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あむ  作者: 天回大基
3/3

あむ③(完)

3ヶ月目のていき面談のときに、そろそろ模試にもうしこんでみようか、と笹川さんは言いました。模試ですか、とあむはききかえしました。でもぜんぜん勉強できるようになってないですよ。笹川さんはあむの目をのぞきこんでにっこりわらいました。本当にそうかどうか、はかってみようよ。


 でもこわいです。

 しけんが?

 はい。

 どうしてかな?

 ばかだってばれちゃうじゃないですか。

(笹川さんは「がはは」とおおごえでわらいました。笹川さんのそんなこえをきくのははじめてでした)

 横内さんはがんばってるし、がんばってる人はばかじゃないぜ。

 ……。

 ま、気が向いたらでいいさ。応援してるよ。


 けっきょくあむは、模試をうけることにしました。ほんねを言えば、あむだってじぶんが成長しているのかどうか、気になっていたのです。もし成長していなかったら、結果をうけいれるのがつらいと思います。でもそれに向き合わなきゃ合格はできないと思いました。笹川さんは不安がるあむと何度も話して、復習方法をいっしょに考えてくれました。模試は2月げじゅんにあるので、そこまでに全科目を復習できるように計画をつくったのです。その日からあむは勉強時間を3時間から5時間にふやしました。本気モードです。勉強に慣れてきていたので、時間をふやすのはつらくありませんでした。でも家のことをしたり、りゅうくんちにいったりしているとけっこういそがしくなります。毎日へとへとに疲れてベッドに入っていました。その分ねつきはよかったです。

 たのしくもあり、大変でもある毎日でした。たくさん勉強した分、とける問題はちゃんとふえていました。日本史はやっぱり得意で、問題集が1ページ全問正解だったこともあります。りゅうくんやあきちゃんに報告すると、じぶんのことのようによろこんでくれました。あむ、あかるくなったね、とあきちゃんは言ってくれたことがあります。あきちゃんはそのころ、節約とボーナスでお金をいっぱいためて、借金をほとんど返しおえていました。あむ、むかしはなにかにおわれてるみたいな感じだったけど、いまはじぶんのペースでのびのびいきてるよね、と。あむ自身もそう感じていました。だから、ひとりでいても嫌な記憶を思いだすことはありませんでした。そんなことよりあむには覚えなくてはいけない単語や歴史上のできごとがあるのですから。

 笹川さんも、あむが計画をしっかりまもって勉強していることをほめてくれました。ぼくは毎年何十人と塾生をみているけど、あむちゃんくらいきっちりがんばってる人はいない。ほんとうにすごいよ。あむは笹川さんにほめられるたびにやる気がみなぎりました。塾にいる他の人たちはみんなすっごく頭がよさそうだったし、使っている問題集もむずかしそうなものばかりでしたが、それでもあむは胸をはって自信まんまんで校舎を歩くようにしてました。

 

 でも、やっぱり試験がちかづいてくると、緊張してしまうものでした。とくにあむは、数学にくろうしていました。おぼえきれていない公式がたくさんあったのです。時間がかぎられてくる中で、まにあうのか不安なきもちがつよくなっていきました。もし成績がぜんぜんのびていなかったらどうしよう、そんな想像が一日ごとにくっきりとしてくるのでした。何度か笹川さんに相談させてもらいました。笹川さんはきっと仕事がいそがしいのに、いつもしんみにあむの話をきいてくれました。模試までのこり1週間となった、試験前さいごの面談のことをあむはよくおぼえています。心臓がばく、ばく、ってうごいているのがわかるんです。そうあむは言いました。緊張してるんだね、やっぱり。笹川さんはいつものようにほほえんだままうなずきました。


 なんか、他のだれかがあむのなかにいて、勝手に心臓をうごかしてるみたいなんです。

 あむちゃん。またおもしろい表現がでてきたね。でもどういうことなんだろう? あむちゃんの思いとは関係なく、勝手に心臓がうごいてるって感じなのかな。

 そうです。ばく、ばく、ってかねを鳴らすみたいにあむの心臓をぶったたいてるんです。あむはこんな風になりたくないのに、勝手になっちゃうんです。

 それは、つらいね。どんどんつかれてしまうね。でもさ、あむちゃん。どうしてあむちゃんは緊張するのかな?

