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Backrooms 2 side story

作者: ponto
掲載日:2026/10/08

第一章 The Threshold


俺たちは、暗い場所を歩いていた。

どれくらい歩いたのかは、もう分からない。

足は重かった。

喉も渇いている。

それでも、隣を歩く三上は止まらなかった。

「……宮本」

「ん?」

「あれ」

三上が前を指差した。


暗闇の向こうに、何かが見える。

青白い光だった。

俺たちは顔を見合わせた。

「……行ってみよう」

「ああ」

俺たちは光へ向かって歩いた。

近づくにつれて、その形がはっきりしていく。

巨大なアーチ。


暗闇の中に、それだけが浮かぶように立っている。

「……門?」

三上が呟いた。

「たぶんな」

俺は答えた。

こんなものを見たことはない。

少なくとも、ここへ来てからは初めてだった。

門のすぐ横には、古い石碑が立っている。

「……何か書いてある」


三上が石碑に近づいた。

俺も隣に立つ。

石碑には、いくつかの文字が刻まれていた。

「読めるか?」

「……うん」

三上がゆっくり読み上げる。

「ここで休息するか、現実へ戻るか……」

俺は門を見た。


「現実……」

その言葉だけで、胸の奥がざわついた。

帰れる。

本当に帰れるのかもしれない。

俺たちは、ここへ来てから一度も現実に戻ったことがない。

ずっと、この世界を歩き続けてきた。

だから。

その言葉が、信じられないくらい嬉しかった。

「……続きがある」


三上が言った。

「何て?」

「……帰還できるのは、一名のみ」

「……」

言葉が出なかった。

三上も黙っている。

俺はもう一度、石碑を見る。

確かにそう書かれている。


一名のみ。

「……一人だけ?」

「ああ」

「俺たち、二人いるけど」

「そうだな」

三上が苦笑する。

俺も笑おうとした。

でも、笑えなかった。

ようやく見つけた。


現実へ帰るための場所。

なのに。

そこには、一人しか入れない。

「……試してみよう」

三上が言った。

「え?」

「本当に二人じゃ無理なのか」

「……そうだな」


俺たちは門の前に立った。

まず三上が一歩踏み込む。

俺も続く。

二人で門をくぐろうとした。

その瞬間。

身体が押し戻された。

「……っ!」

俺は後ろによろけた。

三上も足を止める。


「今の……」

「押されたな」

「もう一回」

俺たちはもう一度、門へ向かった。

今度は並んで、同時に踏み込む。

けれど。

やっぱり無理だった。

門の中へ入ろうとすると、見えない何かに阻まれる。


三上が一歩進む。

俺が続こうとすると、押し戻される。

「……本当に一人だけなんだ」

三上が呟いた。

「みたいだな」

俺は石碑を見た。

そこに書かれた言葉は変わらない。

帰還できるのは、一名のみ。

「……じゃあ」


三上が口を開く。

「俺が残る」

「いや」

俺は首を横に振った。

「お前が帰れ」

「なんでだよ」

「……いいから」

「宮本」


「お前が帰るんだ」

三上が黙った。

俺だって、一緒に帰りたかった。

本当は。

二人で現実に戻って。

今までのことを笑い話にしたかった。

でも。

それができないなら。

せめて三上だけでも帰してやりたかった。


「……俺は残る」

「駄目だ」

「なんで」

「お前を一人にできない」

その言葉を聞いて、俺は少しだけ笑った。

「俺だって、お前を残したくないよ」

「じゃあ――」

「だからだよ」


三上が黙る。

「どっちか一人しか帰れないなら、お前が帰れ」

「宮本……」

「俺は大丈夫だから」

嘘だった。

怖かった。

一人になるのが。

この世界を一人で歩くのが。

それでも。


三上には帰ってほしかった。

「……行け」

「でも」

「行けって」

俺は三上の肩を掴んだ。

「宮本、待て」

「早く」

「一緒に帰る方法を探そう」


「そんな時間ないだろ」

俺は門を見る。

青白い光が静かに揺れている。

「ここまで来たんだ」

俺は三上を見る。

「お前だけでも、帰れ」

「……」

「頼む」

しばらく三上は動かなかった。


だから。

俺は三上の背中を押した。

「……行け」

「宮本……」

「早く!」

少し強引に押す。

三上の身体が門の中へ入った。

「待て!」


三上が振り返る。

俺は笑った。

「大丈夫だ」

「……本当に?」

「ああ」

嘘だった。

でも。

それしか言えなかった。

「じゃあな」


「宮本!」

青白い光が強くなる。

三上の姿が、光の中へ沈んでいく。

「絶対に帰ってこい!」

三上の声が聞こえた。

俺は手を上げた。

そして。

三上の姿が消えた。


門の光も、少しずつ弱くなる。

やがて。

完全に消えた。

「……」

静かだった。

さっきまで隣にいた三上がいない。

俺は、その場に立ったまま動けなかった。

本当に。

一人になった。


俺は石碑を見る。

そこには、まだ文字が残っている。

――帰還できるのは、一名のみ。

「……分かってるよ」

小さく呟いた。

俺は振り返る。

帰還の門は、もうない。

残っているのは。


どこまでも続く暗闇だけだった。

「……行くか」

俺は休息する場所まで歩き始めた。

三上がいなくなった場所を、もう一度だけ振り返る。

「……また会おうな」

返事はなかった。

それでも俺は歩いた。

一人で。

帰る場所を失ったわけじゃない。


ただ。

まだ、帰れていないだけだ。

俺の旅は。

ここから始まる。


第二章 The Woodland Garden


休息する場所で、俺はしばらく座っていた。

三上がいない。

その事実が、時間が経つほど重くなっていく。

目を閉じる。

静かだった。

何も聞こえない。

足音も。

機械の音も。

誰かの声も。


ただ、自分の呼吸だけが聞こえていた。

「……三上」

小さく名前を呼ぶ。

当然、返事はない。

俺はゆっくり立ち上がった。

ここに留まり続けるわけにはいかない。

三上は現実へ戻った。

俺も、いつか戻らなければならない。


そのためにも。

前へ進むしかない。

少し先に、淡い光が見えていた。

「……あれか」

俺は光へ向かって歩き始めた。

近づくにつれて、光が強くなる。

眩しくて、思わず目を細めた。

そして。

一歩、光の中へ入った。


――次の瞬間。

空気が変わった。

「……?」

俺は足を止めた。

さっきまでの静かな空間が消えている。

周囲には。

木があった。

何本も。


大きな木が立ち並んでいる。

葉の間から光が差し込んでいた。

土の匂いがする。

風が吹く。

葉が揺れる音が聞こえる。

「……森?」

俺は周囲を見回した。

ここまで木が多い場所に来たのは、久しぶりだった。

しばらく歩いていると。


草むらから、小さな動物が飛び出した。

「……!」

俺は思わず足を止めた。

動物は俺を一瞬だけ見た。

そして、そのまま森の奥へ走っていった。

「……動物がいるのか」

さらに進む。

今度は鳥の鳴き声が聞こえた。


木の上では、何羽かの鳥が飛び回っている。

少し離れた場所には、小さな動物の姿も見えた。

今まで見てきた場所とは、明らかに違う。

危険な気配がない。

少なくとも、今のところは。

俺はゆっくり歩いた。

木々の間を抜ける。

足元には草が広がっている。

時々、枝を踏む音がする。


それ以外は。

不思議なくらい穏やかだった。

「……こんな場所もあるんだな」

独り言が漏れた。

三上がいたら。

きっと何か言っていた。

そんなことを考えてしまう。

「……」


俺は少しだけ黙った。

また一人になったことを思い出す。

それでも歩く。

しばらくすると。

道の脇に、一本の看板が立っていた。

古びた木の看板だった。

俺は足を止める。

そこには、短い言葉が書かれていた。

――動物を殺すな。


「……」

俺は看板を見つめた。

「動物を……殺すな?」

わざわざ書かれている。

それだけ、この場所では重要なことなのだろうか。

俺は看板の先を見る。

森はまだ続いている。

動物たちも、そこにいる。


「……分かったよ」

俺は小さく呟いた。

「殺す気なんてないけどな」

そのまま歩き続ける。

森を抜けるわけではない。

むしろ。

進めば進むほど、木々は深くなっていった。

やがて。

木々の隙間から、空が見えた。


俺は何気なく空を見上げた。

「……?」

青い空。

白い雲。

その向こうに。

黒っぽい煙が上がっていた。

「……煙?」

かなり遠い。


それでも、はっきり見える。

空へ向かって、細い煙が伸びている。

「誰かいるのか……?」

俺は煙の方向を確認した。

森の中を進めば、近づけそうだった。

俺は歩く方向を変えた。

煙を目印にする。

しばらく歩いていると。

木々の向こうに、建物が見えてきた。


「……家?」

一軒の家だった。

森の中に、ぽつんと建っている。

煙は、その家の向こう側から上がっているように見えた。

俺は立ち止まった。

家の周囲には、誰もいない。

ただ。

煙だけが、ゆっくりと空へ昇っている。


「……人がいるのかもしれない」

俺は家を見つめた。

そして。

一歩だけ。

その家へ向かって歩き出した。

森の静かな風が吹く。

葉が揺れる。

遠くで、動物の鳴き声が聞こえた。

俺は家の前まで歩いていった。


玄関を見る。

扉は閉まっている。

「……」

俺はしばらく、その扉を見つめていた。

この先に。

誰かがいるのか。

それとも――

俺はゆっくり手を伸ばした。


そして。

扉の前で立ち止まった。

————————————

俺は、玄関の前に立っていた。

しばらく扉を見つめる。

人がいるのか。

それとも、誰もいないのか。

この場所では、普通のことすら信用できない。

俺はゆっくりと扉を叩いた。


コン。

返事はない。

もう一度。

コン、コン。

「……すみません」

しばらく待つ。

すると。

家の中から、足音が聞こえた。


ゆっくり。

こちらへ近づいてくる。

俺は少し身構えた。

扉が開く。

「はい?」

そこにいたのは。

一人の老婆だった。

「……!」

思わず後ろへ下がった。


老婆も驚いたように目を見開く。

「まあ……」

しばらく、お互いに何も言わなかった。

俺は警戒しながら老婆を見る。

普通の人に見える。

白髪。

年老いた顔。

古い服。


けれど。

どこか違う。

何が違うのかは、分からない。

ただ。

人間を見ているような気がしなかった。

「……誰かと思ったよ」

老婆が穏やかに笑った。

「こんなところに人が来るなんて珍しいね」

「……すみません」


俺は頭を下げた。

「勝手に入るつもりはなくて」

「いいんだよ」

老婆は扉を大きく開けた。

「入っておいで」

「……いいんですか?」

「外より中の方が暖かいからね」

俺は少し迷った。


それでも。

老婆から敵意は感じなかった。

「……失礼します」

家の中へ入る。

中は思っていたより普通だった。

古い家具。

木製のテーブル。

椅子。

壁にはいくつかの写真が飾られている。


暖炉のようなものもあった。

「座りなさい」

老婆が椅子を指した。

俺は椅子に座った。

「お腹は空いてるかい?」

「……はい」

そう答えると。

老婆は嬉しそうに笑った。


「それならよかった」

しばらくして。

テーブルの上に食べ物が並べられた。

パン。

果物。

それから、温かい飲み物。

「……こんなに」

「遠慮することはないよ」

老婆は向かいに座った。


「食べなさい」

俺は少しだけ迷った。

けれど、空腹には勝てなかった。

「いただきます」

一口食べる。

普通の味だった。

それが。

妙に安心できた。


「……おいしいです」

「そうかい」

老婆は笑った。

俺は食べながら、老婆を見る。

やっぱり。

何かがおかしい。

顔は普通。

声も普通。

話し方も普通。


なのに。

どこか、人間ではないような感じがする。

「……」

俺が見ていることに気づいたのか。

老婆がこちらを見る。

「どうしたんだい?」

「いえ……」

俺は視線を逸らした。


「何でもないです」

「そうかい」

老婆はそれ以上聞かなかった。

食事を終えると。

老婆が窓の外を指差した。

「外の小屋に、いくつか道具があるよ」

「道具?」

