番外編1 正式婚約までの確認事項
王宮法務局の机の上には、今日も書類が積まれていた。
ただし、今日の書類はいつもの婚約契約や持参金返還の記録とは少し違う。
題名は、こうである。
王太子ユリウス殿下およびエリス・フォン・アシュベルト嬢の正式婚約に向けた確認事項
一、エリス・フォン・アシュベルト嬢の王宮法務局特別補佐官としての職務継続について
二、王太子妃教育の再確認範囲について
三、婚約発表時の社交界への説明文について
四、元王太子レオンハルト殿下との過去の婚約に関する不必要な言及を避けること
五、本人双方の意思確認を最優先とすること
私はその書類を読み、深く息を吐いた。
「……なぜ、私の婚約に関する書類が私の机に回ってくるのでしょう」
向かいの席で書類を確認していた法務卿が、顔も上げずに答える。
「王宮法務局特別補佐官としての職務継続が含まれているからだ」
「それは分かりますが、当事者なのですが」
「だから確認が早い」
「合理的すぎませんか」
「法務局だ」
法務卿はそれで会話を終えた。
反論できないのが悔しい。
私はもう一度、確認事項に目を落とす。
正式婚約。
その言葉を見るたび、胸の奥が少しだけ緊張する。
怖いわけではない。
けれど、何も感じないわけでもない。
一度目の婚約は、私にとって役目だった。
王太子妃になるため。 王家を支えるため。 公爵令嬢として恥じないため。
けれど今進められている婚約協議は違う。
私が選んだものだ。
それでも、選んだからこそ責任は重い。
「エリス補佐官」
記録係が扉を開けた。
「ユリウス王太子殿下がお見えです」
「お通ししてください」
すぐに、ユリウス殿下が入ってきた。
今日の殿下は、王太子としての正装ではなく、少し控えめな執務服だった。
「お忙しいところ、失礼します」
「ちょうど、殿下に関する書類を読んでいました」
「私に関する?」
私は書類を差し出した。
ユリウス殿下はそれを読み、少しだけ目を瞬かせる。
「……ずいぶん細かいですね」
「王宮法務局ですので」
「なるほど」
殿下は真面目に頷いた。
その様子がおかしくて、私は少し笑ってしまった。
「殿下、確認してもよろしいですか」
「はい」
「正式婚約後も、私は王宮法務局の仕事を続けます」
「はい」
「夜会や公務が増えても、可能な範囲で調整しますが、すべてを婚約者としての予定に合わせることはできません」
「はい」
「場合によっては、殿下とのお茶の時間より、契約書確認を優先します」
「それは少し寂しいですが、承知しています」
「寂しいのですか」
「寂しいですよ」
あまりにも自然に言われて、私は言葉に詰まった。
ユリウス殿下は、困らせるつもりはなかったのだろう。
少しだけ首を傾げている。
「エリス嬢?」
「……そういうことを、急に言わないでください」
「急でしたか」
「急です」
「では、次から事前に申告します」
「そういう問題でもありません」
法務卿が書類の向こうで小さく咳払いをした。
「続きは私のいないところでやっていただきたい」
「失礼しました」
私が慌てて姿勢を正すと、ユリウス殿下も真面目な顔に戻った。
だが、耳が少し赤い気がする。
見なかったことにした。
「それで、殿下。婚約発表時の説明文ですが」
「はい」
「過去の件について、どこまで触れるかが問題です」
「私は、必要以上に触れない方がよいと思っています」
「同感です」
私は書類に視線を落とした。
「私は、元王太子殿下に捨てられた令嬢として婚約するのではありません。殿下がそれを憐れんで拾うわけでもありません」
「当然です」
ユリウス殿下の声は、少しだけ強かった。
「私は、あなたを憐れんで隣に立ってほしいと思ったことはありません」
「はい」
「尊敬しているからです」
また、まっすぐに言われた。
私は少しだけ息を詰める。
慣れない。
でも、嫌ではない。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
法務卿が、今度は明確に咳払いした。
「説明文はこうでよいだろう」
法務卿は一枚の紙を机に置いた。
王太子ユリウス殿下およびエリス・フォン・アシュベルト嬢は、双方の意思確認と王宮会議の承認に基づき、正式婚約に向けた協議を開始する。
エリス・フォン・アシュベルト嬢は、今後も王宮法務局特別補佐官としての職務を継続する。
本協議は、過去の婚約解消に関する補填や派閥調整を目的とするものではなく、本人双方の意思と信頼に基づくものである。
私はその文面を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
本人双方の意思と信頼に基づくもの。
たった一文。
けれど、今の私には何より大切な言葉だった。
「私は、これでよいと思います」
私が言うと、ユリウス殿下も頷いた。
「私もです」
法務卿は満足そうに書類をまとめた。
「では、王宮会議へ回す。なお、正式婚約までに確認すべき項目はまだある」
「まだあるのですか」
「当然だ。婚約とは契約でもある」
私は思わずユリウス殿下を見た。
殿下もこちらを見ていた。
そして、二人で小さく笑った。
婚約が契約であることを、私はよく知っている。
けれど今度は、ただ縛るための契約ではない。
互いを守るための確認だ。
その数日後、正式婚約に向けた協議開始が王宮から発表された。
社交界は大いにざわめいたらしい。
けれど、以前のような噂の濁流にはならなかった。
なぜなら、最初から記録があったから。
本人双方の意思。 職務継続。 過去の補填ではないこと。
曖昧な余白を、あらかじめ減らしていたからだ。
発表の日の夕方、ユリウス殿下が王宮法務局へ花を届けてくださった。
白い花ではなかった。
淡い青でもなかった。
机の上に置かれたのは、深い紺色のリボンで束ねられた小さな春の花束だった。
添えられたカードには、短く一文だけ。
あなたがあなたの名前で立つことを、これからも隣で見ています。
ユリウス
私はそのカードを読み、しばらく動けなかった。
やがて、そっと花束を机の端に置く。
書類の山の隣に、春の花。
それは少し不釣り合いで、けれど今の私にはとてもふさわしく思えた。
私はペンを取り、返事を書く。
ユリウス殿下へ
ありがとうございます。
私はこれからも、私の名前で立ちます。
そして、私の意思であなたの隣へ向かいます。
ただし、明日の確認書類は十枚ございます。
お覚悟ください。
エリス
翌日、ユリウス殿下は本当に覚悟した顔で王宮法務局へいらした。
私はそれを見て、笑ってしまった。
正式婚約までの道は、まだ長い。
けれど、その道のりを怖いだけだとは、もう思わなかった。
だって私は、待たされているのではない。
自分で歩いているのだから。
お読みいただきありがとうございます。
番外編その一です。
正式婚約までの確認と、エリスらしい「契約としての婚約」を少し書きました。
面白いと思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。




