18.魔導書をめくれ
オジサンはタブレットの中で笑っていた。僕がこの世界で目覚めたときに初めて見た人間。エルフの研究員だ。
銃で撃たれて死んだのではなかったか。
僕が疑問にとらわれ呆然としていると、宮廷魔術師フェルが顔をしかめて言った。
「不快だわ。黙って頂戴」
フェルがタブレット端末の側面を弄ると、声が消えてディスプレイが真っ暗になった。
タブレットを背後の黒服に渡して、フェルは僕に向き直る。
「ごめんなさいね。久々に尋問以外の会話ができて嬉しかったに違いないわ」
ロクでもないことを言われ、返答に詰まる。
また会話の主導権を奪われた。オジサンの末路が僕の行く末を暗示しているようでならない。このまま防衛省に引き渡されたら、きっとロクでもない扱いを受ける。
だがどうやってこの場を切り抜ければいい。前回と違って黒服が多すぎるし、今回は宮廷魔術師までいる。目の前の女の実力は未知数だ。
僕が低く身構えると、眉を上げてフェルは言った。
「まさか。抵抗でもする気? それともこの人数に逃げられるとでも思っているの?」
「…………」
心外だ、と言わんばかりのフェルの言動にイラッとくる。自分が絶対的優位に立っていることを確信している態度が気に障る。事実だからどうしようもないが。
だが僕にはスペックがある。オジサンは成長などという言葉を使ったが、そんな生易しいものではない。これは進化だ。でなければ昨日、最初に黒服に囲まれたときに捕まっている。スペックは窮地を脱するだけの可能性と底力がある。
何をイメージすればいい。この状況を打破できるものは何がある。
僕に諦める気配がないのを悟ると、フェルは仕方ないといった風にため息をついてみせた。
「そんなに現実が見えていないとは思わなかったわ。失望ね」
「なんとでも言えよ」
「いいわ。魔人のカタログスペックは把握している。あなたの今の成長がどれほどのものか。見せてもらいましょう」
言うが早いか、フェルが腰を低く身構えた。
◇
手持ちのスペックは現在5つ。
〈神経加速〉:思考能力と運動能力を飛躍的に高め、俊敏な動作を可能とする。使用から3分間持続する。ただし10分に一度しか使用できない。
〈零距離助走〉:停止状態から瞬時に加速することができる。ただし10分に一度しか使用できない。
〈四足歩行〉:両手両足を使って四足歩行することができる。現在は解除されている。
〈衛生体質〉:常に清潔に保たれる。ただし汚れや雑菌は無臭の垢として体表面に積層するので、これは洗い落とさなければならない。
〈獣性解放〉:気分が高揚し目の前の戦闘に没頭することができる。また五感が鋭敏になり、臭いや音で周囲の気配を見ることができるようになる。ただし使用時に強く意識しない限り敵・味方の区別がつかなくなる。使用から10分間持続する。
この中で〈衛生体質〉は戦闘向きじゃない。逃げるのにも使えないだろう。〈獣性解放〉は戦うなら使えるが、できれば今回も逃げたい。攻撃力のあるスペックが皆無で、僕自身もまだ武器を持っていない。魔術は結局、魔導書を開きもしていなかった。時間がかかるだろうと思って後回しにしていたツケがここで効いてくる。
新しいスペックが生えてくるのに期待してもいいが、それは賭けになる。賭けに出るにはまだ早い。
身を低くしたフェルは両手を体の前で交差し、それぞれ腰の左右の短剣の柄に手をおいていた。魔術師でも近接戦闘をしてくる可能性はある。バーでパノスが身体強化魔法〈フィジカルブースト〉について教えてくれたのを思い出す。
魔術である以上、魔術師はある程度の練度でそれを習得していると考えた方がいい。実際、どんなに魔術が不得手でも冒険者は〈フィジカルブースト〉だけは習得に励む。身体能力の強化はそれだけ生死を分かつのだ。
〈フィジカルブースト〉の発動中はほのかに身体が光るそうだ。強化部位は基本的には全身だが、習熟すれば必要部位に限定することもできる。発動時の呪文詠唱は魔法名のみなのでかなり短い。しかしその一瞬が最大の隙になるのは確かで、それを逃せば後は自力勝負になる。
だから僕は魔術の発動の端初を掴もうと身構えていたのだが。
宮廷魔術師第六席が目の前にいた。
「――は?」
無音。魔術の発動の端初どころかそもそも魔術など使っていない。魔力を纏いほのかに発光するという〈フィジカルブースト〉のフの字すらない。それは完全に体術のみの接近だった。
【〈神経加速〉を使用しました】
遅れてスペックを発動する。完全に後手に回った。キュルっと眼球が揺れて全てがスローモーションになる。
チキ、とかすかに金属と鳴る音がした。フェルの逆手に握られた2本のナイフが僕の首に吸い込まれるように迫っている。いつの間に抜き放たれたのか、鈍い光を放つ刃が見える。触れただけで切れそうな白刃のたたずまいにゾッとする。受け止める手立てはない。仰け反って避ける。
銀閃が交差し僕の首があった場所を切り裂いた。振り抜かれた短剣を持つ両手は後ろに振られ、フェルの右足が僕の鳩尾めがけて突き出される。接近の勢いそのままに体重の乗ったかかとが僕の腹に食い込んだ。
「ぐえ」
カエルのような鳴き声を出して僕は地面に叩きつけられる。反動で浮き上がることは許されない。フェルは僕を蹴った右足を回しつつ軸足を浮かせて小さく身を捻ると、地面を滑るように僕を追ってきていた。そしてフェルの右足のつま先が、僕の鳩尾のすぐ上にある胸骨を押さえつけたのだ。