「ああ」

老婆は頷いた。


「必要なら、好きなものを持っていきなさい」

「いいんですか?」

「もちろん」

それから。

庭の方を見る。

「果物もあるよ」

「果物?」

「庭で育ててるんだ」


窓の向こうには、小さな畑と果樹が見えた。

赤い実。

黄色い実。

見たことのない形の果物もある。

「好きなだけ持っていっていいよ」

「……ありがとうございます」

俺は頭を下げた。

「助かります」

「旅をしているんだろう?」


「……はい」

老婆は少しだけ笑った。

「なら、必要なものは持っていきなさい」

その言葉に。

俺は少しだけ不思議に思った。

どうして。

俺が旅をしていると分かったんだろう。

「……」


聞こうとした。

けれど。

やめた。

今は、食べ物も水もある。

道具ももらえる。

それだけで十分だった。

俺は立ち上がった。

「ありがとうございました」

「もう行くのかい?」


「はい」

老婆は頷いた。

「気をつけてね」

「はい」

俺は玄関へ向かった。

扉を開ける。

外の空気が入ってくる。

「小屋は、庭の奥だよ」


「分かりました」

俺は外へ出た。

庭を歩く。

さっき言っていた小屋が見えてきた。

木造の小さな建物だった。

扉を開ける。

中には。

斧。

ロープ。


古いランタン。

それから、いくつかの道具が置かれていた。

「……結構あるな」

俺は必要そうなものを選んだ。

ロープ。

ランタン。

小さな道具袋。

そして。


庭から果物をいくつか取った。

荷物に入れる。

「これで少しは安心できるか」

俺は小屋を出た。

扉を閉める。

「……」

外の空気を吸う。

さっきまでと同じ森。

そう思った。


けれど。

一歩、前へ進んだ瞬間。

「……?」

何かがおかしい。

音が消えていた。

さっきまで聞こえていた鳥の声も。

風で揺れる葉の音も。

何も聞こえない。


俺は立ち止まった。

周囲を見回す。

「……何だ?」

森はある。

木もある。

けれど。

さっきまで見えていた老婆の家がない。

代わりに前方に見知らぬ家がある。

「……え?」


振り返る。

小屋もない。

老婆の家もない。

そこには。

ただ、木々が並んでいるだけだった。

俺は慌てて数歩戻った。

それでも。

何も変わらない。


「……嘘だろ」

さっきまで確かに、あの小屋にいた。

道具を取った。

果物も持った。

そして。

小屋から出た。

それだけだ。

なのに。

もう、あの場所はどこにもない。


俺は前を見る。

森の景色も。

少し違っていた。

木の種類。

地面。

空。

そして、見知らぬ家がある。

何もかもが、ほんの少しずつ違う。


「……ここ」

俺は息を呑んだ。

「別の場所に来たのか……?」

俺は荷物を握り直した。

そして。

森の奥へ視線を向ける。

もう。

あの老婆の家へ戻る道はなかった。

俺は一人で。


知らない場所へ進むしかなかった。


第三章 The Newly Renovated

House


俺は目の前にある家を見る。

古い家だった。

壁は少し汚れている。

窓も古い。

それでも、壊れているわけではない。

俺は玄関へ近づいた。

扉に手をかける。

鍵はかかっていなかった。

「……誰かいるのか?」


返事はない。

俺はゆっくり扉を開けた。

中は静かだった。

「……」

俺は一歩、中へ入る。

外から見たよりも広い。

廊下が奥まで続いている。

家具もいくつか置かれていた。


ただ。

人の気配はない。

俺は慎重に進んだ。

すると。

壁際に棚があるのが見えた。

その上には。

何本もの殺虫剤が並んでいた。

「……殺虫剤?」

俺は一本を手に取った。


普通の殺虫剤に見える。

けれど。

どうしてこんなに大量にあるんだ。

棚の隣には、さらに別のものが置かれていた。

ナイフ。

古い銃。

金属製の棒。

何かを追い払うために使ったような道具。


「……武器まで」

俺は周囲を見る。

そこで。

壁にいくつか傷が残っていることに気づいた。

床にも。

何かを引きずったような跡がある。

家具の一部も壊れていた。

ここで。

何かと戦った。


そんなことを思わせる痕跡だった。

けれど。

不思議なことに。

家の中は綺麗だった。

床に汚れはほとんどない。

壁も掃除されている。

壊れた家具も片付けられていた。

まるで。


何かが起きたあとに。

誰かが徹底的に掃除したようだった。

「……何と戦ったんだ?」

答えはない。

俺は武器には触れず、そのまま奥へ進んだ。

廊下を歩く。

すると。

少し先に明かりが見えた。

「……?」


俺は明かりの方へ向かった。

扉を開ける。

そこには。

別の部屋があった。

いや。

部屋というより。

休憩所だった。

木製のテーブル。


いくつかの椅子。

簡単なベッド。

水。

保存のききそうな食料。

小さな照明。

必要最低限のものが揃っている。

「……休めるようになってる」

俺は部屋の中を見回した。

壁には、小さな札が掛かっている。


そこには。

REST

とだけ書かれていた。

「……」

俺はしばらく、その文字を見つめた。

ここまで来る人間がいる。

その人間のために。

誰かが、この場所を作った。


そんなふうにしか見えなかった。

テーブルの上には、水が置かれている。

食料もある。

ベッドもある。

まるで。

旅人を歓迎しているみたいだった。

「……誰が作ったんだよ」

俺は椅子に腰を下ろした。

身体から力が抜ける。


ここまで一人で歩いてきた。

三上と別れてから。

ずっと一人だった。

だから。

こういう場所を見ると。

少しだけ安心する。

「……三上も」

ふと、名前が浮かんだ。


今頃。

現実にいるのだろうか。

家族や友達に囲まれて。

普通の生活をしているのだろうか。

そう考えると。

俺も早く帰らなければならないと思った。

俺はテーブルの上の水を見た。

そして。

休憩所の奥に続く扉を見る。


ここは。

ただ休むための場所なのか。

それとも。

この先にも何かあるのか。

俺は椅子から立ち上がった。

けれど。

今はまだ動かなかった。

静かな部屋の中で。


俺はしばらく、その場に立っていた。

————————————

休憩所の奥に、一枚の扉があった。

俺はしばらく、その扉を見つめていた。

殺虫剤。

武器。

何かと戦った跡。

そして。

旅人のために用意された休憩所。


その先にある扉。

「……行くしかないか」

俺は扉の前に立った。

ドアノブに手をかける。

ゆっくり回す。

カチャ。

扉が開いた。

その瞬間。


冷たい風が、勢いよく吹き込んできた。

「……っ!」

思わず顔を背ける。

冷気が一気に身体へ入り込んできた。

「……寒っ」

俺はすぐに扉を閉めた。

数秒しか開けていなかったのに。

身体が一気に冷えた。

「……これ、無理だろ」


俺は扉を見つめる。

もう一度だけ、少し開けてみる。

白い息が出る。

外には薄暗い空。

厚い雲。

そして、白い霧。

気温は。

多分10度以下は確実だろう。


正確には分からない。

けれど。

この格好で外へ出たら。

長く歩く前に身体が冷え切ってしまう。

「……この寒さじゃ」

俺は自分の服を見る。

普段のままの服。

防寒着なんてない。

「入るだけで死んでしまう」


そう思った。

俺は休憩所を見回した。

そして。

ベッドの上にある毛布が目に入った。

「……これだ」

俺は毛布を手に取った。

かなり厚い。

これなら。


何かに加工できるかもしれない。

部屋の隅には、さっき見つけた武器がある。

ナイフ。

それから、古い金属製の道具。

「……使えるな」

俺は毛布を床に広げた。

ナイフを使って、毛布を必要な大きさに切っていく。

肩から身体を覆えるようにして。

前を留められるように、余った部分も加工する。


何度か形を調整する。

きちんとした服にはならない。

けれど。

「……これなら」

簡易的な上着になった。

俺はそれを着てみる。

毛布が身体を包む。

さっきよりずっと暖かい。


「よし」

残った毛布も、念のため荷物に入れた。

ナイフも一本持っていく。

これで。

少なくとも、さっきよりは外を歩ける。

俺はもう一度、扉の前に立った。

ドアノブを握る。

今度は。

迷わなかった。


カチャ。

扉を開く。

冷たい風が吹き込んでくる。

それでも。

さっきほど辛くはなかった。

俺は一歩、外へ出た。

「……」

白い息が霧の中へ消えていく。


目の前には道路が続いている。

左右には建物。

古い住宅。

小さな店。

閉まったシャッター。

電柱。

どこにでもありそうな町だった。

なのに。

人がいない。


車も走っていない。

店の明かりもない。

聞こえるのは、風の音だけ。

白い霧が、道路をゆっくり流れている。

俺は簡易的に作った上着の前を押さえた。

「……早く、暖かい場所を探さないと」

そう呟いて。

歩き始めた。


コツ。

コツ。

コツ。

靴音が、静かな町に響く。

俺は一人で歩いていった。


第四章TheAmicaleVille


俺は霧の中を歩き続けていた。

コツ。

コツ。

コツ。

白い息が、目の前で消えていく。

寒い。

それでも、毛布を加工して作った上着のおかげで、なんとか歩けていた。

しばらくすると。

霧の向こうに、いくつかの建物が見えてきた。


「……少し大きな町なのか?」

近づいてみる。

道路の両側に、住宅や店が並んでいる。

建物の壁には、見たことのない文字が書かれていた。

「……何だ、この文字」

看板を見上げる。

文字の形は、日本語でも英語でもない。

どこか規則的ではある。


けれど。

俺には一文字も読めなかった。

「読めない……」

スマートフォンで写真を撮ってみる。

当然、意味は分からない。

俺は諦めて歩き始めた。

その時だった。

ドンッ!

「……!」


遠くから、大きな音が聞こえた。

何かが建物にぶつかったような音。

続いて。

ガシャーン!

何かが割れる音。

「……何だ?」

俺は足を止めた。

霧の向こうから、さらに激しい音が聞こえてくる。


ドン!

ガンッ!

ズドンッ!

「……誰かいるのか?」

音のする方向へ近づいていく。

建物の角を曲がる。

その先で。

何かが動いた。

「……!」


俺は反射的に建物の陰へ隠れた。

道路の中央で。

何かが戦っていた。

一体は。

人間のような形をしている。

けれど。

顔がない。

頭部には何もない。


ただ、人間と同じような身体だけが立っている。

その向かいには。

巨大な何かがいた。

三メートルほどはある。

異様に大きな身体。

そして。

そのさらに奥から。

別の何かが走ってきた。

四本の脚。


大きな身体。

そして。

人間の顔。

「……犬?」

そう思った。

けれど。

犬にしては大きすぎる。

人間の顔をした巨大な犬のような何かが、戦っている二体へ飛びかかった。


次の瞬間。

ドンッ!

三体が建物へ激突した。

壁が大きく崩れる。

「……!」

俺は思わず身を縮めた。

建物の一部が道路へ落ちる。

もうもうと埃が舞う。

これで建物は壊れた。


そう思った。

しかし。

「……え?」

崩れた壁が。

動いている。

瓦礫がゆっくり元の位置へ戻っていく。

割れていた壁が。

まるで時間を巻き戻すように。


少しずつ修復されていく。

「……何だよ、これ」

数秒後。

そこには。

ほとんど元通りになった建物が立っていた。

さっきまで大きく壊れていたはずなのに。

傷跡すら残っていない。

俺は呆然と見つめた。

建物そのものが。


壊れた部分を直している。

「……壊せないのか?」

戦っているエンティティたちは、そんなことなど気にしていない。

また建物へぶつかる。

壁が崩れる。

窓が割れる。

屋根の一部が壊れる。

そして。


また元に戻っていく。

何度壊されても。

建物は完全にはなくならない。

「……何なんだ、この町」

俺は後ずさった。

その瞬間。

顔のない人型が、こちらを向いた。

「……!」

目はない。


口もない。

それでも。

見られた。

そう感じた。

巨大な犬のようなものも、こちらへ顔を向ける。

「まずい……」

俺は走った。

霧の中を、全力で走る。


背後から。

ドンッ!

何かが建物にぶつかる音。

ズドン!

