既読のまま、返信が来なかった十分間
間違えた、と気づいたのは、送信ボタンを押した0.5秒後だった。
スマホの画面に表示されたトーク画面の名前は、「七海」ではなく、「有馬颯太」だった。
私の指が、固まる。
心臓が、一回だけ、ドクンと大きく跳ねた。
送れなかった言葉が、世界で一番読まれてはいけない人のところへ飛んでいった。
——颯太のこと、ずっと好きだった。三年間、ずっと。
画面の端に「既読」という小さな文字が灯った瞬間、私はスマホを落としそうになった。
*
時間を少し巻き戻す。
十六時四十分。放課後の教室。
夕暮れが窓から斜めに差し込んで、黒板消しの粉がきらきら舞っているのを、私——桜山ひよりは、机に頬杖をついて眺めていた。
有馬颯太は、廊下側の席でクラスメートの男子と笑いながら話していた。声が大きくて、笑い方が豪快で、相変わらず部活帰りみたいに少し乱れた制服のままで。
——あ、また見てる。
自分でわかってて、目が離せない。
颯太と私は幼なじみだ。小学校一年生のときから同じ団地に住んでいて、今は同じ高校の同じクラスになってしまった。なってしまった、というのは私の主観で、客観的に見ればそれはただのラッキーなのかもしれないけど、好きな人と毎日顔を合わせるのは正直言って拷問に近い。
好きだと気づいたのは、中学三年の春だった。颯太がバスケの試合でシュートを決めたとき、ワーッと盛り上がる体育館の中で、私だけ声を出すのを忘れていた。胸がうるさくて、それどころじゃなかった。
それから三年。私はずっと、この気持ちを誰にも言わないまま生きてきた。
言えるわけがない。幼なじみだから。距離が近すぎるから。もし振られたら、もう二度と昔みたいには話せなくなるから。
「——ねえ、ひより」
そのとき、親友の椎名七海が私の机の横に立った。陸上部のショートボブ。いつも核心を突いてくる天才。
「聞いた? 颯太くん、二組の伊藤さんと付き合うらしいよ」
七海の声は小さかったけど、私の心臓には聞こえた。
伊藤さん。知ってる。背が高くて、笑顔がきれいで、去年の文化祭でステージに立ってた子。颯太が「あの人歌うまいよな」って言ってたのを、私は覚えてる。覚えてしまってる。
「……そっか」
自分の声が、どこか遠いところから聞こえた。
「そっか、じゃないでしょ。ひより、顔色悪い」
「大丈夫。ちょっとトイレ行ってくる」
立ち上がって、颯太の方を見ないように廊下へ出た。
でも、廊下に出た瞬間、目が合ってしまった。
颯太と。
向こうから話しかけてきた男子と笑っていた颯太が、私に気づいて、笑顔のまま軽く手を上げた。
「ひより、帰り一緒に——」
「ごめん、先行く」
私は目を逸らして歩いた。早足で。颯太の声が後ろで「え、あ、うん?」と途切れるのを聞きながら。
こんな顔、見せられない。今すぐ泣きそうな顔なんて、絶対に。
トイレの個室に入って鍵をしめて、冷たいドアに背中を預けた。
泣かなかった。泣けなかった。
ただ、胸のあたりがじわじわと重くなっていくのを感じながら、スマホを取り出した。七海に送ろうと思った。全部吐き出してしまいたかった。ここに閉じ込めておくのが、もう限界だった。
指が動いた。LINEを開いた。文字を打った。
——颯太のこと、ずっと好きだった。三年間、ずっと。もう終わりにしようと思う。ありがとうね、聞いてくれて
送信した。
そして一秒後に気づいた。
トーク画面の上部に書かれた名前は——「有馬颯太」だった。
七海とのトークを開いていたはずだった。でもきっと、さっき颯太からクラスの連絡が来て、そのまま画面が颯太のトークに切り替わっていたんだ。
頭が真っ白になった。
消せ、と思った。送信取り消しのボタンに指を置いた。押す直前で、手が止まった。
——もう読まれてたら?
