三日目【5】
庭が一望できるバルコニーの手摺りに座り、階下で蹲る物体に目を留める。
緋色の毛皮を更に別の赤で彩った獣の周りには私が作った結界が張ってあった。
あの獣は半端ものだが一応魔に属する生き物だ。
人間に与える影響を考えれば念を入れておくに損はない。
一人で風に吹かれながら、少しだけ得た平穏に息を吐く。
勇者の面倒を見るように白檀様から仰せつかっているが、勇者本人から『こちらから声をかけるまでは一人にして欲しい』と望まれた。
彼の目の前でアースを断罪して見せたのが余程堪えたらしい。
梅香が傍で囁いていたから何か意地の悪いことでも言われたのかもしれない。
一見穏やかな好青年に見えるが、彼の性格は穏やかとは無縁の場所にある。
人間との価値観の相異を理解しながら踏み躙る幼馴染の性格はとても天晴れなものだ。
今までの勇者なら真っ向から対立できていたが、精神年齢が低い子供のような彼では些か荷が重かろう。
だからと言って全く助け舟を出す気はないので泣きつかれても一笑に付して終わりだが。
風に乗って鉄錆び臭い香りがこの場まで臭う。
どうやら庭先で立ち上がろうとアースが足掻いているらしく、体が動くたびに新たな血が溢れて地面を汚しているようだった。
臭いまで遮断していなかったが、これも閉じ込めるべきかもしれない。
力を使おうと指先を持ち上げると、不意に背後から声が掛かった。
「っ、何する気だ!?」
咎めるような強さを持った問いかけに、首だけ動かし後ろを振り向く。
先ほどから人の背後をうろちょろしていたが漸く声を掛ける気になったらしい。
緩やかな結界で彼以外の人間は拒絶していたので、行儀悪い格好を客人に見られる心配もない。
本来なら勇者である彼に一番見られるとまずいのだが、本人が素のままで居ろと言ったのだから構わないだろう。
やや青褪めた顔でにじり寄る勇者───フレドリックの姿に目を細めれば、くっと息を呑みその場で足を止めた。
別に威嚇したわけでもないが、アースに対する容赦ない対応を思い出したのだろう。
拳は白くなるまで握られ、体は僅かに震えている。
無理してまで声を掛けなくともいいのに、と思いながら私は新たに外部との遮断をするための結界をバルコニーに張りなおす。
朝の様子だと今回も菊花と梅香の監視の目がついているに違いない。
毎回小言を言われるのは御免だし、フレドリックとの遣り取りを見られたいとも思えなかった。
手摺りに座ったまま動かない私に意を決したのか、今度は大股で近づいてくる。
バルコニーの手摺りから脚を投げ出したまま動かずにいると、手が届きそうな距離で漸く足を止めた。
「あれ以上やる気か?」
「・・・貴方がお望みならば」
「望んではいない!だから、頼むからもう止めてくれ」
別にアースに対して攻撃態勢でいた訳じゃないのだが、何を勘違いしたのか唇を振るえてフレドリックは訴えた。
自分に牙を剥こうとした獣でも、殺されるのは忍びないらしい。
ならば始めから余計なことをしなければいいのにと思うが、それも無理な話かと否定する。
知識だけ無駄に偏って持っている彼は、見た目よりも好奇心旺盛のようだから。
「あいつ、あのままじゃ死ぬんじゃないのか?梅香は、俺のためにあんたがやったって言ってた。俺があんたの手を血に染めたのか?」
「───・・・」
一つため息を吐き、視線をフレドリックから逸らす。
何を面倒な展開に持っていっているのだろうか。
勇者嫌いの幼馴染の凶行にうんざりしながら、落ち込むように顔を俯かせるフレドリックに視線をやる。
何故ここまで勘違いできるのか。
どうして私が本心から彼のために動くと思うのか。
確かに私はフレドリックに牙を剥いた罪も含めてアースに剣を向けた。
しかしその心に勇者への気遣いは欠片も持ち合わせていない。
私はあくまで『白檀様の意思ではないのを証明するため』に動いたに過ぎない。
この地で勇者に手を上げるのは、基本的には禁止されている。
赦されるのは自衛のみ。やられてから初めてやり返す権利を得る。
そうでなければあまりに実力差が激しすぎ、彼が勇者としての権利を執行する前に世界は終わるだろう。
アース如きの半端ものですら人間を殺すには十分の戦力だ。