さらに大きな音。

俺は振り返らなかった。

前を見る。

霧の中に、店の看板が見えた。

もちろん。


そこに書かれている文字も読めない。

けれど。

今はそんなことを気にしている場合じゃない。

「……あそこ!」

俺は店の入口へ走った。

ドアを開ける。

中へ飛び込む。

そして。


急いで扉を閉めた。

外から。

何かが走る音が聞こえていた。

俺は扉に背中を預ける。

息を整えながら。

店の中を見回した。

「……ここなら」

少なくとも。

外よりはマシかもしれない。


霧の町の中で。

俺は、知らない店の中に逃げ込んでいた。

————————————

店の中には、食べ物や飲み物が並んでいた。

けれど。

どれも、どこかおかしい。

缶詰。

瓶詰め。


飲み物。

見た目だけなら、普通の商品に見える。

しかし、近づいてみると、鼻につくような匂いがした。

「……これ、食べ物なのか?」

俺は一つの商品を手に取った。

ラベルには、見たことのない文字が並んでいる。

意味は分からない。

ただ。

これを食べる気にはなれなかった。


幸い、あの森の家でもらった食料がまだ残っている。

水もある。

「……無理して食べる必要はないな」

俺は店の商品には手をつけず、持っていた食料を少し口にした。

水を飲む。

それだけで十分だった。

店の中を見回す。

その時。


「……あれ?」

奥の方に、人が倒れているのが見えた。

「人……?」

俺は慎重に近づいた。

床に、一人の人間が倒れている。

動かない。

服装は普通の人間のものだった。

その周囲には、店に並んでいるものと同じ食べ物や飲み物がいくつか落ちている。

「……まさか」


俺はそれ以上近づくのをやめた。

倒れている人がどうなったのかは分からない。

ただ。

ここにあるものを口にした結果なのかもしれない。

そう思うと、店の商品を見る目が変わった。

「……絶対に食べない方がいい」

俺はそう呟いた。

それ以上、奥を調べる気にはなれなかった。


店の中を確認すると、裏側に小さな扉があった。

裏口らしい。

俺は扉を開けた。

冷たい空気が入ってくる。

店の裏側には、町の建物が続いていた。

そのさらに奥。

霧の向こうに、森が見える。

この町に入った時から、ずっとそこにあった森だ。

俺は少しだけ森の方を見た。


木々が密集している。

霧のせいで、奥はほとんど見えない。

試しに一歩、森へ近づこうとした。

しかし。

「……?」

足が止まった。

身体が動かない。

森へ入ろうとすると、何かが俺を止めている。


怖い。

理由は分からない。

頭ではなく。

身体そのものが、森へ行くことを拒んでいた。

「……なんだよ、これ」

もう一度、足を動かそうとする。

それでも。

動かない。

俺は森から離れた。


その時だった。

背後から。

何かの気配がした。

「……!」

振り返る。

霧の向こうに、人影が立っていた。

顔がない。

さっき町で見たものと同じだった。


「……またかよ!」

俺は走った。

町の中へ戻る。

背後から足音が追ってくる。

振り返る余裕はない。

とにかく走る。

霧の中を抜ける。

建物の間を走る。

そして。


目の前に、一軒の家が見えた。

「ここだ!」

俺は扉を開けた。

中へ飛び込む。

扉を閉めた瞬間だった。

「……あれ?」

身体が、急に暖かくなった。

さっきまで冷たい空気に晒されていた身体が、少しずつ温まっていく。


手も。

肩も。

冷え切っていたはずなのに。

「……暖かい」

俺は自分の腕を触った。

家の中が暖かいのか。

それとも。

追われていた緊張が切れて、暖かく感じているだけなのか。

分からない。


ただ。

ここに入ってから、身体の震えが少しずつ止まっていった。

「……助かった」

そう呟いて、俺は息を整えた。

外から足音が聞こえていた。

しかし。

しばらくすると。

その音が消えた。


「……いなくなった?」

俺はゆっくり振り返った。

その瞬間。

視界が歪んだ。

壁が揺れる。

床が遠ざかる。

身体が落ちていくような感覚。

「……またか」

目を閉じる。


次に目を開けた時。

そこには、もう町の家はなかった。

霧も。

町も。

あの森も。

すべて消えていた。

俺は。

また別の場所に立っていた。


第五章TheEndlessCity


目を開ける。

最初に見えたのは、青い空だった。

「……」

俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

道路。

信号。

建物。

コンビニのような店。

遠くには高いビルも見える。


車が走るための広い道路もある。

「……町?」

俺は周囲を見回した。

さっきまでいた霧の町とは、まるで違う。

空気も違う。

寒くない。

風も穏やかだった。

太陽の光まである。


俺は空を見上げた。

「……帰ってきた?」

その言葉が、自然に口から出た。

現実。

ようやく。

俺は帰ってきたのかもしれない。

道路の向こうに、見慣れたような街並みが続いている。

日本の都市に見える。

看板もある。


信号もある。

建物もある。

「……やった」

俺は思わず笑った。

三上と別れてから。

ずっと一人だった。

何度も危険な場所を歩いてきた。

それが。


ようやく終わった。

俺は道路を歩き始めた。

交差点に近づく。

信号は青だった。

そのまま渡る。

誰ともすれ違わない。

「……?」

俺は少しだけ足を止めた。

まだ朝なのかもしれない。


そう思った。

大きな道路なのに、車もほとんど走っていない。

けれど。

それ以外は普通だった。

建物がある。

店がある。

道路がある。

だから。


俺はそのまま歩き続けた。

しばらくすると、駅のような建物が見えてきた。

入口には、見慣れた日本語の案内がある。

「……駅」

俺は近づいていった。

自動改札が並んでいる。

電光掲示板も動いている。

時刻が表示されている。

「……本当に帰ってきたのか?」


俺は改札の前に立った。

けれど。

誰もいない。

駅員もいない。

利用客もいない。

改札を通る人もいない。

電車の音もしない。

「……」


俺は時計を見る。

時刻は普通に進んでいる。

なのに。

この場所だけが止まっているように感じた。

俺は駅を離れた。

もう少し歩けば、人がいるかもしれない。

そう思った。

大きな道路を歩く。

店の前を通る。


信号を渡る。

ビルの間を抜ける。

それでも。

誰にも会わない。

「……おかしいな」

今度は、はっきりそう思った。

人がいない。

それだけじゃない。


音も少なすぎる。

車の音。

人の話し声。

店の呼び込み。

工事の音。

そういう、街にあるはずの音がほとんどない。

あるのは。

信号機の音と。

遠くで動いている何かの機械音だけだった。


俺はスマートフォンを取り出した。

電波を確認する。

「……」

圏外だった。

「……なんでだよ」

現実なら。

こんな大きな都市で圏外になるはずがない。

俺は画面を見つめた。


そして。

少しずつ、嫌な感覚が戻ってきた。

ここは。

現実じゃない。

最初は帰れたと思った。

空があった。

道路があった。

日本語があった。

見慣れた街があった。


でも。

人がいない。

音がない。

電波もない。

「……違う」

俺は小さく呟いた。

「ここも……違う」

その時。


遠くで信号が変わった。

誰もいない交差点で。

赤から青へ。

青から赤へ。

何の意味もないのに。

ただ繰り返している。

俺はその信号を見つめた。

そして。

また歩き始めた。


この都市のどこかに。

出口があるかもしれない。

そう思いながら。

誰もいない街を。

一人で歩いていった。

————————————

どれくらい歩いたのか分からない。

ビルの数が増えていく。


道路も複雑になっていく。

けれど。

人の姿は、一度も見えなかった。

大きな交差点を渡る。

店の前を通る。

駅のような建物もいくつか見かけた。

それでも。

誰もいない。

「……本当に、誰もいないな」


街そのものは、普通だった。

信号は動いている。

街灯も点いている。

店の看板もある。

建物も、道路も。

何もかもが現実の街と変わらない。

なのに。

そこにいるはずの人間だけが、どこにもいなかった。


俺は歩きながら、何度も後ろを振り返った。

誰かが歩いてきているような気がしたからだ。

でも。

振り返るたびに、そこには誰もいない。

「……気のせいか」

