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おばあのこと

作者: 葵枝燕
掲載日:2017/09/08

 だいすきなおばあへ。

 私のおばあのことを、聞いてください。


 “おばあ”とは、“おばあちゃん”ということです。大体は、両親の母親——つまり、祖母をさすと思います。

 でも、私にとって“おばあ”とは、祖母のことではありません。私にとって“おばあ”は、私の母の父の母——(そう)()()、ひいおばあちゃんのことです。


 おばあは、とても元気な人でした。百歳近くになっていましたが、寝たきりだったり、腰が曲がっていたり、そんなことは一切ありませんでした。私の知る限り、風邪などをひいたこともなかったと思います。週に一回ほどは、ゲートボールをしていたくらい、私よりも身体を動かすことが好きだったようです。

 それから、おばあは、笑顔が似合う人でもありました。少なくとも私は、おばあが怒っているところを見たことがありません。いつでも笑っていたと思います。自転車を練習していた私達を、ゴザを敷いて座りながら、笑顔で見ていました。

 おばあは、元気で笑顔の似合う、そんな人でした。


 私と姉は、放課後や夏休みや冬休みをよく母の実家で過ごしました。当時、両親が共働きだったためです。自宅の鍵は待っていましたが、両親はまだ小学生の娘二人を家にいとかせるのが心配だったのだと思います。母の実家なら、祖母がお店を見ながら、私達を見てくれますから、安心して任せられたのでしょう。

 おばあは、その母の実家の二階に住んでいました。


 長い休みになると、私と姉は、土日以外のほとんど毎日、八時から十七時半までを、祖母の家で過ごしました。八時頃、タクシーで仕事に向かう母が、私達二人を祖母の家でおろします。そして、仕事を終えた母が父の運転する車で、十七時半頃に祖母の家に来ます。たまに、父が仕事で遅いときは、母と三人でタクシーで帰路につくこともありました。

 その間私達は、宿題そっちのけで、テレビ番組を見たり、外で遊んだり、祖母に買い物を頼まれて近所の商店に行ったり——そんなふうに、一日を過ごしました。

 そんな私達には、休みの間だけの、大事な任務がありました。


 それは、遅めの昼ごはんが始まろうとする、十三時前のこと。私達姉妹に、祖母からこんな任務がくだります。

「おばあ呼んどいで」

「はーい!」

 待ってましたとばかりに、私と姉は、それぞれに靴を履いて、外に出ます。そして、家の裏手にある外階段まで行きます。

 その階段は、今の私から見たら、とても危険な階段です。建物と建物の間にあるせいで真昼間だというのに薄暗く、セメント剥き出しで、しかも急角度です。手すりはありますが、大して意味をなしていないように思います。

 私と姉は、顔を見合わせ頷いて、その危険な階段を上ります。急角度の階段を上った先、右手側に二つのドア、廊下の先に一つのドアがあります。廊下の先のドアはトイレ兼バスルーム、右手側の奥のドアは叔父の部屋です。

 私達二人は、手前のドアの前に立ち、一度だけチャイムを鳴らします。それだけのことでは、部屋の主が出てこないことを知っていました。そして、私達は込み上げてくる笑いを、必死になって隠しながら、そっとドアを開けます。そのまま、忍び足で部屋の奥に進みます。その間も、笑い声を隠すのに必死でした。

 そして、私達二人は、一度立ち止まってから、息を整えて、二人の声を合わせて、

「おばあっ‼︎」

と、叫びました。

「あいっ‼︎」

 部屋の主——おばあは、驚きの声を上げます。

「ご飯だよ!」

「そうねぇ?」

 ベッドから立ち上がるおばあを急かしながら、私と姉はおばあと部屋を出ます。

 急な階段でおばあに手を貸すのは、ほとんど姉の役目でした。私はといえば、一番前を歩き、時々後ろを気にする程度でした。今も昔も、気が利かないのは変わらないのでしょう。


 とにもかくにも、これが休み中の私達二人の任務でした。

 今思えば、百歳近い人にやる所業ではありません。おばあが元気な人だったからこそ、こんなことができたのです。もしも心臓の弱い人だったとしたら——そう考えると、自分の幼さが恐ろしくなります。

