第一話:裏切りの炎と、恩返しの竜
夜の闇が全てを飲み込むように森を包み込んでいた。冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、木々を叩きつける音が、二人の荒い息遣いをかろうじて覆い隠している。
「ハァッ、ハァッ…………リリア、大丈夫か?」
「ハァッ、ハァッ…………はい、ヒカル様、もう少しです!」
リリアは、すでに限界を超えていた。彼女の小さな革靴は泥に埋もれて動きを鈍らせ、濡れたメイド服は身体に張り付いて、疲労で重く引きずる足音が、規則的に泥の中で鳴る。それでも彼女は、決してヒカルの手を離さなかった。
ヒカルの胸は絶望的な焦燥で張り裂けそうだった。
元・天才軍師候補と呼ばれた彼の冷静な頭脳も、今はただ命からがら逃げ惑うという本能的な恐怖に支配されている。数日間の逃亡と友人の裏切りのトラウマで、彼の足は鉛のように重く、その度に肺が軋むような激しい咳が込み上げる。
追手はすぐそこだ。足元はぬかるみ、重い甲冑の騎士団が追ってくる轟音と、飛竜の不気味な翼音が、森の闇と悪天候の中でより大きく響いている。
(なぜ……なぜ、こんなことに。俺が信じた道は、この腐敗した世界ではただの悪意にしかならないというのか……)
ヒカルがリリアの手を引き、森の木々が途切れた場所に出る。その瞬間、二人は絶望的な事実に気づく。眼下には激流が轟音を立てて流れ、足元はどこまでも切り立った断崖絶壁。
逃げ場は、もうどこにもなかった。
ヒカル・クレイヴ。彼は、中肉中背で、戦場では目立たない控えめな体躯だ。長く伸びた黒髪は荒れてはいるが、その顔立ちは端正だった。
しかし、静かに伏せられた瞳の奥には、人間社会への深い絶望と、かつて天才軍師候補と呼ばれた鋭い知性の残光だけが宿っていた。
血縁者も失っている彼の傍らには、たった一人残された彼の幼馴染であり専属メイドであったリリア・シャイニングが控えている。
彼女は、明るい亜麻色のショートカットで、小柄で華奢な体躯。その瞳は常に柔らかな印象を持ち、控えめな笑顔を浮かべている。メイド服の下に暗器を隠す彼女は、ヒカルを守るためなら命を投げ出す狂気的なまでの覚悟を秘めていた。
肉親も友人も、信頼する仲間も失ったヒカルにとって、彼女の存在こそが、人間社会に完全に絶望しきれない唯一の「光」だった。
背後から甲冑の擦れる音と、水しぶきを上げる足音が近づいてくる。騎士団が馬を降り、冷酷な表情で包囲網を完成させていく。リーダーである騎士隊長代理の男は、ヒカルを見下すように剣の柄に手をかけた。
「元・天才軍師殿よ。無駄な足掻きご苦労だったな。貴様が目指した『優しさの秩序』など、この王国の規律を乱す毒でしかない。貴様の才能は妬まれ、貴様の優しさこそが嘲笑されたのだ」
男の冷たい言葉は、ヒカルの胸に深く突き刺さった。ヒカルは力が抜けていくのを感じる。
「貴様には、死をもって償ってもらう」
騎士隊長代理が剣を振り上げる。ヒカルはリリアを抱き寄せ、せめて彼女だけでも守ろうと目を瞑った。
その瞬間、ヒカルの腕の中からリリアが飛び出した。
「リリア! 何を……!」
リリアは剣を構え、騎士団の群れへと果敢に斬りかかる。
「ヒカル様! 貴方の目指した世界は間違いなんかじゃありません! それをこんなところで諦めさせるわけにはいかないのです!!」
彼女の叫びは、ヒカルへの絶対的な愛と信頼に満ちていた。
しかし、武力差は歴然だった。リリアは騎士たちに弄ばれ、騎士の一撃が彼女の剣を打ち据える。キン、という鋭い音と共に、リリアの剣は中央から音を立てて折れた。
「悪あがきしおって……。抵抗も終わりか、メイドよ……」
騎士たちが下卑た笑いを浮かべ、無防備になったリリアに近づく。
