三千世界の外の鴉
鴉がカァと一声鳴き、エルベ=ゴルゼスタ=ハルトは目を覚ました。
どうやら本を読んでいる間に眠ってしまったらしい。
体に掛けていた黒地の羽織と開いたままの本がデッキチェアの脇に転げ落ちていた。
木々の間から射す光に目を細めながらエルベは起き上がる。
欠伸を一つ。まだぼんやりとした頭で、鴉が鳴くなんて珍しいな、と考えながら乱れた髪を適当に結い直す。
いつもこの隔絶された森ではピピピとかチチッといった小鳥の声しか流れないようにしてあるはずだった。
サビラさん、環境プログラム変えたのかな。
自分たちが過ごしやすい環境に整備するのは研究棟に引きこもりがちな先輩の担当だった。
鴉のことは後で聞いてみよう。エルベはそう判断し、羽織と本を拾い上げた。
本を閉じ表紙のタイトルを見る。
『女になった俺は異世界でツンデレ勇者呼ばわりなんだが』
仕事の参考になるかと思って『雑魂堂』で買った。
いわゆるTS異世界召喚チートもの。
男主人公がある日トラックに撥ねられ死んだら神様に会い、異世界で魔王を倒してくれと懇願される。チート能力を授けられ送り出されたものの何の手違いか美少女になっていたという話だ。
見た目は美少女、頭脳は男な主人公は外見から野郎に慕われるも「キモい」と逃げ回り、女からは同性として懐かれるが召喚前からのあがり症が原因で無口になる。そんな重度のコミュ症なのに何故かツンデレと勘違いされ、男女問わずハーレムを形成していく。どちらかというとチートを駆使したバトルものというよりは美少女頼みのほのぼの漫遊記。
どこにでもありそうな小説だったが、逆ハーレム・ハーレムと分けずに天性の人たらし、という恋愛よりは人間愛を基盤に描かれてあったので男女どちらの読者にも受け入れやすい内容で、面白かった。
エルベはまた本を開いた。確か120ページくらいまで読んだはずだ。
表紙に巻かれていた『美少女+チート=TUEEE!』と書かれたシンプルかつ元も子もない帯を栞替わりに挟む。
そういえば、性転換召喚はやったことなかったな。今度客が来たら逆提案してみよう。気に入られるかもしれない。
エルベはデッキチェアから立ち上がり背伸びをした。また欠伸が出る。
と、エルベが立ち上がるのを待っていたかのようなタイミングでカーン、カーンと森中に荘厳な鐘の音が響いた。
この小さな世界にお客様がいらしたらしい。
ナイスタイミング。早速、性転換召喚を提案しよう。
エルベは気合を入れて羽織を羽織った。
背中で黒地に色鮮やかな鳳凰と彼岸花の柄が踊る。
寝ていて首元にへばりついた髪を今度はしっかり結わえ直し、本を持って歩き出した。
行き先はデッキチェアの後ろに構える赤い屋根のログハウス。エルベの仕事場だ。
その茶色い木製のドアには共通神語で大きくこう書かれた真鍮製の厳かな看板が掲げられていた。
『迅速、丁寧、確実に! どんな世界でもどんな魂でも転送させます』
『ユジン=ナッカ異世界転送事務所』
そしてその下には小さく、本当に小さく手書きの紙が貼り付けてあった。
『なお、当事務所は正規の手順を踏まず転送行為を行う場合がございます。ご了承ください』
明らかにもぐりです、と言っているようなものだが、それでも来るお客は後を絶たない。
それだけ、エルベの所属する事務所の転送技術は高く、また後ろ暗い客が多いのだ。
看板の下、ドアノブに掛かった『準備中』の札を『営業中』に裏返してログハウスの中に入る。
扉を開けてすぐの広間が応接室になるのだが、ちゃんときれいに整っていることを確認する。
うん、ゴミも落ちてない。
「さぁて、今回はどんなお客様が来たのかな」
言いながら出たのはやっぱり欠伸だった。