 んー、不安だから?

 不安。なにが不安?

 成績がのびてないこと。

 どうして?

 だって、やじゃないですか。

 どうして嫌なんだろう。

 ……あむがばかだって、ばれちゃうから。

 なんでばかがばれたら嫌? 

 ……わかんないです。でも嫌ですよ。はずかしい。まわりのみんなからそう思われちゃうのは。

 まわりのみんながどう思っていても、あむちゃんがあむちゃんのことをすきだったら、それでよくない?

 …………そんな風に考えたことはなかったです。……でも、あむはそんなにつよくないです。頭よくみられたいし、試験にもちゃんとうかりたい。

 ははは。そうだね。意地悪なこと言っちゃってごめんね、あむちゃん。ちょっときいてみたくなったんだ。でも、きいて思ったよ。やっぱりあむちゃんはすごいひとだ。

 この会話のどこでそう思ったんですか?

 だってあむちゃんは、じぶんがじぶんのきらいな人間になってしまわないように、ひっしにがんばってるんでしょ? あむちゃんの中にいるだれかはね、ようするにぼくはあむちゃん自身だと思う。緊張するのも、こころのなかのあむちゃんがひっしにがんばろうともがいてるからさ。そんな風にがんばれるひとを、ぼくはこころから尊敬する。あむちゃん、ぼくはきみを尊敬するよ。


 笹川さんの言っていることはこのときのあむにはりかいできませんでした。けれど、あむの中にあむがいるという考え方は、外国の人形のおもちゃみたいでちょっとかわいいと思いました。緊張しているのも、あむ自身があわててかねを鳴らしているんだと思うと、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけですが、気持ちが楽になりました。模擬試験の当日、校舎にいくと、笹川さんが受付にいました。あむはならんでいたので近づけませんでしたが、笹川さんは遠くから目であいずを送ってくれました。あむはちいさくうなずいて会場にはいりました。

 


 模擬試験を終えると、あむは大久保に戻りました。挨拶をしたかったのですが、校舎の営業時間をとっくにすぎていて、笹川さんはいなかったです。次会ったらいっぱいほめてもらおうと思いました。大久保駅をでて、掲示板のところで待っててくれていたりゅうくんと合流しました。おつかれさま、とりゅうくんは言いました。ありがと。ちょっと自信ないけど、できることはやったよ、とあむは言いました。あむ、ほんとうにがんばったね。今日はゆっくり休もう。りゅうくんはあむの髪をくしゃくしゃしました。

 アパートのドアをあけると、クラッカーが鳴りました。あむの目の前をひらひら、きらきらした飾りがおちていきます。その先にいたのはあきちゃんでした。あきちゃん! とあむはおどろいてちかづいていきました。あむ、お疲れさま。いっぱいおいしいものつくったから、今日はパーっとさわぐよ。あきちゃんはそう言ってウインクしました。どういうことなの? とあむはりゅうくんとあきちゃんをくりかえし見ます。あむ、めちゃくちゃがんばってたからさ、ふたりで何かできることないかなって相談してたんだよ。りゅうくんが言いました。それでお疲れさま会をひらこうってことになったわけ、とあきちゃんが言います。さ、料理がさめちゃうからもうたべるよ! おなかすいたでしょ? お酒はなに飲む?

 ふたりにそうやってせかされて部屋にはいっていくと、テーブルにはあむのだいすきなサーモンがたっぷりのったサラダや、ピザがならんでいました。いまハンバーグをにこんでるところ、とあきちゃんが鍋のなかをちらりと開けてみせてくれました。あむはうれしくてへんな声をだしました。

 あとさ、あむ、勝手にやっちゃってほんと申し訳ないんだけど。あきちゃんはそう言ってしせんを部屋の奥にやりました。あむもいっしょにそちらをみると、なんとしゃんぷうがいたのです。つれてきちゃった。とあきちゃんは言いました。もちろんだいかんげいです。しゃんぷうにもさいきんはめっきり会えていませんでした。そんなこんなで、ふたりのおかげで、あむたちは勢ぞろいできたのでした。