そう呟いて、また前を向く。

しばらく進んだところで。

大きな建物と建物の間に、細い路地が見えた。

「……あそこ、道なのか?」


俺は路地へ入った。

両側を高い建物に挟まれている。

昼間なのに、そこだけ薄暗い。

少し進む。

すると。

「……え?」

建物の隙間に。

何かがあった。


壁の一部が崩れている。

その奥に。

黒い穴が開いていた。

「……洞窟?」

俺は足を止めた。

どう見ても、都市の中にあるようなものではない。

コンクリートの建物に囲まれているのに。

その先だけが、岩肌になっている。

入口は、人一人が通れるくらいの大きさだった。


俺はしばらく、その前に立っていた。

「……なんで、こんなところに」

外から中を覗く。

真っ暗で、奥は見えない。

俺はスマートフォンのライトを点けた。

洞窟の中を照らす。

岩肌が、かすかに見える。

その時だった。


「……?」

何か聞こえた。

耳を澄ます。

ポタ。

ポタ。

水滴が落ちるような音。

そして。

その奥から。

さらさらと、水が流れるような音が聞こえてきた。


「……水?」

俺はもう一度、洞窟の中を照らした。

光はすぐに暗闇へ吸い込まれていく。

それでも。

水の音だけは、はっきりと聞こえていた。

俺は振り返った。

路地の向こうには、無人の都市が広がっている。

現実に戻ったと思った場所。


でも。

やっぱり、ここは現実じゃない。

そう思った。

俺は洞窟へ向き直る。

「……行くしかないか」

一歩。

洞窟の中へ入る。

外の光が少しずつ遠ざかる。

ポタ。


……ポタ。

水の音が、近くなる。

俺はライトを前に向けた。

その先には。

まだ何も見えなかった。

ただ。

暗闇の奥から。

水の流れる音だけが聞こえていた。


第六章TheBunkerSprings


水の音を追って、俺は洞窟の奥へ進んでいった。

しばらく歩くと。

暗闇の先に、白いものが見えた。

「……湯気?」

近づいていく。

洞窟の奥に、広い水場があった。

水面から、白い湯気がゆっくりと立ち上っている。

「……温泉?」

こんな場所に。


俺はしばらく、その場から動かなかった。

周囲を見回す。

岩壁。

水面。

洞窟の天井。

他には何もない。

物音もしない。

何かがいる気配もない。


「……大丈夫そうだな」

俺は水面に手を伸ばした。

指先が水に触れる。

「……ちょうどいい」

熱すぎない。

冷たくもない。

身体がほっとするような、ちょうどいい温度だった。

手を離す。

もう一度、周囲を確認する。


何もいない。

エンティティの気配もない。

ここまで来て、初めて安心して休める場所を見つけた気がした。

「……少しくらいなら」

俺は温泉に入った。

身体が温かい水に包まれる。

「……あぁ」

思わず声が漏れた。


身体に残っていた疲れが、少しずつ抜けていく。

肩の力が抜ける。

足も軽くなる。

目を閉じる。

洞窟の中は静かだった。

聞こえるのは。

水の音と。

湯気が立ち上る、かすかな音だけ。

こんなに静かな場所は、久しぶりだった。


「……少しだけ休もう」

そう思った。

それから。

どれくらい時間が経ったのか。

分からない。

俺は眠っていた。

――

目を開ける。


「……ん」

最初に感じたのは。

身体が軽いことだった。

「……?」

俺はゆっくり身体を起こした。

さっきまで、身体中に重く残っていた疲れがない。

歩き続けて。

逃げ続けて。

何度も休もうとしても、まともに休めなかった。


それなのに。

「……何だ、これ」

腕を動かす。

軽い。

立ち上がる。

足も軽い。

まるで。

今まで溜まっていた疲れが、全部なくなったようだった。


「……すごいな」

俺は自分の身体を確かめる。

痛みもほとんどない。

頭もすっきりしている。

温泉を見る。

さっきと何も変わっていない。

白い湯気が、静かに立ち上っている。

「……ここなら」

俺は小さく呟いた。


「また、歩けそうだ」

俺は温泉から離れた。

そして。

洞窟の奥へ続く道を見つめた。

今度は。

昨日までとは違う。

身体が軽い。

もう一度。


先へ進めそうだった。

————————————

俺は温泉から離れた。

身体が驚くほど軽い。

今まであれだけ疲れていたのが嘘みたいだった。

「……行くか」

俺は洞窟の奥へ進み始めた。

水の流れる音を聞きながら、ゆっくり歩いていく。

最初は、スマートフォンのライトだけでも十分だった。


岩壁も見える。

足元も見える。

けれど。

少しずつ。

周囲が暗くなっていった。

「……暗くなってきたな」

ライトを強く向ける。

それでも。


光が届く距離が短くなっているように感じる。

洞窟そのものが、光を吸い込んでいるようだった。

俺は歩き続けた。

後ろから聞こえていた水の音も、いつの間にか小さくなっている。

前だけを見て進む。

暗い。

どこまで行っても暗い。

それでも。

しばらく歩いていると。


「……?」

前方が、少しだけ明るくなっていることに気づいた。

「出口か?」

俺は歩く速度を少し上げた。

暗闇の先に、薄い光が見える。

さっきまで何も見えなかったのに。

確かに明るい。

「……やっとか」


俺は安心した。

そして。

ふと、後ろを振り返った。

「……え?」

そこには。

何もなかった。

いや。

正確には。

道がなかった。


「……どういうことだ?」

俺は数歩、後ろへ戻ろうとした。

けれど。

進めない。

さっきまで歩いてきたはずの場所が、完全な暗闇になっている。

壁なのか。

ただ暗いだけなのか。

分からない。


スマートフォンのライトを向ける。

光が吸い込まれる。

何も見えない。

「……戻れない?」

もう一度、手を伸ばす。

何もない。

俺は立ち尽くした。

温泉のあった場所も。

都市も。


森も。

今まで歩いてきた場所も。

もう、戻れない。

「……」

俺は前を向いた。

薄暗い光が、少しずつ大きくなっている。

行くしかない。

俺は一歩、前へ進んだ。


その瞬間。

後ろの暗闇が、完全に閉じたような気がした。

俺はもう振り返らなかった。

ただ。

前へ進んだ。

暗い洞窟の中を。

どこへ続いているのかも分からないまま。

――ここは。

The Cave。


第七章TheCave


俺は前へ進んだ。

暗い洞窟の中を。

スマートフォンのライトだけを頼りに歩く。

周囲には岩壁。

足元には湿った土。

さっきまで聞こえていた水の音も、もう聞こえない。

「……静かだな」

俺は小さく呟いた。

その時だった。


前方で。

何かが動いた。

「……?」

俺は足を止めた。

ライトを向ける。

最初は。

人に見えた。

細長い身体。


二本の腕。

二本の脚。

立っている姿だけなら、人間にも見える。

けれど。

「……何だ、あれ」

近づくにつれて、その異常さが分かった。

手足が。

異様に長い。

人間の身体とは思えないほど、腕も脚も伸びている。


身体を低くしている姿は。

まるで。

巨大な蜘蛛のようだった。

「……」

俺は息を止めた。

その瞬間。

それが動いた。

四本の長い手足を使って、ものすごい速度でこちらへ向かってくる。


「うわっ!」

俺は反射的に走った。

後ろから。

カツン。

カツン。

岩を叩くような音が聞こえる。

速い。

明らかに。

俺より速い。


「来るな!」

振り返る余裕もない。

俺は必死に走った。

洞窟の道は狭い。

左右の岩壁に身体をぶつけそうになりながら進む。

後ろから、あの長い手足が地面を叩く音が近づいてくる。

カツン。

カツン。


カツン。

「……っ!」

足元の岩に躓いた。

身体が大きくよろける。

転びそうになった瞬間。

後ろから何かが伸びてきた。

「うわっ!」

腕を振って避ける。

その勢いで、肩を岩壁にぶつけた。


「痛っ……!」

痛みが走る。

けれど。

立ち止まっている暇はなかった。

俺はそのまま走った。

前方に、少しだけ道が広くなっている場所が見える。

そこへ飛び込む。

後ろを振り返る。


エンティティが、こちらを見ていた。

長い手足を広げて。

じっと立っている。

「……」

俺は息を切らしながら、後ずさった。

すると。

エンティティが、ゆっくりこちらへ近づいてきた。

「……まだ来るのかよ」

俺は痛む肩を押さえた。


幸い、大きな怪我ではない。

動ける。

まだ走れる。

俺は再び前を向いた。

「……逃げるしかない」

俺は洞窟の奥へ走った。

後ろから。

また。


