対外的にイイ男への油断
あんな目に遭って数ヶ月経った。
あれからの幸村はこれと言って強引な手を使って来なくなった。
世間が見るに『婚約者』と言う枠にはめ込んでしまったからなのだろうか。
職場でも初めの頃はなれそめがどうとか色々聞かれたりしたが、無関心を決め込んで無視してしまえば誰も聞いてくる者はいなくなった。
だからなのか。
藤緒はほんの少し、油断していた。
「今度映画のロケに行くのにお前も有給取って付いてこい」
「嫌よ。冗談じゃない」
今まで一度だって言われた事がない誘いに藤緒は速攻で断りを入れる。
その反応を予測していたのだろう、幸村は藤緒の額にぺしんとチケットを押し付ける。
「いたっ!」
「良いから来い。国内だから」
藤緒の心配はそこではないのだが、幸村はあえてずれた事を言う。
額から手を離されれば、藤緒の目の前をチケットがひらりと落ちていく。
それを手に取ると、確かに国内だった。
分類的には『東京都』である。
「・・・・小笠原?」
「今なら見れるぞ」
藤緒がカレンダーを見る。
確かに、幸村の言う通り、今がギリギリのタイミングだった。
昔ほんのちょっと呟いた言葉を覚えていた幸村に感動しないでもないが、今の二人の関係では全く喜ばしくない。
しかし、『それ』は見たい。
心の中で天秤が揺れる。
「・・・・これ、あんたも一緒なの?」
「そんな暇あるか。俺は仕事だぞ。ただ、それを見る以外ではマネージャーの手伝いをして貰うがな」
タダではない、と言う意味の言葉が藤緒から罪悪感を取り除いた。
要するにバイトの報酬、と言う事か。
「・・・・判ったわよ」
どうしても見たかった誘惑に、藤緒は負けた。
確かにマネージャーの手伝い以外は自由な時間が多かった。
「・・・・どう考えても騙された感があるんだけど・・っ」
藤緒は包丁を握りしめながら目の前にある大根をぶつ切りにしていく。
隣では顔なじみのマネージャーが苦笑していた。
藤緒がぶった切った大根の面取りをしている。
男性にしては器用にするすると包丁を捌く姿はマネージャー業をしている所からは全く想像が付かなかった。
「志摩さんって・・・・もしかして何でも出来ます?」
「何でも・・・は無理だなぁ」
あはははは、と軽く笑う男自身、俳優と名乗っても良いぐらいに整った顔をしている。
が、全く性格が向いてないので芸能界にマネージャー以上で関わるつもりはないと昔聞いた事がある。
「と言うか悪いね、会社の有給使わせて飯炊きさせて」
「いえ・・・・」
どうしても見たかった『それ』、ホエールウォッチングに釣られた藤緒は現地で何を手伝うのか全く気にしていなかった。
行く前に聞けば良かったのに、全く聞かなかった。
それが今目の前の大根に繋がっている。
「けど全く判らない女の子に撮影の手伝いみたいな肉体労働させたくないしね」
うっかり撮影道具の一つでも壊せば大変な目に遭う。
なので却ってこの程度の手伝いで済んで良かったのかも知れない。
「いや・・・・・単にこれってあいつの我が儘だから」
藤緒が言った言葉に志摩は苦笑しながら弱火の掛かっている鍋の中に大根を投入する。
鍋の大きさは一般ご家庭で使う様な大鍋の大きさを上回ったでかさだ。
炊き出しに近いかもしれない。
「我が儘って・・・」
「あいつが『藤緒の飯食いたいー!じゃなきゃ撮影行かないー!』って」
「・・・・・アホなんですか?あいつ・・・・」
「滅多に言わない我が儘だったのと、非常識を超越してなかったからね。君には申し訳なかったけど」
「社会人としては非常識ですよ」
4月と言えば新入社員が入って来る時期だ。
藤緒の会社にも確かに新入社員は入って来たが、藤緒の部署は新人研修とは余り関係のない部署だったので何とか有給の申請が通った。
