21.戦場からの脱出
塀を背にしてぐるりと囲むように作られた砂の塹壕。その中で、僕と宮廷魔術師フェルが対峙していた。
……なにこれ。どうやって逃げるの。
倒すのは論外だ。化け物すぎて倒すイメージが湧かない。
唯一、突破口になりうるのは、フェルの背後で塀に突き刺さっている黒塗りの高級車だ。車のボンネットを足場にして、塹壕の外に出られるかもしれない。
だがそれも僕に充分な脚力があればの話だ。よじ登るような暇はない。
……〈四足歩行〉なら逃げられるか?
未知数だ。充分に助走ができれば一息で駆け登ることができるような気はする。
やはり問題はフェルをどうやって掻い潜るか。それに尽きる。
「――――ッ」
戦いは唐突に始まった。
フェルは腰の左右に差した短剣の柄に両手を交差して構える、と見せかけてそのまま抜き撃ちで投げてきた。柄を指先で掴んで抜き、そこを支点にくるりと刀身を回転させての早撃ちだ。
飛び道具を持たない僕に対して、端から投げナイフという大人げない攻撃。的確すぎる。だが仕掛けるならここが最初で最後だと、僕は確信する。
……長引かせれば負ける。
自力で勝てない以上は賭けに出るしかない。
【〈四足歩行〉を使用しました】
【〈零距離助走〉を使用しました】
身体を低く沈め、僕はフェルに向けて突進した。投げられたナイフの軌跡は〈射線予測〉で見えている。銃弾より遅いが、当たりどころが悪ければ確実に命を刈り取る死の線。
僕は2本の射線の下を潜る。出来る限り低く。そして速く。
相手は無手だ。恐れるな、魔法を使うならどんなに小さくとも動作か名称を呼ぶ必要があるはず。
だがフェルの両腕、その前腕の内側に線が走る。すると新たな短剣が線を割るようにポップアップして、滑るように手のひらに握られた。刃の先を肘の方に向けて納められていたそれらは、そのまま逆手に握られる。
――そんなのアリかよ!?
この期に及んでも魔法を使わないのか、この機械化狂いめ。
フェルの両手に凶器が構えられる。僕を殺傷するに充分な短剣がふた振り。
それでもやることは変わらない。地を這うように走れ。
初速は充分。四足歩行への移行もスムーズ。なにより〈鉤爪〉が地面を噛むのが心地良い。嬉しい誤算だ。少しでも〈神経加速〉がない分の速度を補える。
フェルの膝より下を掻い潜るように進む僕。
もっと低くだ。イメージするのは四足獣ではなく爬虫類。肩と股関節を開き、胴体の位置を地面すれすれまで落とす。
【〈四足歩行〉に〈獣形態〉と〈蜥蜴形態〉が追加されました】
【〈四足歩行〉を〈蜥蜴形態〉に変更します】
〈零距離助走〉により初速からトップスピードを得た僕は、フェルの想定外の低さと速さで駆けていた。上半身に短剣を構えていたフェルは、僕の低さに対応できない。
顔がフェルのブーツの横を通り抜ける。続いて肩が。胴体の半ばで、フェルがこちらに身を捻る。
……駄目だ。間に合わない。
フェルに向き直られた。僕の速度では足りなかった。
軍用全身義体の横を掻い潜るには、まだスピードが足りなかった。
早さが。速さが。足りない。
いや待てスペック。以前、速さにはみっつあると言ったはずだ。
初動の早さ。速度の速さ。そして移動距離の短さだ。
僕はまだ移動距離を短くするスペックを得ていないぞ。
イメージしよう。フォーデンは言ったはずだ。スペックに相談しろ、具体的に提案しろ、と。
相談はできないようだから、具体的に提案するぞ?
――空間を捻じ曲げ、移動距離を短くしろ。
【〈縮地〉を会得しました】
ぐん、と目の前に黒塗りの高級車が近づく。なんだ、やればできるじゃないか。
視界の端に倒れ伏すケーニッヒが見えるが、いまの僕ではどうしようもない。連れて行こうとすれば共倒れだ。せめて殺されないことを祈るしかない。
僕は〈鉤爪〉を立てて車体に這い登る。四足獣でなく爬虫類をイメージしたせいで、四肢の形は跳躍に向かなくなっていた。
その分、車体を登るのに時間が掛かるがそれはもはや誤差だ。〈縮地〉により一歩一歩が大きく距離を稼ぐ。
車体を登り、塹壕の壁に爪をかけ、振り返った。
横を低く通り過ぎる僕に対して、覆いかぶさるように短剣を構えていたフェルは、その体勢のまま目標を見失って固まっている。その視線が僕を見上げる頃には、僕は塹壕の天辺に到達していた。
……短剣を投げてくるか。それとも魔法か。
だがどちらも来なかった。僕と目があったフェルは、逡巡するように視線を外して構えを解いたのだ。
……なぜ?
僕の戸惑いも一瞬。立ち止まって考える暇はない。砂の山から住宅の塀に飛び移り、僕を見て叫ぶ黒服を尻目に全力で走った。