既読がついた後で消したら、読まれたことが確定する。消さない方がいい。でも消した方がいい。どっちが。どっちが——
画面の端に「既読」という小さな文字が灯った。
消すタイミングを、失った。
足が震えた。個室のドアに手をついて、なんとか立っていた。
スマホを握りしめながら、画面をじっと見つめた。
返信が、来ない。
十六時五十二分。
十六時五十三分。
十六時五十四分。
三分経った。まだ来ない。
頭の中でぐるぐると言い訳を考えていた。
——友達へのメッセージを間違えて送った、って言えばいい。実際そうだし。「ごめん誤爆した!!気にしないで!!」って送ればいい。それで全部なかったことにできる。できる、はず。
でも指が動かなかった。
スマホの画面を閉じた。開いた。また閉じた。また開いた。「既読」の文字だけが、冷たくそこにある。
颯太は今、何をしてるんだろう。画面を見てるのか。クラスメートと話してるのか。それとも、伊藤さんと——
そこまで考えて、胃がきゅっと縮んだ。
なんで動かないの。早く打って。早く送って。こうしてる間にも颯太は読んでる、読んだ、どう思った、どう思ってる——
十六時五十六分。四分経った。
七海から着信があった。出た。
「ひより! ちょっと待って、颯太くんが今すごい顔してる! 何かあった!?」
「……七海、ちょっと黙ってて」
「えっ」
「黙ってて。お願い」
電話を切った。ごめん七海。あとでちゃんと話す。
十六時五十八分。
六分経った。まだ来ない。
通知の振動が来るたびに心臓が跳ねた。でも全部、関係ないアプリからだった。颯太からじゃなかった。
返信が来ないのは、どういう意味なんだろう。
——あ、そうか。
静かに、腑に落ちた。
颯太は伊藤さんと付き合うんだ。だから返信に困ってるんだ。幼なじみから急にそんなメッセージが来ても、どう返していいかわからないんだ。
気まずい沈黙。それが答えだ。
ずっと怖くて言えなかった三年間が、こんな形で終わった。みっともなく誤送信で、しかも返信すら来ないまま。
自嘲するみたいに笑おうとしたけど、笑えなかった。
まだ来ない。まだ——
そのとき、トイレのドアがノックされた。
「ひより」
颯太の声だった。
全身の血が、一瞬で冷えた。
「……なんで男子がここに」
「女子トイレの前に立ってる。中に入ってない。ひより、いるだろ。声聞こえてた」
返せなかった。喉が詰まって、声が出なかった。
「返信しようと思ったんだけど」颯太が続ける。声のトーンがいつもと違う。「なんか、ちゃんと顔見て話したくて。来た」
「……誤爆だから」
「うん、知ってた」
「え」
「七海に送るつもりだったんだろ。お前、たまにやるじゃん。中学のときも俺に南極の豆知識送ってきたし」
「……それは関係ない」
「でも内容は、お前の本音だろ」
静かな声だった。責めてるわけでも、からかってるわけでもない。ただ、真っ直ぐな声。
「……出てこいよ、ひより」
「出たくない」
「顔、真っ赤なのわかるから、それはわかった上で言ってる」
「なんでわかるの」
「声でわかる。ずっと一緒にいたから」
*
私はしばらく、個室の中で立ち尽くしていた。
逃げたかった。消えたかった。床に穴が開いてくれればよかった。でも床は開かなくて、颯太はドアの向こうにいて、心臓は嘘みたいにうるさくて、もう全部終わりだと思った。
——終わりにしようと思う。
私がさっき打った言葉が、頭の中でリフレインした。
終わりにしようと思っていた。颯太に彼女ができるなら、もうこの気持ちは捨てようと思った。ずっとそばにいられるだけでいいと思っていたのに、いざ本当にそういう現実が来たら、全然平気じゃなかった。ぜんぜん。全然。
「ひより」
また颯太が呼んだ。
「伊藤さんの話、聞いた?」
「……聞いた」
颯太が少し黙った。