しかも新人達は今、会社の所有する保養所で泊まり込みの研修中だ。
運が良かったとしか言いようがない。
「ここまで来たしまった後でどうこう言っても仕方ありませんからね」
苦笑しながら藤緒は次の食材を包丁で刻んでいく。
時間はそろそろ夕方を終わる時間だった。
撮影班が一旦戻ってくる時間が近づく。
「さっさと夕飯作ってしまいましょう」
その言葉に志摩も同意して二人は料理に取りかかった。
藤緒のこの撮影班内での仕事は料理番だった。
旅館などで泊まる事も考えられていたのだが、今使っていない昔の建物をコテージのようにし、格安で貸し出している所を見つけた幸村がゴリ押した結果が現在の状況だった。
他の俳優もそれに反対しなかったのが不思議な所だが、どうも物珍しかったのが勝ったらしい。
朝食を作っていても、どういう訳か出演する女優の皆が藤緒に友好的に話し掛けてくる。
「藤緒さーん・・・野菜ジュース付けてぇ・・・・」
気怠そうに話し掛けるのは今回の幸村の相手役だ。
どういう訳か彼女が一番藤緒に懐いている。
「二日酔いですか?」
「ううんー、貧血ー・・・・」
確かに彼女の顔色は青白く、宜しくない。
建物よりも比較的新しい巨大なカウンター式のキッチンの前に座り込んで突っ伏して本当にしんどそうだった。
撮影の疲労が取り切れてない所に女性特有の原因が重なったのだろう。
藤緒はそれを考慮してほうれん草のスムージーを出す。
出されたそれを女優はまるで飲み屋のおっさんか、お風呂屋さんでフルーツ牛乳を飲むかの如く腰に手を当てて一気飲みする。
「ぷはぁ・・・!美味しい!」
「良かったです。あとこちらも食べて下さいね」
作っておいたサラダを冷蔵庫から出してラップを剥がす。
現地の方がくれた朝摘みの野菜だった。
トマトとレタス、キュウリにピーマンの上にゆで卵を細かく刻んだ物がふりかかっている。
ドレッシングは市販の物を数種類。
「パンはトーストにしますか?そのまま?」
「トーストでー!カリカリの上にバターとろりで!」
とてもTVで見る様な気取った感じがない。
藤緒の出したサラダを美味しそうに食べていると、他の俳優陣も現れる。
幸村もその中にいた。
「おはよー」
「おはよ・・・って何でお前藤緒の飯独り占めしてんだよ」
「へっへーん!いいだろういいだろう。本当藤緒さんって料理上手よねー。さっき貧血対策で貰ったスムージー超うまだったし!」
その言葉に他の女優陣の目が獲物を狙う様な目つきになる。
「み・・・皆さんの分も材料ありますから・・・・」
戦きながらの藤緒の言葉に女優陣の表情がぱぁっと輝く。
言った手前出来ませんとは言えず、藤緒は他の作業と平行してスムージーを用意し始める。
ジューサーが小さいので一杯ずつしか作れないのだ。
「全く持って幸村が憎いわー・・・・ねえ、藤緒ちゃん。あたしのマネジやらない?今の会社より良い給料払うよ?」
スムージーを貰った女優の一人にそう声を掛けられる。
しかし、その藤緒を背後から抱きしめた幸村がずるずると引きずっていく。
「こいつは俺のだからダメ」
「お前のモノじゃない」
引きずって歩く幸村の足を思いっきり踏み付けて藤緒は幸村から離れる。
「あ、今日のお昼は用意していきますけど、私いませんから申し訳ありませんけどセルフサービスでお願いします」
「あ、鯨見に行くんだっけ?」
「はい」
「あれ1回番組で見たことあるけど凄いよー!本当感動出来るから」
俳優陣の言葉に藤緒は嬉しそうに笑い、朝食を次々に出していく。
貧血で倒れていた女優の前にはいつの間にか厚切りのトーストが置かれているし、コーヒーやジュースも用意されている。
そんな働く藤緒を見ながら、幸村は楽しそうに笑っていた。
