表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

第二章

 一週間後、高木と篠崎は事情聴取のため魔法教会に出頭を命じられた。杉本と北野については、病院に入院しており本部に出向ける状態ではないと判断されたらしい。「征」の遺体の処理や諸々の手続きに追われ、事件の全貌を明らかにする作業は遅れ気味になっていた。

 七賢人の待つ会議室に恐る恐る高木が足を踏み入れると、室内にいた者たちの視線が一斉に集中した。一礼し、入り口近くにいた篠崎の横に並んで立つ。どうやら自分たちの席は用意されていないようだった。

「揃ったことだし、早速質問をさせてもらうわ」

 眼鏡をかけた老婦人が挙手し、高木たちの方を向く。

「杉本から報告は受けましたが、高木賢司君が冥界術を会得したというのは確かなのですか?」

「はい」

 緊張しながらも、高木ははっきりと答えた。

「専用の儀式手順を踏んでいないというのは本当ですか?」

「そうです。えっと、自分でも上手く説明できないんですけど…」

「ええい、まどろっこしい」

 老婦人の隣の白髪の男性が、苛立たしげに円卓を叩く。

「要は、この少年は儀式を使わずに自力で冥界術の力に覚醒したんだろ。違うか」

「…は、はい、そうです」

 これにはさすがに、高木も気圧された。篠崎は心配そうに成り行きを見守っている。

「あなたの活躍で、杉本とその弟子らの命は助かりました。しかし―」

 老婦人は眼鏡を指でくいと押し上げ、続けた。

「冥界術は術者に大きな代償を強いる、禁断の術式。たとえ過激派への対抗手段としてであっても、決してその使用は褒められたものではありません」

「…分かっています」

 高木は表情を硬くし、俯いた。許されないことをしたのは自分でも十分理解している。どんな罰でも受けるつもりだった。

「意図せずにやったことだし、結果的に過激派の幹部を一人倒すこともできたんだ、特に処分を科すわけではない。しばらくの間、監視はつけさせてもらうがな」

 先ほどの老人が付け足すように言う。冥界術を使えるようになったことが、過激派との繋がりによるものだった可能性を考慮しているのだろう。穏健派のトップとして、慎重な行動を取らざるを得ないのかもしれない、と高木は推測する。

「はい」

 会釈してそう答え、間もなく事情聴取は終了した。


 会議室を出ると、廊下ですれ違う魔術師たちが皆意味深な視線を投げかけてくるのを感じた。気づかぬふりをして階段を一階まで下り、協会を後にする。外に出ると、夕日が目に眩しかった。

 この後は、師匠と北野が入院している病院へ向かう予定だった。協会の近辺にある病院で、徒歩十数分で到着する。

「…先輩」

 道中、それまで黙っていた篠崎が口を開いた。

「あまり、気にしない方がいいと思います」

「…ああ、ありがとう」

 無論、魔術師たちから投げかけられた不躾な視線のことを言っているのだろう。

無理もない。穏健派でありながら冥界術を会得してしまった自分は、タブーを犯した異端中の異端なのだから。昨日まではにこやかに迎えてくれていた協会の受付の女性も、今日ばかりは冷たく無表情に高木を見るのみだった。

 杉本と北野は同じ病室だった。ドアを開け中に入ると、だいぶ回復したらしい北野が軽く手を振ってきた。最近はよく見舞いに立ち寄るのだが、以前より態度が軟化したように感じる。自分の強さのみを頼るのでなく、仲間を信頼する大切さを学んだ結果だった。

 一方杉本の表情は曇っていて、険しい顔で二人を見た。

「お見舞いに来ました。あ、お花、換えておきますね」

 篠崎がベッドの脇の花瓶へ歩み寄り、手に持った花を生ける。父親の見舞いを長い間続けているというだけあって、慣れた手つきだった。

「すまないな」

 杉本はちらりと彼女を見たが、他に話したいことがある様子だった。おもむろに視線を戻す。

「…入院してからもう一週間になるが、無為に過ごしていたわけではない。高木、俺なりに色々と調べてみたんだ。お前が冥界術を使えるようになったのは、魔術師だった母親―高木穂香に遺伝的な要因があったんじゃないかと思ってな」

 久方ぶりに耳にするその名前に、高木は何故か身震いした。篠崎は花の交換を終え、北野と共に神妙な表情で師の話に耳を傾けている。

「彼女の元同僚の魔術師に聞き込みをした。…お前の母は、元は過激派に属していた。水の魔術と同等に、闇の魔術を使いこなすこともできたらしい。高木に冥界術に対する高い適性が備わっていたのは、おそらくそのせいだ」

 いきなり頬を殴られたような、凄まじい衝撃が走るのを感じた。

「そんな…母さんが過激派の魔術師だったなんて」

「落ち着いて、最後まで聞け」

 杉本は取り乱した高木をなだめるため、一旦話を中断した。

「…だが、一般男性と結婚し家庭を築く中で、彼女は気づいたんだ。魔法を使えない人々を劣等と見なす過激派の思想は間違っている。魔法の才能の有無に関係なく、人間には人間らしく生きる権利があるのだと。そして、過激派を抜け穏健派に入るという決断をした。十代の頃に過激派の掲げる理想に魅入られ、それ以来指導者の優秀な部下として働いてきた彼女にとって、それは過去との決別に等しかったろう」

 高木が落ち着きを取り戻したのを見て安堵し、続ける。

「穏健派に移った彼女はしかし過激派の目の敵にされ、同朋殺しの裏切り者として殺害された…お前を産んだ数年後に」

 母との思い出はどれもぼんやりともやがかかったようになっていて、はっきりと思い出せない。事実をただ事実として受け止めることはできたが、それをどう自分の中で咀嚼すればいいのか高木には分からなかった。

(…母さんは、どうやって切り抜けたんだろう)

真っ先に頭に浮かんだ疑問はこれだった。穏健派に移るのは簡単じゃなかったはずだし、最初は疑い深く見られることも多かったろう。今の自分と同じ、いや遥かに厳しい状況の中、どう振る舞ったというのか。記憶の中の母はとても曖昧な存在だったけれど、今高木は彼女の助けが欲しいと思っていた。

「今回の件にそういった背景があったことは、俺も理解している。が、俺はお前を認めない」

 きっぱりと言い切った杉本の声に、高木ははっとして師を見た。

「俺たちを助けてくれたことには感謝している。だが、目的のためならどんな手段を使ってもいいというのは間違いだ。高木、お前は禁忌を破った。許される罪ではない」

「…はい」

 厳しい言葉をかけられるかもしれないと、覚悟はしていた。それでも、自分が尊敬し、信頼している師匠にまで拒絶されるのは辛かった。杉本までもが協会で自分のことをじろじろと舐めまわすように見ていた連中と同じ側に行ってしまったようで、心が息苦しかった。

(もう、俺には味方なんていないのかもしれないな)

 自嘲的な思いが脳裏をよぎる。穏健派の同志に疎まれ、魔術の師に遠ざけられ、もう何を信じ頼っていいのか分からなかった。全てに見放されたように感じ、高木は絶望していた。

「…しばらく、見舞いには来ないでくれ」

 杉本は、もはや高木の目を見ることをせずに言い捨てた。篠崎にではなく、高木に言っていることは明白だった。

「……失礼します」

「先輩!」

 逃げるように病室を出た高木の背中を、篠崎は慌てて追いかけた。あとには、重い沈黙だけが残った。


「先輩!待って下さい…」

「―ついて来ないでくれ」

 病院から駅へ早足で歩きつつ、高木が振り返らずに言う。気をつけていないと潤んだ瞳から涙が零れ落ちてしまいそうで、必死に堪えていた。

「俺は師匠や皆を助けたい一心でやったんだ。リスクがあることは百も承知だった。やってはならないことなのも全部分かってた。でも、俺にはあの時…そうするしかなかったんだよ!」

 立ち止まり、握った手を震わせ、涙声で内心を暴露する。いつしか、小雨が降りだしていた。

篠崎も歩みを止め、高木の背を見上げる。茶色がかった髪の毛先に、丸い雨の滴がついていた。頬を流れる一筋の透明な液体は、雨水か、それとも涙か。

「俺は…どうすれば…」

「…先輩」

 篠崎は高木の前に回り込み、はにかんだように微笑んだ。無理をしているな、とすぐに分かった。

「私には、先輩のしたことが間違いだったとは思えません」

「篠崎…」

 嗚咽を漏らしそうになりながら、篠崎は言葉を紡ぎ続けた。

「だからっ、自分に自信を持って下さい…師匠や他の人が先輩を忌み嫌っても、私は先輩を信じています…から…っ」

「…篠崎まで泣くことないだろ」

 高木は弱々しい笑みを浮かべ、そっと彼女の肩に手を置いた。すみません、と絞り出すように言い、篠崎が視線を落とす。冷たい雨が、二人の衣服を濡らしていた。空は次第に暗くなっていて、辺りは既に夜のようだった。

 抱きしめてしまいたい、という強い衝動が高木を不意に襲った。それは、非常に抗いがたい類の衝動だった。

 篠崎の濡れた髪を撫で、背中に手を回す。一瞬びくっと震えたが、彼女が体を委ねてくれたのを感じる。

「…少しだけ、このままでいさせて下さい」

 濡れて半分くらい透けている高木のシャツにすがりつくようにして、涙を流しながら言う。顔を胸に押し当てるようにして、声を殺して篠崎は泣いた。

高木はこくりと頷き、もう一度篠崎の頭を撫でた。冷たい滴の感触とほのかに伝わる体温が混ざり合って、今までに感じたことのない想いが高木の中に生じた。


過激派の構成員たちがアジトとして使っている廃ビルでは、ざわめきが大きくなっていた。

「どういうことなのよっ」

 怒りと混乱を露わにした「威」が、「武」の胸倉を掴む。

「じゃあもう一回言ってやる」

 声を荒げて言い返し、「武」は女を突き放した。

「『征』は奴らに倒された可能性が高い。『ヘルメス・アタック』での交信にも応答がないし、いまだにここに戻ってこないのが何よりの証拠だ」

「そんな…」

 「威」はよろよろと後ずさり、両手で顔を覆った。泣き崩れる彼女を、「武」は申し訳なさそうに見つめた。

「…すまない。あいつに先に帰っていていいと言われて素直に従った俺にも、責任はある。もっとも、あれほど圧倒していた相手に逆転勝ちされたとは想像しにくい…俺だって、信じたくはない」

 一同に頭を下げ、ひとまず「武」は謝罪した。大きな体躯が、後悔に震える。

「顔を上げてくれ」

 「覇」に言われ、「武」はその通りにした。白いシャツに黒のジャケットという出で立ちの「覇」は、いつも身だしなみを整えることに余念がない。髪はついこの間美容院に行ったばかりのように切り揃えられ、清潔感がある。

 「覇」の方が背が高いため、見下ろすかたちになる。

「身も蓋もない言い方かもしれないが、済んだことをあれこれ議論してもしょうがない。大事なのは、これから俺たちがどうするかだ」

「…すみません」

 不意にすっと立ち上がり、涙を拭いながら「威」が退室した。「覇」の発言に対するささやかな抗議のつもりかもしれなかった。彼女の心情を慮り、あえて引き止めようとする者は誰もいない。

 出入り口の扉が閉まったのを確認し、「覇」が話を続ける。彼は指導者の補佐的な役割を果たしており、過激派の事実上のナンバーツーだ。彼の言葉は、リーダーの意志でもある。

「穏健派の連中が『征』の術に対し、何かしらの対抗策を有していた可能性は排除できないな。あの大悪魔は俺の堕天使と同等の力を発現するほどだった…あれが倒されたとなると、只事ではない」

「いかにも」

 そこで初めて、過激派の指導者である黒田が口を開いた。椅子から腰を上げ、皆を見回す。部下全員にコードネームを名乗らせ秘密主義を徹底している男だが、自身だけはコードネームを持たない。自分に絶対の自信をもつ彼に、偽りの名前は不要だった。

「新たな脅威となりうる芽は、早いうちに摘んでおくべきだ。穏健派本拠地への襲撃の予定を少し早める。なお、計画よりも投入する戦力は増やす」


「何でよ…何で死んだのよ」

 部屋の外に出ても、溢れ出す涙は止まることを知らなかった。「威」はうずくまり、膝に顔をうずめた。

「優一……」

 彼女が「征」の本名を知っているのは、学生時代から彼と交際していたからだった。

 幼い頃に両親を失い身寄りのなかった二人は、遺伝学的な魔術の才能を見いだされ過激派のメンバーにスカウトされた。高木が杉本にスカウトされた状況に似ているが、彼よりも二人を取り巻く事情は厳しかったといえるだろう。いわば彼らは、生きるために魔術師になることを選んだのだ。

 彼らは過激派から支援を受け、戦闘訓練だけでなく人並みに教育を受けることもできた。資金源がどこから来ているのか「威」は不思議に思ったものだが、「ちょっとしたルートがあるのさ」と黒田は誤魔化すばかりだった。

 境遇の似ていた二人は必然的に惹かれあった。過激派の思想を頭に叩き込まれ洗脳されていたものの、それ以外の点では彼らはごく普通の若者だった。二人は互いを激しく愛した。大学時代は、一日中ベッドの中で抱き合っていたことさえあった。幸せな日々が、ずっと続くと思っていた。

 だから、それを奪った穏健派の魔術師が許せなかった。

(殺す。絶対に。彼を殺した魔術師と、その仲間は全員)

 憎しみはときに、悲しみで生じた心の穴を埋めてくれる。「威」は、恋人の仇への復讐を強く心に誓った。


 過激派が動いたのはその三日後、日没の直後だった。

 「ヘルメス・アタック」で自己を加速させた魔術師たちが、魔法協会本部を包囲する。彼らは主に、「征」の配下にあった魔術師で構成されていた。それ以外には、「威」の部下が混じっている。仲間を失い嘆き悲しむのは、何も穏健派に限ったことではない。彼ら過激派は、若く優秀な魔術師の未来を断った穏健派のメンバーを決して許すつもりはなかった。

 遠隔地から複雑な術式を使いサポートしている黒田により、敵の魔法的なセキュリティはほぼ解除してある。侵入者が建物の外壁に近づいた程度では警報は鳴らず、不可視のバリアも展開されない。若い頃穏健派に属していた黒田は内部事情に精通しており、協会の防衛システムを構築する魔術の仕組みの大部分を理解しているほどだった。

「『征』様の仇は、我々が討つ!」

 口々にそう叫び、魔術師たちは一斉に「ハーデース・アタック」を発動した。無数に投射された紫の魔法陣から閃光が放たれ、出入り口である大きな木の扉をレーザー光線が焼き払う。壁にぽっかりと空いた穴へ過激派の魔術師が殺到し、騒ぎに気づいた協会の職員らが慌てふためく。

 間もなく、戦闘が開始された。 


 スマートフォンが震え、メールが届いたことを知らせる。高木は自室で音楽を聴きくつろいでいたところだったが、イヤホンを耳から外し通知をチェックした。

 画面を見た途端、体が凍りついたかのようだった。

『我ら穏健派の同志に伝達する。過激派の勢力が協会へ攻め入ってきた。敵の数は数十人。増援を求む。これを見たら、すぐに協会へ来てもらいたい。協力を願う』

 急いで書いたと思われる、簡潔な文章だった。穏健派の魔術師全員に、これと同じ文面のメールが一斉送信されたのだろう。

 自分はまだ弟子の身だが、魔法協会が窮地に陥っているのを見過ごすわけにはいかない。それは高木にもよく分かっている。

 けれども、体が動かなかった。

 不意に、また携帯が振動する。今度は誰かからの着信らしい。

「はい」

 相手も確かめず、高木は電話に出た。魔法協会の職員からの連絡だろうか。しかしこの非常時に、わざわざ電話で自分に伝えなければならないような重要な案件があるのだろうか。そうは思えなかった。とすると師匠からかとも思ったが、あれ以来素っ気ない態度を取ってくる杉本が、自分から電話をかけてくるとは少々考えにくい。

『…先輩、メール見ましたか?』

 予想に反し、声の主は篠崎だった。何かあったときのために、と以前に一応連絡先を交換してはいたのだが、こんなかたちで役立つことになるとは思わなかった。

「ああ、見たよ」

 心なしか自分の声は乾いていて、あっさりした受け答えしかできなかった。

『北野さんからさっき連絡があったんですけど、師匠、メールが届いたのを見て病室を出て行ったらしいんです…。北野さんは心配だから後を追うって言って電話を切ってしまって、それで…』

 動揺を隠せていない篠崎の言葉に、高木はしばし沈黙した。

「…二人とも、まだ安静にしてなきゃ駄目なはずだ。戦いに行くなんて無茶だ」

 そう言いつつも、杉本の心情は理解できた。過激派の動きを活発にしている要因が、幹部の一人だった「征」を倒されたことへの報復であることは容易に想像できることだ。彼に止めをさした杉本は、自分の責任だと感じていたに違いない。

『私もそう思います。でも、放っておけません』

 篠崎は落ち着きつつあったが、強い意志が感じられた。

「気持ちは分かる。…けど、ベテランの魔術師の人たちに任せた方がいいんじゃないか。俺たちはまだ弟子の身分だ。現場に向かっても、かえって足手まといになるかもしれない」

 自分の声が自分のものではないようだった。受話器の向こうで、篠崎が言葉を失くし呆然としているのが容易に想像できる。

『…穏健派のメンバー全員が、すぐに協会に駆けつけて戦力になれるわけではないと思います。遠方に住んでいて距離的に難しい方もいるでしょうし、それに各自の事情もあります。多少の危険が伴うのは分かってます…けど、私たちも行くべきだと思うんです』

 やや間があって、篠崎が応じた。

 協会の職員たちも可能な限り魔術師を召集しようとはしてくれているが、それには限界がある。二人が無事でいられる確率を少しでも上げるため、現場に急行できる自分たちも戦線に加わるべきだというのだった。

 高木には、彼女の言い分が正しいことは分かっていた。

 自分の使った論理が、言い訳じみた詭弁でしかないことも分かっていた。

 それでも、同意することはできなかった。

「確かにそうかもしれないよ。けど」

 声を震わせ、高木は押し殺すように言った。携帯電話を握る手に、自然と力が入った。

「俺はもう戦えない」


『…え?』

 戸惑い、反応に困っている篠崎に、少し早口になりながら心情を吐露する。

「俺は冥界術を会得し、禁忌を破った人間だ…俺が戦っても、誰も認めてくれない。戦って誰かを助けても、呪われた力だのと言われ後ろ指を指されておしまいだ。感謝なんかされないんだよ」

『先輩…』

 それは、以前からずっと考えていたことだった。七賢人や協会の職員に意味深な視線を投げかけられ、杉本にも自分のしたことを否定される。手にした力で大切な仲間の命を必死に守り切った結果が、このざまだった。

「俺はもう、何のために戦えばいいのか分からない。師匠も、協会の偉い魔術師たちも…俺が何をしようが、誰も俺のことを認めてはくれない」

 自分自身でも、どうすればいいのか、どうしたいのか分からなかった。

『……先輩っ』

 沈黙が流れ、やがて篠崎がはっきりとした強い口調で言った。我に返ったかのようにしばし口をつぐみ、すみません、と恥ずかしそうに謝った後、ゆっくりと続ける。

『…先輩は、周りの人から称賛を得るために今まで戦ってきたんですか。私は、そうは思いません』

 強くはたかれたような衝撃を受け、高木はわけもなく瞬きをした。景色が変わってきたのを感じる。

「…篠崎」

『…はい』

「ありがとな。おかげで目が覚めた…今から速攻で向かうぞ」

『……はい!』

 彼女の声からは、安堵と嬉しさが滲み出ていた。

 通話を終了し、高木は椅子から立ち上がるとマジック・ウォッチを身に着け、ごく簡潔に出撃の準備を整えた。ドアを開けて自室から飛び出し、愛着を持ち始めた学生マンションを出て走り出す。

『アレス・アタック』

『ヘルメス・アタック』

 幸い、辺りに人気はなかった。高木は二種の中間魔法を連続発動し、建物の屋根から屋根へ高速で飛び移るようにして協会へ一直線に向かった。いつも通り駅へ向かい電車を待つよりも、おそらくはこちらの方が早いだろう。

(…やっと大切なことに気づけたぜ)

 着地と同時に素早いジャンプを繰り返し、次の屋根へと移動していく。

(俺はもう迷わない。たとえ呪われた力を宿していようとも、他人から忌み嫌われようとも、この力で誰かを救えるのなら!俺は何度でも立ち向かう!)