その時、リリアは最後の力を振り絞り、折れた剣の残骸を捨てて、最も近くにいた騎士の一人に抱きついた。
騎士隊長代理の男は、その行動を見て「ちっ」と小さく舌打ちした。
「とことん非合理な奴め! 最後の最後まで無駄な感情に縋りつくか!」
「うるさい!! 本当の裏切り者もわからぬ愚かどもめ!!」
リリアは、そう言い放って、一瞬だけヒカルを振り返ると、小さく笑った。
そして、ヒカルが声を上げる前に、迷いなく一人の騎士を標的と定めて大地を蹴った。
「ヒカル様、生きてください……っ! さよな……」
「リ、リリア。何をする気だ! や、やめろ!!」
しかし、時すでに遅し。リリアが、一人の騎士の膝にしがみつき、そのまま勢いを使って、押し込んだ。騎士は、それまで実力差でもてあそんでいたメイドごときが、このような行動に出るとは、と完全に油断していた。それが命取りになったのだ。
リリアは一人の騎士を道連れに、その小さな身体に似合わない力で、断崖絶壁を飛び降りた。ヒカルの耳に届いたのは、リリアの、愛と絶望の入り混じった最後の言葉と騎士の絶叫だった。
「リ、リリアァアアア!」
ヒカルは膝から崩れ落ちた。彼はまた、何も守れなかった。リリアの最後の愛と信頼を、彼は無力な絶望で迎えることしかできなかった。
騎士隊長代理の男は、冷たく顔を歪める。
「ちっ、手間をかけさせやがる……とにかく、不愉快だ」
騎士の剣が、ヒカルの頭上で鈍い光を放つ。ヒカルは、もう抵抗する気力すら湧かなかった。
「さあ、貴様も終わりだ。地獄であのメイドと貴様の非合理的な理想を語り合うがいい」
(俺は、愛するリリアすらも護れなかった……。ああ、これで、全てが終わるのか……。まぁ、それもいいかもしれない……。どうでもよくなった……。どうせ俺の価値なんてそんなものだからな……)
一瞬、脳裏を過ぎる、遠い日の、朧げな記憶。
傷ついた少女に、水と薬草を渡した。ただそれだけの、純粋な行為。
その記憶の底から、誓いの言葉が、彼の心臓を貫いた。
『……忘れない。この恩義。あなたの優しさが、すべてを救う唯一の力だと、命をかけて証明するわ』
それが、ヒカルが最後に聞いた、優しさの残光だった。
◇◆◇◆◇
騎士の剣が振り下ろされる直前、奇跡が起こった。
ドオンッ――!
それまで辺りを叩きつけていた激しい雨が、文字通り蒸発したかのようにピタリと止んだ。
分厚い暗雲は、巨大な意志に切り裂かれたかのように割れ、闇夜の断崖に神々しいまでの月光が、一本の光の柱となって降り注ぐ。
周囲の空気が一気に乾燥し、灼熱の熱波がヒカルの肌を焼く。
騎士隊長代理の男は、異常な熱波に顔を歪ませ、思わず剣の動きを一瞬止めた。
その刹那――
ヒカルの眼前に、音もなく巨大な紅蓮の炎竜が姿を現した。
先ほどまで騎士隊長代理の男が立っていた場所には、巨大な竜の爪跡と、地面に生々しく焦げ付いた甲冑の残骸だけが残され、いつの間にか彼女がいた。
彼女の巨躯は、まるで生きている溶岩が凝固したかのように猛々しく、全身の鱗は月光を反射して、灼熱のルビーのように煌めく。肌に張り付いた湿気は即座に弾け飛び、甲冑のように硬質な鱗の隙間からは、内部のマグマのような光が生々しく漏れ出ていた。
その翼は断崖の闇を全て覆い尽くすほど巨大で、その影は騎士たちに原初的な恐怖を刻み込む。彼女の燃えるような金色の瞳は、ヒカルを追う騎士たちを、まるで地上の塵を見るかのように一瞥した。それは圧倒的な美しさと、存在そのものが災害であるという純粋な恐怖を同時に体現していた。
竜の喉奥から凄まじい熱量が凝縮される音が響き、夜空を切り裂く轟音と共に、世界を焼き尽くすかのような紅蓮のブレスが放たれた。
グオオオオオオオオオオォォォッ!!