あの足音が聞こえてきた。

カツン。

カツン。

カツン。

俺は振り返らなかった。

ただ。

少しでも距離を離すために。

暗い洞窟の中を走り続けた。

————————————


俺は走り続けた。

肩が痛い。

息も苦しい。

それでも。

後ろから追ってくる足音が怖くて、止まることができなかった。

カツン。

カツン。

カツン。


その音が。

突然、止まった。

「……?」

俺は足を止めた。

後ろを見る。

エンティティが立っている。

けれど。

こちらを見ていなかった。

「……何だ?」


エンティティが、ゆっくりと首を動かした。

俺とは反対の方向を見る。

そして。

何かに呼ばれるように。

別の通路へ向かって走り始めた。

「……え?」

あれだけ俺を追っていたのに。

まるで。


別の何かを見つけたようだった。

俺はしばらく動けなかった。

でも。

「……今のうちだ」

俺は反対方向へ走った。

できるだけ音を立てないように。

洞窟の壁沿いを進む。

少し離れたところで。

大きな音が響いた。


ドンッ!

「……!」

俺は思わず立ち止まった。

エンティティが向かっていった方向。

そこから。

何かがぶつかるような音が続いている。

ドンッ。

ガンッ。


岩が揺れるような音。

「何が起きてるんだ……?」

俺は慎重に戻った。

ただし。

さっきまでいた場所には戻らない。

途中にあった、少し大きな岩の隙間に身を隠す。

そこから。

音のする方向を覗いた。

「……!」


人がいた。

一人じゃない。

何人もいる。

「走れ!」

「早く!」

「こっちだ!」

数人の人間が、洞窟の中を走っている。

その後ろから。


あのエンティティが追っていた。

「……人?」

俺は息を潜めた。

こんな場所に。

俺以外にも人がいる。

何人もの人間が。

必死に逃げている。

エンティティが長い手足を使って追いかける。

岩壁を蹴り。


床を這うように進み。

少しずつ距離を詰めていく。

「急げ!」

一人が叫ぶ。

別の人が転びそうになりながら走っている。

俺は隙間から、その様子を見つめていた。

助けたい。

そう思った。


でも。

俺一人であれに立ち向かえるはずがない。

どうすればいい。

考える。

その時。

逃げている人たちの進んでいる方向が見えた。

俺がいる場所とは、別の道を進んでいる。

けれど。

少し先で。


二つの道が繋がっているようだった。

「……なら」

俺は隙間から離れた。

自分のいる道を進む。

あの人たちが向かっている方向へ。

エンティティに見つからないように。

できるだけ静かに。

それでも。


急いで。

「……追いつかないと」

俺は走った。

初めてだった。

この場所で。

自分以外の人間を見たのは。

だから。

今度は。

一人で逃げるつもりはなかった。


————————————

少し広い場所に出た。

俺は壁際に腰を下ろした。

肩が痛い。

さっきの化け物から逃げた時にぶつけたところが、まだズキズキしている。

少し休もう。

そう思った時だった。

遠くから、人の足音が聞こえてきた。


カツ。

カツ。

カツ。

俺は立ち上がった。

また誰かが逃げてきたのかもしれない。

やがて、三人の人影が見えた。

さっき、あの化け物から逃げていた人たちだ。

俺は少し警戒しながら、その場に立っていた。

そして。


一番後ろにいた男が、顔を上げた。

「……お前」

その声を聞いた瞬間。

俺は動けなくなった。

見覚えのある顔。

忘れるはずがない。

「……三上?」

三上が足を止める。


俺の顔を見て。

目を見開いた。

「……宮本?」

生きていた。

三上が。

俺の目の前にいる。

「……生きてたのか」

「ああ」

三上が答えた。


その瞬間。

胸の奥から、いろんな感情が一気に込み上げてきた。

安心した。

嬉しかった。

でも。

それより先に。

怒りが出てきた。

俺は三上を睨んだ。


「……なんで戻ってきたんだよ」

三上の足が止まる。

「……分からない」

「分からない?」

自分でも分かるくらい、声が強くなっていた。

「お前、一回帰れたんだろ?」

「うん」

「だったら、なんでまたここにいるんだよ」

三上は俯いた。


「俺も……戻るつもりはなかった」

「だったら、なおさらだろ」

俺は拳を握った。

「せっかく帰れたのに」

三上は何も言わない。

俺は周囲を見回した。

暗い洞窟。

遠くから聞こえる足音。


どこに何がいるのかも分からない。

そんな場所に。

また三上がいる。

「俺は、お前が現実で普通に暮らしてると思ってた」

三上は顔を上げなかった。

「家に帰って」

「普通に飯食って」

「普通に寝て」

「……そうやって生きてると思ってた」


言葉が止まった。

俺は三上を見る。

「それなのに……」

声が少し震えた。

「またこんなところに戻ってきて……」

俺はため息をついた。

「……馬鹿だろ」

三上がゆっくり顔を上げる。


「……ごめん」

「謝ってる場合じゃない」

俺はそう言った。

でも。

本当は。

怒っているだけじゃなかった。

俺たちが帰還の門に辿り着いた時。

そこには、はっきり書かれていた。

一人しか帰れない。


だから。

三上を帰した。

俺は残った。

それでいいと思っていた。

「俺たちが帰還の門に行った時」

俺はゆっくり話した。

「一人しか帰れないって分かってたよな」

「ああ」


「だから、お前が帰ったことは分かってた」

「うん」

「俺も残った」

三上が頷く。

「……俺だけ帰った」

「そうだ」

少しだけ沈黙が続いた。

俺は三上から目を逸らした。

「だから……」


言葉が出てこなかった。

「俺は、お前が戻ってくるなんて思ってなかった」

三上が小さく呟いた。

「……俺だって、戻ってきたくなかった」

その言葉を聞いて。

俺は三上を見た。

分かっている。

三上が自分から戻ってきたわけじゃない。


そんなことくらい。

「……分かってる」

三上が顔を上げる。

「お前がわざと戻ってきたんじゃないことくらい」

俺は少しだけ息を吐いた。

「でも……」

三上の肩を掴んだ。

「二度と戻ってくるなって思ってた」

「……」


「お前には、帰ってほしかったんだよ」

三上は何も言わなかった。

俺も、それ以上は言えなかった。

ゆっくり手を離す。

しばらくして。

俺は小さく笑った。

「……それなのに」

三上を見る。


「また会えたな」

「うん」

「嬉しいけど」

自分でも少し笑ってしまった。

「やっぱり、怒ってる」

三上も少しだけ笑った。

「……ごめん」

「だから謝るなって」

俺は三上の肩を軽く叩いた。


昔と同じだった。

こいつは何かあると、すぐ謝る。

俺はそんな三上を見ながら思った。

帰ってほしかった。

本当に。

もう二度と、こんな場所には来てほしくなかった。

でも。

今、目の前にいる。


生きている。

それだけで。

少しだけ、安心していた。

「……じゃあ」

俺は立ち上がった。

三上を見る。

俺は三上の肩を軽く叩いた。

「……じゃあ、行くぞ」

三上が頷く。


「うん」

俺たちは歩き始めた。

暗い洞窟の中を。

今度は。

一人じゃなく。

その時だった。

ドンッ!

突然。


洞窟の奥から、大きな音が響いた。

「……!」

全員の足が止まる。

ドンッ!

もう一度。

今度は、さっきより近い。

岩壁がわずかに震えた。

俺は息を止める。

あの音。


間違いない。

さっき俺たちを追ってきた化け物だ。

「……来るぞ」

佐伯が低い声で言った。

三上が佐伯を見る。

「これ……」

「話は後だ」

佐伯が遮った。


「今は逃げるぞ」

その瞬間。

洞窟の奥から、さらに大きな音が響いた。

ドンッ!

「走れ!」

佐伯が叫んだ。

俺たちは一斉に走り出した。

俺は三上の隣を走る。

前には佐伯と、もう一人の男。


後ろから、何かが岩壁を叩く音が迫ってくる。

ドン。

ドン。

ドン。

音がどんどん近づいてくる。

「宮本!」

三上が叫ぶ。

「何だ!」


「前!」

俺は前を見た。

遠くに、明るい場所が見える。

暗い洞窟の中ではっきり分かるほどの光だった。

「……出口だ!」

俺は叫んだ。

「出口だ!」

全員がさらに速度を上げた。

あと少し。


もう少しで、あの光へ出られる。

そう思った瞬間だった。

――ドンッ!!

頭上から、凄まじい音が響いた。

「……え?」

俺が顔を上げる。

次の瞬間。

巨大な影が。


俺たち四人の真ん中に落ちてきた。

ドンッ!