夕方になる前、藤緒が戻ってきた。
頬を紅潮させて大興奮の状態で。
「あれ、お帰り」
「幸村!」
昔の様に笑いながら幸村に近づいてくる藤緒に、面食らいながら幸村が藤緒を迎える。
「どうした?」
「もー、すっごい!すっごかった!ありがとうね!」
にこにこと笑いながら藤緒が幸村の手を握る。
興奮して体温が上がっている藤緒の手は熱かった。
「目の前で潮吹きも見れたし、親子の鯨も見れたのよ!距離ぎりぎりまで近寄って貰えたし!」
「そうなんだ?良かったな」
「うん!ありがとうね」
笑顔の大盤振る舞いの藤緒に、幸村も笑う。
「藤緒、飯の準備の前にちょっと歩かないか?」
「?いいけど。そんなに時間はないわよ?」
それほど遠くではない、と幸村が言うと藤緒はそのまま手を引かれて歩き出す。
5分程歩くと、幸村の目当ての場所に着いた。
地元の人間が夏に度胸試しと称して飛び込み台にしている崖だった。
高さはそれほど高くはない。
「そう言えば、撮影大丈夫なの?」
「俺はこの後夜のシーンだけ」
ほら、と手を伸ばした先には、海に沈みかけている太陽が見られた。
「うわ・・・」
「実は俺、ここ二回目なんだよ」
言いながら笑って幸村が崖の上に座る。
藤緒も倣って座る。
「まだちょい役の時に来て、ここ教えて貰った」
「へー・・・」
「運が良かったら、遠くの鯨が潮噴いてるの見れるって」
「え?!」
まだ興奮が冷めていない藤緒は水平線に目を懲らして、鯨が見られないかと真剣に探している。
しかし、目が悪い藤緒にはそれほど遠くも見られず、諦めて夕日を眺める。
「幸村って、撮影行くたびにこんな風に良い場所を探してるの?」
ふと疑問に思った藤緒が幸村へ振り向く。
んー、と少し考える幸村に藤緒が同じように首を傾げる。
「そうだな・・・・場所による」
「そうなの・・・・」
「と言うよりお前に見せたいって思った場所ぐらいしか探してないけど」
「・・・・・・っ!?」
幸村の言葉に藤緒は不意を突かれた。
あれだけ強引な事をして置いて、今この場でそう言うことを言うのか、と。
「お前、こういうの好きだろ?」
「す・・・きだけど・・・・」
「だから覚えてる」
ぎゃあああ、と藤緒は心の中でのたうち回りたくなった。
こんなシチュエーションでしかも幸村に言われたくない、と照れによる拒絶反応だ。
昼間のホエールウォッチングの興奮も手伝ってなのか、今更二人きりでいる事が耐え難い。
「そ・・・・・う・・・」
「・・・・藤緒?熱中症か?」
夕日が原因ではない赤面に幸村が顔を覗き込んでくる。
しかし、藤緒は言葉が出せない。
強姦までした相手にこんな反応をするのはどうなのか、と藤緒が脳内で混乱する。
けれど、その前は?とちくりと針で刺された様な痛みを伴った言葉が浮かんでくる。
「・・・・?」
「あ・・・・・」
夕日が沈む。
そろそろ時間だ。
縋るものが欲しくて、藤緒は目の前にあった幸村の服の裾を掴む。
「藤緒?」
「・・・・そろそろ、かえろ」
「そうだな、そろそろ時間か」
幸村が立ち上がった為に、服の裾から藤緒の手が外れる。
その手を、幸村が握って藤緒を立たせる。
「今日も撮影しんどかったから皆腹減らしてるだろうし」
たわいない幸村の言葉に、藤緒はどういう訳か、泣きたくなった。
「本当贅沢言うなら藤緒の飯は俺だけが食いたかったんだがなぁ・・・・」
「・・・馬鹿な事、言ってるんじゃないわよ」
言われた言葉が、異様に嬉しいだとか。
繋がれた手が恥ずかしいとか。
もう少し、二人でいたかったとか。
―――あの時、キスして欲しかった、とか。
全部、夕焼けを見た幻にしてしまいたかった。
名前の変換ミスがあったので修正しました。
ご連絡頂きありがとうございます。