「ひ、ひぃいっ! 化け物があああ!」
騎士たちの恐怖の叫びは、ブレスの轟音にかき消され、一瞬で灰燼と化した。ヒカルを追っていた人間社会の悪意は、竜の圧倒的な力によって、文字通り根絶やしにされた。
ただ一人、ブレスの端を浴びた下級騎士の一兵卒だけが、全身を焦がされながらも恐怖で正気を失いながらも、生き残った。後に、彼は、ヒカルの「裏切り者」の物語を、「炎の竜に愛された王」という新たな恐怖として世界に伝える、最初の生き証人となった。
ヒカルは、その圧倒的すぎる力を前に、新たな恐怖に体が硬直した。
(次は、俺がこの力の標的になるのか……。人生なんてあっけないものだな……。まぁ、追手に殺されるのも、竜に殺されるのも、もはや大差ないことだ……。)
ヒカルは、目を閉じ、せめて自らの意思で最期を受け入れようと努めた。
(人類への復讐もままならぬ、リリアの願いも叶えられぬ。我ながら、ふがいないものだ……。でも、それでいいんだ。これで、リリアのもとでゆっくりできるのだな……)
しかし、その時はいくら経っても訪れなかった。
ヒカルの畏怖の念をよそに、巨大な竜体は、紅い炎の粒子となって分解し、月光を浴びながら収束していく。
炎の粒子の中心から、炎を纏った一人の美少女が姿を現した。艶やかな紅の髪は風になびき、瞳にはヒカルへの激しい独占欲と純粋な愛情が宿っている。
彼女はヒカルの前に降り立ち、その顔を優しく、しかし有無を言わせぬ力で持ち上げた。
「我が名は、紅蓮の激情竜姫レヴィア、レヴィア・フレイムハート」
レヴィアは静かに名乗り、熱を帯びた声で宣言した。
「我の夫となれ。そして、我ら六龍の王となれ。さすれば、お前を二度と、あんな醜い人間たちに裏切らせない」
ヒカルが戸惑いの声を上げる間もなく、レヴィアは彼の唇を強引に奪った。
(な、なんだ。いきなりキスだと!?)
ボオッ!
レヴィアの口付けから、灼熱の魔力がヒカルの全身に流れ込み、彼の内に眠っていた能力が目覚める。それが、六龍姫たちの愛の形(独占欲、愛情、嫉妬)を直接的に把握する「絆の共感者」の異能だった。ヒカルの意識に、レヴィアの猛烈な独占欲と嫉妬が流れ込んでくる。
(これは……彼女の、レヴィアの感情? いや、違う。彼女の感情がそのまま魔力の「音色」として、俺の精神に響いているのか)
ヒカルの「絆の共感者」としての異能は、六龍姫の感情を読み取るだけでなく、それを「調律」する力へと昇華する。レヴィアの音は、あまりにも激しく、高音のトランペットのように鳴り響く。
この強すぎる音を、他の竜姫の音と完璧に重ね、和音を奏でる。それが、ヒカルの「王の義務」であり、「指揮者」としての役割なのだ、と脳の奥深くに本能として刻み込んできた。
「これで契約は完了だ。その証拠に、我の感情が見えるようになったであろう? さあ、ヒカル。お前はもう人間ではない。我の夫として、この世界を統一する竜の王だ」
(そ、そうか。この口付けは、愛ではない。純粋な灼熱の魔力交換であり、俺の『絆の共感者』を発動させるための盟約のトリガーなんだ)
レヴィアはヒカルを抱きしめ、炎を帯びた翼を夜空へ広げる。ヒカルは、人間社会への訣別を完了させ、炎の竜姫と共に、竜の王としての新しい人生へと飛び立った。
(ここで終わらせてはいけない。俺の無力さを嘲笑ったこの世界全てに、リリアの命の重さを償わせるまで、俺は死ねない。この絶望を、人類への復讐の燃料に変えるのだ!!)
【第2話へ続く】
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