超えていくもの
夜の帳が降り、秋の風が家々の瓦を撫でる。
伊勢野家の居間には、明かりのほのかな温もりと、静けさだけがあった。
「今日は……ありがとうございます。ここまで送ってくれて」
巫鈴が玄関先で頭を下げると、大野博美は少し照れたように微笑んだ。
「ううん。むしろ私の方が助けられてる。明日、ちゃんと、見届けるから」
「うん……」
博美のプリウスが夜の闇に消えていくと、巫鈴は深く息を吸い込み、家の扉をそっと閉めた。
カチリ、と鍵の音が鳴る。
「……おかえり」
台所から兄・真平の声がした。
彼の隣には、沙羅と萌香が座っていた。三人とも何も言わず、湯呑を手にしていた。
「ただいま」巫鈴は上着を脱ぎながら応じる。「……みんな、まだいたんだ」
「まあね」沙羅がぽつりと笑った。「あんたが、何も言わなくても、なんとなくわかるから」
「明日が勝負って顔してたもんね」萌香が小さく茶化すように言う。
巫鈴は苦笑し、椅子を引いて三人の輪に加わった。
「校長と理事長に、プレゼンするの。あの改革案を、正式に通すための、最後の機会」
「……緊張するか?」真平が尋ねる。
「そりゃあ、するよ。でも、今さら怖がっても仕方ない」
「それが言えるなら、大丈夫だ」
短いやりとりの後、会話は自然に途切れた。
沈黙は気まずくなかった。皆が、それぞれの思いを抱えていた。
巫鈴は、いつものようにノートPCを広げ、プレゼン資料の最終調整を始めた。
夜食のお好み焼を持ってきた萌香がそっと言う。「あんまり遅くまでやらないでね」
「うん。ちゃんと寝る」
「プレゼンの資料、よければ目通そうか?」沙羅が声をかける。
「ありがとう。でも、自分で仕上げる。――これだけは、自分の責任で通したいから」
その言葉に、真平がにっこりと笑う。
「……おまえ、ほんと強くなったな」
「そんなこと、ないよ。……でも、もう、無力な子供でいるのはやめる」
巫鈴の声は静かで、けれども確かな熱を帯びていた。
深夜。
家が寝静まった後も、彼女は一人、キーボードを叩いていた。
明日、あの壇上に立つ。
そして、最後の問いをぶつけるのだ。
「――このままの学校で、未来に顔向けできますか?」
思いのすべてを、言葉に込めて。
すべての生徒のために、すべての「潰された才能」のために。
そして、過去の自分のために。
伊勢野巫鈴は、最後の夜を戦っていた。
――那須塩原学園・特別会議室。
壁に掛けられた時計の針が、カチリと音を立てるたびに、空気がわずかに震えた。
窓は厚いカーテンで閉ざされ、光は蛍光灯の白だけ。机の上に並ぶ資料の端が、微かに震えている。教師たちの先頭には校長と理事長。巫鈴と日ノ本文化部それと博美が入室する。
壇上に立つ少女が、一礼した。
伊勢野巫鈴。
その声は小さかったが、静寂を破るには十分だった。
「――私は、教育制度そのものを問い直すべきだと考えています。
特に……クラス制という仕組みについてです」
ざわ、と微かな波が立った。
教師たちが互いの顔を見合わせる。理事長は腕を組み、表情を崩さず、ただじっと巫鈴を見つめている。
「クラスという制度は、管理には向いていますが、学びには向いていません。
人間の成長は一様ではありません。理解のスピードも、興味の方向も違う。
それを一つの箱に押し込め、同じスケジュールで学ばせる――
それは教育ではなく、同調の訓練です。」
淡々と、それでいて刺すような声音。
空調の音さえ止まったようだった。
「……確かに一理ある意見です。」
校長が慎重に口を開く。
「しかし、クラス制には生徒同士のつながりや、集団意識を育てる面も――」
巫鈴はその言葉を、静かに遮った。
「つながりは、押しつけによって生まれるものではありません。むしろ今の制度は、逃げ場のない関係が生まれてしまう。いじめ、孤立、自己否定――すべて、固定された人間関係が原因です。」
重い沈黙。
理事長が指を組み替えた。
「……では、君の代替案は?」
巫鈴はスライドのリモコンを押した。
白いスクリーンに映し出された言葉。
『選択単位制+教科別ホームルーム制』