 いっぱいおさけを飲んで、おはなしして、しあわせな夜になりました。あむよりもふたりの方が酔っていました。ふたりともかおをまっかにして、あむにいっぱい話しかけてくれます。しゃんぷうはベッドのうえですやすやねていました。あむはそんなみんなの様子をみていて、思いました。あきちゃんの言っていた「たいせつなもの」を、あむも見つけることができたのだと。もうたおくんの顔はもやがかかったようにあいまいです。あのときからきせつは、ひと回りと半分、すぎていました。これからもこんな風にきせつがすぎていくのでしょう。そうやってお嫁さんになって、ママになって、おばあさんになって、あむの一生はすぎていくのかもしれません。すぎていってほしいと、あむはこころのそこから願ったのでした。





 あきちゃんから「ひっこす」と連絡がはいったのはそれからすぐでした。ふたつきもたっていません。あむはすぐにあきちゃんちにかけつけました。あきちゃんの部屋はすっきりしていました。だんしゃりしたんだよ、と言います。長旅だからみがるにしないとね。部屋のすみにならんだダンボールのうえでしゃんぷうは毛づくろいをしています。どこに、いくの、とあむはおそるおそる聞きました。九州! 熊本! とあきちゃんはそくとうしました。まじか! とあむはたまげました。


 いったいどうしたの、急に。

 いやさあ、前から東京出ようかなあって思ってたんだよ。もっと時間の流れかたがゆっくりなところにいたいなあって。

 たしかに、前に話してくれてたね。

 それで、ぼんやり求人あさってたの。そしたらさ、あったのよ。あたしんとこの会社と同じ業種で、熊本。

 じゃあそこに出したんだね。

 秒でね。いっしゅんでりれき書しあげて、ばんばん面接して。今しかないと思ってガチでやったよ。ぶじに内定とれてほんとよかった。

 いつ採用?

 4月。ちょうどいいでしょ? 有給つかって3月は向こうでくらして、しんきいってん新生活。

 さすがあきちゃんだね。ばっちり計画どおりなんだ。

 シャンプーも、こういうきちきちした都会より、なんもない田舎の方が気楽だと思うからさ。のんびり暮らすよ。あそびにきてね。

 うん、ぜったいいく。

 あむは模試、どうだった?

 うん。ひくかったよ。ビリくらい!

 そっか。

 でも、やった分だけのびてた。前のあむだったらもっともっとひくかったと思う。だから、大丈夫。あむは最後までやるし、ぜったいうかるよ。

 あむ、やっぱりなんか、かわったね。つよくなった。

 うん。そうかも。


 それからあきちゃんは、あむをだきしめました。あむのひたいに鼻さきをあて、あむの肩にまわした手に少しちからをこめます。最後まで一緒にいられなくてごめん。あきちゃんはささやきました。あむはあきちゃんの体温にふれながら、すこし迷って、それから、ほんとうはね、ちょっとこわい。としょうじきに言いました。ずっとあきちゃんと一緒だったから、こわいよ。あきちゃんはうでのちからをかすかにつよめました。うん。あたしもこわい。つらいとき、あむのこと考えてたんだ。あむがひとりでがんばってるすがたを想像してた。あむがあたしのひかりだった。あむも、あきちゃんがひかりだったよ。あたしたち、にてるね。うん、むかしはそんなこと考えもしなかったのにね。



 それでも、言いたいことの10パーセントも言えなくて、ただ「ありがとう」と伝えることしかできないまま、その日あむはあきちゃんしゃんぷうにばいばいしました。ほんとうはもっとたくさんあるのです。そしてなによりも、あむはあむをたすけてくれた人たちに、もっとちゃんとしたかたちでありがとうを伝えたかったのです。


 そんな気持ちを伝えると、「じゃさ、手紙書いてよ」とあきちゃんは言いました。そのときあむとあきちゃんとりゅうくんは空港のロビーにいました。あと20分でとうじょう手続きがしめきられます。あきちゃんはゲートに向かっていく人たちに目をやりながら言いました。手紙なら、いろんな気持ちが書けるでしょ。lineだと言えないようなことも。なんだったらあたしも書こうかな。シャンプーの毛とかはさんで送るよ。