「うわっ!」

地面が揺れる。

砂埃が舞う。

目の前に、あの化け物が立ち上がった。

俺は思わず叫んだ。

「一体じゃない!」

違う。


今、目の前にいるのは。

さっきまで後ろにいた個体だけじゃない。

俺たちの後ろ側に。

別の個体がいた。

俺たちは完全に分断された。

「宮本!」

反対側から声が聞こえた。

透だった。


「佐伯!」

俺は叫ぶ。

だが。

エンティティが四人の間に立ちはだかっている。

向こう側には透と佐伯。

こちら側には俺と三上。

出口は。

目の前にある。

けれど。


そこへ向かうには、エンティティを越えなければならない。

「三上!」

透の声が響く。

俺は向こうを見る。

「俺たちは俺たちで出口を見つける!」

三上が叫んだ。

「いいから行け!」

俺が呼ぶ。


「ここで止まったら全員やられる!」

俺も叫んだ。

「行くぞ!」

三上が頷く。

「うん!」

俺たちは反対方向へ走り出した。

後ろからエンティティの音が響く。

ドンッ。

ドンッ。


俺は一度だけ振り返った。

透と佐伯の姿は、もう見えなかった。

ただ。

暗闇の向こうから、二人の足音だけが聞こえていた。

俺は前を向く。

三上が隣を走っている。

出口がどこにあるのか。

この先に何があるのか。


何も分からない。

それでも。

俺たちは走り続けた。

今度は。

三上と二人で。


第八章FallenFun


走った。

三上と二人で。

後ろから聞こえていたエンティティの音は、少しずつ遠ざかっていた。

それでも、俺たちは止まらなかった。

しばらくして。

細い通路の先に、明かりが見えた。

「……あれ」

三上が呟く。

俺たちは光へ向かった。


そして。

通路を抜けた瞬間。

目の前に、大きな建物が広がった。

「……何だ、ここ」

俺は立ち止まった。

建物の中だった。

広い。

天井も高い。


廊下や部屋がいくつも続いている。

けれど。

何かがおかしい。

建物全体が、揺れていた。

ミシ……。

遠くから音がする。

次の瞬間。

天井の一部が崩れた。

「……!」


大きな音とともに、床へ瓦礫が落ちてくる。

三上が俺の腕を引いた。

「危ない!」

俺たちは横へ飛び退いた。

さっきまでいた場所に、瓦礫が落ちた。

「……ずっと崩れてるのか?」

「たぶん」

三上が周囲を見る。


壁が少しずつ崩れている。

柱が傾いている。

床にも亀裂が広がっている。

建物そのものが。

ゆっくりと壊れ続けていた。

「ここに長くいたら危ないな」

「出口を探そう」

三上が頷いた。

俺たちは走り始めた。


廊下を曲がる。

その瞬間。

目の前の壁が崩れた。

「うわっ!」

俺たちは足を止める。

先へ進めない。

「こっち!」

三上が別の通路を指した。


俺たちはそちらへ向かった。

すると。

遠くから、何かの鳴き声が聞こえた。

「……エンティティ?」

俺が呟く。

音の方を見る。

建物の奥から、何かが走ってきた。

人のような姿。

けれど。


その動きは明らかに普通ではなかった。

こちらへ向かってくる。

「逃げるぞ!」

俺たちは走った。

その直後。

ゴゴゴゴゴ……。

建物全体が大きく揺れた。

エンティティの足元が崩れる。


そいつは突然、床の下へ落ちていった。

「……」

俺たちは足を止めた。

エンティティがいなくなった。

助かった。

そう思った。

けれど。

次の瞬間。

別の場所から、また何かが落ちる音がした。


ドンッ!

壁が崩れる。

その向こうから、別のエンティティが現れた。

そいつも。

建物の崩壊に巻き込まれている。

逃げようとしているのか。

それとも。

ただ崩れていく建物に押し流されているだけなのか。


分からない。

「……エンティティまで」

三上が呟いた。

「この場所そのものが危ないんだ」

俺たちは再び走った。

建物はどんどん崩れていく。

床が揺れる。

壁が落ちる。

天井から何かが落ちてくる。


俺は前だけを見て走った。

「三上!」

「いる!」

「出口は!」

「まだ見えない!」

その時。

前方に、長い廊下が見えた。

その先に。


外へ続いているような明るい場所がある。

「……あれだ!」

俺は走る速度を上げた。

三上も続く。

廊下を抜けようとした。

その瞬間。

足元が崩れた。

「――!」

身体が沈む。


「うわっ!」

俺の片足が床の下へ落ちた。

反射的に手を伸ばす。

けれど。

掴めるものがない。

「宮本!」

三上が振り返った。

「……!」


身体がさらに落ちる。

下が見えない。

どこまで続いているのかも分からない。

「三上……!」

三上が手を伸ばす。

けれど、まだ届かない。

俺は床の端を掴んだ。

腕に力を入れる。

でも。


身体が重い。

指が少しずつ滑っていく。

「……もう、無理かも」

三上が必死に手を伸ばしている。

俺は無意識に呟いた。

「……死んだ」

その言葉が口から出た瞬間。

自分でも驚いた。


何で。

そんなことを言ったんだ。

次の瞬間。

三上が俺の手を掴んだ。

「宮本!」

「……!」

「一人だったらな」

三上が歯を食いしばる。

「お前、一人だったら本当に終わってたぞ」


俺は三上を見る。

三上は俺の手を強く握っていた。

「だから」

「……」

「今度は俺が助ける」

腕を引かれる。

身体が少しずつ上がっていく。

「くっ……!」


三上がさらに力を込める。

俺も反対の手を床についた。

そして。

なんとか身体を引き上げた。

「……はぁ」

俺は床に倒れ込んだ。

三上もその場に座り込む。

「……助かった」

「うん」


少しだけ。

笑った。

でも。

休んでいる時間はなかった。

ゴゴゴゴゴ……。

また建物が揺れる。

俺たちは立ち上がった。

「行こう」


三上が言った。

「ああ」

俺も頷いた。

俺たちは再び走り始めた。

今度は。

絶対に離れないように。

互いの存在を確かめながら。

崩れ続ける建物の中を。

二人で。


出口へ向かって進んでいった。

————————————

俺たちは再び歩き始めた。

建物は、まだ崩れ続けている。

ミシ……。

ゴゴゴゴ……。

足元が揺れるたびに、俺は周囲を確認した。

さっきみたいに落ちたら。


今度は助からないかもしれない。

「宮本」

三上が前を見たまま言った。

「ん?」

「もう少しだと思う」

前方に、明るい場所が見えていた。

出口かもしれない。

俺たちは速度を上げた。

その時だった。


ドンッ!