 高木の瞳の奥に、一時は失っていた熱い闘志の炎が復活していた。微かな笑みさえ浮かべ、再起した若き魔術師は師と仲間の元へ疾駆した。 


 協会内に侵入した過激派たちと、穏健派の魔術師らは激しい魔法の撃ち合いを繰り広げていた。そこかしこで極彩色の閃光が次々に飛び交い、火花を散らす。

 穏健派の構成員に緊急招集をかけてはいるが、到着しているメンバーはまだほんの数名だった。七賢人の面々もほとんどおらず、戦力不足の感は否めない。

 紫の魔法陣から撃ち出されたレーザー光が腹部を焼き焦がし、二階から雷撃を放って応戦していた一人の魔術師が悲鳴を上げた。手すりから身を乗り出すようにして落下し、真下にいた味方に衝突してしまう。

防御が手薄になった機を逃さず、過激派の襲撃者たちがモダンな階段を駆け上がっていく。二階へ到達した魔術師たちは相手の攻撃をかいくぐり、さらに上階を目指そうとした。

 そのときだった。

『ゼウス・アタック』

 彼らの背後から、雷が唸りを上げて迫る。死角から放たれた一撃を躱すのは不可能で、超高電圧の電流を流し込まれ二人が倒れた。

「…貴様、杉本宗一か」

 襲撃者の先頭に立っていたリーダー格らしき男が、振り向きざまに言う。

「だったら何だ」

 対して、入院着のまま駆けつけた杉本は息を切らしながら答えた。火傷はほぼ完治しているため戦闘に支障はないが、ここしばらくの入院生活で体力の衰えが進行している。協会に駆けつけるために使った「ヘルメス・アタック」と今の攻撃で、かなり体力をもっていかれていた。

「ちょうどいい。『征』様の仇は我々が討つ」

 「征」の配下にあった魔術師ばかりで編成された奇襲部隊は、敵討ちを果たそうと闘争心を剥き出しにした。もとより高かった士気がさらに上がり、過激派の魔術師たちは雄叫びを上げて杉本に躍りかかった。

 

 部隊は四つに分散した。第一小隊は上階を目指し侵攻。第二小隊は紋章の盾を展開し仲間を守る。第三小隊はレーザー光で敵の狙撃役を攻撃し、援護を行う。そして第四小隊は現れた仇敵、杉本の攻略に当たっていた。

 マントに身を包んだリーダーらしき男を、他の三人が取り囲むようにして守る。男は紋章から召喚した怪物を杉本へ突進させ、仲間にはレーザー光の連射でサポートさせた。

 サイの角に鰐の大きな口、獅子のようにがっしりとした体、そしてサソリの尾。

(キメラか)

 いくつもの動物の特徴を備えた、冥界で最も奇怪な見た目の魔物だ。尖った角をこちらに向けて猛突進してくるキメラを、杉本は「アレス・アタック」で高くジャンプして躱した。

 跳び上がる瞬間に、キメラの角をぐいと掴む。万力で引っ張られたキメラは耳障りな叫びを上げたが抵抗できず、杉本とともに空中を彷徨った。

 追撃として放たれたレーザー光を、キメラの体を縦にして防ぐ。レーザーの刃が心臓部を貫き、激痛に怪物が絶叫した。あっけない最期を遂げたキメラの亡骸を、杉本が魔術師たちへ向かって勢いよく放り投げる。

 魔術師らは意表を突かれたらしく、反応が遅れた。巨大な体躯の下敷きになり、三人が身動きが取れなくなる。転がってどうにか回避したリーダーの男は束の間安堵したが、その一瞬が命取りとなった。

 落下の勢いを加えて繰り出された杉本のジャブが、男の顔面にクリーンヒットする。床に縫い留められ意識を刈り取られた相手を見下ろし、杉本は汗を拭って大きく息をついた。

「…師匠!」

 不意に後方に人の気配を感じびくりとしたが、その声は間違えるはずもない弟子のものだった。

「北野、どうして来たんだ」

 同じく入院着の、杉本を追ってきた北野が息を切らして立っていた。

「放っておけるわけないじゃない」

 つっけんどんに言う彼女は、かなり苦しそうだった。

「うっ…」

「おい、大丈夫か」

 腹部を押さえしゃがみ込んでしまった北野に、杉本は駆け寄った。そっと腹に手を当て、顔をしかめる。

「傷口が開きかけてるな…無茶をしたものだ」

 加速魔法を使い全力で走ってきたせいで、北野の身体には彼女が思っていた以上の負担がかかっていたようだった。杉本は北野を抱きかかえて安全な位置まで移動し、そっと横たわらせた。

「お前はここにいろ」

 そう言った直後、爆発音が轟いた。二人は耳を塞ぎ、何が起こったのかと白煙の立ち込める上階へ視線を向けた。徐々に視界が晴れ、力なく倒れている何人もの過激派の魔術師が見える。

「…杉本君、こっちは片付いたぞ」

 そこには、笑みを浮かべてこちらを見下ろしている、七賢人の一人、末永の姿があった。以前「征」が七賢人を襲った事件の際に、彼は杉本に助けられている。その借りをここで返したつもりのようで、勝ち誇ったような微笑みをたたえていた。

「七賢人のあなたが自ら出向くとは」

「この歳だから、あまり戦線に出たくはないのだがね」

 愉快そうに笑う末永を、北野は驚愕を露わにして見つめていた。

「すごい、あの人…あの人数の敵を一瞬で」

「多分、『アポロン・アタック』を応用した魔法だろう。水素爆発を引き起こし、広範囲に衝撃波を放つ…とても並みの魔術師にできる芸当じゃない」

 気流を操作して任意の空間に水素を集め、そこに炎を投じることで爆発的な破壊力を生み出す。魔法を分析しながらも、杉本は感心せずにはいられなかった。敵を一掃した七賢人の実力に、二人は素直に恐れ入っていた。

 しかし、安心している余裕はなかった。

 ステンドグラスじみた模様の窓ガラスが破られ、そこから何体ものケルベロスが二階になだれ込んできた。さらに一階の扉からは大量のゾンビが押し寄せ、魔術師たちが撃ち出す火炎や稲妻をものともせず進軍する。

 三つの頭部をもつ地獄の猛犬と腐敗した生ける屍たちが、魔術師たちに襲い掛かる。


「奇襲部隊は囮にすぎない。彼らを相手に魔法を行使し、消耗したところに私たちが使い魔を送り込んで倒す…なかなかえげつない作戦ね」

 協会からいくらか離れたビルの屋上から戦場を見やり、「威」は呟いた。

「捨て駒扱いされた『征』の部下たちが報われねえよ」

 手すりにもたれかかり、「武」が退屈そうに言う。

「どんなかたちであれ、彼の仇が討てるのならそれでいいわ」

 「征」の部下たちも本望だろう、と「威」は他人事のように考えていた。

「…それもそうだな」

 「武」も同意し、再び混乱に陥った魔法協会へ視線を戻した。にやりと笑みをこぼす。

「俺の操り人形たちは肉体の耐久度を上げてある。そう簡単には倒せねえぜ」


「しまった…援軍がいたとは」

 杉本は悪態を吐いた。さっきまでの戦いで、だいぶ体力を奪われてしまっていた。北野を後ろに庇うように立ち、群れをなして近づくケルベロスを睨みつける。

『ゼウス・アタック』

 横薙ぎに雷の一閃を繰り出し、前の三頭を吹き飛ばす。猛犬たちが体を焼かれる痛みに吠え、のたうち回る。

しかし、それ以上魔法の行使は困難だった。がくりと膝を突き、うなだれた杉本は肩で息をしていた。

「師匠!」

 北野が悲鳴を上げたが、杉本にもはや抵抗する手段はなかった。北野も、今はとても魔法を使える状態ではない。

 上階では末永が先刻と同様の魔術を発動し、水素爆発に巻き込まれ多くのケルベロスが爆ぜた。けれども、その衝撃波もここまでは届かなかった。

 ケルベロスの顎が眼前に迫り、北野は思わず目を瞑った。


『ポセイドン・アタック』

 突如飛来した氷柱の雨が、地獄の番犬の全身を貫く。次々に倒れていくケルベロスを前にし、北野には何が起こったのか咄嗟に把握できなかった。

「―遅くなって悪かった」

 声の主へ、はっとして振り向く。

 そこにいたのは、粉々に割られた二階の窓から今飛び込んできたばかりの、高木賢司だった。こちらに向けていた、マジック・ウォッチを装着した左手をゆっくりと下ろす。

「…ほんと、遅すぎ」

 泣き笑いのような表情で、北野が呟いた。呆然として見つめる杉本の前で高木は、一階で穏健派の魔術師たちと交戦しているゾンビの大群へ視線を向けた。

「師匠、散々悩んだけど、ようやく結論が出ました。確かに、冥界術の力は邪悪なものかもしれない。でも、最終的にはそれは使い手に委ねられるものだと思うんです。俺は…自分が信じる正義のために、この力を使います!」

 手すりを飛び越えて中央の吹き抜け部分を飛び降り、同時に「アレス・アタック」を発動。皮膚を硬化して落下の衝撃に耐え、高木は無傷で着地した。すぐ立ち上がり、味方に加勢しようとしたそのときだった。

(―それでいいのよ)

 どこからか、声が聞こえた気がした。遠い記憶を呼び覚まされるような、懐かしく優しい声。

(―自分の信じる道を、進めばいいの)

「……母さん」

 幼い頃のおぼろげな記憶の中にしかいなかった母の姿が今、高木の心の中に鮮明な像として現れていた。慈愛に満ちた微笑みを浮かべた母の幻は彼の後ろに立ち、そっと背中を押した。

 杉本が病室でした話によれば、高木の母―高木穂香は最初過激派に属していたという。自分の過ちに気づいて穏健派に転身した後、周囲から疑いの視線で見られることは多かったろう。

 それでも、おそらく彼女は確固たる意志のもとで決めていたのだ。自分のもつ力の使い道は、自分が決める。冥界術の力と知識を、過激派の計画を止めるために役立ててみせると。

「ありがと、母さん。…俺が、母さんの意志を、魂を受け継ぐ」

 自分に言い聞かせるように囁くと、今は亡き母の幻は嬉しそうに頷き、眩しい白い光となって消えた。

 高木は顔を上げた。視界に飛び込んでくるのは、魔術師たちが放つ炎を喰らっても一歩も引かず進軍してくる生ける屍たちだった。全身の皮膚はとうに炭化しているが、両腕を前に突き出した前傾姿勢でよろよろと歩みを進める。

『ガイア・アタック』

 突如、何者かが放った魔法により、協会の床が大きく陥没する。巨大な蟻地獄状の穴に落とされ、ゾンビたちは這いあがることもままならず悔しそうな唸り声を上げた。魔術師たちは驚き、巻き込まれないよう後ろに下がる。

「今です、先輩!」

 協会の正面入り口から中に入った篠崎が、左手を下ろして言った。高木はふっと笑い、助走をつけると高く跳び上がり穴の真上に達した。左手をその底に蠢く魑魅魍魎へと向け、躊躇うことなく魔術を発動させる。

『ハーデース・アタック』

 紫の紋章から、レーザー光が目にも止まらぬ速さで連続して撃ち出される。パープル色の光の柱の直撃を受け、超高熱に曝されたゾンビらの肉体は一瞬で消滅した。


「この前、お前に話していなかったことがある」

「…えっ?」

 敵勢力は殲滅され、事態はどうにか収まった。高木と篠崎はタクシーを呼び、杉本、北野を病院まで送っていくところだった。高木に支えられて車に乗り込み行き先を運転手に告げてから、後部座席で彼の左隣に座っていた杉本はおもむろに口火を切ったのだった。杉本とは気まずい雰囲気になるかもしれないと予想していただけに、意外だった。

「お前が途中で病室を飛び出してしまったから話せなかった。まあ、俺も少々きつい言い方をしてしまったとは思っているが」

「…すみません」

 あの話に続きがあったとは。高木はどうにも気恥ずかしくて、下を向いた。彼の右に座る篠崎が、場を取りなすように杉本を促す。

「…それで、どんなお話なんですか?」

「冥界術についてだ」

 真剣な口調に戻った師を、高木は顔を上げて見つめた。

「儀式を無効にし、冥界術の契約を破棄することのできる魔術もあるにはあるらしい。…が、その魔術を行う手順が記された肝心の魔導書は過激派の手に渡っている。過激派の指導者が穏健派を抜けて組織を立ち上げた際に、書庫から持ち出したようだ」

「…つまり」

 高木は神妙な顔つきで言った。

「過激派を打倒してその書物を奪還することに成功すれば、俺は元に戻れる…ってことですか?」

「そういうことになるな」

 微笑んで頷いた杉本を見て、高木は笑みがこぼれた。魂を冥王に売り渡すという重い代償を強いられた、冥界術の力。全ての戦いが終わり、その力が必要なくなったときに元の自分に戻れるのだとしたら―高木の心の中に小さな、だが確かな希望が生まれた。

「今回のお前の活躍を見て、俺も考えを改めたよ。お前が冥界術を使えること自体は否定するつもりはない。使い方を誤らなければ、それは立派な強さになる」

「…ありがとうございます!」

「だが同時に、冥界術の力のみに頼っていては本当の強さを手にすることはできない、とも思っている。天界術の鍛錬も怠るなよ。あくまでその力は切り札として使え」

「はい!」

 にっと笑って付け加えた師に、高木は心からの笑顔で答えた。隣で会話を見守っていた篠崎も、自然と微笑んでいた。

(よかった…先輩と師匠が仲直りしてくれて)

 一方、助手席に座りバックミラーでその様子を眺めていた北野は、足を組み今にも舌打ちをしかねないような凄まじい怒りの形相だった。もっとも、後ろにいた三人はそんなことはつゆ知らずだったのだが。

(あいつ、どんどん強くなっていってて…なんか腹立つ)

 それは嫉妬に近い感情だったが、裏を返せば高木をライバルとして認めている証でもあった。

 何はともあれ、若き三人の魔術師とその師の絆はさらに強まった。

 そして、過激派との戦いは今後さらに苛烈を極めるのだった。


 数日後、高木はその日の講義を終えて大学から帰路に着こうとしていたところだった。

 眠気を誘う教授の話や必修の英語の授業をどうにか切り抜け、若干の疲労を感じながら校舎を出る。比較的新しいその校舎はガラス張りで、夕日が壁に反射して眩しく輝いていた。

 校舎を出てすぐの階段を下りると門に着き、そこから駅までは徒歩五分ほどしかかからない。ようやく帰宅できる喜びを噛みしめ、階段を一段下りたそのときだった。

「あの、すみません」

 柔らかく上品な声を背中に掛けられ、高木は踏み出した足を引っ込めて振り返った。

「はい?」

 見れば、黒のスーツ姿の女性が上目遣いにこちらを見ていた。女性の年齢を推測するのは失礼にあたるかもしれないが、おそらく高木よりは少し年上だろう。スーツをきっちりと着こなしているのは、就活中だからか。もしくは塾講師など、スーツ着用が義務付けられているアルバイトをしているのかもしれない。

「駅まではどういったらいいでしょうか」

 艶やかな黒髪をポニーテールに纏めたその女性は、はにかんで言った。

「えっとですね、まず門を出て…」

 途中まで説明しかけて、高木はふと口をつぐんだ。何故、この人は大学の最寄り駅の場所を把握していないのだろう。毎日通うキャンパスの最寄り駅も知らないで、これまで一体どうやって過ごしてきたというのか。ましてや、相手はおそらく、自分より長く在学している上級生なのだ。

 訝しげに見つめる高木の心情を察したかのように、女性は慌てて付け足した。

「私、留学生なんです。少し前にこの大学に来たばかりで…」

「…ああ、そういうことだったんですか」

 高木は苦笑した。それならばつじつまが合う。顔立ちは日本人に近いが、アジア系なのだろう。この大学には、韓国や中国からの留学生も多く来ていると聞く。

 留学生にしては、やけに日本語が流暢だったようにも思えた。しかしながら、高木の抱いた印象は無意識のうちに巧みに操作され、彼は女性の説明に何の疑問も抱かなかった。

「俺も今から駅へ向かうところなんです。案内しますね」

 にっこりと笑い、踵を返して再び階段を下り始めた高木に、女性は「ありがとうございます」と会釈してその後に続いた。

 その口元に残忍な微笑みが浮かんでいることに、高木は気づかなかった。否、気づけなかった。


「ここをまっすぐ行ってあの横断歩道を渡ったら、駅です」

 高木は女性を連れ、大学から直線上に伸びるいわゆる学生街を歩いていた。もし知り合いに見られれば彼女かと誤解されかねないとひやひやしていたが、その心配は杞憂に終わったようだった。もう、ここからでも駅が見える。小規模な商店が立ち並ぶ人混みの中をすり抜け、高木は歩き続けた。

「待って下さい」

 突然、女性に右の手首を掴まれた。

「とても助かりました。お礼をしたいです」

「いや、お礼って…それほどのことをしたわけでもないですし」

 申し出に面食らい、やんわりと断ろうとしたが彼女は譲ろうとしなかった。華奢な外見からは想像もできないほどの強い力で腕を掴み、学生街の通りを横に折れて裏通りへ入る。一気に人気がなくなり、別世界に来てしまったかのような印象を受けた。

「ちょ、気持ちは嬉しいですけど、本当にいいですから…」

 なおも断ろうとした高木に、女性は少々むっとしたようだった。頬を膨らませ、無言で顔を近づけてくる。

(うわっ、近い…)

 香水のいい匂いが鼻孔をくすぐる。近くから見ると、整った顔立ちがさらに美しく思えた。どぎまぎせずにはいられなかった。

「…駄目ですか?」

 やや不満そうに呟いた彼女は、たまらなく魅力的に見えた。煩悩を振り払い体を遠ざけようとした高木をぎゅっと抱き締め、放そうとしない。柔らかいものが胸に押し当てられ、顔が真っ赤になったのを感じた。

「な…っ」

 もはや抵抗は無意味なようだった。高木にも、欲望に身を任せた方がいいのではないかとさえ思えてきた。

「こんなに感謝してるのに…」 

 恍惚とした表情で頬を優しく撫でてくる女に、高木はぼんやりとしてされるがままになっていた。

 普通であれば、都合の良すぎる展開に違和感を覚えただろう。冷静に考えてみれば、初対面の異性に異常な関心を寄せられるなど、その手のゲームや漫画のなかでしかありえない。けれども、今の彼にはそういう発想はなかった。

