6.ネカフェの妖精ふたたび
ネカフェのソファは意外なほど熟睡できた。単に疲れていただけかもしれないけど。
トイレに行って顔を洗う。
ブースに戻るついでにドリンクバーでホットコーヒーを淹れた。匂いは元いた世界と変わらないようだ。味も一口舐めたが、コーヒーとしか言い様がない。ブラックのままでは飲みづらいのでフレッシュと砂糖をひとつずつ入れ、ブースに入った。
昨夜はすぐに寝入ってしまったので、よく見ていなかったディスプレイを眺めてみる。
目につくのはアダルトサイトのバナー。あとはオンラインゲームアプリのアイコンが並んでいるくらいか。ウェブブラウザはどれだろう。
タスクバーの隅に時刻が表示されているのを見つけた。午前8時過ぎか。ケーニッヒはいつやってくるのだろう。できれば朝食も済ませたいのだが。
手術着の脇から腹を擦る。横から見るとパンツ丸見えだが、この服もいい加減なんとかしたい。パンツ一枚で衣食住の『衣』が満たされたとは到底おもっていない。
どのくらい時間があるのか不明だが、ケーニッヒが来るまで予定は空いているはずだ。
今のうちにしなければならないことがある。自分にインストールされている機能の把握だ。これは急務といえる。早めに確認しておかなければならない。
なんせ知識どころか常識が欠けている現在、自分にできることが何なのか分からなければ、いざというときに対処できない。
黒尽くめの追っ手から逃げるときに四足歩行していたが、あのような劇的な変化が都合よく起こるとは限らない。むしろ都合悪く暴発する方が怖い。
まず自分にプリインストールされている知識を思い浮かべることにした。
言語、百科事典、魔導書、スペック。
……あれ。これだけ?
言語はともかく、百科事典と魔導書は本にしてみたら分厚いながらも一冊ずつの分量だ。やけに少ないじゃないか。
そういえばオジサンが「テロリストに襲撃されたから成長する時間がなかった」ようなことを言っていた。
プリインストールするデータが不十分なのもこの辺りに原因があるのかもしれない。
そして気になるスペックというデータだが、みっつのデータが存在していた。
〈神経加速〉:思考能力と運動能力を飛躍的に高め、俊敏な動作を可能とする。使用から3分間持続する。ただし10分に一度しか使用できない。
〈零距離助走〉:停止状態から瞬時に加速することができる。ただし10分に一度しか使用できない。
〈四足歩行〉:両手両足を使って四足歩行することができる。現在は解除されている。
どうやら黒尽くめ達から逃げられたのは、これらの機能のお陰らしい。
いや。よくよく注意深く思い出してみると、脳内にアナウンスが流れたような記憶がある。魔人の成長により会得したものなのかもしれない。
……なにせ二足歩行に戻るのには苦労したからな。
解除されているという〈四足歩行〉の記述を眺め、僕は苦笑を浮かべた。
しかしこれらが成長により自在に得られるなら、強力な武器となる。どうやったらスペックを増やせるのだろうか。
……分からん。分からないことは、どれだけ考えても分からないものだ。
僕は思考を放棄して、目の前のディスプレイに向かった。気になっていたのだ、インターネット。
この世界でもインターネットは存在する。ウェブとかネットとか。どれが正式名称なのか、それとも全部が正しい名称なのか、僕は知らないが。
ブラウザのアイコンはすぐに見つかった。というか他はゲームのアイコンとアダルトサイトのアイコンしかないのだから、分かり易い。
だが操作方法が分からない。マウスもキーボードも見当たらないのだ。
ならば、と画面をタッチしてみるが反応なし。
……恥ずかしい。
誰も見ていないのが救いだ。
僕はブースの中を探しまわった。探しまわった結果として、やはり定位置――すなわちマウスとキーボードがあるはずのスペース――が怪しいという点に行き着く。
ディスプレイの下にある、せり出したスペース。ソファに座って両手を差し出してしっくりくるその場所に、何もないのはどう考えてもおかしい。
よく見ると薄っすらと幾何学的な模様が彫られている。それは文字というわけではない、はずだ。なんせ僕の知識には主要言語が入っている。人類共通語も様々な種族の固有言語もある。インターネットカフェなんて公共の場にローカル言語が使われているとは思えない。
つつ、と模様を指でなぞった瞬間。キーボードが出現した。
「!?」思わず仰け反った。
……恥ずかしい。
誰も見てないからセーフ、だと思おう。
キーボードは立体映像のように浮いているが、指で押すと感触が返ってくる。科学技術ではなく魔法の類か。
キーボードの左右には広めの四角いスペースも同時に出現した。これを指でなぞると、ディスプレイ上のカーソルが移動する。マウスではなくタッチパッドらしい。
カーソルをブラウザアイコンにもっていき、タッチパッドを叩く。するとブラウザウィンドウが開いた。
……やった、これで念願のインターネットができるぞ!
僕は逸る気持ちを抑えながら、ディスプレイにかじりついた。
◇
気づいたら正午目前だった。
異世界でもインターネットは魔窟だ。時間泥棒だ。
ついつい夢中になってネットサーフィンをしてしまった。気づけば魔導書も手付かずだし、来訪予定のケーニッヒのことも頭から消え去っていた。
……ヤバいかな。
顔の下半分が髭で覆われたドワーフのヤクザフェイスを思い浮かべると、なおさら不安になる。受付で待ちぼうけなんてさせてたら、僕は半殺しにされるのではないだろうか。
すっかり重くなった腰を上げ、ブースから出る。するとちょうど隣のブースの扉が開き、背にアゲハチョウの羽根を生やした妖精族の女性が眠そうな顔で出てきた。ジネッタだ。
ジネッタは僕に気づくと、首を傾げながら言った。
「……おはよう?」
「おはようございます」
なぜ疑問形なのか。
ふと彼女が出てきたブースが目に入る。そこは、やけに生活感のあるブースだった。
今も彼女が着ている同型同色のあずき色ジャージがハンガーに掛かっており、ソファの傍らには化粧品とティッシュ箱、漫画雑誌が積まれている。
ディスプレイにかかるようにして洗濯物ハンガーから色とりどりの下着が吊るされていた。
「…………」
「…………」
僕の視線に気づくと、ジネッタは静かにブースの扉を閉めた。
取り繕うように「わたし、ここに住んでるの」と、聞いてもいないジネッタ情報を教えてくれた。
……聞きたくもなかった。
ネカフェに連泊している妖精族か。妖精といえばファンタジーの中でもダントツ可愛い存在だと思うのだが、実に残念な女性だ。
ジネッタはまだ寝ぼけているのか、視線を彷徨わせている。
「その……服はそれだけ?」
いや手術着からはみ出る僕の下着が気になっていただけだった。
「はい。ケーニッヒさんの言った通り、無一文なんで」
「そう……」
会話が途切れた。沈黙が痛い。
だがジネッタのクゥ、とお腹の鳴る音で沈黙が破られた。
……気まずい。
ジネッタも微妙に恥ずかしそうにしながら、「あの、お腹すかない?」と控えめに聞いてきた。
「実は結構はらぺこなんですよ。朝からコーヒーしか飲んでないもので」
「そう! ディスプレイの横にメニューあったでしょ。頼んでも良かったのに」
頼んでも良かったのか。そういえば昨日、ジネッタの世話になるという話になったはずだ。食事の方もお世話になって良かったらしい。
「レトルトだから、取りに行ったほうが早いの。一緒に食べない?」
「はい。是非ご一緒させてください」
僕は頷くと、機嫌よく進み出したジネッタの後についていった。