2秒もかからず勝負は決した。
「あら早い。もう終わり?」
咳き込みながら僕は涙目でフェルを見上げる。夜空に溶けるような暗い色合いの軍服を着たエルフの魔術師が、月を背負って僕を見下ろしていた。
◇
魔法があり銃もある世界でなぜ剣を下げている戦士がいるのか。この疑問について僕は漠然と見過ごしていたが、もっとよく考えねばならなかった。
恐らく、この世界の戦士は銃弾よりも速く動ける。
単純だがこの事実は重い。魔法が物理現象を容易く歪めるため、銃弾を見てから避ける戦士すら存在するだろう。
だから戦闘となると速度の次元が違う。敵が構えたら、次の瞬間に切り込まれているものと思って対処しなければ間に合わないのだ。
だが目の前の女は魔術を使わなかった。〈フィジカルブースト〉もなしにあんな速く動けるものなのか。それとも僕が知らないだけで、他の方法で身体能力を強化しているのか。
いずれにせよ見通しが甘かったのは否めない。僕は完膚無きまでに負けた。
◇
鳩尾を押さえつけられて、僕は身動きができなかった。僕がもがいてももがいても、フェルの右足は微動だにしない。
「この程度のものなのかしら、魔人というのは」
フェルはありありと落胆を見せつけて言った。
その仕草がスローモーションではなくなっている。僕は慌てて脳裏のスペックを確認した。
まだたっぷり効果時間が残っているはずの〈神経加速〉の項目が灰色になっている。知らないうちに効果が解けているのは、僕が負けを意識したからか。再使用まで10分もかかる。これでは逆転の芽もない。
どうする。
このまま捕まるのは論外だ。オジサンの扱いを見るに僕の扱いも似たり寄ったりだろう。つまり人権など微塵も考慮されず蹂躙される。
怖い。どうなるか想像もつかない。逃げたい。逃げられないなら倒したい。
戦闘向きのスペックは〈獣性解放〉だが、これは身体能力の向上が効果にない。五感が増強されるようだが、それではこの足をはね退けることはできないだろう。気分が高揚して集中すればどうにかなるというものではないはずだ。
……〈フィジカルブースト〉しかない。
僕は頭のなかの魔導書を手繰る。探せ。〈フィジカルブースト〉を探すんだ。
小難しい文章が並んでいる。開いた後も後回しにしたくなるような難解な文章の連続。魔法とはなにか、魔術とはなにか、そんな話はどうでもいい。
序文をすっ飛ばしてめくる。書いてない。めくる。まだ魔力についての解説が終わらない。めくる。ややこしい文章が連なる。めくる。単語が僕を翻弄するように踊る。めくる。文字が多い。めくる。文字。めくる。
……ダメだ、何が書いてあるかすら分からなくなってきた。
おいスペック。僕の代わりに読めよ。
投げやり気味に思考すると、音が聞こえた。
【魔導書から〈フィジカルブースト〉を検索します】
……お?
僕の言うことを聞いて代わりに読んでくれるのだろうか。
相変わらず何を言っているのか聞き取れない。何か意味のあるアナウンスをしているはずなのに、モヤがかかるように言葉が届いてくれない。
だが僕が自分で魔導書を読むよりは可能性がある。そんな気がするのだ。
【魔導書を検索しました。該当項目はありませんでした】
……よし、いいぞ。見つかったか?
僕は両手でフェルの右足を掴んだ。脛まで覆う硬いブーツの感触が返ってくる。
「あら。まだ諦めていないのかしら」
「ふ、――」
力を入れて持ち上げようとするが、逆にフェルがつま先を鳩尾にめり込ませる。痛い。
どうした。持ち上がらないぞ。
僕はスペックを確認する。項目は増えていない。どうしたんだ、〈フィジカルブースト〉はまだか。早く身体能力を強化しろ。
【〈身体能力の強化〉〈身体能力〉〈強化〉、いずれも該当項目ありません】
よし今度こそ、と力を入れるがやはり梨の礫。まったく持ち上がる気配がない。
スペックの項目も変化なし。どうした、何が起きている。なんで何もないのに音が鳴っているんだ。この音がしたらスペックが発揮されるんじゃないのか。
【そうではありません。どうして、こんな――】
僕の頭のなかで音が鳴り続ける。だがなんの変化もない。
「どうしたの。そんな細腕で持ち上がるわけないじゃない」
ニヤニヤしながらフェルが侮蔑を浮かべて僕を見下ろす。こんなはずじゃ……。
僕は苦し紛れに叫んだ。
「〈フィジカルブースト〉!」
「――!?」
ギョッとしたフェルが僕に更に体重をかけるが、僕の身体に変化はない。魔力を帯びる様子もなく、当然ながらスペックにも変化はなかった。
「驚いたわ。身体強化魔法でも使うのかと思ったら」
「……」
「不発? それとも……」
フェルの笑みが嗜虐を帯びる。
ゾワリと僕の背筋が粟立った。危険だ。このまま抵抗できずに意識を失ってはダメだ。
僕はブーツを握る手に力を込めた。
【――! 〈鉤爪〉を会得しました】
僕の手指の先が硬化してブーツに食い込む。
やった。思っていたのとは違う結果だが、反撃の糸口が生まれた。
「チ。散々待たせてその程度なの?」
「――ぐぶ」
ブーツにめり込んだ僕の指をもろともせず、フェルはかかとを沈ませた。
まだまだ無双させてくれません。健気に働くスペックの声を主人公が聞く日は、そんなに遠くないはず。