「ふふ、可愛い…存分に楽しませてあげるわ」

 背伸びをし、さらに顔を近づけて口づけを迫った彼女に、高木は応じるところだった。

 視界の隅に、あるものが入るまでは。

 その瞬間、高木は夢から覚めたような思いだった。頭の中の靄が一気に消し飛んだ。

「きゃっ!」

 キスをしようとした瞬間に突き飛ばされ、女は可愛らしい悲鳴を上げて尻餅をついた。訴えるように高木を見上げる。

「ごめんなさい、もう少し人気のないところの方がよかったかしら?…暗いところとか」

 悪戯っぽく尋ねた彼女に、高木は落ち着いた声で言った。

「芝居はやめてくれ。…あんた、一体何者だ?」

 彼の視線は、女の袖口から覗いた黒い腕時計型のデバイスに注がれていた。


「気づかれちゃったらしょうがないわね」

 女はさっきまでとは一転した冷たくハスキーな声で言い放ち、ゆっくりと立ち上がって高木と対峙した。その目には、ひとかけらの優しさも慈しみも残されていなかった。

「中間魔法『アフロディテ・アタック』で誘惑して、術が解ける前に拘束・無力化する予定だったのだけれど…自力で術を破るとは」

 半ば感心したように、高木を見つめた。

 アフロディテ・アタック―相手に自分を魅力的に見せて幻惑し、思うがままに操る魔術だ。実戦では使う場面が限られる魔法であり、これまで高木は使ったことがなかった。だが実際に自分が術にかけられてみると、相当厄介なものだと痛感する。

「…あんた、やっぱり過激派の魔術師か?」

「ええ、そうよ。コードネーム『威』、とだけ名乗っておこうかしら」

 高木に睨まれても動じた様子も見せず、「威」はあっけらかんとして答えた。妖艶な笑みを浮かべ、続ける。

「あなたの先日の戦いぶり、拝見させてもらったわ」

「…そりゃどうも」

 高木は慎重に答えた。過激派が協会を襲撃した、例の事件のことを言っているのだろうと思う。

「時間もないからさっさと本題に入るわよ。何故穏健派のあなたが冥界術を?」

 本題に入るとは言うが、女の真意が高木には見えなかった。こんな色仕掛けまでして自分に聞きたかったのはそんなことなのだろうか。

「それにはちょっと事情があってさ。仲間を守るため、仕方なく使うようになったっていうか」

「…そう」

 答えになっているのかどうか分からないような答えを返すと、「威」は少し考え込む素振りを見せ、やがて顔を上げた。

「まあ、その辺の経緯は追々分かるでしょう。確かなのは、あなたに計り知れないほどの冥界術の才能があるということよ」

 再び高木を抱き締め包み込もうとするかのように、両手を広げる。

「悪いことは言わないわ。私たちの側に来なさい。お姉さんが鍛えてあげる…君みたいな若い子だったら、可愛がってあげてもいいのよ?」

 甘い声で誘う「威」の提案を、高木はしかし、一蹴した。

「…よく言うぜ。俺が『征』って奴を追い詰めたって知ってて勧誘してるのか?」

 何気ない、皮肉交じりの台詞だった。自分たちの戦いの様子を眺めていたのなら、あの海岸での死闘も見ていたんだろうと思い、放った言葉だった。当然、「威」はそのことを知っているものだとばかり思い込んでいた。

 数秒の沈黙の後、女が両腕を下ろす。

「…お前が彼を?杉本宗一が倒したのではなかったの?」

 だが、口調を一変させ目の色が変わった女を見て、高木はそうではなかったことを悟った。まずい、と後悔したがもう後の祭りだった。

「…とどめを刺したのは師匠だけど、決定打を与えたのは俺だったんだ」

 嫌な予感がし、咄嗟に言い訳めいたことを口走った。しかし、怒りの炎に呑まれた「威」には、彼の言葉など戯言にしか聞こえなかった。

「お前のせいで…」

 スーツの黒い上着を乱暴に脱ぎ捨て、「威」はマジック・ウォッチを装着した左手を高木へまっすぐに向けた。

「お前のせいであの人は死んだのね。絶対に許さない」

 戸惑う高木に、憤怒の感情を叩きつけるがごとく、紫の閃光が放たれた。「威」が高らかに宣言する。

「交渉決裂よ。高木賢司…お前を消す!」


 間一髪だった。

 横に転がってレーザー光を躱す。続いて放たれた第二射を地に伏せるようにして避け、バッグから素早くマジック・ウォッチを取り出し、左手首に装着する。

『ゼウス・アタック』

 黄の紋章から稲妻が撃ち出され、「威」目がけて猛スピードで飛んでいく。高木の反撃を体を軽く捻って躱し、彼女は魔法陣からさらにレーザー光を射出した。

 高木は走って距離を取ることでそれを回避し、再び雷撃を繰り出して反撃する。「威」は体を屈めてひょいと躱し、逃がすまいと高木を追った。両者はほぼ一定の間隔を空けて疾駆し、互いに雷とレーザー光を激しく撃ち合う展開が続く。

(くっ…)

 巧みに攻撃を躱され焦りを感じ始めていた高木の全身を、突如強い倦怠感が襲った。絶えず動きながら天界術を使い続けたことで、着実に体力が削られていることの証左だった。

(…だったら!)

『ハーデース・アタック』

 冥界術に頼りすぎるなと杉本から忠告を受けてはいるが、これ以上通常の魔法で応戦するのは限界だった。肉体へ負担がかからない冥界術に切り替え、こちらもレーザー光で対抗する。

 しかし、恋人を死へ追いやったその術を見せることは、彼女には逆効果だったらしい。ますます激高した「威」の攻撃は、強烈さを増していた。

「その技で、優一を…よくも…よくも!」

 憎しみに満ちた目で高木を睨み、超高速でレーザー光を連射する。高木を上回る速度で放たれた光の奔流を、彼は紋章の盾を何重にも展開することでかろうじて防いだ。数十枚のバリアが最後の一枚を残して全て砕け散り、淡い光となってかき消える。

 高木に息つく間も与えず、続いて「威」の左右に魔法陣が一つずつ投射された。それぞれから一頭ずつ、黒い毛皮に全身を覆われたケルベロスが出現し、こちらに向かって突進してくる。

 猪ほどもある大きさの体躯だが、猪突猛進な攻撃ならば対処するのはさほど難しくはない。高木は再度「ハーデース・アタック」を発動し、右、左の順にマジック・ウォッチを敵に向けた。勢いよく放たれた紫のレーザー光線がケルベロスの頭部を撃ち抜き、脳を焼き焦がして無力化する。

『ハーデース・アタック』

 しかし冥界の番犬は、高木の注意を引きつけ隙を生じさせるための囮にすぎなかった。ケルベロスの亡骸へ左腕を向けたままになっている無防備な一瞬を逃さずに、「威」は二頭のコントロールを手放し、すかさず無数の破壊光線を撃ち出した。

(しまった―)

 高木は咄嗟にバリアを展開したが、防ぎ切れない。

 眩い紫の閃光が障壁を突き破り、衝撃波が彼を吹き飛ばす。十数メートルも飛ばされ、高木はブロック塀に体を叩きつけられて痛みに呻いた。空中を漂った刹那に「アレス・アタック」を発動し皮膚を硬化したため、外傷を負うことは避けられた。だが、肉体の内部を伝わる鈍い衝撃までは緩和できなかった。

 やはり、相手は何年も冥界術を駆使し続けてきたベテラン。つい最近それを会得したばかりの自分より、戦闘経験も技量も遥かに上をいっている―悔しかったが、高木はそれを認めざるを得なかった。その上、復讐に取りつかれた「威」はポテンシャル以上の力を発揮し、終始リードを保っていた。

師匠が言っていたように、自分に魔術の、それも冥界術の才能が備わっていることは事実なのだろう。ただし、才能とは磨かなければ光らないものだ。今の時点での実力では、彼女に対抗するのは難しいと判断しなければならなかった。少なくとも、自分一人の力では困難だろう。

(…仕方ない)

 かといってこんな緊迫した戦況の中、魔法協会へ連絡し増援を寄越してもらうのは現実的な選択肢ではなかった。

『ヘルメス・アタック』

 結果、高木は少々不本意な決断ではあったが撤退を決めた。彼の肉体に高速移動の効果が付与され、すぐ横から延びる路地へ飛び込み、駆ける。


「逃がすか!」

 「威」も加速魔法を発動し、ターゲットの追跡を開始しようとする。

 そのとき、何者かが行使した「ヘルメス・アタック」によるメッセージが、彼女の耳元へ届けられた。

『落ち着け。お前の気持ちは痛いほど分かるが、感情的になりすぎるな』

 それは過激派のナンバーツー、「覇」の声に他ならなかった。

「でも、あいつは…」

 「征」を追い詰めた張本人で、彼の仇なんだ。「征」を倒したのは杉本じゃない、実質的にはあの高木という若い魔術師だったんだ―思いが溢れ出し、畳み掛けるように言おうとした彼女を遮り、「覇」は落ち着いた調子で続けた。

『奴を追って戦闘を続ければ、市街地での戦いになりかねない。世間に魔術の存在を隠さねばならないという大前提を忘れたか』

 過激派の最終目標は、常人より優れた能力を持つ存在である魔術師が、正当に評価される世界を創ることだ。分かりやすく言えば、魔法を使える人間とそうでない人間に人類を二分した社会構造を普遍的なものとし、前者が後者より上に立つ。

 けれども、その計画が終盤に差しかかるまでのしばらくの間は、穏健派同様に魔術の存在は一般市民に隠蔽しておかなければならない。むやみに暴露すれば、社会全体が混乱に陥り計画の実行にも支障が出かねないからだ。目下のところ邪魔な勢力である穏健派の排除が完了するまでは、秘密は守らなければならない。彼らさえ殲滅すれば、魔法という未知の力に対抗できる者はいないだろう。その力で、世界に革命を起こす―彼女と優一が魅了された、過激派の掲げる理想だった。

 「威」は、怒りに我を忘れそんな重要なことを見失いかけていたことに気づき、少し顔を赤らめた。上げかけていた左手を下ろし、ブラウスに付いた埃を払う。脱ぎ捨てたスーツを拾い上げ、彼女は苦笑した。

「あなたの言う通りよ。…まあ、融和派って例外もいるけどね」

『屁理屈を言うな。早くアジトへ戻れ』

 穏健派と過激派の抗争に対して中立を保つ融和派は、一部の科学者とお互いの技術を公開し合い研究を続けている。魔術と科学のテクノロジーの融合による人類のさらなる発展を謳っているが、その研究内容にはとかく謎が多い。

そのことを念頭に置いて言ったジョークだったのだが、どうやら今日の彼は虫の居所が悪かったらしい。自分がターゲットの追跡に躍起になってしまったからだろうか。ぶっきらぼうな返答に、「威」は申し訳なさそうに返した。

「…分かったわ。ごめんなさい」

 そして「ヘルメス・アタック」を使用して立ち去り、数秒後には裏通りから人の姿は消えていた。


 その週末は、久方ぶりに戦闘演習が行われた。杉本と北野が無事に退院し、再び四人が魔法協会に集まったのである。

 いつもの演習場に入ると、何だか懐かしく感じた。

「遅い」

「仕方ないだろ、電車が遅れてたんだよ」

 先に来ていた北野がじろりとこちらを見てきたので、高木は弁明した。篠崎はそんな二人のやり取りを見て、困ったような表情を浮かべている。

「こいつはいつもこんな感じだから、気にしなくていい」

 ふと彼女の方へ視線を向け、高木が苦笑いする。

「その言い方はないんじゃないの?」

 北野がすかさず突っ掛かり、彼と軽く言い合いになる。じゃれ合うような二人に交互に視線を向けながら、篠崎は無言で恥ずかしそうに微笑んでいた。


 やがて杉本も到着し、さっそく今日の訓練内容を説明した。

「じゃあ、高木と篠崎は模擬戦をしてくれ」

「…あたしは?」

「病み上がりなのに無理をする必要はない、北野は軽めのメニューにしておこう。的は持ってきたぞ」

 途端に、北野ががっかりした表情をした。的の中心を狙い魔法を放つだけの単調な練習は、魔術師になったばかりの頃に嫌になるほどやらされた。その頃は杉本の弟子は自分だけで模擬戦の相手も限られたため、時折こうしたトレーニングを課せられていたのだ。今更基礎的なメニューをこなさせられるのは苦痛でしかなく、何より彼女のプライドを傷つけた。

「…そう気を落とすな。来週からは普段通りの内容にするから」

 なだめるように言う杉本に渋々頷き、彼女は模擬戦の邪魔にならないよう演習場の隅へ移動した。ダーツの的に似た形状の目標物を杉本が壁に何個か貼り付け、準備を進める。

 その一方で、高木と篠崎は間隔を空けて対峙し、模擬戦の用意を整えていた。

「北野は体力が完全には回復していないだろうから、無理はするな。疲れたら遠慮なく休んでいい。それと高木、分かっているとは思うがここでは冥界術は禁じ手だぞ」

 杉本は弟子にそう呼びかけると演習場の壁側に寄り、模擬戦の審判として立ち位置についた。

「―始め!」

 彼の合図で、二人のマジック・ウォッチがほぼ同時に魔法陣を投射した。


 思えば、篠崎と模擬戦をするのはこれが初めてだった。

 そんなことを頭の隅で考えつつ、高木は先制攻撃を仕掛けた。「アレス・アタック」で全身の皮膚を硬化し、真っ直ぐに突っ込む。

 案の定、篠崎は「ガイア・アタック」を発動しドーム状の土の障壁を展開した。

 土の魔術を得意とする篠崎の防御を崩すには、遠距離から攻撃を飛ばすより自ら突っ込んだ方が早い。高木の行動はそうした判断に基づくものだった。

 一枚目の障壁に右の拳を叩きつけ、粉々に砕く。すぐに二枚目が床からせり上がるようにして現れるが、それも左のジャブで粉砕した。

 新たな壁は現れない。そのまま接近しようとした高木の数歩先の床が、不意に大きく盛り上がった。土でできた幅数十センチほどの塀が創造され、胸部を強く突く。

 後ろに跳んで距離を稼いだ瞬間に、「アレス・アタック」の効果が切れたのを感じた。脚力の強化が終了するのがあと少し早ければ、追撃に対処しきれなかったかもしれない。そう思うと、背筋を冷たい汗が流れた。

 今の術は、敵の足元を陥没させる事象の逆を引き起こしたものだろう。使う魔術のバリエーションが増え、秘められた才能を少しずつ開花させている篠崎が、少し眩しく見えた。

(…あの発動スピードじゃ、「アレス・アタック」で対抗するのは難しい)

 ならばどうするか―いけるかは分からないが、高木には考えがあった。

 再度足元の地面が隆起すると、高木は今度は前方に疾駆して躱した。間合いを取らなかったことに篠崎はやや驚いたような顔を見せたが、すぐ切り替えて土の障壁を展開した。

 この戦いを制するには、相手の防御を崩し、かつ予想されるカウンターをも防がなければならない。高木は自分の作戦が上手くいくことを願いつつ、再度「アレス・アタック」を発動して高く跳躍した。上方から飛びかかろうとする彼を止めるべく、篠崎が障壁の展開方向を上に修正する。彼女の頭上を覆い隠すように、土のドームが形成される。

『ガイア・アタック』

 対して、高木も同じ魔法で対抗した。壁から伸びた太い土の柱がドームと激突し、穴を穿つ。

「……っ」

 しかし、篠崎は咄嗟に次の一手を繰り出せなかった。巨大な土の塊同士が激突し、その結果辺り一面に降り注いだ細かな砂が、視界を覆いつくそうとしていたのだ。思わず腕で顔を庇い、砂が目に入りそうになるのを避ける。

 とん、と微かな音がして顔を上げると、もう砂の雨はやんでいた。

「そこまで」

 杉本が試合終了を告げ、模擬戦は幕切れとなる。

 篠崎の目の前にそっと着地した高木はにっと笑い、彼女の方へ向けていた握り拳をほどいた。


「あっ、師匠」

 北野の方も適当に切り上げ、演習が終わろうとしていた頃、高木は重要なことを思い出した。

「何だ」

「ちょっと話が…」

 杉本は軽く頷いてみせ、他の二人を向いて言った。

「今日はこれで終わりにしよう。二人は先に帰っていいぞ」

 あまり聞かれたくない話であることを察してくれたことに、高木は密かに感謝した。北野が若干疑わしげな視線を向けてきたが篠崎は別段反応はせず、空気を読んで退室した。

 二人がいなくなったのを確認し、高木がおもむろに口を開く。

「…実は、この間過激派の幹部に襲われたんです。『威』って名乗っていた女性でした」

「本当か」

 杉本の表情がたちまち険しくなった。同時に、仲間に余計な心配をさせたくなかった弟子の心情も理解したようだった。

「こんなことが続くようなら、お前に護衛をつけるのも検討した方がいいかもしれんな…」

 考え込んでしまった師に、高木は慌てて言い足した。

「いえ、俺のことは大丈夫です。それより…彼女、『征』さんを殺されたことを相当恨んでるようでした。もしかすると、師匠のことも狙ってくるかもしれません」

「…分かった。気をつけておく」

 返り討ちにしてやるさ、とばかりに杉本が微笑む。頼もしい師の背中を見て、高木は少しだけ安心することができた。


 その頃、北野と篠崎は駅までの道を一緒に歩いていた。といっても二人の性格はまるで真逆で、共通の趣味もない。おまけに篠崎はどちらかというと口下手な方だし、北野とはあまり話したことがなかった。気づまりな沈黙がしばらく続き、不意に北野が口を開く。

「あんたってさ」

「…はい?」

「高木のこと好きなの?」

「えっ……」

 何てことなさそうに投げかけられた台詞の意味を、頭で理解するのに数秒を要した。篠崎はフリーズしたのち、頬を赤く染めて顔の前でぶんぶんと手を振って否定した。

「そ、そんなことありません!私が、先輩のこと好きだなんて、そんな…。それに私、今まで恋愛なんてしたこともないのに…」

「随分必死に否定して…」

 北野は楽しそうに笑ったが、それは一種の嗜虐性を帯びた笑みだった。後輩をちょっとからかってやろうと遊び心を起こしただけだったのだが、どうやら面白いものが見えそうだった。

「華燐ちゃんは十分可愛いと思うけどなー。本気になれば、あいつを惚れさせるのだってきっと簡単…」

「や、やめて下さいよっ」

 顔を真っ赤にして言う篠崎を、北野は改めて眺めてみた。ボブにした茶色っぽい髪は大人しく清楚な印象を与え、幼さの残る顔立ちはとても可愛らしい。北野がスレンダーなアイドル的な美しさをもつとすれば、篠崎は小柄で愛らしい小動物的な可愛らしさを秘めていた。もっとも、自分の魅力に気づくことはできていないようだったが。

 高木への好意はどうであれ、北野は以前からそこが気にかかっていたのだった。

「今度時間のあるときに、一緒にショッピングにでも行かない?あんた着てるものが地味だから、それじゃ気になる人に振り向いてもらえないかもよ」

「そうでしょうか…」

 篠崎が自信なさげに、自分の服装に目をやる。丈が長めのスカートに、シンプルなデザインのブラウス―決して似合っていないわけではないが、どこか没個性的な印象を抱かせるコーディネートだった。

