第1幕:不動の哲学者 ゼノ
大陸の北の果て、永久凍土と大雪山が天を貫く『沈黙の連峰』に、不釣り合いなほど陽気なテノールが響き渡る。
「ル、ル、ルルルルルーーー!さあさあ!きちんと綺麗に手洗いをして握手の準備をしておくんだぞ、親愛なるテント諸君!」
極彩色に彩られた派手なストライプの燕尾服を翻し、ピエロの仮面をかぶり、七色の羽根飾りがデタラメに突き刺さるシルクハットを斜めに被った男――『歌劇王ルールルルー』は、寒風吹きすさぶ雪山を軽快なスキップで登っていた。彼の背後には、異次元につながる巨大なサーカステントが生き物のようにうねりながらついてきている。
「ルルル、ルルルルー!さぁもうすぐ頂上だぞテント諸君!残念ながらキミたちに労働基準法は適応されない!北風に吹き飛ばされないように死ぬ気で歩き登りたまえ!おっと!キミたちは生きてもいないが!ルルルルー!」
歌劇王ルールルルーは時に楽しそうに笑いながら、時にステッキ1本でピョンピョンと跳ねながら、時に逆立ちをしてシルクハットでブレイクダンスを決めながら雪山を登り、背後からノソノソとついてくる異様なテントを鼓舞していた。
彼が探しているのは、この極寒の地で300年間、一歩も動かずに立ち続けているという伝説の変人『不動の哲学者』ゼノだった。
空が毒々しいほど紫色の夕焼けに染まる頃……。
ルールルルーとテントたちが厳しく切り立った雪山の頂上に着くと、そこにはカチコチに凍りついた老人がいた。雪と氷に覆われたローブは白く輝き、髭には長いツララが下がり、頭髪や眼球さえも凍っているように見える。
「ル、ル、ルルルルルーーー!ブラボー!ファンタスティック!素晴らしいパースィヴィアランス(忍耐力)だ!」
「……帰れ。私は今、宇宙の終わりについて考えているのだ」
何の感情も籠もらない、ただ邪魔だと告げる声は老人の口からではなく、周囲の空気を震わせて直接脳内に届いた。ルールルルーは、待ってましたと言わんばかりに燕尾服を翻し、大仰にポーズを決める。
「宇宙の終わり?ノン、ノン!そんな退屈な幕切れ、私たちが踊る舞台には必要ない!永遠に終わりのない狂乱の宴を始めるために、ゼノ!キミの協力が必要なのだよ!」
「宴……協力……だと?」
「そうさ!世界中の変人奇人たちが一堂に会する奇天烈なサーカス!極彩色の花火が夜空を彩り、理解不能な不協和音が会場に響き渡る!ひとたび宴が始まれば、観客たちは退屈という名の悪夢を吐き出して、一人残らず狂気と混沌に精神を侵されだろう!彼らは思う!『早く終わってくれ。いいや、始まるな!しかし!始まらなければ終わらない!終わるために始まってくれ!いやいや!どうか始まらないでくれ!』ルルルルー!なんともおもしろいパラドックス(矛盾)だとは思わんかね?」
「……思わん」
「ル、ル、ルルルルルーーー!さすがは『不動の哲学者』だ!キミは既にパラドックスを手中に収めているんだね!世界の果ての雪山で300年も動かず凍り付きながらも、思考の歯車を止めなかった!身体が動くことを止め、感情が凍り付いてもなお、キミは哲学者であるという自分を保ち、今この瞬間も思考を動かし続けているのだ!身体は止められても自分という存在は変わらない!『不動』であって『不動』である!ブラボー!素晴らしい!まさに!このサーカスに必要なのは、キミのその『圧倒的な不動』だ!