前方の床が突然崩れ落ちた。

「……!」

俺たちは急停止した。

目の前には、大きな穴が開いている。

その向こう側へ進むには。

左右に分かれた二つの道しかなかった。

右。


左。

「どうする?」

三上が周囲を見る。

その時。

右側の道から、かすかな光が見えた。

「右だ」

三上が言った。

「俺が先に行く」

「分かった」


三上が右側の道へ入っていく。

俺も後を追おうとした。

その瞬間。

――ゴゴンッ。

三上が通ったばかりの床が。

崩れ落ちた。

「三上!」

三上は向こう側に立っていた。


俺との間には、また大きな穴ができている。

「宮本!」

三上が叫ぶ。

「お前は左から進め!」

「でも!」

「大丈夫だ!」

三上は右側の道の先を指した。

「出口で合流する!」

「……本当に?」


「ああ!」

三上は俺を見る。

「絶対合流するぞ!」

その言葉を聞いて。

俺は頷いた。

「分かった!」

三上が走っていく。

俺も左側の道へ向かった。


一人になる。

さっきまでなら。

それだけで怖かった。

でも。

今は違った。

三上が向こう側にいる。

出口で合流すると約束した。

俺は走った。

左の道は狭かった。


壁が崩れる。

床が揺れる。

何度も足を止めそうになる。

それでも進む。

「……三上」

小さく呟く。

「先に行ってろよ」

俺は前を向いた。


「絶対、追いつくからな」

しばらく進んだ。

そして。

前方に光が見えた。

「……!」

出口だ。

俺は走った。

同時に。

反対側からも足音が聞こえてきた。


タッ。

タッ。

タッ。

「……三上?」

「宮本!」

出口の前。

二つの道が再び繋がった。

そこに。


三上が立っていた。

「無事だったか」

「ああ」

俺たちは顔を見合わせた。

「言っただろ」

三上が笑う。

「絶対合流するって」

「……そうだったな」

俺も笑った。


そして。

二人で出口へ向かった。

崩れ続ける建物を抜ける。

光の中へ。

――そして。

外へ出た。

「……」

俺は立ち止まった。


暑い。

さっきまでの建物とは比べものにならない。

肌に熱気がまとわりつく。

目の前には。

どこまでも続く砂。

地平線。

そして。

焼けるような太陽。

「……砂漠?」


三上が呟いた。

俺は答えられなかった。

暑すぎる。

空気そのものが熱い。

さっきまで崩壊していた建物よりも。

今度は。

この場所そのものが、俺たちを試しているようだった。

俺は三上を見る。


三上も俺を見た。

「……行くしかないな」

「ああ」

二人は。

灼熱の砂漠へ向かって歩き始めた。

————————————

遺跡を出た。

目の前には、どこまでも砂漠が続いている。

太陽が真上から照りつけていた。


「……暑い」

三上が呟く。

俺も返事をする余裕がなかった。

歩き始めてすぐに、身体が重くなってきた。

喉が渇く。

汗が止まらない。

少し歩くだけで、息が上がる。

「……これ、まずいな」


三上が立ち止まった。

「ああ」

俺も足を止める。

このまま何も飲まずに進み続けるのは無理だった。

俺は持っていた荷物を確認した。

残っている食料。

そして水。

森の家から持ってきたものだった。

「まだある」


「どれくらい?」

「水は……これくらい」

俺は残りを確認した。

多くはない。

でも。

今はこれに頼るしかない。

「少しずつ飲もう」

三上が頷いた。


「うん」

俺たちは水を飲んだ。

一気には飲まない。

できるだけ大切に使う。

食料も少しずつ口に入れた。

それだけで、ほんの少しだけ身体が楽になった。

「……行ける?」

三上が聞く。

「行くしかない」


俺は立ち上がった。

二人で歩き始める。

砂に足を取られる。

一歩進むたびに、身体が沈む。

暑さで頭がぼんやりする。

それでも。

少しずつ前へ進んだ。

どれくらい歩いたのか分からない。


しばらくすると。

砂の向こうに、何かが見えた。

「……あれ」

三上が指を差す。

遠くに。

砂に半分埋まった建物があった。

「建物……?」

近づいていく。

それは。


古い遺跡だった。

砂の中から、巨大な石の壁が顔を出している。

入口も半分砂に埋まっている。

「……入れるかな」

三上が入口を覗く。

「入ってみよう」

俺たちは遺跡の中へ入った。

その瞬間。


「……涼しい」

思わず声が出た。

外とは全然違う。

石造りの壁が太陽の熱を遮っている。

日陰になっているだけなのに。

身体が少し楽になった。

三上も壁に背中を預けた。

「助かった……」

「本当に」


俺はその場に座った。

しばらく動けなかった。

水を少し飲む。

さっきまでの灼熱が嘘みたいだった。

その時。

外から音が聞こえた。

ゴォォォ……。

「……何だ?」


三上が立ち上がる。

俺も入口へ向かった。

遺跡の外を見る。

遠くの砂が。

空へ舞い上がっていた。

「……砂嵐?」

巨大な砂の壁が、こちらへ向かって移動している。

風の音がどんどん大きくなる。

「ここにいて正解だったな」


三上が言った。

「うん」

俺は遺跡の中へ戻ろうとした。

その時だった。

奥から。

ザザ……。

という音が聞こえた。

「……?」


俺は足を止める。

三上も気づいた。

「今の、何?」

「分からない」

俺たちは遺跡の奥を見る。

暗い。

石造りの通路が続いている。

そして。

また音がした。


ザ……。

ザザ……。

砂が擦れるような音。

「……何かいる」

三上が小さく言った。

俺はライトを向けた。

最初は。

何も見えなかった。


けれど。

暗闇の奥で。

何かが動いた。

「……三上」

「見えてる」

俺たちは後ずさった。

砂だった。

大量の砂が。

まるで一つの塊のように動いている。


一つじゃない。

いくつもの砂の塊が。

集団になって。

こちらへ向かってくる。

ザザザザ……。

石の床を砂が這う。

その音が。

少しずつ大きくなっていく。


「……逃げる?」

俺が聞いた。

三上が頷く。

「うん」

俺たちはゆっくり後ろへ下がった。

砂の塊は。

止まらない。

まっすぐ。

俺たちの方へ向かってきていた。


————————————

砂の塊が、ゆっくりと近づいてくる。

ザザザ……。

ザザザザ……。

俺たちは後ろへ下がった。

「……入口」

三上が振り返る。

遺跡の入口は狭い。


二人並んで通るのも難しいくらいだった。

「これ、すぐ外に逃げられないぞ」

「分かってる」

砂の塊が近づいてくる。

俺は周囲を見回した。

逃げ道はない。

奥へ進むしかない。

でも。

奥にも何がいるのか分からない。


「……どうする」

三上が聞いた。

「……」

俺は砂の塊を見る。

動いている。

砂そのものが。

「こいつら……砂だろ?」

「たぶん」


三上も砂の塊を見る。

俺は持っていた水を見た。

残りは、もうほとんどない。

「水をかけたら……」

「え?」

「砂って、水かけたら固まるんじゃないか?」

三上が少し考える。

「……やってみる?」

「他にない」


三上が頷いた。

「分かった」

俺たちは残っていた水を確認した。

二人分。

もう、ほとんど残っていない。

それでも。

今ここで使うしかない。

「いくぞ」


「ああ」

俺たちは砂の塊へ向かって、水をかけた。

バシャッ。

砂が一気に濡れる。

ザザッ……。

動きが止まった。

「……止まった?」

三上が呟く。

砂の表面が固まっていく。


さらに水をかける。

別の砂の塊にも水をかける。

少しずつ。

動きが鈍くなっていく。

「今だ」

三上が言った。

「行こう!」

俺たちは走らなかった。


走ったら体力がすぐ無くなってしまう。

できるだけ走らずに。

急いで。

砂の塊の横を通り抜ける。

狭い入口を抜ける。

外へ出た。

「……!」

俺は振り返った。

砂の塊は。


固まったまま動いていない。

「行こう」

三上が言った。

「ああ」

俺たちはその場から離れた。

走らず。

でも、できるだけ早く。

砂漠を進んでいく。


水はもうほとんどない。

喉が渇く。

身体も重い。

それでも。

あの遺跡から離れられたことだけが救いだった。

しばらく進んだ。

すると。

「……宮本」

三上が立ち止まった。


「何?」

「あれ」

三上が前を指差す。

砂の向こうに。

緑が見えた。

「……木?」

近づいていく。

見間違いじゃない。


砂漠の中に。

水があった。

その周りには植物が生えている。

「……オアシスだ」

俺は思わず走り出しそうになった。

「待て」

三上が俺の腕を掴む。

「急ぎすぎるな」

「……そうだな」


二人でゆっくり近づく。

水面が見える。

透明な水。

俺はしゃがみ込んだ。

手を入れる。

「……冷たい」

三上も水に触れる。

「飲めるかな」


俺は少しだけ水を口に含んだ。

何も起こらない。

「……飲める」

三上も水を飲んだ。

俺たちは何度も水を飲んだ。

顔を洗う。

腕を冷やす。

最後には。

二人とも水の中へ入った。


「……生き返るな」

三上が言った。

「ああ……」

俺は水に浸かったまま、空を見上げた。

さっきまでの暑さが嘘みたいだった。

しばらく。

二人とも何も話さなかった。

ただ水の中にいた。


その時。

足元に違和感を感じた。

「……ん?」

地面が。

沈んでいる。

「三上」

「俺も気づいた」

水面が少しずつ下がっていく。

いや。


違う。

地面そのものが。

沈んでいる。

「……またか」

三上が立ち上がろうとする。

でも。

足元がどんどん沈んでいく。

「宮本!」


「分かってる!」

オアシス全体が。

砂の中へ沈んでいく。

水も。

木も。

俺たちも。

全部一緒に。

「三上!」

「手を!」


俺たちは互いの手を掴んだ。

そして。

視界が砂に覆われた。

――次の瞬間。

俺たちは。

まったく別の場所に立っていた。


第九章TheArabianDesert


第十章Tranquility


目を開けた。

「……」

何もなかった。

いや。

正確には。

空だった。

俺はゆっくりと身体を起こした。

足元には、木でできた細い橋がある。

その先にも。


さらに先にも。

木製の足場が続いていた。

橋の下を見る。

何もない。

ただ、どこまでも続く空間が広がっている。

「……高いな」

三上が隣で呟いた。

俺も下を見る。


雲が遠くに見える。

地面はない。

建物もない。

砂漠もない。

ただ空だけが広がっている。

「……ここ、どこだ?」

「分からない」

三上は周囲を見回した。

風が吹いている。


木の橋が、少しだけ軋んだ。

ギシ……。

ギシ……。

それ以外には、何も聞こえない。

さっきまでの砂漠とは、あまりにも違っていた。

暑くない。

喉も痛くない。

身体も、少し軽くなっている。


「……静かだな」

「ああ」

三上が頷いた。

「静かすぎるくらいだ」

俺たちは橋を歩き始めた。

一歩。

また一歩。

木の板が足の下で軋む。

けれど、壊れる気配はない。


しばらく進んでも、何も起こらなかった。

敵もいない。

物音もしない。

ただ、空の中を歩いている。

「……変な感じだな」

三上が言った。

「何が?」

「今までだったら、こういう場所に来たら何か起きるだろ」


「……確かに」

二人とも少し笑った。

久しぶりだった。

何かを警戒せずに笑ったのは。

しばらく歩いたところで。

三上が足を止めた。

「……宮本」

「ん?」

「あれ」


三上が前を指差した。

遠くに。

一つだけ、小さな円形の足場があった。

その中央にはベンチが置かれている。

「休める場所か?」

「たぶん」

二人はそこへ向かった。

円形の足場に上がる。


三上がベンチに座った。

俺も隣に座る。

不思議だった。

風の音が。

急に遠くなった。

「……静かになったな」

三上が小さく言った。

「ああ」

俺は目を閉じた。


砂漠の暑さ。

崩れる建物。

洞窟。

あの長い旅。

全部が、少し遠くなった気がした。

「……三上」

「ん?」

「俺たち、結構歩いてきたな」


