く消えかかっている文字で「喫茶 華憐」と書かれている。その看板を見ながら、私はいつもと同じ調子で喫茶店の扉を開いた。
「チリリン」
扉に備え付けられていた来客を知らせる鈴が鳴る。
扉をくぐり喫茶店の中に入ると、私は迷うことなく、いつものカウンター席に座っていく。
「いらっしゃいませ」
「やあマスター、とりあえずコーヒーを」
「かしこまりました」
ここは私が新入社員だった頃から40年も通いつめている行きつけの喫茶店だ。
昔から喫茶店の主であるマスターが1人で切り盛りする、今では数少ない喫煙が出来る喫茶店として私は重宝している。
そんな喫茶店のマスターは、年は70前後だろうか。その容姿は定年を迎えた私が見ても羨ましいほど、背筋もしっかりしており、年齢よりも若々しく見える。だが、彼の顔や手には、人生で様々な経験を過ごしてきたであろう皺が多い。......まぁ、皺の多さといえば、私も人のことが言えないだろう。
「お待たせ致しました。ブレンドコーヒーでございます」
「ありがとう」
――この店には何回、足を運んだのだろうか?
そう思いながら私はタバコに火を点けると、改めて店内を見渡す。今となっては見かけるのも少ない昭和ながらの喫茶店。しかし、昔と比べて客も居らず閑散としており、有線で流れる音楽だけが店内に響き渡る。それがなんとも言えない寂しさをも感じさせるが、当の喫茶店の主であるマスターは気にも留めずに新聞を読んでいる。
――昔はこの店も流行っていたのだが......。
40年程前は、私と同じくタバコを吸うサラリーマンの憩いの地として、この喫茶店は賑わっていた。
それに夕方の時間になると常連の老人達も良く出入りしていたのを思い出す。だが、時の流れとはいつも残酷な物だ。時が経つにつれ、常連だった老人の方々も1人また1人と来なくなってしまった。それにここ五年位前だろうか、商店街の入口や駅前に有名なコーヒーチェーン店が出来たのは。ああいった店が出来てからは、ここまでに来る客は殆ど居ないのだろう。もし居たとしても、それは路地に偶然立ち入った客か、それとも、まだ居る私みたいな常連客位だろうか。
マスターも最近では体調が思わしくない時があるのか、店自体も不定期に休むことが多くなった。
「マスター、今日は店が開いてて良かったよ」
「おかげさまで、今日は体調が良かったものでして」
私への返事に、そう短く答えたマスターは、顔を下に向けて洗い物へと集中する。
喫茶店のマスターは、お世辞にも愛想が良い方とは言えない。
だが、それも仕方ない。
私とマスターは、あくまで客と店員の関係だ。もう少し親しければ親身な話も出来たのだろうが、通いだしてからの40年の間にその様な事は殆どなかった。私は店に来てタバコを蒸し、コーヒーを飲む。ただ、それだけ。
しかし、今日は違う。今まで通ってきた40年の最後の日になるのだ。せめて何かは言わないと私自身の気が済まない。そう思いながら私は食器を拭いているマスターに声を掛けてみた。
「マスター……」
「何でしょうか?」
相変わらずの愛想が良いとは言えない。しかし、その態度は邪険にしたものではなく、店員として客の注文を受けようとしている店員らしい実直な態度だと私は感じた。
もし、もしも今からの事を聞き流されても仕方ないと私は心に決めている。それにもう話し掛けたのだから、チャンスはここしかないと思い私は話しを続けてみた。
「突然にこう言うのも変かもしれないが……。実は、私は今日が定年でね。もう会社帰りに、この店に通うのも最後になるんだ……。だからせめて、長年ここに通わせてもらったマスターには挨拶だけはしたいと思ってね」
「そうでしたか……」
マスターは手を休める事なく私の話を聞いてくれていた。定年を迎えた男の挨拶はどうでも良いのかもしれない。ひょっとしたら、この男はいきなり何を言い出したのかと哀れに思われたのかもしれない。だが、それでも良い。言いたかった事を言えて私は満足だ。例え、それが自己満足ではあるが、私のこの喫茶店での40年のけじめとして、どうしても伝えたかったのだから。
私は、マスターの反応を伺うこともせずに、そっと目を伏せた。
「実は、私もなんです」
「え……?」
突然のマスターからの言葉に私は顔を上げる。そこで見たのは、コップを拭く手を休めながら少し目を伏せたマスターの姿だった。
「実は今日で喫茶店、この店を閉めようと思いまして。私も、もう今年で70ですので、閉めるのに頃合かと思いましてね」
「そんなっ――。でも、そんな貼り紙なんて一切なかったのに……」
突然の報せに私は動揺を隠せずにいると、マスターは私の態度を見て少し寂しそうに笑った。
「知らせようが知らせまいが、あまり変わりはありませんよ」
「え?」
「ここで店を開いてから40年、色んなお客様が居ましたねー。本当に楽しかった。ですが、昔からのお客様方も、もう殆ど居なくなってしまいました……。それに、足繁く通って下さるのも、お客様、あなたくらいです。そのあなたさえ来られなくなるのなら、もう店を閉めても大丈夫でしょうね」
そう言ってマスターは皺の多い顔で笑顔を作りながら、その後どう話して良いのか悩んでいる様子だったが、また私に笑顔を作って話し掛けてきた。
「息子夫婦が熊本に居ましてね。私も、そっちに引っ越そうと思いまして、幸い息子夫婦も歓迎してくれていますので、まあ向こうで新しい楽しみでも見付けていこうと思います」