 あむはそう言われて、ふっとこころが軽くなったような、せかいがひらけるようなかんかくになりました。でも、きっとながくなっちゃう。とあむは言いました。

 

 いいよ。ぜんぶ読む。てか読まして。

 じゃあ、ちゅ〜るもいっしょに送る。

 うん、ふたりで読むよ。でも送るまえにりゅうくんに点検してもらいなね。

 だね。おれが誤字とかチェックする。宛名とかも。

 みんな、あむにしんようないんだね。


 そう言うとふたりは大笑いしました。それからあきちゃんはあむたちと握手をし、ゲートをくぐりました。かどを曲がってあきちゃんのすがたが見えなくなるまで、あむたちは手をふりつづけていました。


 

 その日から今日までのやく5ヶ月、あむはとてもふしぎな気持ちで生きています。それをひょうげんするしかたを、あむはこの手紙を書きながらずっとさがしているのでした。そのかんかくは、ものすごく幸せだとさけびたくなるようなおおきなよろこびのように感じられることがあります。逆に、すごくありふれたへいぼんなうれしさというように思うこともあります。でも、それがあむのもとをはなれることはないのです。あむにはそれがわかります。むずかしい言葉をつかうなら、「かくしん」できます。太陽の光をあびて道ばたの植物がそだっていることや、あむのからだのなかをふくざつな血管や神経がとおっていること、りゅうくんと毎週会えること、そういうひとつひとつがあむのそのかんかくをささえてくれているのです。そしてあむは、そういうかんかくがすこしずつあむの中の成分をおきかえてくれるように思うのです。もしかすれば、ほっさだってのりこえられるかもしれない。本気でそう考えることもあります。まだあむは、そのかんかくをきれいな言葉でまとめて表現することはできそうにありません。だからかわりに、あむのこころに起こったことのひとつを、そのまま書きます。



 模擬試験の結果発表がちかづいた、ある日の夜でした。あむはりゅうくんちにいて、ごはんを食べてから勉強をつづけていました。りゅうくんがお風呂からあがったので、手をとめてたちあがったとき、あむのしかいが急にまっしろになったのです。ものすごいいきおいでしんぱくがましていき、おもわずむねをおさえます。なにかがつきあがってきて、あむのからだをやぶって出てこようとしているようです。あむのあたまはフラッシュバックにつつまれました。たくさんのひとの声がひびいていました。みんな、なにかを言いあうようにするどい声でさけんでいます。ふと目をあけたとき、たおくんがあむをみおろしていました。さいごにはなしたときと、おなじ目をしてました。あむはむぼうびな動物のようになっていました。そのとき、たおくんが何か言ってくれたら——たとえ「しね」とか「きらい」とか「ぶす」とかであっても——どんなにかしあわせだったでしょう。でもそれは、あむがつくりだしたものなのです。あむのこころのなかにあるものなのです。あむが何をこわがっているのかよくわかっていて、いちばんざんこくになれるのです。

 たおくんは、ちらりとあむをみると、それからなにもいわず、そばにいた女の子たちの群れのなかにきえていきました。あむとは似ても似つかない、背のたかくて綺麗な子たちでした。大きな声でわらいながら、たおくんと一緒にどこかに去っていきます。あんなぶさいくでちんちくりんなおんなのこ、どうでもいいよね。そう言いあっているみたいでした。そしてむかしのクラスメイトや、職場のひとたち、おとうと、パパママ、あむがこれまでの人生でつながってきたたくさんの人たちがあらわれて、たのしそうにたおくんたちについていくのでした。あむのまえをとおりすぎていくのでした。

 やめてよ、とあむはつぶやきます。ひとりにしないで。みんな! あむをみてよ!

