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第八十八話:地下教団施設の深淵と、魔族の影

 王都地下。カインが最終的な潜伏先としたのは、かつて人類が竜族との戦争を画策していた旧ドラゴンスレイヤー教団の秘密施設だった。魔術的な結界に守られたその奥で、カインは静かに魔術儀式を継続していた。


 リリアの意識が解放された瞬間、カインは自身の魔術的な接続が断たれたことを察知した。


「馬鹿な……あの完璧な憎悪の和音を、あの光と闇のユニゾンで打ち破ったのか…!」


 カインは苛立ち、実験台を叩き割る。人類側の切り札だったリリアを失ったことは、カインにとって計り知れない痛手だった。この大陸で、ヒカルに一矢報いるための人間側の協力者は、もはや残されていない。


「くそっ…! すべてを尽くしたというのに。あの王の優しさの力は、そこまで非合理的に強いというのか!」


 焦燥が、天才軍師の冷静な判断力を蝕む。彼は、自身がヒカルに負けたのではなく、「愛」という非合理な力に負けたという事実を、どうしても受け入れられずにいた。


 しかし、カインはすぐに顔つきを変える。その表情には、絶望ではなく、深く、冷たい優越感が浮かんでいた。


 彼は、部屋の中央にある祭壇に目をやる。そこには、禍々しい闇の魔力を湛えた、古びた石碑が据えられていた。これは、東方で密かに接触した魔王軍四天王の一柱から贈られた、魔族との契約の証だった。


「いや、違う。焦る必要などない」


「ヒカル。貴様が愛と絆でこの大陸を統一したところで、何の意味がある?」


「貴様が護ろうとしている人類は、貴様の愛を理解できない愚か者ばかりだ。そして、私はその愚かな人類を救うために、すでに次のフェーズを起動した」


 カインは、石碑に向かって深く頭を垂れると、狂信的な笑みを浮かべた。


「魔族の力こそが、この世界を真に調律する唯一の合理的手段。貴様の愛など、魔王軍の脅威の前では、一瞬で消え去る砂上の楼閣だ」


 ◇◆◇◆◇


 盟約軍司令部。リリアは、ヴァルキリアとルーナによるユニゾン治療の後、疲弊しきった状態で休眠室に保護されていた。


 ヴァルキリアは、リリアの心に残された魔力の残滓を解析していた。


契約者ヒカル。リリア殿の精神から、カインが埋め込んだ『憎悪の和音』は完全に断ち切ったわ。しかし、この魔力の痕跡は、カインの魔術だけではない。私達のユニゾンが断ち切ったのは、より深く、より広範な、別種の闇の魔力だわ」


 ルーナが、白い指先で虚空に残る微細な闇の粒子を掬い上げる。その光の魔力が、闇の粒子に触れた途端、激しく弾けた。


「姉さま。これは……単なるカインの魔法ではありません」


 ルーナは、その闇の粒子の持つ根源的な冷酷さと、世界全体を覆い尽くさんとするスケールに、初めて恐怖の色を滲ませた。


「カインは、自分の魔力を増幅するために、既に魔王軍と正式に契約を結び、その強大な魔力の一端を、リリア殿の制御に使ったのです」


 ヴァルキリアは、静かに結論を下す。


「ルーナよ。そうなると奴は、もはや単なる逃亡者ではない。人類の生存基盤そのものを売り渡し、魔王軍の侵攻をこの盟約軍の中枢から誘発する、新たな『世界を脅かす災厄』と言えるな……」


 ヒカルは、リリアの裏切りで受けた心の傷を堪え、自らの感情を強く調律した。


「つまり、俺は、カインという個人ではなく、魔族の脅威の入り口と戦うことになるのか」

「ああ、王よ。奴は、私たちが包囲網を敷く遥か前から、魔族の後ろ盾を手に入れていた。だからこそ、最後の最後まで、あの狂信的な余裕があったのだろう」


 ヴァルキリアとルーナは、ヒカルに警告する。カインを討つことは、魔族との最終戦争の引き金を引くことに他ならない。


 ヒカルは、冷静に言い放った。


「戦うさ。リリアを救ってくれたのは、お前たちの愛のユニゾンだ。ならば、その愛を信じよう」


 ヒカルは、二人の王妃へ答えつつ、隠し切れない怒りを露わにした。


「まずカインを断罪する。奴は、俺に対してやってはいけないことを繰り返した。そして、魔族の脅威を、俺の愛の盟約軍が、この世界の光として迎え撃つ。潜伏先は分かっているな。今すぐ、全軍に緊急出撃を命じろ!!」


 ヒカルは、傷つきながらも、六龍姫の愛と、己の優しさを信じるという、王としての最終決断を下した。彼の軍師としての冷静な理性が、再び戦場へと戻った。


 ◇◆◇◆◇


 休眠室の静寂の中で、リリアは身体を震わせていた。手のひらを見つめるその瞳は、涙で濡れている。彼女の脳裏には、暗器で王の心臓を狙った瞬間の情景が焼き付いていた。


「リリア。俺は、お前を、信じている……」


 その言葉は、ユニゾンで解呪された後も、彼女の心を最も深く突き刺した。自分を信じ続けた王を裏切り、殺そうとした罪悪感が、彼女を苛む。


 そこへ、メイド隊のテラナが静かに湯気を立てるハーブティーを運んできた。その背後には、フェンリア、アクアリーヌ、ルナリスらが控えている。


 リリアは深く息を吸い込むと、自らの頬を叩いた。顔に宿っていた絶望の色は消え、かつての王室メイド隊長官としての、論理的で静かな決意が戻ってくる。


「私は、メイド隊長官として、ヒカル様の身辺を護る責務を果たせなかった。これは、私の人生最大の失敗です」


 テラナは、リリアの言葉を優しく遮った。


「リリア長官。失敗ではありません。憎むべきは、長官の純粋な忠誠心を利用したカインという卑劣な男です。王も、王妃様方も、誰も長官を責めておりません」


「そうだよ、長官!」


 炎のメイド、フェンリアが激情を込めた声で続けた。


「むしろ、長官のいたからこそ、私たちメイド隊は、王の最大の弱点が『人間の悪意』であると知ることができた。私たちは、あの憎むべきカインを断ち切るために、さらに団結しました!」


 アクアリーヌは、冷静な声でその団結の合理性を補足した。


「長官の行動は、我々盟約軍を『人間社会の陰湿な謀略』に対して、むしろ一致団結させました。王の優しさを守るという使命感が、今、最高の論理的結束を生んでいます」


 リリアは、自分を責めるどころか、優しさで包み込むメイド隊の愛に、嗚咽を漏らした。


「テラナ…みんな…優しすぎます、こんな私に……」


 リリアは、静かに立ち上がり、メイド隊の制服を身につけた。6人のメイド隊は、長官であるリリアを、これまで以上に暖かく迎えた。


「全メイド隊に告げます。私たちは、王がカインと決着をつけるために不在の間、『王の優しさを護る砦』となる。盟約軍の内部的な安寧、王の帰る場所を完璧に整える。この経験こそが、王の優しさが、憎悪に勝つという証明の礎です」


 ヒカルの緊急出撃の号令が、司令部に響き渡る。


 リリアは、傷ついた幼馴染であり、王であるヒカルの背中を、まっすぐに見送った。その瞳には、かつての迷いも狂気もなく、ただ「王の帰還を待つ」という、揺るぎないメイド隊長官の決意だけが宿っていた。



【第89話へ続く】


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