 おばあは、こんな手荒いお迎えをしても、決して怒ることはありませんでした。驚きはしても、怒鳴ったり叱ったりはしませんでした。


 おばあは言っていました。

「おばあは百まで死なん」

 その言葉が似合うくらい、おばあは元気な人でした。その言葉を信じられるくらい、おばあは元気な人でした。

 だから、私は疑いませんでした。いや、考えることすらありませんでした。


 それは、二〇〇五年九月八日のこと。私がまだ、九歳の小学四年生だった頃。

 その年から、私の通う市内の小中学校では二学期制となり、夏休みがほんの少し短くなりました。だからあの日は、夏休みが終わって、二週間くらいは経っていたでしょうか。

 その日私は、放課後を学校の敷地内で過ごして、十六時半頃に家に帰ったように憶えています。

 そして、駐車場に父の車——ホンダのワインレッドのLogo(ロゴ)が停まっているのを認めました。

 ——珍しいな。

 そう思ったし、おそらく実際にそう口にしただろうと思います。

 父は、家族の中で一番忙しい人でした。月曜から土曜まで仕事なのは当たり前、ときには休日出勤や早出や残業もありました。そんな父が、十六時半頃に家に帰っているなんて、本当に珍しいことだったのです。

 私は、持っていた鍵でドアを開け、家に入りました。リビングは真っ暗でしたが、そこから続く食卓には明かりが灯っていました。父は、お風呂に入っているらしく、風呂場のドアは閉じられ、シャワーの音がしていました。

 ——お出かけなのかな。

 私は、そんなふうに考えて、父がベッドにしている青いソファーベッドに腰かけました。

 しばらくして、父が風呂場から出てきました。

「ただいま」

 私のそんな言葉に、父から返答はありませんでした。機嫌が悪いのだろうと、私は思いました。

「早く準備しろ」

 父は突然にそんな言葉を投げてきました。私は、何が何だかわかりませんでした。

「準備? 何の?」

 そう問う私に、父は驚くべきことを告げました。

「おばあが亡くなった」

 その言葉を、私は飲み込むことができませんでした。一瞬、全てが止まった気さえしました。

 ——おばあ? どこのおばあ?

 その答えがわかっていながら、それだけを考えていました。私が“おばあ”と呼ぶのは、この世に一人しかいないのです。


 しばらくして帰ってきた姉と、私達は三人で祖母の家に向かいました。母は既にそこにいました。母が連絡をもらって病院に駆けつけた時には、おばあは既に亡くなっていたとのことでした。

 そこに、おばあはいました。

 身に着けている黄色地の紅型(びんがた)の着物は、数年前に姉の十三祝の写真撮影のときに着けていた服でした。

 遺影は、その姉の十三祝の写真撮影のときに、一緒に撮ってもらった写真でした。

 おばあは、まるで眠っているようでした。今にも起きて、私の名を呼んでくれそうな、そんな気がしました。

 でも、心のどこかでわかっていました。

 ——もう、おばあは二度と起きない。話してもくれない。どうして? 「百まで死なん」って、そう言ったじゃん。あと、三年あったはずだよね? 十三祝、自分だっておばあと一緒に写真撮りたかった。もっともっと、一緒にいたいよ……。

 そんな思いが込み上げてきて、でもそれがワガママな思いだとわかって、それでも思いがグルグルと回っていました。

 触れたおばあの顔や手は、冷えきっていました。それでも、私も、姉も、私と六歳離れた従妹も、不思議とこわがることはありませんでした。何度も何度もおばあに触れ、何度も何度も話しかけていました。手紙を書いて棺に入れたり、姉と私と従妹で一枚の紙に絵を描いておばあに見せたりしました。その際、従妹を泣かしてしまったのは、今でも悔いていることの一つです。