(上手くいきそう…ここで二人をくっつけて恋愛に現を抜かさせれば、あたしの優秀性は保たれる。新入りに追い抜かされるのなんてまっぴら)

 単に篠崎のことを思いやっているわけではなくよからぬことを画策していた北野だったが、次の彼女の言葉にはっとしてそちらを見た。

「あの…じゃあ、お願いしてもいいですか?」

「…えっ?」

 今度は、北野が問い返す番だった。

「私と一緒に、ショッピングに行って下さい」

 もじもじしながらも決意を露わに言う篠崎を、北野はぽかんとして見つめてしまった。

(何なの、この子…もしかしてめちゃくちゃ純情⁉)


 その後しばらくは、過激派の目立った動きは特になかった。親元を離れての大学生活にもすっかり慣れてきて、もう六月の半ばである。

 週末に魔法協会での訓練があるため活動に参加するのが難しいとの判断で、高木はいまだにサークルには所属していなかった。試しに入ってみたところも早々に辞めてしまった。

だが、ここ最近は過激派の襲撃もなく、任務に駆り出されるようなこともない。空いた時間を有効活用すべく、彼はアルバイトを始めようと決心したところだった。都会で暮らしているとやたらと生活費がかかる点には、以前から頭を悩ませていたところだった。彼の実家がある京都もさほど地価が安かったわけではないが、それにしても東京の家賃の高さは少々異常に感じる。

端的に言って、今の彼は資金面で困っていた。ただでさえ一人暮らしは出費がかさむ。奨学金を取ってはいるが、それも微々たる額だ。せっかく大学生になって自由な時間が増えたのだから、自分で自由に使えるお金を得て好きなことに使ってみたかった。まだ関東の名所もろくに見て回っていない。まだ見ぬ世界へ行ってみたかった。

(彼女ができて、二人であちこちに出かけるなんて展開になれば最高なんだけど…)

 そんなご都合主義がまかり通るはずもなかった。もっとも、気にかかっている人がいないと言えば嘘になるが。

 ともかくそういう事情で、彼はバイトに応募した飲食店へ面接に向かったのだった。


 店主だという丸顔の中年の男は、高木に簡単な質問をいくつかした後、書類を渡した。勤務上必要となる個人情報の記入が済むと、男はにこにことして彼を解放した。

手応えあり、だった。

 店主に良い印象を持ってもらえたであろうことを確信し、高木は意気揚々として店を出た。はきはきと受け答えするよう心掛けたのが良かったのかもしれない。

(シフトのある日は、まかない食べさせてくれるって言ってたよな…採用されれば、食費もだいぶ浮きそうだ)

 財政問題にも解決の兆しが見え、高木は月明かりに照らされた夜道を心を躍らせて歩いた。今しがた出てきたばかりのレストランから自宅までは、徒歩約十分ほどだ。

 その途中、住宅が立ち並ぶ中にある空き地の側を通り過ぎようとして、高木は足を止めた。

『アルテミス・アタック』

『デメテル・アタック』

 聞き慣れた合成音声が耳に飛び込んできて、高木は体を硬くした。


 自分目がけて攻撃が飛んでくるのかと錯覚し、反射的に身構えた。護身用にマジック・ウォッチを持ち歩いてはいたが、今は背中に背負っているリュックの中にあってすぐには取り出せない。無防備なこの状態で奇襲を受ければ、かなり危険だった。

 だが、数秒が経過しても衝撃はやってこない。警戒を解かぬまま辺りを見回し、術者を探した。

 その正体は、意外なほどすぐ明らかになった。

 雑草が伸び放題の空き地。そこに、こちらに背を向けて立っている青年の姿があった。

 伸ばした左手の手首に装着された腕時計型デバイスが、月光を受けてきらりと光る。その色は、銀色だった。

 穏健派の魔術師が使うものは白色、過激派の使用する冥界術のデータが読み込まれているバージョンは黒色であり、両者はカラーリングの違いで機能の違いを示している。青年は、いずれにも属さない存在なのかもしれなかった。高木は何だか、得体の知れないものを感じた。

 青年の視線の先には、古木の幹にピンか何かで固定された的があった。北野が演習のときに使っていたものとよく似ている。そのダーツの的のような目標物に三本の矢が突き刺さり、辺りから長く伸びた何本もの蔓が絡みついていた。照準は極めて正確で、矢は三本とも的の中心部を撃ち抜いている。青年がかなりの実力者であることは明らかであった。

「…うっ」

 そのとき、青年が急に苦しみ始めた。両手で胸を押さえ、小さく呻いたかと思うと倒れこんでしまう。

 高木には、見過ごして通り過ぎることはできなかった―人として、そして同じ魔術師として。罠かもしれないという疑念など、一切抱かなかった。

「…おい、大丈夫か⁉」

 体を揺さぶると、仰向けに倒れていた青年はうっすらと目を開けた。

「…はい、なんとか」

 近くで見ると、青年は同性でも思わず見つめてしまうほどの美貌を備えていた。鼻筋が通っていて、くっきりとした二重のまぶたが謎めいた魅力を醸し出す。少し癖のある黒髪は先端が軽くカールしていて、どこか異国的な美を体現していた。

 けれども体格はひょろりとしていて、紺のシャツから覗く腕は青白く、そして細かった。病的に美しい、という表現が的確かもしれない。

 相手の意識がはっきりとしていることに、高木はひとまずは安堵した。おそらく同年代であろうと思われるので、敬語を使うことはせずに話しかける。

「俺も一応魔術師の端くれだから忠告しておくけど、術式を同時に使うのは難易度も高いし、負担も倍以上になる。無理するのはやめておいた方がいいと思うぜ」

 青年はゆっくりと上体を起こし、口を開いた。テノールの澄んだ声が流れ出す。

「ええ。今の技術では、確かにそうでしょうね」

「…今の技術では?」

 相手の言わんとしているところがいまいち掴めず、高木はオウム返しに言った。青年は淡々とした口調で続けた。

「僕は融和派のメンバーなんですが、このマジック・ウォッチはアップデートされた最新型。一秒の時間差もなく、同時多重的に魔法陣を展開できます。…現時点では試作段階で術式の負担が大きいですが、改良が進み負担が軽減されれば、実用化も夢ではありません」

 にっこりと笑った彼を見て、高木は一人納得していた。デバイスの色が見たことのないものであったのは、このためだったのだ。融和派とは今までのところ特に接点がなかったこともあり、青年の話は興味深かった。

「融和派って存在しか知らなかったけど…何て言うか、すごいことやってるんだな」

 感想を述べようとしたが、話の情報量の多さに圧倒されたせいか、どうも語彙力のなさそうな表現になってしまった。文学部生として情けない。青年はくすっと笑い、ふと時計型デバイスに表示された時刻に目を向けた。

「…そろそろおいとましないと、父に怒られてしまいます。僕は、ちょっとした術式のテストをしていただけということになっていますから」

「そうか」

 高木は彼に手を貸してやり、立つのを助けた。

危険の伴う術式の実験に息子に使うとはひどい父親だ…とのやや偏見じみた思いが去来しないではなかったが、彼の家には何らかの複雑な背景があるのかもしれなかった。むやみに他人の家庭の事情に首を突っ込むものでもないと思い、あえて触れることはしなかった。

「それじゃあ、またな。気をつけて帰れよ」

「はい、それでは失礼します」

 高木が手を振って背を向けると、青年は笑顔を浮かべ軽く頭を下げた。それぞれの帰るべき方向へ、二人は足を踏み出す。

(そう言えば、名前も聞かなかった…)

 不思議なことに、またいつかあの青年と出会うのではないかという予感がしていた。そこには何の根拠もなかった。ただ、高木は何か運命的なものを感じ、妙に引っかかるものがあったのだった。


「帰ったか」

 融和派の指導者、二条智宏は読みかけの新聞をテーブルに置いて顔を上げた。五十代前半の、恰幅のいい男性だ、高価な和服を纏っており、見るからに身なりがいい。綺麗に剃り上げた坊主頭は、まるで本物の僧侶のような印象を与える。

「ただいま戻りました、父さん」

 青年―倉橋烈は高級ホテルの部屋のリビングルームの扉を静かに閉め、微笑した。ただし、これは仮の名前に過ぎない。過激派が使うコードネームと、本質的には大差ないものだった。

「出張に付き合わせてしまって悪かったな。仕事柄、色々な方面と交渉せねばならんのだよ」

「いえ、そんなことないです」

 愛想笑いではなく、倉橋は答えた。

「退屈しのぎになるかと思って実験を頼んだが、どうだ?少しは気が紛れたか、烈」

「はい」

 倉橋烈は笑みを浮かべ、和やかな雰囲気が流れた。まるで、本当の親子であるかのようだった。


 待ち合わせの時間の五分前には駅に着いていた篠崎を、真面目な子だなあと北野は感心して見ていた。

「お待たせ。それじゃ、行こっか」

「はい!」

 改札前に現れた北野に篠崎は会釈し、後に続いた。今日がその日―二人がショッピングに出かける約束をしていた日だった。

北野が目的地に選んだのは関東の某地、文化の最先端の街。大きく複雑な内部構造をもつ駅は篠崎には迷宮のように思えて、自分が今どこを歩いているのか、どこへ向かっているのかまるで分からなかった。北野の案内がなければ、とうに道に迷っていただろう。何せ、改札を抜けてから出口までが異様に長いのだから。

篠崎の家は東京西部の小都市で、こうした華やかな場所に来る機会はこれまであまりなかった。行こうと思えば行けなくはない距離ではあったのだが、彼女の控えめな性格がそれをためらわせていた。

ようやく出口に辿り着き外に出ると、陽の光が眩しかった。直後、広い通りの両側に立ち並ぶ、様々なテナントが入った高層ビル群に圧倒される。

「何ぼうっとしてるの。こっちこっち」

 北野に手を引かれ、篠崎は慌てて遅れないようについて行った。目にするもの全てが新鮮だった。以前こんな場所に来たのは、数年前にもなるだろうか。

 北野に引っぱられるようにしてしばらく歩き、やがて彼女が歩みを止める。

「着いたよ」

「…ここですか⁉」

 建物を見上げた瞬間、篠崎は小さく悲鳴を漏らした。派手な外観の丸ビルの周りには看板を掲げた女性スタッフがたくさん立っていて、道行く人に声をかけチラシを配っている。どの人も流行のファッションに身を包み、きらきらと輝いて見えた。

 さらに、客層もそれ相応のものだった。十代や二十代の若い女性たちが楽しそうにお喋りしながら、店内へ足を運んでいく。女性誌の読者モデルであってもおかしくはなさそうな服装の人ばかりで、篠崎は足がすくむようだった。

 自分がここにいることがひどく場違いなことのように感じて、仕方がなかった。

「そう。女性用の服のみを取り扱ってる、結構有名なお店。あたしもたまに来るなー」

 狼狽している篠崎の様子に気づいていないのか、北野はにこにことして説明した。白のチュニックと青のショートパンツを見事に着こなしている彼女は、この場にいても何の違和感もなかった。

(それに比べて、あたしは…)

 篠崎が今日着ているのは、いずれも暗色のブラウスとスカート。さほど高価な服ではないし、デザインも洒落ているわけではなかった。

「あの、北野さん…」

 私帰ります、と言うつもりだった。せっかく連れてきてもらったのに申し訳ないが、ひどく居心地が悪くてこれ以上は耐えられそうになかった。

「ほら、行くよ」

 けれどもその台詞が口から出るより、北野が彼女を強引に店の中に連れ込む方が早かった。呆気にとられた篠崎の背後で、自動ドアが静かに閉まる。空調の効いた店内の空気はひんやりとしていて、異世界に入り込んでしまったかのような錯覚に陥りそうになった。


「…あのさ」

 しかし、篠崎の心情を見抜けないほど北野は鈍感ではなかった。エスカレーターで上階へ向かう途中、不意に後ろを振り返って言う。

「…あんたがこういう場所が苦手なのは、あたしにもなんとなく分かる。でも、自分を変えたいんだったら尻込みしちゃ駄目じゃない?」

 篠崎ははっとして、何も言えなくなった。

 父が神経系を損傷する大怪我をして入院し、植物状態になって以来、明るかった母は塞ぎ込んでしまった。笑顔を見せることも少なくなり、一人娘の華燐への態度は目に見えて冷たくなった。小さい頃のように家族で出かけることもぐっと減った。

 しょうがないんだ、と運命を受け入れて、これまで生きてきた。誰が悪いというわけでもなく、これはどうしようもない定めなのだと。結局のところ与えられた選択肢の中でしか人は生きられないのだと、そう思っていた。

 魔術師になってからもそうだった。

(…先輩に、出会うまでは)

 あのとき、絶体絶命の状況で冥界術の力に覚醒し、過激派幹部の「征」を圧倒する強さを見せつけた高木が、篠崎の中の何かを変えた。「征」の操る悪魔のあまりの強さに絶望すら感じ、心のどこかで「このまま皆死ぬんだ」と諦めていた自分が、音を立てて崩れ去った。

 北野が言うように自分が高木に好意を抱いているのかは、自分でもよく分からない。控えめで目立たない性格のせいもあってこれまで恋愛経験のない彼女には、愛という感情がどんなものなのかいまいち実感が湧かなかった。

 だが、彼が教えてくれたことが篠崎の胸に深く刻まれたことだけは確かだった。人は運命に立ち向かい、変えることができる。

(私も、先輩みたいに…変わりたい)

 バフォメットを撃破した高木の背中を見て、篠崎はそのとき強く思ったのだった。引っ込み思案で大人しい自分を変えたいと。

 その気持ちを思い出して、篠崎は言った。

「…すみません。私、頑張ってみます」

 屈託のない笑みを浮かべた彼女を見て、北野も自然と口元をほころばせていた。

「―よーし、早速見て回るよ!めちゃくちゃ似合うやつ見つけてあげるから!」

「はい!」

 エスカレーターを下りるや否や、二人は色とりどりの衣服が陳列された華やかな売り場へと、足取りも軽く向かった。


「…買えて良かったです」

 その約二時間後、篠崎は紙袋を抱えて店を出たところだった。中身はもちろん、今日買った洋服だ。薄い水色のチュニックと、それとよく合った紺のスカート。店員に尋ねたり、試着した姿を北野に見てもらったりとじっくり選んだ服で、彼女自身とても気に入っていた。

「うん、よく似合ってたと思う」

 隣を歩く北野は特に何も買わず、篠崎の買い物に付き合っていただけだった。だが退屈そうな表情は一切なく、ショッピングの結果に満足していた。

「それを着てアタックすれば、あいつを落とすのは難しくないかもね」

「…な、何言ってるんですか!しませんよそんなこと!」

 途端に顔を真っ赤に染めて否定する篠崎が可愛らしくて、北野は悪戯な笑みを浮かべた。

「…じゃあ仮定の話だけど、もし向こうから迫ってきたらどうする?」

 質問の方向性を変えて揺さぶりをかけてみると、案の定篠崎は頬をさらに紅潮させ返答に窮していた。

「そんなこと言われても…。大体、私みたいな魅力のない女に振り向いてくれるとは思えませんし…」

「十分魅力あると思うけどなー。普通に可愛いし、スタイルだって悪くないし」

 まあ、あたしほどじゃないけど…との意地悪な付け足しは自分の心の中だけに留め、北野はフォローした。小柄で愛らしい彼女には、庇護欲をかき立てる類の可愛らしさがあった。

「そうでしょうか…」

 少し照れが入った表情をした篠崎を、北野は面白がるように見ていた。

 ふと彼女から視線を外し、警戒するように辺りを見回す。

「…北野さん、どうしたんですか?」

(何であいつのことは先輩呼びなのに、あたしは普通に「さん」付けなの…)

 前々から思っていた小さな不満が一瞬頭をよぎったが、今はそんな場合ではないとすぐに打ち消した。不安そうに見つめる篠崎に、声を潜めて言う。

「変だと思わない?」

「何がです?…あっ」

 同じく辺りを見回し、篠崎は思わず声を上げ、手で口元を押さえた。

 いつも大勢の人々が行き交う、大規模なスクランブル交差点。そこで信号待ちをしている歩行者が、誰一人いないのだ。会話に夢中になっていて気づかなかったが、明らかに不自然な光景だった。一台の車も近くには見えない。

「―ボスに頼んで、人払いの術をこの一帯にかけてもらった。最高のお膳立てだろう?」

 信号が青に変わり、向こう側の通りからゆっくりと一人の男が歩み寄って来る。

 スキンヘッドの頭に、筋骨隆々として鍛えられた肉体。忘れるはずもない相手だった。

 特に、北野にとっては。

「…過激派の『武』…」

 相手を憎々しげに睨み、北野は呟いた。「征」との最後の戦いの際に彼の奇襲を受けて拘束され、杉本を誘い出す材料として使われた屈辱は今でも忘れない。

 篠崎としても、師を追い詰めるのに一役買った相手を決して許すつもりはなかった。そっと紙袋を歩道に置く。

 マジック・ウォッチを取り出し、装着した二人を見て、「武」はにやりと笑い黒いシャツの袖をまくった。漆黒の時計型デバイスが姿を現す。

「探したぜ…。お前らを捕らえて交渉材料にし、今度こそ杉本宗一を倒す。『征』の仇を討ちたいのは、何もあの女だけじゃあない」

 正確には杉本は止めをさしたに過ぎず、あの戦いで一番の功労者は高木だったといえるだろう。けれども、「威」はその事実を誰にも伝えていなかった。高木が自分の師を庇って嘘をついた可能性もあると考え、信頼性に欠ける情報を安易に伝えるべきではないと判断したからだ。

 しかしその結果、「武」は依然として杉本への復讐に固執していたのだった。

「ちょうど良かった。あたしもあんたには借りを返したかったところなの」

 挑発するように北野が言い、篠崎も無言で身構えた。

 過激派のリーダー、黒田が遠隔地から放った人払いの術により、三人の他に辺りには誰もいない。対象エリアの付近を通る人々の精神に干渉し、無意識にそこを迂回する行動を選択させる術式。発動に必要となる詠唱が長すぎるためマジック・ウォッチに搭載することの叶わなかった魔法の一つだが、その効果は絶大だった。顔を見たことのない「ボス」が、二人には恐ろしい存在のように感じられた―これほどの大規模な術を使いこなし、古き時代の魔術にも精通している熟練の魔術師が只者であるはずがなかった。

 不意に「武」が足を止め、左腕を突き出す。紫の紋章が展開され、そこから四体の生ける屍が飛び出した。

 襲いかかるゾンビの群れに二人はマジック・ウォッチを向けて魔術を放ち、戦いが始まった。


『アポロン・アタック』

 電子音声に続いて、紅に燃える二つの火球が勢いよく撃ち出される。北野と篠崎の繰り出した攻撃が、二体のゾンビに命中した。腐敗した死体たちは少しよろめいたもののすぐ体勢を立て直し、再び両腕を前に突き出した姿勢で突進してくる。

 以前魔法協会を襲撃した際にも用いられた、肉体の耐久度を上げた屍たち。皮膚を焼き焦がされた程度では動じず向かってくる彼らに、北野は舌打ちした。

「この…っ!」

 出し抜けに前に飛び出し、同時に「アレス・アタック」を発動。筋力を強化した右腕を軽く後ろに引いたかと思うと、渾身のストレートパンチをゾンビの顔面に繰り出した。皮膚が硬化されまさに鉄拳と化した右拳が頬に叩き込まれ、めきっ、と骨が砕ける嫌な音がする。元々動きの鈍いゾンビは咄嗟に防御することができず、強烈なパンチを喰らったままの姿勢でしばし動きを止めた。衝撃で首は横を向いたままだ。

 不快な感触に顔をしかめながらも、北野は手ごたえを感じていた。

(いける。いかに耐久力が高くても、直接攻撃で肉体を破壊してしまえば問題ない!)