私は、この話を聞いて目を丸くしてしまった。まず、結婚をして息子が居たというのは驚いた。40年も喫茶店に通いつめていたが、やはり私はマスターのことは何一つ知らなかったらしい。いや......名前さえも聞いた事が無かったのだから尚更だろう......。だが、今それをようやく知れた事が少しだけ嬉しかった。それに話をするマスターの顔には安堵の笑顔が見て取れる様に、ようやくこの喫茶店の主にも1つの区切りが出来たのではないかと思えてしまう。
「そうですか、それは良かったですね。向こうでもお元気で」
「ありがとうございます」
短い会話の後の沈黙。
耳に入るは古き良き音楽。
気まずいとも言い難い静粛の時。
それを破ろうと私は口を開きかけたが、先に言葉を話したのはマスターの方であった。
「お客様に失礼な質問かもしれませんが、会社を退職された後は、今後はどうされるのですか?」
「私か......。うーん、そうだな......。実を言うと、まだ何も考えてはいないんだ。会社と家族の為に今まで働いてきてたからね。ただ、今後は何か自分に出来る新しい事を見付けていきたいとは思うんだ」
「左様でございますか、それは良い事です」
私の話を聞いたマスターは笑顔で相槌を打ってくれる。
それを見た私もつい笑顔で手元のコーヒーで喉を潤そうとした時、またマスターから話し掛けられた。
「差し出がましいようですが、どうでしょうお客様? いつものカツサンドは如何ですか?」
「ああ、覚えててくれていましたか」
マスターからの提案に私はほんの少し苦笑いを浮かべる。
私は普段この店に通う時にはコーヒー以外はあまり注文はしなかった。
ただ、私にとって何かしら特別な日があると、必ずコーヒーと共に注文する品がある。
それはマスターの作る"カツサンド"。
皿に置かれる三つのサンドイッチ。
その見た目は茶色と白色の合わさった極上のハーモニー。
パンに挟んだカツからは食欲を唆る透明な肉汁がキラキラと輝きながら滴っている。
パンのしっとりした食感もさることながら、中身のカツの衣はサクッとした独特の食感を醸し出すのに、内側の肉は柔らかくとろける様に食する者の口の中へと溶け込んでくる。
そんなカツサンドを一度でも食べてしまえば、誰もがその味に病み付きになるだろう。
私にとっても、この喫茶店のカツサンドは特別な品なのだ。
新入社員として初めての給料日、今は亡き妻に告白が成功した日、そんな愛しの彼女と結納を果たした日、子供達が産まれた翌日の出勤日......、私の人生において沢山の特別な日に注文したカツサンドが今は懐かしい......。
そして今日もまた私にとっては特別な日でもある。
そう思った私は笑って最後の注文をすることにした。
「じゃあ、マスター、カツサンドを1つ」
「かしこまりました」
片やカツサンドの注文を頼む常連の客。
片やカツサンドの注文を受ける喫茶店の主。
それは客と店主の他愛ない注文の風景。
だが、そんなやり取りをする私達の表情は、不思議と笑顔であった。
もうどれくらいの時間を喫茶店で過ごしたのだろう。
窓の外はすっかりと暗くなっている。
灰皿に置いていたタバコの火も消え去り、カツサンドも食べ終えた私は、カップに残るコーヒーを飲み干して席を立つ。
「マスター、お会計を。それとカツサンドとコーヒーもとても美味しかったよ、マスター。今日は本当に良い時間をありがとう」
「いえ、こちらこそ最後の日にありがとうございました。それでは、コーヒー、一杯で300円です」
「いや、コーヒーは二杯も飲んだのだが、それにカツサンドの代金は……」
「良いのですよ、長年のお礼です」
それを聞いた私は、ただ頭を下げるしかなかった。それ以降はもう言葉は発しない、お互いに充分話した気がするからだ。お互いに人生の終わりの1つを迎えるが、それでもまた新たな道へと進んでいく。友人とは言えない私達の関係はこれで終わるだろう。一抹の寂しさを感じるが、お互いに40年分の話をしたように心は晴れやかだ。
――さあ、家に帰ろう
会計を済ませて扉の方へと歩いていく。ここを出ると、私のもう1つの40年も終りを迎えるだろう。だが、いつまでも留まる訳にはいかない。そう思いながら私はゆっくりと扉に手を掛ける。
「チリリン」
扉を開くと、来た時と同じ様に鈴が鳴る、この音を聞くのもこれで最後だ。私は喫茶店への名残惜しさを胸に仕舞い込み、外へと歩いていく。
「永い間、ご愛顧頂きまして誠にありがとうございました」
扉を閉める時、喫茶店のマスターは感謝の言葉と共に深々とお辞儀をしているのが見えた。
―― 私こそ、今までありがとう。
言葉にはせず、心の中でもう一度、マスターと喫茶店に挨拶をする。
喫茶店を出ると同時に、私の肌に冷たい感触を感じた。
「雨か......」
いつからだろうか、ポツポツと雨が降り始めている。
手をかざせば幾つもの冷たい雨が降り注ぐ。
それは傘を持たない私のほんの気まぐれな仕草であった。
店先の横にある白く照らされていた看板からは光が消え、喫茶店の閉店を周囲へと知らしめる。
それ見た私は静かに笑うと、雨を気にすることもせずに歩みを進めていく。
明日からは忙しくなりそうだ。
これからの新しい自分の人生に思いを馳せながら、私は喫茶店を振り返ることなく家路へと帰るのであった。
読んで頂きましてありがとうございました。