「各教科ごとに履修時間を自由に選び、自分の理解度や関心に応じた時間割を設計する。それが、未来の教育です。」
教師たちの間に再びざわめきが走る。
「しかし、教員の負担が――」
という声が上がると、巫鈴はその声の方を見据え、静かに言った。
「その負担の多くは、本来、教育とは無関係な業務によるものです。生活指導、服装チェック、校外での見回り……。教師は、監視者ではありません。」
誰かが息を呑んだ音がした。
巫鈴は一歩、壇上の前に出た。
「校外で問題が起きたとき、なぜ学校に連絡が来るのでしょう?それは、学校が責任を持つものとして、社会が過剰に期待しているからです。でも――校外まで先生方が責任を負う必要なんて、ありません。」
会場の空気が変わった。
博美が、わずかに目を見開いた。理事長は、微動だにしない。
「……では、君の言う教育の成果とは何を意味するのですか?」
校長が静かに問う。
巫鈴はその目をまっすぐに受け止め、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「頭のいい人間が増えるというのは、国立大学への進学率が上がるという意味ではありません。」
言葉を一拍置く。
会議室に、時計の針の音だけが響いた。
「それは――この国の国力になる人間が増えるということです。自分の頭で考え、学び続け、社会を動かす力を持つ人間。それこそが、この国にとっての財産であり、教育の目的のはずです。」
沈黙。
重く、長い沈黙。
理事長の指が、ほんの僅かに動いた。
やがて――
ぱち、と一度だけ拍手の音が響いた。
真平だった。
彼の掌の音が、静かな波紋のように広がっていく。
美優が続き、沙羅、萌花、琴美、そしてシャオが「パォー!」と叫ぶ。
その瞬間、緊張に満ちていた空間が、音もなくほどけた。
理事長はゆっくりと目を閉じ、短く呟いた。
「……一部だけでも、風穴を開けてみる価値はありそうだ。」
巫鈴は小さく頷き、深く頭を下げた。
拍手の音が、彼女の胸の奥に沈んでいく。
それは勝利の音ではなかった。
始まりの音だった。
夕暮れが校舎の壁を赤く染めていた。
会議室を出た人々の足音が遠ざかり、那須塩原学園の旧館には静けさが戻っていた。
巫鈴は、古い資料室の扉を開けた。
窓際のテーブルに、市子先生がいた。湯気の立つ紅茶のカップが、傾く陽を受けて淡く光っている。
市子は、髪を耳にかけながら微笑んだ。
「あなたの言葉は、鋭くて、正しい。でも……とても痛いのも、事実ね」
巫鈴は黙って立ち尽くし、やがて小さく尋ねた。
「……私は、黙っていた方がよかったですか?」
市子は首を横に振った。
「いいえ。あの場には揺さぶりが必要だった。それをできたのが、あなたなのよ、伊勢野さん」
紅茶を置き、窓の外へ目をやる。
グラウンドの隅に、秋の風が落ち葉を転がしていた。
「教師というのはね、不思議な立場なの。愛をもって教えようとすれば、生徒から憎まれることがある。制度に守られていれば、次第にぬるま湯に沈んでいく。でも、何があっても教壇に立ち続けなければならない。……その矛盾に疲れる先生も、少なくないのよ」
巫鈴は、ゆっくり息を吸い込んだ。
「……それでも、先生は辞めなかったんですね」
市子は、柔らかく笑った。
「私は日本史を教えているけれど、歴史ってね、反乱と改革の連続なの。時に血を流し、時に涙を流して、それでも次の時代を信じた人たちがいた。――あなたは、その希望側の人よ。そして私は、見届ける側でいたいの。あなたのような生徒が、教師に殺される社会にはしたくないから」
その言葉に、巫鈴は静かに頭を下げた。
目の奥に、微かな光が揺れる。
市子は立ち上がり、紅茶の香りをまといながら近づいた。
「伊勢野さん。あなたは鋭い剣を持っている。でも、時にはその剣を鞘に収める勇気も持ってね。剣は、使うためだけのものじゃない。ただ見せるだけで、世界を変えることもあるのよ。」
夕陽が二人の肩を照らしていた。
その光の中で、巫鈴は初めて、自分の中の剣が守るためのものに変わっていることに気づいた。