 さっと拳を引き次の獲物へと向き直った瞬間、死体の一つが動いた。

 ちょうど今、倒したはずの死体が。

 奇怪な叫びを上げて足を蹴り上げたゾンビの攻撃は、北野にとって完全に想定外だった。反射的に左腕で体を庇い、ガードする。まだ「アレス・アタック」の効果が続いており、硬化された皮膚のおかげでダメージはほとんどなかったのは幸いだった。

「北野さん!」

 篠崎が発動した魔法が、北野とそのゾンビとの間に土の障壁を形成する。その隙に北野は後ろに跳び、篠崎の隣に並んだ。気づけば、冷や汗をかいていた。

 四体のゾンビが一斉に体当たりし、土の壁はあっけなく破壊された。そのうち、北野に殴られたゾンビの顔は醜く歪み、顔の左半分は原型をとどめていない。腐った皮膚が時折、そこからぽろぽろとこぼれ落ちている。

土煙の舞う遥か遠くで、屍たちを操る「武」が愉快そうに笑っていた。

「そいつらには痛覚がない。だから死ぬまで動き続ける。…ま、元から死んでるから死ぬも何もねえけどな」

 彼を忌々しそうに睨み、北野は前を向いたまま篠崎に言った。

「痛覚がないあいつらを無力化するには、肉体を完全に破壊するしかない。けど、そうするには手間がかかりすぎる…」

「…いえ、もう一つ方法があります」

 冷静に答えた篠崎に、北野はちらりと視線を向けた。


「どうした、やけに慎重だな…なら、こちらから行くぞ!」

 「武」は残忍さを帯びた笑みを浮かべ、四体のゾンビを突進させた。対する北野と篠崎は目で頷き合い、まず篠崎が右手を前に出す。

『ガイア・アタック』

 腐敗した死体たちの足元のアスファルトが大きくへこみ、深さ三メートル強の、すり鉢状の巨大な落とし穴が形成される。蟻地獄に落ちる蟻のようにそこに引きずり込まれるゾンビたちは、なおももがき腕を振り回して、取っ掛かりを掴み這い上がろうとしていた。

『ゼウス・アタック』

 しかし、北野の追撃がそれを許さない。

 繰り出された雷撃が、黄の魔法陣から放射状に枝分かれして屍たちに命中し、その腐った肉体に高圧電流を流し込む。痛みを感じない体とはいえ、電流に晒され四肢が麻痺してしまえば、物理的に体を動かすことはできない。一時的な行動不能に陥った四体のゾンビを一瞥し、二人は「武」へと向き直った。

 あくまでも時間稼ぎにすぎない。だが、本来の目的のためにはこれで十分だった。

 すなわち、術者を攻撃して魔法の継続的な発動を阻害する。使い魔のコントロールを失えば、召喚された魔物は本来あるべき場所へと帰っていくはずだ。

 息の合った連携攻撃で使い魔の動きを一瞬で封じられ、「武」は少なからず動揺していた。使い物にならなくなったゾンビたちのコントロールを手放し、次の攻撃に移るべきか。それともまだ手放さず、麻痺の効果が緩和したらすぐ使役できるようにしておくべきか。その刹那の逡巡により、僅かに対処が遅れた。その隙を、彼女たちは逃さない。

「…行くよ」

「はい!」

 北野の合図に篠崎がこくりと頷き、二人が同時に「ゼウス・アタック」を発動する。雷のエネルギーが紋章の前で光球の形に集まっていき、二つの輝く球体が一つに合わさって稲妻の砲弾と化す。

 唸りを上げて撃ち出された電磁砲弾を、「武」が展開した紫の紋章の盾が受け止めようとする。しかし、彼女たちの合体攻撃を防ぐには、それは力不足だった。

 プラズマを纏ったエネルギー弾が盾を砕き、激しくスパークを飛び散らせる。すぐにもう一枚バリアを展開して稲妻の直撃は回避したものの、衝撃を殺し切れず、「武」は十数メートルも後方に吹き飛ばされた。

「くそっ…覚えていろ」

 起き上がった「武」が悪態を吐き、左腕を前に出して加速魔法を使う。「ヘルメス・アタック」を発動し高速移動が可能となった彼は、風の中に溶けるようにして姿を消した。それと同時に、穴の底に横たわっていた屍たちも塵となって消滅した。


「ふう」

 北野が小さく息をつく。篠崎もつられて、ほっとしたような表情を浮かべた。

「…って、こうしちゃいられない。人払いの効果が切れたら、野次馬が集まってくるに決まってる。処理を済ませて、さっさとここを離れるよ」

 襲撃者を撃退したことを喜びたいのはやまやまだったが、北野はそれより大切なことを思い出した。魔術の存在は一般人には隠蔽されなければならない。

 すり鉢状に陥没したアスファルトに篠崎が再度「ガイア・アタック」を行使し、元の形状に戻す。

「うーん…何だか、最初よりちょっと盛り上がってるような」

 やや隆起した道路を見て首を傾げた彼女の手を引き、北野は足早に駅へと向かった。

「時間がないから、細かいことは気にしなくていいって!…それからこれ、忘れ物」

 はい、と手渡されたのは、戦闘が始まる前に歩道に置いたままになっていた、今日買った洋服が入っている紙袋だった。篠崎はそれを両手で大事そうに受け取り、礼を言った。

「ありがとうございます。うっかり、持って帰るのを忘れるところでした…」

「いいのいいの。あ、それじゃ、あたしこっちだから」

 駅構内に入り改札を抜け、北野が手を振った。二人が乗ってきた路線はまるで違った。名残惜しいが、ここでお別れだった。

「はい。今日は色々とありがとうございました」

 微笑み、ぺこりと頭を下げた篠崎に、北野は去り際ににっこりと笑って声を掛けていった。

「…大切にしてね、その勝負服」

「……へっ」

 混乱してフリーズし、思わず変な声が漏れてしまう。頬がかあっと熱くなるのを感じる。ひらひらと手を振りながら遠ざかっていく北野の後ろ姿に篠崎は呼びかけ、必死で否定した。

「…だ、だから、そういうのじゃないんですってば‼」

 真っ赤になっている様子が目に浮かぶようで、北野は振り返らないままにやにやと笑ってしまった。聞こえていないふりで応え、ホームへ続くエスカレーターに足を乗せる。

(やっぱり、あの子めちゃくちゃ純情じゃない…面白い)

 高木と篠崎をくっつけて恋愛に現を抜かさせるという当初の目論見をもはや忘れかけ、彼女は今や単純にこの状況を楽しんでいた。ホームから吹き込んだ突風が、ツインテールを楽しげに揺らした。


『ゼウス・アタック』

 杉本の放った雷撃の槍が唸りを上げ、

『ポセイドン・アタック』

高木がそれを氷の弾丸で迎え撃つ。両者の放った魔法が二人の立ち位置の中間地点で激突し、相殺された。

 いや、相殺されたと言っては嘘になる。ガードし損ねた幾筋かの稲妻が迫り、高木は素早く横に飛び退いて躱した。

「…だいぶ腕を上げたな」

 感心したように弟子を見つめ、杉本は微かに笑った。

「俺なんか、師匠に比べたらまだまだですよ」

 高木は謙遜して言い、次の攻撃にすぐ応じられるよう油断なく構えた。杉本が再び左手を前に出し、戦いが続行される。

 魔法協会地階にある円形の演習場で、二人は今まさに模擬戦を行っているところだった。熟練の魔術師である杉本にはまだ及ばないものの、戦いの中で成長した高木は、彼とある程度渡り合えるだけの実力を身につけていた。杉本の繰り出した魔術を高木が巧みに防御し、反撃の機会を窺いつつ立ち回る。

 そんな展開を安全な壁際から眺めながら、北野はバッグから取り出したスポーツドリンクを胃に流し込んでいた。先ほど篠崎との模擬戦で失われた水分が、取り戻されていくのを感じる。

 勝利したのは北野だったが、篠崎も腕を上げていて思ったより手こずらされた。攻撃を土の壁で防ぐと同時に相手の足元を崩してカウンターを狙う、という戦術はなかなか手強く感じられた。

もちろん、今回は以前のように寸止めなしの直接攻撃を仕掛けたりはしていない。篠崎の援護があったとはいえ「武」を撃退することができたという事実は、彼女に自分の強さへの自信をもたせていた。もうこれまでの、他人と自分を比べ焦りを感じてばかりいた彼女ではなかった。

もっとも、性格自体が変わったわけではないのだが。

「ねえ」

 北野はペットボトルを下に置き、視線は高木と杉本へ向けたまま尋ねた。

「今日はあの服着てこなかったの?」

「あ…」

 彼女の隣で同様に水分補給をしていた篠崎は、不意を突かれたようだった。

「訓練で汚れてもいけないと思ったので…」

 タオルで汗を拭って答えると、北野は視線を篠崎へ移してくすっと笑った。

「だよねー。大事(・・)な(・)とき(・・)のために取っておかなきゃねー」

「だからそうじゃないですってば!」

 思わず声が大きくなってしまったらしい。杉本の放った火球を床を転がって避け、二人の数メートル先でちょうど立ち上がった高木は、何気なくそちらを振り向いた。

「…ん?篠崎、何か言った?」

「あ、いえ、何でもないです…」

 火照った顔をさらに赤く染め、篠崎は何故か恥ずかしそうに俯いた。首を傾げた高木に師がよそ見をするなと一喝し、高木が平謝りに謝ったのちに演習は再開された。

「…ほら、やっぱり意識してるんじゃない?彼のこと」

 北野が顔を近づけ耳元で囁くと、篠崎はやや顔を離して困ったような表情を浮かべた。遠ざかっていく高木の背中に一瞬視線を向け、慌ててまた下を向く。

「私、正直なところ分からないんです。今まで、恋愛なんてしたことないですし…。人を好きになるって感情が微妙にピンとこないんです」

「―馬鹿ね、今恋してるんじゃないかなって思ったら、もうそれは恋してるの。そういうものなの。自分に素直になって」

 きっぱりと言い切った彼女に、篠崎は尊敬の眼差しを向けた。

「なんか、北野さんが言うと説得力ありますね…」

「当たり前でしょ?あたしなんか、今まで彼氏のいない時期の方が短いくらいだったんだから」

「す、すごいです…」

 鼻高々に披露された自慢話を素直に信じ込み、篠崎は驚嘆していた。実際は多少誇張されていたのだが全く疑っておらず、北野は何だか申し訳なかった―付き合っている異性がいるのは本当だったが。

 向こうでは杉本が試合を切り上げ、いい勝負だったと高木をねぎらっていた。褒められて照れくさそうに笑う彼は無邪気な笑顔を浮かべていて、篠崎の目は自然とそちらに吸い寄せられる。

「私、まだよく分からないですけど、いつか自分の気持ちに答えを出します」

 真剣な表情で言われ、北野はやや面食らった顔をした。出し抜けにすっと立ち上がった北野を、篠崎が見上げる。

「どうかしました?」

「トイレ」

 実に簡潔な答えを返し、北野は上階へ続く長い階段の方へ向かった。後輩をからかうのが面白かったのにどうも気勢を削がれてしまったようで、北野としては不満な展開だったのだ。百パーセントの善意からではないにせよアドバイスをしたことで、篠崎の悩みは解決に向かい始めていた。

「あっ、私も」

 慌てて篠崎も腰を上げ、その後を追った。だが北野は考え事をしていて、後ろから近づく彼女にも気づかない様子だった。

 だからであろうか、階段を静かに下りてくる人影を認知するのが遅れたのは。

 漆黒のローブを羽織った、屈強な男。危うくぶつかりそうになって、北野ははっと顔を上げて横に避けた。

「ごめんなさ…」

 言いかけて、はっと口をつぐむ。

 忘れるはずもない相手だった。

 北野がマジック・ウォッチを装着した左手を向けるより早く、男は振り上げた右腕で彼女を殴り飛ばした。手すりに体を打ちつけ、北野が呻く。

「北野さん!」

 助けに向かおうとした篠崎の懐に「ヘルメス・アタック」を駆使した高速移動で潜り込み、「武」は掌打を繰り出した。篠崎を軽く吹き飛ばして演習場の中に踏み込み、談笑している師弟に怒りの目を向ける。

「……いかん!」

 杉本が目を見開き、高木を庇って突き飛ばす。


『ハーデース・アタック』

直後、無慈悲に合成音声が響いた。

 不意を突いて放たれた紫の閃光に胸を貫かれ、杉本は力なく崩れ落ちた。


「師匠!」

 高木はもう無我夢中で、自分が無防備であることすら忘れ杉本の側へ駆け寄った。急所は外したらしくまだ息はあるが、レーザー光に貫かれた胸は黒く焼かれ痛々しい。目を閉じ、低い呻き声を上げてぐったりとしている師をそっと横たえ、高木は怒りに燃えた目を侵入者へと向けた。

 確か、コードネーム「武」と名乗っていた男だったか。「征」との最後の戦いの際、北野を人質に取り彼をサポートしていた過激派の幹部だ。

 「武」は背後からの攻撃―北野と篠崎は彼の後方にいるはずだ―を警戒していたようで、杉本に致命傷を与えたあとすぐには追撃をかけてこなかった。立ち上がり状況を把握して衝撃を受けている北野、篠崎、そして師の傍らから彼を睨みつけている高木を順番に見回し、「武」は満足そうな笑い声を上げた。

「こうも上手くいくとは思わなかったぜ。出来過ぎだ」

 ふざけた物言いが高木の憤怒の炎に油を注ぎ、さらに赤く燃え上がらせた。

「以前に俺たちの攻撃を受けたときとは、セキュリティに使われてる魔法が若干変えてあったようだな。だが俺たちのボスの手にかかれば、そんなものを解除するのは容易い」

 首をゴキゴキと鳴らし、肩を軽く回す。

「杉本の息の根を止める―それが俺たちの復讐だ。邪魔をするならお前らも容赦しねえぞ」


「…ふざけんなよ」

 静かに言い捨て、高木がしゃがんでいた姿勢からゆっくりと立ち上がった。

 それに呼応するように北野と篠崎も足を踏み出し、三人は相手との距離を徐々に詰めていく。

「確かに、結果的に『征』って人の命を奪ってしまったことは申し訳ないと思う。でもな…」

 高木はさらに一歩踏み出し、「武」と対峙した。

「…そもそも、最初に戦いを仕掛けたのはそっちだった。それに、あのときあいつを倒さなければこっちがやられていた。俺たちがやったことが正しいとは言えない…けど、あのとき取り得る中で最善の選択肢を取ったことは確かだと思う」

「…何が言いたい」

 やや怯んだような色を見せた「武」へ、三人がそれぞれの方向から近づき包囲網を狭めていく。

「あんたに許されるつもりはない…でも、こっちとしては正当防衛をしただけだし、真剣勝負の結果なんだから恨まれるっていうのはちょっと違う。要はそういうことでしょ?」

 階段の最後の一段を下りた北野が、不敵に笑う。

「自分が引き起こした悲劇の責任を全部私たちに押しつけて、自分たちのやっていることを省みようともしない…そして新たな悲劇を生みだし続けるのは、絶対に間違っている。先輩はこう思ってるんじゃないですか?」

 真剣な表情で「武」を見つめていた篠崎が、一瞬、どこか恥ずかしげにこちらをちらりと見た。

「…台詞、皆に取られちまったな」

 高木は二人を見て苦笑し、またすぐに視線を戻した。

「仲間を殺されたあんたの憎しみは、俺にも痛いほど分かる…けど、だからってあんたが別の誰かの命を奪っていい理由にはならないだろ」

「…黙れ!」

 「武」は吠え、ローブを脱ぎ捨てた。黒い半袖シャツ姿になると、鍛え上げられた筋肉がいっそう強調される。

「俺が間違っているだと?…馬鹿な。俺は俺の信じることを為すだけだ。お前らのようなガキの戯言など知ったことか」

 マジック・ウォッチの装着された左腕を体の前に出し、いつでも魔法が発動できる状態にする。それに応じ高木たち三人も警戒を強め、身構えた。一触即発の空気が流れる。

「…やっぱり話が通じる相手じゃなかったかー」

 北野が大げさにため息をつき、相手を挑発する。苛立ちを露わにそちらを睨んだ「武」に、高木は最後の言葉を投げかけた。

「悲しみの連鎖はここで断ち切る。…もう終わりにしよう、過激派の『武』」


「何が終わりだ。俺たちが倒すべき相手は、何も杉本一人じゃない…穏健派の魔術師は全員殺す。それが俺たちに課せられた使命だ!」

 雄叫びを上げ、「武」が連続で冥界術を発動する。紫の紋章から飛び出した三体のゾンビが、体を奇妙に揺らしながら三人へ突進した。

「距離を取って!こいつらは普通の攻撃じゃ倒せない!」

 北野が叫び、指示を出す。高木には知る由もなかったが、前回篠崎と共に「武」と戦ったとき、苦心の末編み出した攻略法だった。

「分かった!」

「はい!」

 高木と篠崎がほぼ同時に「アレス・アタック」を使い、後方に大きく跳んで距離を稼ぐ。北野も同じようにして後退し、着地と同時に篠崎の方を振り向いた。

「…後輩ちゃん、頼んだ!」

「了解です!」

 篠崎は彼女の意図を理解し、「ガイア・アタック」を発動した。刹那、三体の屍たちの描く円、その中心点が最深部になるように演習場の床を陥没させる。すり鉢状の落とし穴が、腐敗した死体を流砂に巻き込みながら下方へと押し流していく。

 自分の知らないうちに二人の間に不思議な信頼関係が築かれていることに、高木は少々驚く気持ちもあった。だが同時に、感慨深いものも感じた。

(最初は何かと対立することも多かった俺たち三人だけど…ここまでやってこれたんだよな)

 決意を新たに、敵との距離を目算で計る。ゾンビらを操っている「武」は彼らのコントロールを手放し、同じ手を食うかとばかりに新たに生ける屍三体を召喚した。同時に、穴の底に囚われていたゾンビらが靄となって消滅する。

(俺たちが出会えたのも、かけがえのない仲間になれたのも、師匠のおかげだった。勝手な理屈でその師匠を傷つけたあんたを…俺は絶対に許さない!)

『ガイア・アタック』

 そのとき、篠崎が再び術式を発動し、地割れを引き起こした。床が大きく揺れ、亀裂が走り、「武」とゾンビたちが束の間分断される。

「今です!」

「分かってる!」

「ああ!」

 篠崎の合図に、北野が威勢よく、高木が微かに笑みを浮かべて応える。二人は「アレス・アタック」を発動して脚力を強化し、地面を強く蹴って高く跳躍した。天井近くまで跳び上がった二人は、真下から見上げている「武」へ魔法を繰り出した。

『ゼウス・アタック』

『ポセイドン・アタック』

 北野が雷撃の槍を、高木が氷柱の雨を「武」へ向けて放つ。使い魔を盾として使うつもりだった「武」は防御手段を失い、咄嗟に上方に紋章の盾を多重展開した。何重もの紫のバリアが張り巡らされ、攻撃を阻まんとする。

 降り注ぐ稲妻と零度の弾丸が紋章を次々に穿ち、あと数枚までに達する。新しくバリアを展開しようとした「武」の視界を、白い靄が包んだ。投射しかけていた魔法陣がそれに遮られ、不発に終わる。

(何だ…?)