「……颯太、今から言うこと、ちゃんと答えてくれる?」
「うん」
「伊藤さんと付き合うの」
また間があった。今度は少し長かった。
その沈黙の間に、私の心は静かに沈んでいった。やっぱりそうなんだ。だから間があるんだ。なんて言えばいいか考えてるんだ——
「嘘だよ、あれ」
息を、飲んだ。
「え……」
「俺が断ったんだ。告白してもらったけど、断った。三組の奴が広めたみたいで、話がひとりでに歩いてた」
「……なんで断ったの」
少し間があった。
「それ、今聞く?」
「……聞く」
「じゃあ出てきてから聞けよ」
私はもう一回、深呼吸をした。
一回。もう一回。
手が震えていたけど、鍵に指をかけた。
*
女子トイレの出口に、有馬颯太は壁に背中を預けて立っていた。制服のネクタイが少し緩んでいて、バスケ部で日焼けした頬が、夕方の廊下の光の中でいつもより赤く見えた。
私の顔を見て、颯太は一瞬だけ、なにか言いたそうな顔をした。
でも言葉より先に、その視線が私の目を捕まえて、離さなかった。
「……赤い」
颯太が静かに言った。
「わかってる」
「かわいい」
心臓が止まりかけた。
「やめて」
「なんで」
「そういうこと言うのやめて。私が、しんどくなるから」
颯太が一歩、こちらへ近づいた。廊下の端、夕陽が差し込む場所で、私たちは向かいあっていた。
「ひより、俺と幼なじみになって何年?」
「……十年」
「十年で、俺がお前にかわいいって言ったことあった?」
記憶を探った。
なかった。颯太はそういうことを言う人じゃなかった。からかいはするけど、そういうふわっとした言葉を使う人じゃなかった。
「……ない」
「ない。じゃあ今初めて言ったわけじゃん」
「……うん」
「それ、なんでだと思う」
返せなかった。
颯太が、少し息を吐いた。
「伊藤さんのこと断ったのはさ」と颯太は続けた。「好きな人がいるから、って言った。ちゃんとそう言った」
「……誰?」
即座に聞いてしまって、自分でも驚いた。颯太は少しだけ目を細めて、苦笑いみたいな、でも笑いきれないような、そんな顔をした。
「バカじゃないの、お前」
「バカって言わないで」
「バカだろ。三年間ずっとそばにいて、気づかないって、どういうことだよ」
廊下の向こうで、部活帰りの生徒が数人通り過ぎていった。でも私には何も見えていなかった。颯太の声しか聞こえていなかった。
「……颯太」
「お前がメッセージ送ってくる十分前」颯太は、少し声のトーンを落とした。「俺、教室で今日こそ言おうかって思ってた。ずっとタイミング逃してたから、もう今日、放課後に言おうって決めてた」
「……嘘」
「嘘じゃない。でも伊藤さんの話が広まって、ひよりが出てったから、追いかけようとしたら七海に止められて。そしたらメッセージ来た」
颯太はポケットからスマホを出して、画面を私に見せた。
私のメッセージが表示されていた。
既読がついて、返信がない状態のまま。颯太はずっと、ここへ来るために歩いていたから、打てなかったんだ。
「颯太のこと、ずっと好きだった、か」颯太が静かに読み上げた。「三年間、ずっと」
「……やめて、声に出さないで」
「もう終わりにしようと思う、ってとこだけ、俺は嫌だった」
颯太の声が、少しだけ揺れた。
「終わりにしないで」
目の奥が、じわっと熱くなった。
「……颯太」
「俺も、三年間だから。ひよりが好きだって、三年間ずっと思ってたから」
廊下の先に夕陽が伸びて、颯太の輪郭を金色に染めていた。部活で鍛えた肩の線と、照れているのに真っ直ぐ私を見ようとしている目と、少し乱れた制服と。十年間ずっと見てきた有馬颯太が、今この瞬間だけ、ぜんぶ違って見えた。
「だから」と颯太は言った。「俺と付き合って」
シンプルだった。