 そして、私は子どもながら、一つの決意をしました。

 ——ぜったいに、泣かない。笑顔で、笑っておばあを送り出すんだ。だって、泣いたらきっと心配しちゃうから。


 通夜を終え、やってきた出棺の日。この後、霊柩車に乗せられたおばあが、火葬されて骨になることを、私は何となく理解していたのだと思います。

 父の運転する車に、母、姉、私、従妹が乗り込みました。まだ保育園児だった従妹は、どうしても私達と一緒がいいのだと、駄々をこねたのです。

 そして、私達はそれぞれに霊柩車を追うようにして、火葬場まで向かいました。私は、運転席のすぐ後ろの後部座席から、前を走る霊柩車を見ていました。

 ——あ……。

 涙が溢れてくるのを感じました。自分が泣いてしまうのを感じました。同時に、あのときの決意を思い出しました。

 ——泣いちゃ、だめだ。泣いたら、おばあ、心配するもん。安心して、天国にいってもらわないと……。

 私は、おばあが大好きでした。だからこそ、泣きたくありませんでした。最期くらい、安心して旅立ってほしかったのです。

 でも、私の中にはこんな思いもありました。

 ——骨になったおばあは、おばあじゃないのかもしれない……。

 そう感じてしまったらもう、溢れてくる涙を止めることはできませんでした。

「ないてるのー?」

 まだ四歳の従妹が、心配そうに私に声をかけます。六歳も離れているのに、私は何かとこの年下の従妹と張り合っていました。そんな私にとって、従妹、それも年下の存在から心配されるなんて、正直恥ずかしいことでしかありませんでした。

 けれど私は、ついに涙を、嗚咽(おえつ)を、こらえることができませんでした。声を上げて、泣いていました。私の肩を叩く従妹の手と、私を慰める従妹の声を、哀しさと寂しさと恥ずかしさとがない交ぜとなった心で受け止めていました。


 おばあとの別れが、私にとって初めての“おくりの日々”でした。

 通夜、出棺、火葬、告別式、納骨、——一連の別れの儀式を、私が初めて経験することになった日々でした。

 それは、私にとって、悔いの残る別れでした。とりわけ、泣かないと決めたのに泣いてしまったことは、今でも後悔しています。後にも先にも、自分で決めたことを自分で破ってここまで後悔しているのは、このことだけかもしれません。


 あれから、十二年が経ちました。

 その間に、色々なことがありました。

 母方の祖父、父方の祖父を、相次いで亡くしました。二人とも病気だったし、母方の祖父がこわかった私は関わろうとしませんでしたし、父方の祖父とは年に数回会うかどうかでした。そのためか、あまり哀しさを感じることはありませんでした。

 従兄二人が結婚し、それぞれに父親になりました。

 祖母には、()(まご)が三人できました。

 保育園児だった従妹は、高校二年生になりました。今では、私よりも身長が少しだけ高いくらい、色々な意味でたくましくなっています。

 姉は、大学を卒業し、社会人三年目です。

 そして、私。小学校、中学校、二次募集で受かった高校をそれぞれ卒業し、大学に入学し、成人式を終え、現在大学四年生になりました。未来は未定のまま、ここにいます。

 出逢いと別れを繰り返して、十二年が過ぎました。

 今日、二〇十七年九月八日は、九十七歳で旅立ったおばあの十二回目の命日——十三回忌です。

 あの日から十二年。どうりで歳をとるはずだと、そんなことを思うときがあります。

 私にとって、おばあが大切な人であることは今も変わりません。

 例え声を忘れても。例えその肌の温もりを忘れても。

 おばあと過ごした思い出は、今も私の中にあります。おばあに言いたかったことも、たくさんあります。

 今日、この日。私は、おばあに逢いに行くつもりです。そして、家族でおばあの話をしたいのです。

 いつも笑顔だったおばあ。

 いつも元気だったおばあ。

 そして、あまりにも突然に逝ってしまったおばあ。

 願うなら、おばあのように生きて死んでいきたいと、私は思います。


 おばあ。

 私と出逢ってくれてありがとう。たくさんの愛を注いでくれてありがとう。

 今もずっと。おばあのことがだいすきです。

 『おばあのこと』、ご高覧ありがとうございました。

 これを書きながら、当時を思い出して泣きそうでした。

 別れは、どんなカタチであれくるものです。身近な人を、大切にしていきたいですね。

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― 新着の感想 ―
[一言] 葵枝燕 様 人を人にするのは、人が人に注いだ愛情なのかもしれませんね。読ませていただいて、あらてめてそう思いました。愛情を注ぐことは何も難しいことではないけれど、それをどこまでもいつまでも…
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