 それが、「ポセイドン・アタック」により空気中の水分を水蒸気へ変換したものだと気づいたときには、勝負は決していた。

 再度「アレス・アタック」、さらに「ヘルメス・アタック」を発動した高木が、落下の勢いを加えた渾身の跳び蹴りを放つ。超高速で降下した高木の放ったキックが、残っていた全ての紋章の盾を砕き、「武」を大きく吹き飛ばして壁に叩きつけた。


「ぐあっ…」

 衝撃で肺から空気を押し出され、呼吸しようとあえぐ。無様に崩れ落ち、息をしている「武」を見下ろし、高木は静かに言った。

「…勝負はついた。抵抗するのはやめてくれ」

「何だと…」

 怒りを剥き出しにし、「武」はもう一度立ち上がろうと両腕を床に突き、力を込めようとした。だが、上体を起こすほどの力は残されていなかった。倒れ込み、観念したように手足を無造作に投げ出す。

 高木は彼から目を離さぬまま、後ろの二人へ声を掛けた。

「俺はこいつを拘束しておく。北野は篠崎と協力して師匠を安全な場所へ運んで、それから救急車を呼んでくれ」

「はあ?か弱い女の子に肉体労働をさせるなんてありえないんだけど。普通、こういうのはあんたの役目でしょ」

 早速反発してきた北野に、高木はややげんなりする思いだった。篠崎はというと、どっちに味方すればいいのか判断に困っているらしくおろおろしている。

「お前のどこがか弱い女の子なんだよ」

「…ちょっとそれは聞き捨てならないんだけど?」

 「武」の手足を「ポセイドン・アタック」で生成した氷の枷で縛りながら高木が漏らすと、案の定北野が噛みついてきた。

「…北野さんも先輩も落ち着いて下さい!今は師匠を助けるのが先決です」

 しかし、篠崎の懸命な仲介がその場を収めた。「じゃ、ここはお前に任せた」と高木は北野にあっさりとその役目を譲り、杉本の側に駆け寄って抱き起こした。意識のない杉本に肩を貸すようにして立ち上がると、階段の方へ足を向ける。

 潔い態度に北野は一瞬ぽかんとしていたが、対照的に篠崎は尊敬の眼差しを向けていた。

 高木が円形の演習場を出ようとした、そのときだった。


 地の底から響いてくるような重低音が轟き、高木は師を支えたまま、何事かと背後を振り返った。

 演習場の天井にほど近い位置に、紫の魔法陣が展開されている。それも、普通の陣ではない。通常のものの倍近い直径をもつ、巨大な紋章が投射されていたのだった。

 さっと「武」の方へ視線を向けたが、彼の両手首は先ほどと同じく氷の手枷に拘束されている。マジック・ウォッチも氷漬けになっている。彼が魔法を発動できたはずがない。

 おそらくは、この場にいない第三者が遠隔地から魔術を行使したのだろう。

「ははははは…」

 何が起きようとしているのかと警戒する高木たちとは裏腹に、「武」は大きな笑い声を上げた。

「助かったぜ」

 その一言で、増援が到着したのだと悟る。

『ここは俺は引き受けよう。お前は早く逃げるんだ』

 続いて、「ヘルメス・アタック」を利用して乾いた声が届けられる。それを聞くやいなや、「武」は最後の力を振り絞って「アレス・アタック」を発動した。力任せに手枷足枷を引きちぎり、氷の粒へと変える。強化された脚力を活かし、そのまま演習場出口へ向かって疾駆した。

「待ちなさいよ!」

 後を追おうとした北野を、謎の声が呼び止める。

『君たちの相手は俺だ。…いや、正確には俺の使役する使い魔だな』

 声に応えるように、紫の紋章が妖しく輝き始めた。

 魔法陣が冥界と繋がる。虚空に生じた暗闇から舞い降りるように、人型の、しかし異形のものが現れる。

 真っ白な肌をしたそれは、うら若き乙女のようでもあった。陶器のように白く美しい肌は、あり得ないほどにみずみずしい。非の打ち所がなく完璧に整った顔立ちは、絶世の美女という表現でも上手く表せないだろう。長く艶やかな黒髪は、見る者を一瞬で虜にする。下方で見上げている高木たちを見回し、微笑むその姿は、まるで女神のようだった。

 けれども、纏っている漆黒の羽衣と背から伸びる一対の黒い大きな翼が、これが闇のものであることを鮮烈に伝えてくる。白く美しい女性の姿と隠すことのできない邪悪な本質が、何か倒錯的な美を体現していた。

 身長二メートルほどもあるその女は空中でぴたりと静止し、残忍な笑みを浮かべた。そこには外見からは想像もできないほどの悪意が満ち満ちていて、高木は背筋がぞっとするのを感じた。

(これは、以前師匠が言っていた…)


「冥界術にはいくつかのパターンがあるが、その中でも特に高度かつ厄介なのが使い魔の召喚だ。魔法陣を使ってこの世界と冥界を一時的に繋げ、自分の使役する魔物を自由に呼び出せる。これを会得するには、冥界術を習得するためのものとはまた別の儀式が必要になる…もっとも、それが記されている書物は過激派に持ち出されてしまっているから、詳しいことは分からんが」

 模擬戦ばかりでは疲れるだろうと、その合間に杉本は魔術に関する色々な知識を教えてくれていた。マジック・ウォッチにデータとして読み込むには複雑すぎて断念せざるを得なかった多くの魔法、あるいは昔の魔術師の伝説―弟子たちの質問に答えることもあった。高木があるとき冥界術の仕組みについて説明すると、こんな答えが返ってきたのを覚えている。冥界術を使えるようになってから、しばらくした頃のことだった。

「使い魔はその種族によって脅威度が異なる。さらに、その種族の中でも上位の個体と下位の個体がいる。『征』の使役していた悪魔も、下級のものから上級のものまで幅広かっただろう。あれがいい例だ」

 一番強い種族は何なのか、と尋ねた高木に、杉本はしばし考え込んだものだった。

「俺は冥界術は専門じゃないから確かなことは言えんが…冥界を支配する王は悪魔の姿をしていると言い伝えられているし、悪魔族はかなり強力な使い魔だろう」

 それから、付け足すように言ったのだ。

「ただ、他の種族も決して侮れない。特に…堕天使はな」


 堕天使。

 元々は天界に属していた聖なる天使だったが、闇の力に魅せられて冥界に堕ちたものたち。

 そのうちの一体が、今、頭上に顕現していた。強大な力が、空気すら震わせているのを感じる。

 それでも、高木は怯むことなく堕天使を見上げた。

「俺は師匠を助けなきゃいけないんだ…邪魔をするな!」

 高木はそっと杉本を下に横たえ、何者かが放ったその魔物を睨んだ。マジック・ウォッチを装着した左手を掲げ、狙いを定める。

『ポセイドン・アタック』

 氷のつぶてがいくつも宙に浮かんだかと思うと、まるで流星群のように堕天使へと撃ち出される。

 勢いよく放たれた魔弾を、堕天使は軽く手を振っただけで弾き飛ばした。白い指先に微かな切り傷が走ったが、すぐに塞がる。壁に激突し砕け散った氷塊に視線がいき、高木は戦慄した。

 「征」の召喚した悪魔も強かったが、あれは回復力こそ高いものの防御力はさほどではなかった。致命傷を負わせるのは難しくとも、ダメージを与えるのは難しくなかった。だがこの使い魔は違う。今まで戦った闇のものの中で、別格の強さを見せつけていた。

 次の瞬間、堕天使の両目が淡く光った。


「堕天使は武器を持たず、かぎ爪などもない。見た目は人間に近い…が、奴らが手強い理由はその超常的な力にある。手から放つ破壊光弾、それに目から繰り出すレーザー光などだな。直撃を受ければ命はないと言われている」


「―皆、伏せろ!」

 師の講釈の続きが脳裏に浮かび、高木は咄嗟に杉本を庇うようにして身を伏せた。

 刹那、横薙ぎに放された眩い灼熱の光が暴力的に演習場の壁を焼き焦がし、熱で融解させた。屈んだ高木の頭のすぐ上を、熱線が通り過ぎていく。

 ぱっと周りを見回すと、北野と篠崎も回避に成功していた。ひとまず初撃は躱せたが、安堵している暇はない。

 浮遊する堕天使の目がまた光り、第二波が繰り出された。熱線を横に転がって避け素早く立ち上がると、高木は二人の方を振り向いて言った。

「同時攻撃で一気に決めるぞ!」

「言われなくても分かってるって!」

「…はい!」

 北野と篠崎が力強く応じ、三人は紋章を展開した。

『ポセイドン・アタック』

 高木が氷柱の弾丸を撃ち出し、

『ゼウス・アタック』

北野が雷撃の槍を放ち、

『アポロン・アタック』

篠崎が高熱の火球を繰り出す。

 三方向から一斉に放たれたそれぞれの魔法が、堕天使の胸部と背中を直撃した。胸から薄い煙を立ち昇らせ、女性の姿をした魔物が苦しげに悶える。

 空中をふらふらと彷徨うそれを見て、高木は手応えを感じていた。

(思ったより効いてる。これなら―)

 しかし、その期待はあえなく裏切られる。

 再び静止し漆黒の翼で自らを包み込むようにすると同時に、胸に刻まれた傷がみるみるうちに癒えていく。

 そして、焼け焦げた黒の羽衣を無造作に脱ぎ捨てた。

「ひゃっ…」

 いくら相手が異形の怪物だとはいえ、人の姿をしたものが衣服を脱ぐという光景に篠崎は驚き、思わず変な声が漏れてしまった。高木と北野も、予想だにしなかった相手の行動に唖然としている。

 けれども、堕天使の肢体は気味が悪いほどに白くのっぺりと、つるりとしていた。女性らしい胸の膨らみはあるが、他にこれといった特徴のない痩せた身体つきをしている。体毛は一本も生えていない。いや、体毛はおろか、凹凸という概念がほとんど存在しないかのようだった。何も纏っていないマネキンによく似ていた。

 元々光の側の存在であった天使が闇に堕ちるには、本来有していた人間らしい感情を捨てる必要があった。精神の変化が肉体にも作用し、このような無機的な身体になったのだ。

 裸体を露わにした堕天使は両手を上に掲げ、両の手のひらに闇の光弾を生成した。何発もの黒い光球が、三人へ次々に襲いかかる。

(もうあまりスタミナが残ってない…こうなったら!)

 後ろに跳んで間一髪で攻撃を躱し、高木は勝負を決するべく奥の手を使うことに決めた。

『ハーデース・アタック』

 連続で放たれた紫のレーザー光が束となり、光の矢が堕天使の右肩を貫かんとする。だが堕天使は翼で体を庇うことでそれを防ぎ、高木を一瞥した。その目が妖しく輝く。

(まずい―)

 恐怖に鳥肌が立つ。咄嗟に冥界術を発動し紋章の盾を形成したが、こちらへ容赦なく直進してくる熱線の前に高木は無力だった。

 全身が燃えるように熱い。一瞬で障壁を破壊され、すぐまた次の盾を生成するが防御が追いつかない。

「ぐ…あああああっ」

強烈な熱波が高木を吹き飛ばし、壁に強く体を打ちつけさせた。衝撃で視界が歪みかける。紋章の盾で威力をある程度殺せたからよかったが、まともに喰らえば命はなかっただろう。

 歯を食いしばって痛みに耐え、よろよろと立ち上がった高木に、堕天使は止めをさそうとさらに黒い光球を放った。左腕がずきんと痛み、マジック・ウォッチの照準がぶれる。今の状態では、満足に魔術を使うことも難しかった。

『ガイア・アタック』

 それを、何者かが幾重にも展開した土の壁が阻む。障壁が粉々になって土煙が舞い、高木も堕天使も視界を封じられた。

 やがて辺りが見渡せるようになると、両者の間には篠崎が立っていた。

「篠崎…」

「先輩は無理しないで下さい。ここは、私が…」

 こちらに背中を向けたまま、篠崎は静かに言った。

「初めて会ったとき、先輩は私のことを怪物から守ってくれました。だから、今度は私が…先輩を守って、戦いたいんです!」

 そして左腕を前に出し、凛とした表情で堕天使に挑んだ。

『アポロン・アタック』

 何度も何度も火球を放ち敵を狙うが、堕天使は翼で身を守ったり腕で払いのけたりして容易く攻撃を防いでみせる。その視線が、彼女を射抜いた。

「…篠崎!」

 このままでは熱線の直撃を受けてしまう。高木は残された力を振り絞り、篠崎を突き飛ばして攻撃範囲外へ逃がそうとした。自分は犠牲になるのは構わなかったが、彼女を死なせるのだけは嫌だった。

「……ずるいですよ、そんなの…」

 しかし、くるりと振り向いた篠崎は悲しげに微笑み、逆に高木の胸をとん、と押したのだった。

「…私にも、守らせて下さい」

 背中から床に倒れ込むようにして、高木は熱線の射程圏内から脱した。

 その直後、篠崎の立っていた一帯を炎が包んだ。


 最後に見た光景は、たった数枚の障壁を展開しただけの篠崎が寂しそうに笑って自分を逃がしたところだった。

「……篠崎!」

 高木は我を忘れ、火炎の中に飛び込んだ。頬と額に火傷を負い、ぐったりと倒れているその華奢な体を必死に揺する。

「馬鹿野郎…お前が死んでどうするんだよ!おい、起きろ…起きてくれ!」

 泣き叫ぶ高木を嘲笑うように、堕天使が光弾の一撃を繰り出そうとした。その右手に雷撃が命中し、僅かに顔をしかめて攻撃の飛んできた方向へ顔を向ける。

「あんたの相手は…あたしだ!」

 北野が感情を爆発させ、咆哮する。

 離れた位置では、杉本が意識のないまま倒れている。


(くそっ…)

 高木はそっと篠崎を横たわらせた。自分の無力さが歯痒かった。

(こんなところで終わるのか…)

 まだ脈はあったが、早く適切な手当てをしない限り危険な状態だろう。

 今更ながら、襲撃の場所を演習場に選んだ敵の計算高さが恨めしかった。ここならば、少々戦闘で物音がしても協会の職員は不審に思わない。助けが来る可能性は低かった。

 杉本も篠崎も、とても戦える状態ではない。北野が今奮闘してくれているが、やはり力の差が大きすぎる。

「俺が、やるしかねえんだよ…」

 力が欲しかった。たとえリスクが伴うとしても、皆を守り切れるだけの力が。

 床に震える手を突き、再び立ち上がる。既に覚悟は決まっていた。

「ハーデース…もう一度俺と契約してくれ!」

 はたして次元の彼方へ祈りは聞き届けられ、高木の意識は肉体から分離した。


 気がつくと、前と同じ暗闇の中にいた。

『物好きだね、君も』

 遥か上から降り注ぐ声の主を見上げると、やはり冥王ハーデースだった。深い紺色の皮膚の上に修道士のような黒いローブを纏った、冥界最強の存在。

『今度は何が望みだい?』

「頼む」

 高木は深く頭を下げた。

「俺に、冥界術の力を授けてくれ」

『その力なら、前に与えただろう。これ以上何を望む?』

 冥王は六本の輝く角の生えた頭を軽く振り、不思議そうな顔をしてみせた。

「…冥界術には、いくつかの段階があるんだろ。俺は、その先に進みたい」

 真剣な表情で言う高木を見て、紺色の肌をした悪魔は目を細めた。

『なるほど…私の下僕たちを使役する術が使いたいのだな』

「ああ、そうだ」

 高木がこくりと頷く。冥王は少し考えるような素振りを見せてから、改めて口を開いた。

『君の肉体に追加で刻印を押せば、それは可能だ。しかし本当にいいのか?』

 一旦言葉を切り、続ける。

『君との契約は通常とは異なる形態をとっている。それゆえ、今まで君の魂は、まだ完全には我々のものではなかった。言い換えれば、魂の自由が少しは残されていたということだ。けれどこの契約を果たせば、もう引き返すことはできない。君の魂は死後、地獄の責め苦を味わう。それも、永遠にね』

「構わないさ」

 しかし、高木は迷いなく答えた。

「その力で、誰かの命を救うことができるのなら…俺は悪魔に魂を売る覚悟がある」

『…本当に面白い人間だね、君は』

 ハーデースはくっくっと笑い、背丈を高木と同じくらいまで縮めた。右手をゆっくりと前に出し、その指先が輝きを帯びる。

『いいだろう。交渉成立だ』


 目を開けると、刻印を押された脇腹が鈍く痛んだ。

 精神が肉体へ帰還し、演習場へ戻ってきている。

「…うあああっ!」

 北野の悲鳴が聞こえ、はっとしてそちらへ顔を向ける。熱線をどうにか土の障壁で防いだものの衝撃波は殺せず、その細い体が宙を舞った。

 まだ体のあちこちが痛む。どうやら今回は、回復魔法のサービスは付けてくれなかったらしい。

 だが、まだ戦える。

 高木は前方に疾駆し、落下し床に激突しようとする北野を間一髪で抱きとめた。

「大丈夫か」

 一瞬目が合うと、北野の頬に朱が差した気がした。

「下ろして」

 表情とは裏腹につっけんどんに言い、北野は再び床に降り立った。連続で魔法を行使したせいで、かなり辛そうに見える。

「…ったく、何の権限があってあたしの腰に手を添えるわけ?」

 助けてもらった恩を何も感じていないかのように、苛立ちを見せて言う。しかし高木はそれをあっさりと聞き流し、彼女の前に立って宙に浮かぶ堕天使と対峙した。

「何してんの、あんたは下がってて!その状態じゃ…」

「まあ見とけって」

 焦ったように言う北野を手で制し、高木は上方を見据えたまま、左腕をすっと前に出した。

「反撃開始だ」


『ハーデース・アタック』

 高木の前に紫の魔法陣が投射される。通常のものよりも大きい―使い魔を召喚するための紋章だ。

(…そう言えば、どの魔物と契約したんだ?俺は)

 術を発動させてからふと思ったが、こうなれば運を天に任せるしかない。状況が緊迫していたため、刻印を押されてすぐにこちらに帰ってきてしまったのだ。詳しい話は何も聞いていない。

 はたして、まず魔法陣から現れたのは灰色の頭部だった。尖った耳、長い舌。口から覗く鋭い牙。全体的に蝙蝠に似た頭部は、凶暴そうな印象を与えた。

(これは…悪魔か?)

 けれども、間もなく露わになったその全身を見て、推測が間違っていたことを知る。

 確かに、外見は悪魔にそっくりだ。しかしながら、それは「征」の使役していたような醜悪な見た目の怪物とは一線を画している。人間がイメージする悪魔の姿をそのまま具現化したような、洗練され余計な装飾のない姿をしていた。

「ガーゴイル…」

 高木は、思わず呟いた。

後方では、北野が呆然として現れた魔物を見つめている。いつの間にこんな力を得たのか、彼女には理解が及ばなかった。

 悪魔をかたどって造られた、意志を持つ魔像。堅固な石でできた強靭な肉体を揺らし、堕天使へ力強く咆哮する。背中から伸びる蝙蝠の翼をはためかせ、ガーゴイルは空中へ跳び上がった。

 堕天使を倒したいという高木の意志に反応したのだろう、それと同等の大きさの巨大なガーゴイルが、唸り声を上げて突進する。翼を広げ、真っ直ぐに堕天使へ迫る。

 堕天使の両目が輝き、そこから超高熱の光が放たれる。

(体を捻って避けろ!)

