15.ネカフェの妖精みたび
ネカフェのある雑居ビルの最寄りと駅とは割りと近かった。これなら駅から歩いてもいいかもしれない。
結局、あれから調べ物をする時間はなかった。乗り換えで慣れない駅を歩き、幸いなことに待たずに乗れたバスがすぐに目的地についたからだ。
僕はインターネットカフェ『フェアリーサークル』に帰ってきた。
……帰ってきた、か。本当にネカフェが今の僕の家でいいのか。
ジネッタのことを笑えない。ネカフェに住んでいる妖精のことを残念だ、とか思っていたが、僕も変わらないのだ。
自動ドアをくぐり、店員に会釈して僕はブースに戻った。
ディスプレイの脇に置きっぱなしになっていた会員カードをリュックサックのポケットに入れる。冒険者登録証と現金もジャージのポケットからリュックサックのポケットに移した。ジャージを着替える度にお金と身分証を移し替えるのが面倒だからだ。少し迷ったがケータイもリュックサックに入れておくことにした。
それからトイレに行き、鏡を見る。
……やっぱり僕だ。
今朝、なにげなく顔を洗った時は違和感がなくて気づかなかったのだが、今の僕が前世の僕と同じ顔をしているのは明らかにおかしい。
僕がこの肉体に宿ったことで、前世の顔に変わったのかもしれない。少なくとも今朝の時点で、いやケーニッヒが何も言わなかったことを考えると、黒尽くめから逃げた後にはこの顔だったことになる。
僕が僕の顔になったのはいつ? 疑問がまた増える。
ふと洗面台の横に扉があるのに気づいた。出入口ではない。何の扉だろう、と思って僕は昼間ジネッタに聞いたことを思い出した。
トイレを出て、周辺を確認する。すぐに見つかった。
男子トイレと女子トイレを挟むように、男子シャワールームと女子シャワールームがある。どうやらトイレにあった内扉はこれに繋がっているようだ。
そう。このネカフェにはシャワールームがある。ジネッタが引き篭もった原因のひとつにもこの設備の充実があげられるのではないだろうか。
丸一日シャワーを浴びていない。気になって僕は自分の腕を嗅ぐが、特に変な匂いはしなかった。自分では分からないだけで、実はマーキュリーの口数が少ない理由が――
……いや。それは考え過ぎか?
恐るべき発想に至ってしまい、僕の精神にヒビが入ってしまった。いかん。これはいかんよ。
僕はすぐざまシャワールームに入った。
◇
結果として臭わなかったと推察するしかない。というのも、シャワーを浴びた僕の身体からはボロボロと乾いた垢が流れ落ちたからだ。
異常な垢の量に驚いたが、どうもこの身体は代謝がいいらしい。
【〈衛生体質〉を会得しています。ご安心ください】
……うん?
頭の中で何か鳴った気がする。確か黒尽くめから逃げる最中にも、同じ音を聞いたはずだ。今回のは心なしか慰めるような優しさすら感じられる。
僕はスペックを確かめることにした。
〈衛生体質〉:常に清潔に保たれる。ただし汚れや雑菌は無臭の垢として体表面に積層するので、これは洗い落とさなければならない。
案の定、増えていた。なるほど。いつ習得したのか分からないが、僕は無罪だったようだ。わざわざ無臭だと言及されているところに何者かの作為を感じるが。
シャワーで体全体を流した僕は、急いで脱衣所に戻った。なにせ全財産がリュックサックの中だ。ブースは中から鍵を掛けることはできるが、貴重品を置いておくことはできそうもない。
ジネッタはその辺をどうしているのだろう。僕はネカフェに先住している妖精に聞いてみることにした。
◇
ジネッタのブースからはタタタタ、と小気味良いキーボードの音がした。キーボードから鳴る音はソフトウェアで設定できる。ジネッタは割りと小音にしているようだ。
連続で途切れがない打鍵音に、僕はノックしていいものかしばし迷った。
しかしこのままブースの前に立っているのも気まずい。誰かに見られたら聞き耳を立てているみたいだ。中に女性がいるのが分かっているのでなおさら落ち着かない。