「そうだな」

三上が笑う。

「またこうやって二人で居れるなんてな」

「……うん」

俺は少しだけ俯いた。

あの時。

三上がいなくなった。

俺は一人になった。

ずっと一人で歩いてきた。


でも。

今は違う。

「……ありがとな」

「何が?」

「今日まで一緒にいてくれて」

三上は少し黙った。

それから。

「こっちこそ」


そう言った。

「一人だったら、たぶんここまで来られなかった」

俺は何も言わなかった。

ただ。

隣に三上がいることが。

少し嬉しかった。

しばらく休んでから。

俺たちは再び歩き始めた。

橋は複雑に分かれていた。


右。

左。

上。

下。

どの道も、先が見えない。

「どっちだ?」

三上が聞く。

「分からない」


「じゃあ、右」

「なんで?」

「なんとなく」

「適当だな」

「でも、こういう時のなんとなくって大事だろ」

「……まあな」

二人で右へ進む。

しばらく歩いた。

その時。


前方の橋が途切れていた。

「……」

俺たちは立ち止まった。

先には何もない。

向こう側には別の足場がある。

でも。

距離がある。

「飛ぶのは無理だな」


三上が言った。

「うん」

俺は周囲を見る。

別の道がない。

戻るしかない。

そう思った時。

三上が先に動いた。

「待って」

「大丈夫」


三上は慎重に足場の端へ立った。

そして。

手を伸ばす。

向こう側の木の板に指が届いた。

「……届く」

「危ないぞ」

「じゃあ、俺が先に行く」

三上は身体を伸ばした。


その瞬間。

足元の木が少し揺れた。

「三上!」

「大丈夫!」

三上は向こう側へ移った。

そして振り返る。

「来い!」

俺は手を伸ばした。

三上が手を伸ばす。


俺たちは互いの手を掴んだ。

「ゆっくり」

「ああ」

一歩。

もう一歩。

最後に身体を引き上げてもらう。

俺は向こう側へ移った。

「……助かった」


「これくらい普通だろ」

三上が笑った。

俺も笑った。

そのまま進む。

どれくらい歩いただろう。

いつの間にか。

周囲の景色が少しずつ変わっていた。

空が暗くなっていく。

雲も見えなくなっていた。


前方に。

何かがある。

「……あれ」

三上が足を止めた。

俺も立ち止まる。

遠くに。

黒い場所が見えた。

橋の先に。


ぽっかりと。

暗闇が開いている。

「……何だ、あれ」

三上が呟く。

俺は答えなかった。

その暗闇を見つめている。

何かがおかしい。

初めて見るはずなのに。

知っている。


そんな感覚があった。

俺たちは、ゆっくり近づいた。

暗闇が大きくなる。

光が届かない。

何も見えない。

ただ。

そこだけが。

世界から切り取られたように暗かった。


三上が足を止める。

「……宮本」

「……ああ」

「これ……」

俺も頷いた。

「……覚えてる」

あの場所。

二人で一度、行った。

何も見えなかった。


何も分からなかった。

それでも。

二人で進んだ。

「……あの時と同じだ」

三上が言った。

「うん」

俺は暗闇を見つめた。

あの先に何があるのか。


二人とも知っている。

あの時。

俺たちが一緒に辿り着いた場所。

「……帰れるかもしれないな」

三上が小さく呟いた。

「……ああ」

二人は顔を見合わせた。

そして。

どちらからともなく。


暗闇へ向かって歩き始めた。

一歩。

また一歩。

明るい空が遠ざかる。

木の橋も見えなくなる。

足元の感覚が変わる。

そして。

完全な暗闇の中へ入った。


「……行こう」

「ああ」

今度は。

一人じゃない。

俺たちは並んで。

暗闇の奥へ進んでいった。


第十一章TheThreshold


どれくらい歩いただろう。

何も見えない。

何も聞こえない。

ただ。

二人分の足音だけが、暗闇の中に響いていた。

カツ。

カツ。

カツ。

「……宮本」


「ん?」

「まだいるか?」

「いるよ」

「そっか」

それだけだった。

でも。

その声が聞こえるだけで、少し安心した。

しばらく歩いていると。


前方に、小さな光が見えた。

「……あれ」

三上が足を止めた。

俺も目を凝らす。

光は少しずつ大きくなっていく。

白い光。

その向こうに。

何かが見える。

「……門?」


三上が呟いた。

俺は答えなかった。

ただ。

その形を見つめていた。

間違いない。

俺たちは知っている。

あの場所だ。

「……帰還の門」


「……ああ」

二人でゆっくり近づいていく。

光が強くなる。

その奥に。

大きなアーチが立っている。

その周囲だけが、静かに光っていた。

そして。

門の近くには。

いくつかの椅子が置かれていた。


「……休める場所」

三上が呟いた。

俺たちは椅子の方へ向かった。

俺はゆっくり腰を下ろした。

三上も隣の椅子に座る。

身体を預ける。

思っていた以上に。

疲れていた。


「……やっと座れたな」

三上が言った。

「ああ」

俺は目を閉じた。

砂漠の暑さ。

崩れていく建物。

洞窟。

そして。

何度も助け合ったこと。


全部が頭の中を流れていく。

しばらく。

二人とも何も話さなかった。

ただ。

同じ場所で休んでいた。

やがて。

俺は目を開けた。

目の前には。


帰還の門がある。

白い光が。

静かに揺れている。

「……行くか」

三上が立ち上がった。

「ああ」

俺も立ち上がる。

二人で。

門の前まで歩いていく。


その手前に。

一つの石碑があった。

俺は足を止めた。

三上も隣で立ち止まる。

石碑には。

あの時と同じ文字が刻まれていた。

――ここで休息するか、現実へ戻るか。

二人で。


その文字を見つめる。

「……休んだな」

三上が笑った。

「ああ」

俺も笑った。

「じゃあ」

三上が門を見る。

「今度は」

少しだけ間を置いて。


「一緒に帰ろう」

「……うん」

二人は門へ向き直った。

白い光が。

目の前に広がっている。

三上が隣を見る。

俺も三上を見る。

「行こう」


「ああ」

二人は。

同時に。

光の中へ足を踏み入れた。

白い光が。

二人の身体を包んでいく。

視界が。

少しずつ白くなっていった。

そして。


俺たちは。

帰還の門を。

二人で抜けていった。


終章TheMyHome


現実に戻った。

それは。

あまりにも普通のことだった。

目を開ければ。

そこには、見慣れた天井がある。

窓からは朝の光が差し込んでいる。

スマートフォンを見る。

時間が表示されている。

電波もある。


通知も届いている。

何もかも。

元に戻っていた。

「……帰ってきたんだな」

俺は小さく呟いた。

隣を見る。

三上も、同じようにスマートフォンを見ていた。

「……本当に帰ってきた」


「ああ」

二人とも。

しばらく何も言わなかった。

嬉しい。

安心した。

それなのに。

どこか現実感がなかった。

あまりにも普通だったからだ。

大学。


研究室。

友人。

講義。

今までと何も変わらない。

Backroomsで過ごした時間だけが。

まるで長い夢だったように感じられた。

けれど。

夢ではない。


俺たちは知っている。

あの場所で。

本当に何度も死にかけた。

本当に一人になった。

本当に。

帰れなくなると思った。

「……大学、行かないとな」

三上が言った。

「そうだな」


俺は笑った。

「研究も残ってる」

「……それ、今言う?」

「仕方ないだろ」

「ははっ」

二人で笑った。

そして。

俺たちは。


いつもの生活に戻っていった。

————————————

大学へ行く。

講義を受ける。

研究室へ向かう。

パソコンを開く。

データを確認する。

実験をする。

考察を書く。


何度も失敗する。

何度もやり直す。

Backroomsにいた頃とは違う。

今度は。

自分たちで選んで進んでいる。

「ここ、もう一回計算し直した方がいい」

三上が画面を見ながら言う。

「分かった」


「あと、この部分」

「そこは昨日やった」

「……あ、本当だ」

「ちゃんと寝てる?」

「寝てるよ」

「嘘つけ」

「ははは」

そんな会話をしながら。

俺たちは研究を続けた。


時間が経つ。

一週間。

一か月。

さらに。

季節が変わる。

そして。

ついに。

「……できた」


三上が呟いた。

研究室の画面には。

俺たちがずっと研究してきた結果が表示されていた。

「本当に?」

「うん」

俺は画面を見る。

何度も確認した。

間違いない。

完成している。


「……やったな」

「ああ」

三上が笑った。

「やった」

俺たちは。

しばらく画面を見つめていた。

長かった。

本当に長かった。


けれど。

今度は。

ちゃんと終わった。

それから。

俺たちの研究は大学内でも注目されるようになった。

発表。

審査。

取材。

そして。


ある日。

「宮本さん、三上さん」

研究室の先生が俺たちを呼んだ。

「二人に知らせがあります」

俺たちは顔を見合わせた。

「今回の研究が評価されて」

先生が笑った。

「賞を受賞することになりました」


「……え?」

三上が固まった。

俺も。

しばらく言葉が出なかった。

「本当に……?」

「本当です」

三上が俺を見る。

俺も三上を見る。

そして。


「……やったな」

「うん」

二人で笑った。

表彰式の日。

壇上に立つ。

名前を呼ばれる。

賞状を受け取る。

拍手が聞こえる。


カメラのシャッター音が響く。

あの暗闇とは。

まったく違う音だった。

————————————

数日後。

大学でインタビューを受けた。

「今回の研究を始めたきっかけは何だったのでしょうか?」

記者が尋ねる。

三上が答える。


「二人でずっと研究してきたテーマだったので」

俺も頷く。

「途中で何度も大変なことがありましたけど」

三上が笑う。

「それでも、最後まで一緒に続けられてよかったです」

その言葉を聞いて。

俺は少しだけ三上を見る。

最後まで。


一緒に。

その言葉が。

妙に胸に残った。

そのインタビューは。

翌日のニュースにも載った。

画面には。

俺と三上が並んで映っている。

研究の内容。

受賞したこと。


大学での活動。

そして。

最後には。

二人で笑っている写真まで載っていた。

家族や友人からも連絡が来た。

「すごいじゃん」

「おめでとう」

「ニュース見たよ」


そんな言葉が届く。

俺はスマートフォンを見ながら笑った。

普通の日常。

普通の生活。

あの場所とは。

何もかも違う。

だからこそ。

今あるものを。

少しだけ大切に思えた。


そして。

ある日の夕方。

俺と三上は。

人の多い街を歩いていた。

駅前。

たくさんの人が行き交っている。

話し声。

車の音。


店から流れる音楽。

信号の音。

すべてが当たり前だった。

「……人、多いな」

三上が言う。

「本当にな」

俺は笑った。

人混みの中を。

二人で歩く。


ふと。

横を誰かが通り過ぎた。

その瞬間。

「……佐伯の方が…」

声が聞こえた。

「……え?」

三上が足を止める。

俺も立ち止まった。


今の声。

聞き覚えがあった。

確かに。

聞いたことがある。

でも。

どこで?

誰の声だった?

「……今、誰か」

三上が振り返る。


俺も振り返った。

人混み。

たくさんの人。

歩いていく人。

立ち止まっている人。

けれど。

さっき横を通った人物は。

もう見えなかった。


「……気のせいか」

三上が呟いた。

「たぶん」

俺は答えた。

二人はもう一度前を向く。

人の流れに戻る。

そのまま。

歩いていく。

何も起きない。


何も変わらない。

ただ。

俺は。

さっき聞こえた声のことを。

しばらく考えていた。

そして。

人混みの向こうを。

もう一度だけ振り返る。


誰もいない。

「……まあ、いいか」

そう呟いて。

俺は三上と並んで歩いた。

人の多い街の中へ。

いつもの日常へ。

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