「あむ」

 おねがいだからあむをすくってよ。あむをおいてかないでよ。あむをゼロにしないでよ。

「あむ。ゆっくり息を吸おう」

 あむはずっとひとりだった。もうひとりはいやだ。ひとりはこわい。ひとりはくるしい。

「あむ。息を、ゆっくりと、吸って」

 ひとりになりたくない。たのしいの中にいたい。いつもたのしいはあむのちかくにいてくれなかった。

「大丈夫。大丈夫だから」

 さがすんだ。あむはさがす。みんなを追わなきゃ。ここにいちゃだめなんだ。

「あむ。腕のちから抜いて。おれはここにいるよ。大丈夫だよ」

 


 すーーーーーーーはーーーーーーーーーーーーーー……………………


…………

……


 どこまでが現実で、どこまでがフラッシュバックなのか、もうわかりませんでした。とにかく息がくるしくて、身体じゅうから汗がでていて、こわくて全身がふるえていました。あむはだだっぴろい場所にひとりでいました。みんなの姿をさがしていました。なにかを叫んでいました。どこかから聞こえてくる声と、だれかがふれているあむの背中の手のあたたかさだけがたよりでした。

 そのときあむは、みたのでした。とおくからゆっくりと、たのしそうにあるいてくるりゅうくんのすがたを。けしきに目をとられて、いろんなところによりみちしながらすすんでいくふらふらしたうごきを。そんなりゅうくんをみたとたん、身体中をおそっていたものがすべて去っていったのです。ほんとうにふしぎな感覚でした。あむはにっこりとわらって手をふりました。


 りゅうくん。だめだよ。みんないっちゃったよ。

 あれー、そうなの。みんないそがしいんだな。あむはいかないの? 

 あむもそろそろいくよ。

 じゃあいっしょにいこうよ。

 いいの?

 え、うん。なんで?

 ……なんでもない。

 ほら、手つなごうよ。

 うん。

 ゆっくりいこう。

 うん。ゆっくりね。


 あむたちはそうやって、みんながいなくなったしずかなみちをのんびりと歩いていきました。りゅうくんはずっとあむの手をにぎりつづけていてくれました。そのあいだあむの心臓はずっと「ばく、ばく、」とうごいていました。あむはきんちょうしつづけていました。試験におちちゃうんじゃないか。りゅうくんにすてられちゃうんじゃないか。またぜんぶをなくしてひとりになっちゃうんじゃないか。そうならないように、ごみにもどらないように、あむはぜんぶをちゃんとしようとあがいていました。でもそのフラッシュバックなのかゆめなのかよくわからないせかいで、りゅうくんのまっすぐなよこがおをみつめていたら、急にあむは「ばく、ばく、」の向こう側にいるあむじしんにきづいたのです。あむは、こうやってりゅうくんと手をつないでいるために、いきようとしているんだ。そう思いました。いきようとしているから、こわいし、きんちょうするんだ。ばく、ばく、するんだ。あむはたちどまって、じぶんでじぶんをだきしめました。笹川さんの言うとおりだったんだ。あむは、あむをちゃんとしようとして、ずっとがんばってたんだね。ずっとあむのそばにいてくれたんだね。そのときあむは、いとおしい、と思いました。あむは心のそこからあむじしんがいとおしかった。この気持ちに気づくためなら、あむの人生におこったいろいろなできごとも、ぜんぶ、ゆるせる気がした。

 

 

 ざらざらしていたせかいはいつのまにか、ふかふかにかわっていました。あむたちはねむっていました。目をあけたときにはカーテンのすきまからうっすら光がさしこんでいました。あむはぼんやりとした暗闇の中で、すぴすぴとねているりゅうくんの手をにぎって、もういちど目をつむりました。つぎに目をさましたときには、りゅうくんが先におきていて、あむの顔をやさしい表情でながめていました。




 

*****



 顔をあげたとき、外はもう真っ暗でした。あむはもう何時間も手紙を書きつづけていたみたい。そろそろりゅうくんのバイトもおわるころです。試験前日で、一人だと不安だから、りゅうくんの部屋に泊まらせてもらう約束をしてました。手紙は、まだ書いたほうがいいことがあるような気もしたけど、いったんおしまいにします。あとは試験がおわって気がむいたら。しゃんぷうに送る予定のちゅ〜るといっしょにテーブルのわきに置いて、服を着替えます。それからまとめておいたにもつを持って、部屋を暗くしました。

 駅にはあたりまえだけどたくさんのひとがいました。電車の窓からは、もっともっとたくさんのひとのすがたが見えました。あむはあした試験をむかえるけど、みんなの生活はそんなこととは関係なしにすすんでました。そう思うとなんだか不思議なかんじです。もしかするといま電車に乗り合わせている人の中にも、明日試験を受ける予定の人がいるのかもしれません。そんなことをかんがえる余裕があるくらい、あむは冷静なのでした。