僕は意を決してノックした。
「ジネッタさん。聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
沈黙。反応なしである。
なおも打鍵は続いている。一定のリズムではなく、たまに手が止まったり、一気に進んだりしながらだ。
ブースに誰もいないということはないだろう。昼間みた生活感からして、別のブースにわざわざ移るのも考えにくい。
「ジネッタさん?」
再度ノックしてみるがやはり反応はなかった。まさか居留守か。ネカフェで、居留守。あの妖精ならやりかねない。
ネットが好き過ぎてネカフェに引き篭もり、あまつさえ店長に就任しては24時間ブースがタダで使えると豪語してのけたネット廃人だ。ジネッタ、ネットやめない。キリッ、みたいな。
僕の中のジネッタ像がむくむくと出来上がっていく。扉の前でノックの姿勢で固まる僕をせせら笑いながらネットを続けるチビ妖精。身長1メートル。
そんなアホな妄想に突き動かされた僕は、紛れも無くアホだったとしか言い様がない。ブースのノブを回して、開けた。
「ジネッタさん。いますよね――」
鍵は掛かっておらず、僕は扉を開けて中を見た。見てしまった。
ブースは一畳半。僕のブースと同じ広さ。ディスプレイの前には仮想キーボードが展開されており、左右に一台ずつの携帯端末が別に起動していた。
みっつのキーボードとそれぞれのタッチパッドが、ソファを囲むようにぐるりと半周している。
青白い光を放つ三台の端末の中心で、アゲハチョウの羽根を持つ妖精がリクライニングで平らになったソファの上にうつ伏せで寝そべっていた。額から伸びた一対の触覚はワイヤのように弧を描いて、ディスプレイの下枠に差し込まれていた。
……触覚なんてあったっけ?
僕の疑問をよそに、光が横切る。
情報魔術の光だ。無数の光が彼女を無視して端末の間を飛び交っている。まるで花畑を飛ぶ蝶のように光が舞う。
『フェアリーサークル』――チェーン店ではなく、彼女が店長になった暁に名付けられたここの店名。この光景こそがその由来だと、僕が知るのは後日の話だが。
ディスプレイにかかるように吊るされたカラフルな下着と、壁にハンガーでかかった替えのジャージだけが異質。
幻想的な光景に僕は見入っていた。
同時に。三台のディスプレイに移る映像にも僕は見入っていた。どこかの水槽に浮いている、僕の顔。眠るように目を閉じ、見覚えのある細い腕が液体に揺れている。ねえ、なんでそこに僕がいるの。
ドワーフヤクザの声が聞こえる。――ジネッタ。お前はミホ・マギテクノロジーを徹底的に洗え。
どうやって、とは彼女は聞かなかった。
こうやって、とは彼女は言わなかった。
ぐい、と触覚がたわんでジネッタが僕を振り返った。感情のない目で僕を見るのは止めてくれ。怖いじゃないか。
僕は聞いた。
「なにを見ているの」
「複眼ってね。便利なのよ」
聞いていもいないことを答えられた。複数の端末。その全てが複数の仮想ディスプレイを展開し、たくさんのウィンドウが開かれている。
「水槽に浮いているのは僕なの」
「ミホ・マギテクノロジーのデータベースをハッキングして、映像を取得したの」
事も無げにそう言って、画像のひとつを拡大した。水槽の下のネームプレートには『ボーイ』の文字。
「爆発事故のあった企業だよね」
「そうね」
拡大された画像の水面が揺れた。画像ではなく動画だったらしい。水槽の中で海藻のように揺れる眠れる僕。
感情を宿さないまま、ジネッタの瞳が揺れる。そして彼女は、僕に言った。
「これ、ライブ映像なの」
――は?
何を言っているの。これがライブ映像なら、僕はどうしてここにいるの。僕じゃないのなら、いま映っているのは誰。
ブワッと背中から嫌な汗が噴き出る。
実験兵器。魔人。それが一体だけだと、誰が言った?
僕は悲鳴を上げてその場から走り去った。
ネカフェ妖精の正体みたり。彼女は枯れ尾花などではなくスーパーハカーなのである。