 直感的に念を送ると、魔像は忠実に命令に従った。飛びながら体を巧みに回転させ、ぎりぎりのところで熱戦を躱す。続けて繰り出された黒い光弾を翼と尾で叩き落とし、ガーゴイルは相手の懐へ潜り込んだ。

 光弾を放っていた堕天使の両手を掴み、ぐっと力を込めて自由に動かせなくする。これで光弾は防げたはずだ。

 だが、再度妖しい光を帯び始めた堕天使の瞳を見て、高木は青ざめた。

(しまった…)

 至近距離からあの灼熱の光線を喰らえば、ガーゴイルとてひとたまりもない。かといって今更回避しようにも、相手の両腕をホールドして膠着状態に陥っているせいで容易には動けない。下手をすれば、自由になった手から光弾を放たれる。

(心配するな、小僧―)

 そのとき、高木の心に直接語りかける低い声があった。

(俺の力は、こんなものではない!)

 さらに、バキバキ、と何かが凍てつくような音が響き、高木は何が起こったのかと目を凝らした。見れば、ガーゴイルが掴んでいる堕天使の両手が、掴まれている部分から侵食されるようにして石化していく。みるみるうちに堕天使の上半身全てが石化し、放たれようとしていた熱線は不発に終わった。人形のように美しかった顔も、無表情な石に変わる。堕天使は声にならない叫びを漏らすと腕を乱暴に振りほどき、空中をめちゃくちゃに飛び回った。もはや、目は見えていないに等しいらしい。

 触れたものを石に変える。それが、このガーゴイルの備えた能力であるようだった。

 ガーゴイルは堕天使へ素早く接近すると体を横に一回転させ、長い尾を思い切り叩きつけた。強烈な打撃を喰らった堕天使が悶え、演習場の床へ背中から垂直に落ち、したたかに体を打ちつける。

(―小僧、今だ!)

 心に響いた声に従い、高木はガーゴイルのコントロールを一旦保留にすると、衝撃から立ち直れないでいる堕天使へと駆け、床を強く蹴って跳び上がった。

『アレス・アタック』

『ヘルメス・アタック』

 筋力強化と高速移動の魔術を併用し、音速の跳び蹴りを繰り出す。

勢いよく降下し、渾身の蹴りを叩き込む。堕天使の腹部にキックがクリーンヒットし、石化した堕天使の肉体は文字通り粉々に吹き飛んだ。

 辺りに散らばった石の破片を一瞥し、それから高木は宙で静止しているガーゴイルへ視線を向けた。

「…ありがとう、力を貸してくれて」

 微笑みながら言うと、悪魔をかたどった石像はフンと鼻を鳴らした。

(―礼などいらん。契約に従ったまでだ)

 どうやら、なかなか気難しい性格の使い魔らしいな…と思っていると、ガーゴイルは付け足すように言った。

(最初の召喚から高位のガーゴイルである俺を呼び出せたということは、小僧にはまあまあの才能があると見える。こんな魔術師を見るのは久しぶりだ…精進しろよ)

「…ああ!」

 少なくとも北野よりは扱いが楽そうだ、と少し安堵しつつ、高木は大きく頷いた。母の冥界術の才能は、確かに自分に受け継がれているようだった。

「もしまた強い敵が現れたら…そのときは、また一緒に戦ってほしい」

(―ああ、任せろ)

 短いやり取りの後、高木は「ハーデース・アタック」の効果を解いた。ガーゴイルの身体が魔法陣に吸い込まれ、冥界へと帰っていく。

「…ちょっと、一体誰と話してるの⁉師匠を運ぶのを手伝って」

 不機嫌そうな声が背中に投げかけられ、高木は苦笑して振り向いた。

「悪い悪い、今行くって…」 

 不意に言葉が途切れ、目の焦点が合わなくなる。幾度にもわたる魔術の行使で、高木の肉体には限界まで疲労が蓄積されていた。

 北野が何か叫んだ気がしたが、もう彼の耳には届かない。意識がだんだんと遠のき、そして何も分からなくなった。


 その頃「武」は魔法協会を飛び出し、アジトへと逃走している最中だった。協会にいた魔術師の何人かに気づかれて追われたが、ゾンビを放って足止めしてきた。今のところ、追手の気配はない。

 念のため後ろを振り返って尾行されていないことを確認し、「武」は大きく息をついた。額には玉のような汗が浮かんでいる。体力温存のため「ヘルメス・アタック」はなるべく使わずに移動しているが、蓄積された疲労はそう簡単にとれるものではない。

 「武」はしばし足を止めて、荒い呼吸を繰り返した。辺りはひっそりとした住宅地で、交通量も少ない。ここならば、不審な目を向けられることもないはずだった。

 日はまさに没しようとしていて、空にはぼんやりと月が見える。再びよろよろと歩き始めた「武」は最初、前方の暗がりに立つ男に気づかなかった。

 電柱の陰から姿を現したのは、黒いコートを羽織った長身の痩せた男だった。

「…何だ、お前か。びっくりさせるなよ」

 「武」は一瞬体を強張らせ、相手の正体を見て取るやほっと胸を撫で下ろした。

「さっきはありがとうな。ひょっとして、アジトまで送ってくれるのか?優しいねえ」

 話している相手は、使い魔である堕天使を寄こし、「武」が逃げるのを助けてくれた張本人であった。

「送ってやらないこともない…が、行き先はそこではない」

 謎めいた答えを返し、「覇」はにやりと笑った。「武」が戸惑ったような表情を見せる。

「どういうことだ。計画に何か変更があったのか」

「―つまり、こういうことだ」

 コートをばさりと脱ぎ捨て、左腕に装着されたマジック・ウォッチが露出する。「覇」はもう笑っていなかった。冷酷な眼差しを向け、宣告する。

「お前にはここで死んでもらう。お前を送る先は…地獄だ」

「ま…待てよ」

 「武」の両目は恐怖で見開かれている。数歩後ずさりながら、軽く両手を挙げて敵対する意志がないことを示した。

「どういうことだ。俺たちは同じ目的のために集った仲間だろう。それに、さっきは俺を助けてくれたじゃねえか」

「あれはカモフラージュにすぎない。誰も助けをやらなければ、黒田様が俺を責めるようなことになりかねん。いわば、忠誠を示すための芝居だ」

 一歩、また一歩と獲物を追い詰めるように近寄り、「覇」は淡々とした口調で言った。

「何だと…⁉」

 動揺を隠せない「武」が、さらに後退する。

「お前と穏健派の魔術師との戦闘データは、もう十分にとれた。お前は用済みだ…せめて、俺と戦うことで追加のデータ収集に協力してくれ。それならば、将来的に邪魔者となるお前を消すこともできて一石二鳥だからな」

 そう言うと、「覇」は上空に巨大な紫の紋章を投射した。そこから現れたのは、漆黒の衣を纏った一体の堕天使。身長三メートルはあるだろう。夜空に翼を広げ、地上に立ち尽くす標的に微笑みかける。

「わけの分からんことをごちゃごちゃと…」

 もはや戦闘は避けられないと判断し、「武」もマジック・ウォッチから魔法陣を展開した。

「こんなところで終わってたまるか!」

 魔法陣から五体のゾンビが出現する。ぼろぼろの衣服を身につけた生ける屍たちは、唸り声を上げて突進した。だが「覇」は動じた素振りも見せず、堕天使にちらりと視線をやっただけだった。

 使い魔に命令を伝えるには、それだけで十分だった。

 堕天使が地上を蠢く魑魅魍魎を一瞥すると同時に、その瞳が輝く。横に薙ぎ払うように放たれた灼熱の一閃が、腐敗した死体たちを瞬時に焼き焦がし、肉体を気化させて完全に消滅させた。

(何て強さだ…!)

 戦慄するほどの破壊力だった。肉体の耐久度を限界まで引き上げた使い魔を瞬時に撃破され、「武」は劣勢を意識せざるを得なかった。

『ヘルメス・アタック』

 ゆえに、彼は撤退を選んだ。再び高速移動の術式を発動し、疾走して堕天使の攻撃範囲から逃れる。

 その後ろ姿を見やり、「覇」は呟いた。

「…試してみるか」

 そして、「ハーデース・アタック」による堕天使の使役を中断すると、左腕を前に突き出す。

『ヘルメス・アタック』

『アルテミス・アタック』

 次の瞬間、「覇」の肉体は一気に加速され、「武」の背後に迫っていた。さらに左手の前に展開された白の紋章から三本の矢が放たれ、「武」の肩と背、右足をそれぞれ正確に射抜く。天界術の一つである「アルテミス・アタック」は夜にしか使用できないという条件があり、月が出ていると貫通力が向上する。今や辺りはすっかり暗くなり、術式の発動に最適な環境が作り出されていた。

「がっ……!」

 倒れた「武」は激痛に悶え、アスファルトの上を転げまわった。急所は逸れたようだが右足に深々と矢が刺さり、もう歩くことすらままならない。肩と背からも、痺れるような痛みが断続的に襲ってくる。余裕を感じさせる足取りで迫る「覇」の姿が、街灯の明かりにぼうっと照らされて見える。

 そのとき初めて、彼は気づいた―「覇」の腕に装着されている腕時計型デバイスが、過激派の黒色でなく銀に塗られていることに。

「呆気ないものだな。…では、お別れだ」

 その目には、何の感情も籠っていなかった。ターゲットを見下ろし、「覇」はシルバーに塗装されたマジック・ウォッチをターゲットへ向けた。

『ハーデース・アタック』

 紫の魔法陣から放たれた一筋のレーザー光が、「武」の心臓を一思いに撃ち抜く。じたばたともがいていた獲物の身体からふっと力が抜け、だらりと手が下ろされる。

 組織の命に従い、杉本宗一を狙撃した。味方であるはずの人物にそれと同じ攻撃をされ命を奪われたのは、彼にとって実に皮肉な運命だったといえるだろう。

 「武」がこと切れたのを確かめ、「覇」は立ち去ろうとした。が、足を止め顔をしかめる。

「やはり、まだ術式を併用すると負担が大きいか…。だがこれで、我らの目的にまた一歩近づいた」

 満足げに笑い、「覇」は闇に紛れて消えた。

 言うまでもないが、冥界術の契約により「武」の魂は永遠の苦しみを味わうこととなる。

 

 気がつくと、演習場の天井から吊り下がったシャンデリアが見えた。体の下に、何か布のようなものが敷かれている感触がある。

 不思議なことに、痛みや疲労感は消え失せていた。戸惑いながらゆっくりと上体を起こすと、近くに立っていた魔術師の男がこちらに気づいた。

「目を覚ましたぞ!」

 知らせを聞いて真っ先に高木に駆け寄ってきたのは、篠崎だった。目の縁にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「すみません、先輩…私、あまり役に立てなくて」

 全身に負っていたはずの火傷が、嘘のように消えている。状況をよく呑み込めぬまま、高木は笑って首を振った。

「そんなことないって。ともかく、無事で本当によかった」

 ふと下に敷かれている布に視線を落とすと、何やら複雑な幾何学模様や数式がびっしりと書き込まれた円が印刷されていた。

「魔法陣…?」

「―ああ、そうだ。あの後、協会に常駐している職員を呼び、治癒魔法の陣の上に負傷者を移動させて治療を行った。俺もこの通りだ」

 続いて近づいて来たのは杉本だった。レーザー光で撃たれた傷は完治したようで、もうぴんぴんしている。その後ろに立つ北野も元気そうだ。おそらくこの周りにいる数名の見知らぬ魔術師たちが、その職員なのだろう。

 健在な師の姿をまた見ることができたと思うと、何か感慨深いものがあった。

「…師匠、無事で何よりです」

「それはこっちの台詞だ」

 杉本は苦笑して返した。

「高木の活躍は北野から聞いた。感謝しているぞ」

 そう言って師から差し出された手を、高木は微笑み、強く握って立ち上がった。

「精進します」


「さて、今回の件についてだが」

 回復の魔術を施してくれた職員たちに礼を言った後、杉本は弟子たちを来客用の洒落た内装の部屋へ集めた。ソファに全員が腰掛けたのを確認し、口火を切る。

「俺はその間意識がなかったから分からんが―過激派の連中が援軍に寄こした堕天使は尋常な強さではなかった、というのは本当か」

「…はい」

 北野が真剣な顔つきで断言した。

「『征』が使役していた上級悪魔を凌ぐ強さだったと思います」

 彼女の言葉に、高木と篠崎も頷く。と、北野が高木の方を向いて付け加えた。

「あんたが変な石の化け物を呼び出してくれなかったら、皆やられてたかもね」

「せめてガーゴイルって言えよ…」

 突っ込みを入れた高木に、杉本は危惧するような眼差しを向けた。

「高木が新たな力に覚醒したのは心強いが、それは一方で闇のものとの契約が強まったということでもある。それを忘れるなよ」

「はい」

 高木は、こくりと首を縦に振った。ハーデースに再び接触したことで、冥界術の契約はいよいよ強固なものとなってしまった。一刻も早く過激派を倒し、契約の解除方法の記された魔導書を取り返さなければならない。

「…話を戻そう」

 咳払いを一つし、杉本は姿勢を正した。

「あの使い魔が示すように、敵はますます強くなっている。これから過激派との戦いは激しくなる一方だろう。決して気を抜くな」

「…はい!」

 三人はほぼ同時に答えた。皆、とうに覚悟は決まっていた。


「『武』もやられた…だと⁉」

 同時刻、過激派のアジトである廃ビルの一室では、帰還した「覇」の報告を受けてざわめきが起きていた。

「どういうこと?」

 今にも掴みかからんばかりの剣幕で迫る「威」を、「覇」は困ったような表情を浮かべてまあまあとなだめた。

「俺が堕天使を放ってその場からは逃がしたが、どうやら穏健派の追手がいたらしい。そいつにやられたようだ」

 言葉を切り、沈痛な面持ちで黙り込んだ彼を見て、「威」は何も言えなくなってしまった。誰のせいでもない。運が悪かったのだと思うより他になかった。二人を取り囲む過激派の構成員たちも、それぞれに彼の死へ思いを馳せている。「武」の直属の部下だった魔術師らは、涙している者も少なくなかった。

 いかつい外見に反し策士で、作戦を実行する際は常に用意周到だった「武」は一定の尊敬を集める存在だった。「威」の恋人だった「征」はそのカリスマ性で人を惹きつけたが、彼はどちらかというと能力の高さを買われていた印象だ。

 もっとも今回の襲撃に関しては、復讐を果たそうとするあまりやや性急だったようだ。けれども、「威」には彼を批判できなかった。

自分だって、恋人の命を奪った穏健派の魔術師をこの手で仕留めたいと思っている。多分、「武」よりずっと強く。それでも行動に移さないのは、自分の感情よりも組織全体の意向を重要視しているからに過ぎない。一度高木賢司という穏健派の青年に奇襲を仕掛けたことはあるが、途中で「覇」に制止され決着はつかなかった。

重い沈黙が続き、やがてリーダーである黒田がおもむろに口を開いた。見苦しくない程度に伸ばした髭を撫でながら、思案気に言う。

「こうなると、いささか戦力不足の感が否めんな。今後の展開次第では、私や『覇』が戦線に出るのもやむを得ない」

 強力な使い魔を使役できる魔術師は貴重な存在であるため、普段は自ら戦場に赴くことはない。万が一戦闘の中で倒された場合、戦力を大きく削がれることになるからだ。

 しかし、四人の幹部のうち二人が命を落とした今、もはや手段を選んでいられる状況ではなかった。

「かしこまりました」

 「覇」は慇懃に一礼した。唇には微かな笑みが滲んでいた。


 京都市中心部に位置する、瀟洒な造りの大邸宅。そこは二条智宏の自宅であり、公にはされていないが、彼が指導者の立場を務める融和派の本拠地でもあった。

 日本式庭園を見渡せる広い縁側に、彼は青年と並んで腰かけていた。

 二条は和服姿だ。綺麗に剃り上げた坊主頭、堂々たる恰幅と相まって、どこかの寺社の僧侶であるかのようだった。片手には扇子を持ち、軽く仰ぎながら夜空の星を眺めている。

 その左隣に座っているのは、倉橋烈だった。鼻筋の通った、思わずはっとするほどの美貌の青年。やや先のカールした黒髪に、病的に白い肌。人外の美を体現していると言っても過言ではない。

 二人はまるで平安時代の貴族のように、しばらく無言のまま物思いに耽っていた。

「見ろ、月が出たぞ」

 やや唐突に、二条が空の一点を嬉しそうに指差した。倉橋もそちらに目を向ける。

「本当だ…綺麗だね、父さん」

「ああ」

 二条がにこやかに笑い、ふと思い出したように言った。

「烈、体調はどうだ」

「…うん、すごくいい感じだよ。前よりずっと体が軽いんだ」

「そうか」

 返答を聞き、二条はますます笑みを深めた。実に満足しているように見える。

「失礼します」

 そこに、背後の襖をそっと開けて黒いコートの男が入ってきた。男は二条の右に正座し、倉橋へと視線を投げた。

「薬剤投与の効果が、少しずつ現れてきたようですね」

「ああ」

 当の本人ではなく二条が応じる。

「これからも継続させよう。…ところで、そろそろ烈にも実戦経験を積ませた方がいいと思うのだが」

 「覇」は、少し意外だというように眉をぴくりと動かした。思案げに口を開く。

「過激派を刺激するのは、避けるのが賢明でしょう。二条様のご命令通りに『武』を始末したばかりですし、下手に動けば私に疑いがかかってしまいます」

「…では、穏健派幹部を過激派の仕業に見せかけて暗殺するのがベストか。結果的には、我々が直接手を下すことなく過激派を排除できる。…既にデータ収集は十分すぎるほどできている。彼らはもはや用済みだよ」

 世間話でもするような軽い口調でプランを話す二条に、「覇」は微笑んで賛同を示した。

「良い考えですね。過激派は冥界術を躊躇なく使う分、穏健派よりも厄介な存在…我々の計画の障害になることは間違いありません」

 二条は大きく頷き、それから首を捻った。

「さて、ターゲットをどうするか。七賢人の一人でも潰しておくか」

 そのとき、それまで黙っていた倉橋が二条の方を見た。

「…僕、この前の術式のテスト中に同い年くらいの男の子に会ったんだ。多分穏健派だと思う。あの子じゃ駄目?父さん」

 何故あの魔術師に拘るのか、彼自身にもよく分からなかった。ただ、あの夜の出会いに何か運命的なものを感じていたのは事実だった。

「…なるほど、若く未来ある魔術師を殺した方が、過激派への怒りをさらに煽れるかもしれん」

 作戦としては悪くはない、と二条は一応その意見を認めた。だが「覇」はこれには不満だったらしく、異を唱えた。

「しかし、今は穏健派の勢力を削ぐことも重要かと。七賢人の老人たちは、第一線を退いてはいるものの強力な魔術師です。この機会に頭数を減らしておいて損はないと思われます」

 忠実な部下の進言を撥ねつけるほど、二条は親馬鹿ではない。小さく首肯し、倉橋を振り返って言った。

「…君の言うことももっともだ。烈、今回は我慢しなさい」

「分かったよ、父さんの言うとおりにする」

 やや不服そうではあったが、倉橋は父の指示におとなしく従うことにした。逆らおうなどという選択肢はなかったし、頭に浮かびさえしなかった。

その日は雨だった。

 篠崎は濃い青色の傘を差し、学校から駅への道を急いでいた。この一週間は期末テストの期間で、授業はテストのみかつ午前中で終わる。早く帰って明日の科目に備えたかった。

 歩道のところどころに生じている水たまりを、ローファーを履いた足で慎重に避けて歩く。駅が見えたと思った折、耳にひどく苦しげな呻きが飛び込んできた。

「うう……」

 ぞくりと寒気がし、篠崎はぱっと後ろを振り返った。だが誰もいない。信号機が呑気に明滅しているのが視界に入っただけだった。

「う…」

 また奇妙な声がし、ふっとそれが途切れる。

「…誰かいるんですか?」

 怖々と問い返してみたが、返事はない。篠崎は今来た道を少し戻り、通りから脇に伸びる細い路地の入口を見つめた。曇天の下、連なった家々に挟まれたそこは暗くひっそりとしている。

(もしかして、ここから…?)