ドラマみたいな演出も、気の利いた言葉も何もなくて、ただ真っ直ぐで、あんまりにも颯太らしくて——私は笑ってしまった。
「……なにそれ」
「なんだよ」
「告白の言葉、それだけ?」
「充分だろ」颯太が少し頬を赤くした。「なんか言い方あった?」
「もっとこう……ロマンチックなやつ」
「じゃあ言い直す。——ひより、お前のことが好きだ。三年前から、ずっと。誰よりも」
今度は笑えなかった。
目の端から、一粒だけ、涙が出た。
「……うん」
私は言った。
「私も。颯太のことが、ずっと好きだった」
*
放課後の廊下に、夕陽が長く伸びていた。
颯太は私の隣に並んで歩きながら、少しだけ照れくさそうにしていた。いつもと歩く速さが違う気がした。ゆっくりで。私のペースに合わせているみたいで。
——こんなに近くにいたのに、こんなに遠かった。
でも今は、それだけが、嘘みたいに消えていた。
「……ねえ、颯太」
「なに」
「さっき、今日言おうって決めてたって言ったじゃん。何がきっかけだったの?」
颯太は少し考えた。
「先週、ひよりが図書館で本読んでたじゃん」
「うん」
「俺が声かけたとき、顔上げた瞬間、なんか……すごく綺麗だと思って」
また心臓が変な動きをした。
「それで?」
「それで、あ、もう無理だと思った」
「無理って何が」
「黙ってるのが。このまま卒業したら絶対後悔するって、そのとき初めてちゃんとわかった」
私は前を向いたまま、口元が緩むのを止められなかった。
「ちゃんとわかった、か」
「うるさい。わかってたけど、ちゃんとわかった、っていうのがあるんだよ」
颯太が少しムキになっているのがわかって、私はまた笑ってしまった。
十年間、ずっと隣にいた人。うるさいくらい声が大きくて、笑い方が豪快で、たまに無神経で、でも大事なところで優しい人。
この人のことが好きだった三年間が、今ようやく、ちゃんと報われた気がした。
「颯太」
「なに」
「誤爆してよかった」
颯太が噴き出した。
「それは笑うわ」
「笑わないでよ」
「だって誤爆してよかったって、なんだよ」
「ほんとのことだもん」
颯太がまた笑った。今度は声を出して、廊下に響くくらい笑った。
そして笑いながら、何気なく、指先が私の手に触れた。
軽く、そっと。でも離さないように。
私は何も言わなかった。颯太も何も言わなかった。
ただ、夕陽の中を二人で歩きながら、手が、繋がっていた。
少し歩いたところで、颯太がぼそっと言った。
「次は誤爆じゃなくて、ちゃんと言えよ」
え、と思った瞬間、颯太が少し前を向いたまま、耳まで赤くなっているのに気づいた。
「……お前もな」
私の声も、たぶん、震えていた。
颯太がまた笑った。今度は声を出さずに、俯いたまま、肩を揺らして。
繋いだ手が、少しだけ、強くなった。
*
後から七海に聞いた話だと、あの日教室に戻ってきた私たちを見た瞬間、七海は「あ、終わった(始まった)」とつぶやいたらしい。
理由を聞いたら、「二人とも、今まで見たことないくらいいい顔してたから」だそうだ。
颯太はその話を聞いて「七海、観察力ありすぎだろ」と笑っていた。
私は後日、ちゃんと七海に誤爆の経緯を話した。七海は爆笑して「いや、神様がやったとしか思えない」と言った。
それから颯太はたまに「また誤爆してくれてよかった」とからかってくる。そのたびに私は「うるさい」と言う。颯太は笑う。
十年間ずっと当たり前だった人が、今は特別になった。
景色は変わっていないのに、隣に颯太がいるだけで、なんだか世界が少し、きれいに見える。
それはたぶん、三年間ずっと好きだった気持ちが、ちゃんとここに届いたから。
——既読のまま返信が来なかった十分間は、私の人生で一番長い十分間だった。
でも、その十分間がなければ、颯太は廊下へ来なかった。
だから私は今でも思う。
あの日、間違えてよかった、と。
完