 

 りゅうくんは、あむがつくよりも先に家に帰ってきてました。ドアをあけるとなんだか食べもののにおいがします。

「おかえり、あむ」とりゅうくんが顔を出しました。いっしょには住んでないけど、いつもみたいに『おかえり』と言ってくれました。

「ただいま」

 りゅうくんはにこにこしてました。あむはそれを見てすぐわかりました。いい報告とか、サプライズがあったりすると、りゅうくんはいつもこの表情をするのです。バレバレなところがこどもみたいでかわいい。

「どうしたの」ってあむは聞いてみる。

「あむのこと応援したくて、いっぱいごちそう用意したよ」

りゅうくんがそう言ってテーブルをひろうすると、そこにはたくさんのお寿司がならんでました。ほんとうに、ものすごい量でした! あむのだいすきなサーモンだけが何種類もはいった天国みたいなセットもあったのです。

「なんか、もう合格したあとみたいだね」とあむはわらいました。ほんとに、そのくらいのいきおいだったので。

「うん。俺も買ってからそう思った」とりゅうくんは頭をかきました。「おなか壊したらまずいから、のこりは明日たべよう」

「りゅうくん、ほんとにありがと」


 お寿司をたくさん食べて、おなかが休まるまでゆっくりすごしました。あむはときどきじぶんの心臓に手をあててみたけど、やっぱりしずかです。なんだかうそみたいでしたが、知らない人の心臓がうめこまれてるんじゃないかと思うくらい静かでした。

 お風呂にはいって、パジャマにきがえます。ベッドで待っていると、りゅうくんもあとからやってきて部屋の電気をけしました。まだ22時だったけど、明日は6時半にはおきて準備をするから、ふたりで早寝することにきめていました。

 このままねむることができたら、とあむはねがっていましたが、やっぱりうまくはいかないものです。部屋がまっくらになると、突然とおくから聞こえてきたのです。ばく、ばく、ばく、と、まるで行進みたいに音はすこしずつおおきくなっていきました。あむは目をつむり、身体にぐっと力をいれて、それが通りすぎるのを待とうとしました。だけど、やっぱりやっぱりうまくはいきません。あるとき、おまえはごみだ、というだれかの太い声が聞こえてきました。あむは身体をびくつかせました。そしてあむはすぐに身体をおこしてりゅうくんに抱きつきました。りゅうくんはおきていて、あむのからだをぐぐっとひきよせてくれました。

「だいじょうぶ?」

「——うん。たぶん」

 りゅうくんはそれから、あむのせなかをゆっくりとなでました。あむはりゅうくんのあいている右手をぎゅっとにぎって、こきゅうのリズムをととのえるのに集中しました。ばく、ばく、と心臓がうごいているのがきこえました。おねがい、しずかにしてて。あとでいっぱいきてもいいから……。

「試験おわったらさ、」とりゅうくんはそのときとつぜん言いました。「こうやって手つないで、いろんなところ歩こうね」

急な言葉にびっくりして、あむは目をまるくひらいて聞き返します。「りゅうくん、散歩がすきなの?」

「なんかね、この前、夢みたんだよ。あむとふたりで手つないで、だれもいない道をのしのし歩いてくのね。景色見たりとかしてさ。おれたちって、そういうのがいちばんにあうと思うんだよなあ」

りゅうくんはそう言ってにっこりわらいました。あむはそんなりゅうくんの顔をしばらく見つめていました。

「うん、そうかもね」

 あむはそう言って、りゅうくんの手をにぎりなおしました。それだけじゃなく、りゅうくんの腕の筋肉にひたいをぐりぐりこすりつけて、りゅうくんのなかにもっともっともぐりこみました。そしてじゅうぶんもぐったなと思ってから目をつむりました。ばく、ばく、はとおざかりはじめていました。あむはりゅうくんの右腕をつうじて、ひろいひろい空につながっていました。あむはそんな空たかくから足もとをみおろして、じぶんをきらいなきもちや、つらいきおくや、ばく、ばく、なんかをながめました。それらはとてもちいさなかわいらしい赤ちゃんのようにみえたのでした。


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