「不動が必要……だと?」
「そうだとも!ピエロが猛獣とフォークダンスをしながら火の輪を潜り、ドラゴンが持つ空中ブランコが飛び交う混沌のど真ん中で、キミがただ一点、永遠の静寂として立ち続ける。熱狂と不動!これぞ究極のパラドックス!至高のコントラスト!観客はキミの姿を見て、自分という有耶無耶な存在を再定義することになるだろう!『あの不動に比べて、自分はなんと忙しなく、なんと曖昧で、なんと不確かな存在なんだろうか……』とね!サーカスにやってきた観客は退屈と停滞の支配から逃れ、自己の存在意義を見つけるために魂を輝かせ始める!その人生が終わるまで輝きを放ち続ける永久機関を身体の内側に創り出すのだよ!おぉ、ワング!ワンダー!ワンダフル!ルルルルー!」
大仰な身振り手振りを付けながら騒がしく、そして熱く語ったルールルルーは、懐から熱を帯びて真っ赤に輝く『熱狂の契約書』を取り出した。
「『不動の哲学者ゼノ』。私に力を貸してくれないかね?キミは動く必要はない。ただサーカスの中心に存在し、『不動点』となってくれればいい。私が創るサーカスは世界中の変人奇人を集めるつもりだからね。空間に重しをしておかないと歪んでしまうのさ!ルルルルー!報酬として、キミの静寂に支配された哲学を、100万人の悲鳴と歓声で飾り付けてあげよう。どうだい、悪くない取引だろう?」
「……」
眼前に突きつけられた熱気を放つ契約書に、老人の凍った瞳が、わずかにピクリと動いた。数秒の沈黙の後、パキパキと氷の割れる音が響く。
「私の存在を文鎮代わりに使おうとは……おもしろい」
『不動の哲学者ゼノ』の身体が、300年分の氷の戒めを解き、動き出した。
老人は眼前に突き出された真っ赤に輝く契約書を手に取り、ちらりと一瞥すると──たちまち契約書は冷えて固まり氷つき……氷塊はビシリと音を立てて歪み、粉々に砕け散って北風に飛ばされていった。
『沈黙の連峰』に吹雪く北風を見送ったのち、鼠色の簡素なローブに身を纏った老人が、知性の宿った輝く瞳でルールルルーをまっすぐと見据える。
「お前と、その『狂ったサーカス』とやらに興味がわいた。ふざけた男の作るふざけた契約に乗り、ふざけた結末を知ることもまた、哲学だ」
「ル、ル、ルルルルルーーー!キミこそ知を愛するフィロソフィー(哲学)そのものだ、ゼノ!『なぜ?』という『疑問』と『問い』を知覚し、定義し、答えを追求する飽くなき姿勢!考えることの限界を考えることこそ!真のフィロソフィア(哲学者)だよ!ルルルルッ!」
「ふん、そんな大層なものではない。宇宙の終わりが何であるかを考える間の暇つぶしだ。しばしの間、老いぼれの身を預けるぞ」
「ル、ル、ルルルルルーーー!決定だ!素晴らしい!ブラボー!ではさっそく我らがマッド・サーカスのアジトにご招待しよう!テント諸君!初めてのお客様を丁重にご招待したまえ!牙は立てないようにな!」
「は──?」
契約を取り付けて喜色満面なルールルルーが高らかに指を鳴らすと、静かに彼につき従っていた巨大なサーカステントが生き物のように大口を開け、哲学者を頭から呑み込んだ。
「……おおっと!いかん!間違えて胃袋に納めないように伝えるのを忘れていた!ルルルルッ!とうっ!」
テントの口に咀嚼され呑み込まれたゼノを追って、ルールルルーはその場でホップ、ステップ、ジャンプし、逆さまに飛び上がって頭からテントの口めがけて突っ込んだ。
二人を呑み込んだテントの布地が、もむ、もむ、と何度か噛むように律動し、ごくん、と呑み込むように大きく波打つと──『沈黙の連峰』は以前と同じく沈黙が支配する雪山に戻った。
こうして、マッド・サーカスにはじめての『普通ではない』団員が加わったのです。
「ル、ル、ルルルルルーーー!有給休暇は300年分、先に支給しておくぞ!存分に休むといい!ルルルルー!」
◆◇◆◇◆ 『マッド・サーカス』団員メモ ◆◇◆◇◆
『歌劇王』ルールルルー:団長。常に歌うように喋る、変人奇人を見つける感覚が異様に鋭い。
『不動の哲学者』ゼノ:300年間動かなかった伝説の変人。存在自体がサーカスの「重し」になる。