もしアースが牙を剥いたあの場で、自分の体が先に割り込めないと判断していたら、私はその場でアースを粛清していた。
そしてその上で自分の処分を迫ったに違いない。
アースがしでかした行為は勇者が無傷だからこそあの程度で済んだが、それでも白檀様の無実の証明は必須だった。
この世界を平定する役目を持つもう一つの種族、『天使族』に知らしめるために。
現在のこの世界は魔が支配する世界だ。
しかし私達が消えればこの地は天使へと権利が委譲する。
香には教えなかったが、正確に言えばこの世界に『王』はもう一人存在するのだ。
そしてこの世界の理は、彼女に説明したよりももう少しだけ入り組んでいる。
魔王である白檀様に対し『勇者』が存在するように、対になる存在の彼にも『愛し子』と呼ばれ神殿で住まう執行者がいる。
役割は勇者と変わらないのに対応が変わるのは、人間が魔族に対してどんな感情を抱いているか判り易く表していた。
もっとも、『勇者』と『愛し子』が同じ役割を担う存在と知るものはほとんど居ない。
この地に派遣される魔族と天使族くらいのものだろう。
どうせ同時に存在することもないのだから、知る必要もない事実だ。
ここで重要なのは、この両者が不可侵であるという部分。
もし魔族、もしくは天使族の一員が『勇者』、または『愛し子』に安易な理由で手を上げれば、その瞬間に敵対する種族の手出しが許される。
そうするとことはかなり厄介になり、場合によってはこの地を平定する『天使族』の貴族の相手をせねばならない。
それこそが私が一番恐れる事態だ。
だがそんなこちらの事情を目の前の男が知るはずもなく、ただ自分のために私が手を汚したのかと問うてくる。
必死な眼差しをこちらに向けて、真実なのか問うてくる。
全くもって面倒な展開だ。
もう一度深く息を吐き出し、億劫な気持ちを堪えながら彼の問いから僅かに外れた答えを告げた。
「言ったはずよ。アースはあの程度では死なないわ」
「・・・だが、体は痙攣し血は止まらない。シェリルが治癒で回復させようとしたが、近寄るなとばかりに威嚇された。手負いの状態であってもあいつは俺たちより強い。どうすればいいか判らない内に結界が成形され、近寄ることすら出来なくなった。その癖見せしめとばかりにもがく様を晒し、憐れでならない」
「あれは自業自得よ。アースもこの地で勇者に牙を向ける重さを理解しているわ。だから万が一の場合も悔いが残らぬように花畑に一人で残ったのよ。あの地は想いの因に溢れているもの」
「想いの因?」
「・・・どちらにせよ、貴方には関係ないことだわ」
一言で切り捨てると、傷ついたように顔を歪めたフレドリックは、私から一歩距離を置いた。
怯えが体から伝わってくる。
恐怖を隠せもしないくせに、それでも彼はまだ離れない。
「・・・どうして」
「何?」
「どうして、あいつが死なないと断言できるんだ?」
ぽつり、と呟かれた言葉に、私はアースを瞳に映す。
何度かもがいた末にどうにか顔を上げた獣は、相変わらず私だけを一心に見詰めていた。
何故あの体で動き回るのかと思ったが、どうやら私の気配に気付いていたらしい。
結界に遮られながらも私の位置を探れたというなら、少しは力が強くなったのだろうか。
若草色の瞳を見詰めてやれば、ゆっくりとまた尻尾を振った。
一回、二回、と無駄に体力を使ってまで、私の意志を引き寄せようと必死に尻尾を揺らしている。
彼の瞳には隣の勇者など映っていない。
先ほどの怒りの片鱗も見えず、最早彼に興味すら抱いていないのだろう。
いつもどおりに、私だけを見詰めて、少しでも長く傍に置いてと、言葉ではなく態度で示す。
瞬きせずにその光景を眺めながら、緋色の花を空から取り出した。
一輪だけの小さな花。
それは野に咲く雑草で、華やかさの欠片もない。
突然現れた花に目を見開いたフレドリックは、けれど今度はそれに触れようとしなかった。
「断言くらい出来るわ」
「何故だ」
「───断言できるくらいに、彼の執着の強さを理解しているのよ」
弄んでいた花をドレスの胸元に差し込む。
一輪だけなのに存在を主張するように香る花は、そんなに嫌いではなかった。