 恐る恐る一歩踏み出し、路地に入った途端、篠崎は立ち尽くした。顔から血の気が引くのを感じる。無意識のうちに、傘を握る手がわなわなと震えていた。もたつきながらもどうにか携帯電話を取り出し、魔法協会へ連絡する。

「もしもし…あのっ、人が倒れています。魔法で攻撃されたと思われる跡があります。すぐに来てください!」

 通話を終えてしばらくの間、篠崎は何も考えることができなかった。


 魔術師と思しき五十代後半の男性の遺体には、胸に何かで撃たれたような火傷が残っていた。四方から囲まれて一斉射撃を受けたらしく、皮膚が焼け焦げている箇所は多い。

 被害者を発見したのが弟子だと聞き、協会の職員らに続き杉本も現場に急行した。ショックを受けているであろう篠崎を案じ、師から話を聞いた高木と北野も駆けつける。

 走り寄ってきた三人を見て、篠崎は泣きそうな顔になった。

「師匠…!先輩たち…!」

 すぐ側では、数名の魔術師たちが忙しく動き回っている。

「篠崎…」

 杉本は無言で弟子の肩を叩いた。

「よく知らせてくれた。ひどいものを見ることになって、辛かったろう」

「いえ、覚悟できていなかった私が悪いんです…。おかしいですよね。『征』って人を師匠が倒したときは、こんなに衝撃を受けなかったのに…」

 曖昧な笑みをつくった彼女に高木が近づき、心配そうに言う。

「…無理するなよ」

「はい…っ」

 零れかけた涙を見せまいと、篠崎は雨に濡れた手で目頭を拭った。


「本当ですかな?その、今回の事件の被害者が末永源一郎殿だというのは」

 遠方からはるばる魔法協会を訪ね、円卓の会議室に招かれていた二条は、動揺している様子だった。急いで赴いたにもかかわらず、上等な着物を着ることは忘れていない。犠牲者の冥福を祈る意味か、今日は黒を基調とした柄であった。

「そのようです」

 七賢人の一人、松宮はテーブルを拳で強く叩いた。日に焼けた、小柄な中年男性である。彼は穏健派の魔術師の中では特に末永と親交が深く、休日には誘い合ってゴルフや釣りに出かける姿も多く目撃されていた。普段は快活そうな印象を与える人物だが、今日に限ってはその顔は憎しみに歪んでいた。

「感電したとみられる跡が多数見つかっており、遺体の状況から、おそらくは魔術により電流を流し込まれたものと思われます。金銭を奪われてはおらず、末永氏の殺害自体が犯人の目的だったのでしょう」

 そこで一度言葉を切り、目頭を軽く押さえる。

「末永氏は誰からも好かれていました。穏健派に属しており彼に恨みをもつ人物の犯行だとは考えにくい…何より、正常な判断のできる人間ならば、この非常時に自ら穏健派の戦力を大きく削ぐような真似はしないはずです。以上のことから、過激派によるものと考えてまず間違いないでしょう」

「それは、何とも…」

 二条は言葉を濁した。

「我々融和派としても、過激派の撲滅を全力でバックアップさせていただきます。彼らのやっていることは、まさに悪魔の所業だ。到底、許すことなどできません」

「よく言った。まさにその通りだ」

 円卓についている白髪の老人も声を上げた。

「そうだ」

 松宮も加勢し、議論は過激派を迅速に壊滅させる方法へシフトしていった。犯人が過激派に属する人物であることを疑う者など、いるはずもなかった。

「融和派さんの方で、何か開発中の武器みたいなのはないのかい。数では勝っているとはいえ、冥界術を使える相手とやり合うのは少々骨が折れるよ」

 六十代と思われる痩せた男性の発言に、二条はいかにも残念そうに首を振った。

「あるにはありますが、まだ実戦に投入できる段階ではありません」

 それを聞いて僅かに表情を曇らせた松宮に、二条は励ますように言った。

「我々も我々にできることをします。…融和派には、穏健派ほどの戦闘技術はありません。その代わりと言っては何ですが、敵の本拠地を突き止めることに尽力したいと考えております」

「本当か」

 松宮が顔を輝かせ、他の面々も一気に色めき立った。

「ええ、もちろんです」

 二条は笑顔を浮かべ、七賢人の一人一人と固い握手をした。緊急会合はそれで終了し、二条は一礼して会議室から退出した。


「七賢人の末永が殺された、との情報が入りました」

 アジトとしている廃ビルに帰還した「威」の報告に、黒田や「覇」を含む過激派の構成員らはざわついた。

「確かなのか」

 動じず冷静に尋ねた「覇」に、彼女はこくりと頷いた。

「リーダーの指示通り、魔法協会周辺を部下に監視させて動向を探っていました。その矢先、この知らせが…。信憑性はかなり高いと思われます」

 黒田は顎髭を撫で、皆を見回した。腰掛けていた椅子から立ち上がり、険しい顔つきで言う。

「…七賢人を暗殺しろなどという命令を出した覚えはないが」

 低い声で続ける。

「誰だ。奴を殺したのは」

 一斉に場は静まり返った。名乗り出る者は誰もいない。

「…もしかして、『征』様や『武』様の部下だった人が復讐のためにしたとか」

 やがて一人が発言したが、傍に立っていた別の男がいきなり彼に掴みかかった。

「何を言う。自分は二人の配下じゃなかったから、無罪だとでも言いたいのか」

「―やめなさい」

 「威」が一喝し、騒ぎは収束した。胸倉を掴んだ男がきまり悪げに手を放し、再び沈黙が訪れる。

 その後も時折意見が出はしたが結局のところ結論は出ず、自白する者も現れなかった。

 七賢人を倒せるほどの実力をもつ魔術師がそう多くいるとは思えないが、不意打ちを仕掛ければ不可能ではないかもしれない。ある意味犯行は誰にでも可能だった、ともいえる。

 はたして、真相は闇の中に葬られた。

 組織内部で疑念が広がるのは、もはや必然であった。


 末永源一郎の死亡が確認され、遺体は魔法協会の職員らが丁重に埋葬することとなった。

病院に運び込めば高圧電流に晒された跡に注目され、殺人事件として捜査が進められてしまうだろう。魔術師間の争いに民間人を巻き込むのは、間接的な接触であれ極力避けなければならない。それが、穏健派の方針である。

「あとのことは俺たち大人に任せてくれ。お前たちはもう帰れ」

 レインコートに身を包んだ杉本はそう言い、職員たちが遺体を担架に乗せるのを手伝いに行った。近くには、魔法協会のものと思われる黒の大型車が停まっている。

「…分かりました」

 自ら汚れ仕事を引き受けた師の気遣いを無駄にすまいと、高木は小さく頷いた。

「さあ、帰ろう」

 振り返り、無理に明るい声を出してみたが、どうも空回りしてしまった。北野は白けたようにこちらを睨んでいるし、篠崎はまだ平静を取り戻せておらず顔色が悪い。あれだけのものを見てしまったあとでは、それも当然であった。

 苦悶の表情を浮かべ絶命していた老魔術師の死体は、悪夢から抜け出してきたかのようなむごたらしさを孕んでいた。担架に乗せられ白いシーツを被せられた今はその顔は見えないが、見たときは思わず目を背けたくなったものだ。

「少しは空気読めば?」

「…すまん」

 北野に苛立たしげに言われ、高木は謝るしかなかった。頭を下げた高木の横を、北野がすっとすり抜ける。

 そして篠崎の手を軽く握ると、高木の方へ引っ張ってきた。篠崎が戸惑った様子で二人を見る。

「謝らなくていいから。代わりに、この子をよろしく」

「…いいけど、何でだ?」

 思惑が分からずに訝しんで尋ねると、北野はやや躊躇ったのちに彼の耳元で囁いた。吐息が耳にかかり、くすぐったいような感覚を得る。

「あたしじゃ力になれそうにないから…。こういうの、得意じゃなくて」

「…そうか」

 言わんとしているところを察して、高木は分かったと軽く頷いた。今の篠崎を助けてやれるのは自分ではなく、高木だということだろう。

「うん」

 北野は申し訳なさそうに、寂しそうに微笑むと、小さく手を振った。踵を返し歩みを進めると、艶のある黒髪のツインテールが揺れる。マゼンタ色の傘が次第に遠ざかり、路地を出て人混みの中に紛れて消えた。

 彼女自身、自分の性格に無自覚という訳ではないのだろう。いや、むしろ自らの抱える歪みを熟知しているに違いなかった。だからこそ、ここは自分の出る幕ではないと判断し手を引いたのだろう。高木には、それが単なる責任逃れだとは思えなかった。自分では篠崎を励まし、勇気づけることはできないと悟り、その役目を高木に託したのだ。

「…よし」

 北野の意志は受け取った。ならば、自分がそれを受け継ぐしかないじゃないか。

「俺たちも、帰ろう」

「…はい」

 篠崎が少しだけ笑顔になって、高木は雲の切れ間から日が差したように錯覚した。

 傘を差した二人は、ゆっくりと雨の街へ歩き出した。


「…っと、駅ってどっちだっけ」

「この道をまっすぐです、先輩」

 けれども、篠崎にとっては歩き慣れた通学路であっても、高木にとってはほとんど未知の領域であるわけで。

 結局、最寄り駅までの案内は篠崎が担当することになった。格好がつかず調子が狂った高木だったが、篠崎はそんな彼を見てくすくすと可笑しそうに笑った。ともかく、ひどく沈んだムードが多少払拭されたことは確かだった。

 交差点の赤信号で、二人は並んで立ち止まった。

「…今日のことは、もう思い出そうとしない方がいい」

 やがて高木が、努めて明るい口調で言った。

「…はい」

 篠崎の横顔が一瞬陰り、心なしか視線が下へ向かう。信号が青に変わり、二人はまた歩き出した。

 横断歩道を渡り終えた辺りで、不意に彼女は口を開いた。

「先輩…私、怖いんです。このまま戦いが激しくなっていって、私の父や先輩のお母さんみたいな犠牲をさらに払うことになるんじゃないかと思うと…」

 高木と視線を合わさず、俯き気味に歩く。篠崎の瞳は微かに潤んでいた。

「…前に、師匠が言ってましたよね。昔はもっとたくさんの種類の魔法が存在していたって。水脈を探知して井戸を掘るのに適した場所を決めたり、動物の群れを誘導したり…そんな、生活をちょっぴり便利にする無害な魔法だってたくさんあったって」

「…ああ」

 高木は歩調を彼女に合わせて落としながら、首を縦に振った。だが篠崎は、こちらを見ずに続けた。

「でも、数十年前に魔法界が穏健派と過激派に二分され争いが勃発して、そうした魔法の多くは忘れ去られた…。戦闘に適した術式だけをマジック・ウォッチに組み込んで、魔法は戦争の道具になって…」

「篠崎…」

 高木にも、彼女の感じている痛みはよく理解できた。それは、全ての魔術師に共通するものでもあった。

「今日、戦いの厳しさをその目で見て思ったんです。私は今まで、分かっているつもりで何も分かっていなかったって。もう耐えられないかもしれない…もう戦いたくないって、思ってしまって、それで…」

 傘を握る細い手が、僅かに震えていた。まずい兆候だ、と高木は思った。

「―よく頑張ったな」

 傘を持っていない方の手を、篠崎の傘を握る手にそっと重ねる。篠崎ははっとして目を見開き、瞳が揺らいだ。手の震えが、徐々に収まっていく。真っ直ぐに見つめられて、高木は優しく微笑んだ。

「戦争が嫌なのは、俺も同じだよ。…けれど、昔みたいに皆が笑える明日をつくるためにも、今を生きている俺たちが頑張らなくちゃならない。そうだろ」

「…そうですね。先輩の言う通りです」

 もう涙は乾きかけていた。可憐な蕾が花開いたように屈託のない笑みを浮かべた篠崎を、高木はただ純粋に美しいと思えた。思わず見つめてしまいそうになり、慌てて目を逸らす。

(…って、俺は一体何をしてるんだ)

 勢いで行動した結果後悔することは時たまあるが、今日はそのときだった。重ね合わせた手を離し、高木は照れくさそうに言った。

「悪い、嫌だったらごめん」

「いえ、そんなことないです。先輩になら、私―」

 そこまで言いかけ、篠崎は真っ赤になって口をつぐんだ。

(私…今何を言おうとしていたの⁉)

 末永の遺体を見たショックから立ち直れていなかったこれまでは、異性と二人きりで歩いているこの状況にも何とも思わず、高木のことも意識していなかった。しかし我に返ってみると、一気に恥ずかしさに襲われる。

「ん?」

「な、何でもないです…あっ」

 ぶんぶんと首を振って必死に誤魔化そうとするあまり、前方不注意に陥ったらしい。大きく広がる水たまりに気づかず、片足をその中へ踏み入れてしまった。

「わわっ…」

 すぐに足を引き抜いたが時すでに遅しで、ローファーを履いた右足は白い靴下までぐっしょりと濡れてしまっていた。

(どうしよう…)

 高木の前でみっともない姿を晒してしまったのも篠崎にとっては問題であったし、この状態で駅まで歩くのもいささか気持ちが悪かった。

「…師匠たちには内緒だぞ」

 すると高木は悪戯っぽい笑みを浮かべ、バッグからマジック・ウォッチを取り出して左手首につけた。

「魔法で乾かすんですか?そこまでしてもらうのはご迷惑だと思いますし、大丈夫です…」

 唐突な挙動にやや驚き、篠崎は遠慮がちに言った。高木は首を振り、にっと笑った。

「そんなんじゃねえよ。…ただ、この陰気臭い地上から一旦離れるのもありかもって思ってさ」

 左手を天に向け、紫の紋章を展開する。雨は小降りになり、光が差し始めている。

『ハーデース・アタック』

 魔法陣から石で形作られた悪魔が現れ、蝙蝠に似た翼をはためかせた高木の横に着地した。魔物は不機嫌そうに鼻を鳴らし、自分を召喚した魔術師をじろりと見た。

(小僧、今度は何の用だ)

「ガーゴイル、頼みがある。…俺と彼女を乗せて飛んでくれないか」

(そんな他愛もないことのために、この俺を呼び出したのか)

 呆れたようにしている魔像の思念が流れ込んでくる。が、ガーゴイルは傍らに立つ篠崎に目をやり、考えを変えたようだった。

(普通なら未熟なお前の頼みなど撥ねつけるところだが、この美しい娘に免じて許してやろう。…ほら、さっさと乗れ)

 ぶっきらぼうに言い捨て、前かがみになった。その大きな背中に高木は跨り、篠崎に手を差し伸べた。

「…さあ、駅までひとっ飛びだ!」

 ぱっと顔を輝かせ、篠崎はその後ろに座った。落ちないように高木の腰に腕を回す。今や雨は完全に止んでいて、二人が傘を閉じるのと同時、ガーゴイルは空高く舞い上がった。

 力強く翼を広げ、風を切って飛ぶ。眼下のビル群を一望し、高木と篠崎は歓声を上げた。

「もう、冥界術を勝手に使っちゃ駄目だって言われてるじゃないですか…」

 口では軽くたしなめつつも、裏腹に篠崎はふふっと微笑んでいた。表情にも明るさが戻っている。

「悪い悪い」

 振り向いて高木が笑う。彼女が元気を取り戻してくれてよかった、と心から思った。

(しっかりつかまっていろ。こんなことで契約者に死なれては、冥王様に顔向けできん)

 ガーゴイルも彼なりのジョークを飛ばし、笑みを浮かべた―ように見えた。石でできた顔からは、あまり表情は読み取れなかったが。

 高度が下がり目的地が近づくと、そのスリルに高木と篠崎は悲鳴を上げた。

 空には虹がかかり、七色の光の中で、二人と一匹は束の間のフライトを堪能した。


 その約一週間後、二条は京都の自宅から魔法協会へ電話をかけていた。応対したのは、七賢人の松宮だった。円卓の間に据え置かれた固定電話をさっと取る。

「はい」

「どうも、いつもお世話になっとります。融和派の二条です。松宮殿ですか?」

「おお、二条さんでしたか。これはこれは」

 電話口から朗らかな声が聞こえ、松宮は身に見えて態度を軟化させた。二条の口調にやや京都弁が混じっているのは、協力体制を築いたことで彼と親密になった証と考えていいのではないだろうか―と松宮は思った。

「今日は、どういったご用件で?」

「進展がありましてね」

「…というと?」

 二条はもったいぶって、声をひそめた。

「過激派の本拠地の場所の、特定に成功しました」

「何と!」

 素っ頓狂な声を上げた松宮へ、円卓に着き書類を整理していた他の七賢人たちが何事かと振り向いた。松宮はきまり悪そうに笑い、あとで説明する、と身振りで示し電話に戻った。

「…いやあ、それにしても仕事が早い。さすが融和派さんだ。我々が何年かかってもなかなか突き止められなかった過激派のアジトを、こうも早く突き止めるとは。一体どんな手を使ったんです?」

 感心したように言う松宮に、電話口の向こうで二条は肩をすくめてみせた。

「それに関しては我々の開発した最新の探索魔法を使っておりますゆえ、公表することはできませんなあ。申し訳ないですが」

 要は企業秘密ということらしい。穏健派と融和派は協力関係にあるが、それはお互いの情報を全て相手と共有するということではない。あくまで、共通の敵を倒すため共同戦線を張ろうとしているだけだ。そういう意味では、両派閥の関係は案外浅いものだともいえる。 

「いやいや、私の方こそ野暮な質問をしてしまいました。早速ですが、詳細を教えてもらえますでしょうか」

「もちろんですとも」

 媚びへつらうように問うた松宮に、二条は快諾した。


 受話器を置くと、傍に控えていた「覇」は我慢できずに笑い出した。

「…ははは。二条様はなかなかの役者ですな」

「騙しやすい相手で助かった」

 二条はにやりと笑い、リビングの中央に置かれた革張りのソファにどかっと座り込んだ。

「松宮は殺された末永の復讐に躍起になるあまり、使えるものは何でも使うつもりだ。多少私の話に不審な点があったとしても、気にも留めないだろう」

「最新の探索魔法のくだりは傑作でしたよ」

 ようやく笑いの発作が収まりかけてきた「覇」が言うと、対照的に二条はますます笑みを深めた。

「まさか、腹心である君を潜り込ませているから過激派の情報は筒抜けです、と言うわけにはいかんだろう」

 そしてゆっくりと立ち上がると、窓から外の日本式庭園に目をやった。差し込む夕日が池の水面に反射し、眩しく輝いている。二条は真剣な表情に戻り、低い声で続けた。

「ここまでは計画通り。次の段階へ移行するとしよう」




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