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灯芯

 部室の空気は静かで、あたたかかった。

 美優がそっとお茶を差し出すと、巫鈴は「ありがとう」とだけ言って、しばらく湯気を見ていた。

「……私が那須塩原学園に入ったのは、正直、もう目立たずに過ごそうと思ってたから」

「えっ、巫鈴が?」

 琴美が素で目を見開く。

「本気よ」

 巫鈴は湯呑を両手で包んだまま言う。

「教師にも同級生にも、なるべく関わらない。適当にやって、図書館で静かに過ごす。それで終わるはずだった」

 小さく息を吐く。

「……でも、無理だった。あの人に出会ってしまったから」

「……あの人?」

 沙羅が聞く。

 巫鈴は頷き、視線を少し遠くへ置いた。

 湯気の向こうで、時間がひとつ後ろへずれる。


 中等部一年。

 新しいクラス。

 新しい時間割。

 新しい空気。

 巫鈴は、関心を持たないふりをしながら、何もかも正確にこなしていた。

 教師に逆らわない。

 媚びない。

 成績は常に首席。

 努力は見せない。

 答えは正確。

 笑顔は添えない。

(頭がいい、なんて言葉に価値はない)

(結局、気に入られるか、空気を壊さないか。それだけで決まる優等生だ)

 世界と線を引いて生きる。

 知だけを冷たく磨いていく日々だった。

 ――ある日、学年集会があった。

 体育館の空気は、少し湿っていた。

 壇上にひとりの女子生徒が立つ。

 長い黒髪。

 乱れのない制服。

 まっすぐな背筋。

 マイクの前で、彼女は話し始めた。

 新しい学習支援制度について。

 説明は端的で、論理は正確だった。

 なのに、ただ正しいだけではなかった。

 言葉が進むたびに、ばらばらだった場の空気が勝手に整っていく。

 名前は、大野博美。

 巫鈴は、気づいたらその声を追っていた。

(……何?)

 胸の奥が、かすかにひりつく。

(これは、場に合わせる喋り方じゃない)

 そこで、初めて分かった。

(場を作ってる)

 空気を読むのではない。

 空気に名前を与え、手綱を取って進めていく話し方だった。

 反論を消すのでも、黙らせるのでもない。反論の居場所まで残したまま、流れを作る。

 知性は知識の量だけではない。

 そのことを、巫鈴はその日ようやく知った。


 放課後。

 図書室の奥の、陽だまりの机。

 巫鈴が古い政治哲学書を抜いた瞬間、隣の棚から伸びた手が同じ背表紙に触れた。

 視線が交差する。

「それ、次に読むつもりだったの」

 先に言ったのは博美だった。

「……お先にどうぞ、伊勢野さん?」

「なんで、私の名前を?」

 博美は小さく笑った。

「図書館の職員さんが言ってた。あの子、知の亡霊よって」

「亡霊、ね……妙に納得」

「私はそう思わない」

 博美は、巫鈴をまっすぐ見た。

「あなたは、知の炎に見える」

 一瞬だけ、巫鈴は動けなかった。

(……今、私は、この人に見られている)

 成績ではなく。

 首席という記号でもなく。

 挙手の速さでもなく。

 もっと内側を、言葉にされた気がした。


 数日後の特別授業で、教師が歴史の解釈を誤って説明した。

 巫鈴は迷いなく手を挙げた。

「その見方は、戦後の学派的には――」

 教室がざわつく。

 すると博美が、少し遅れて別角度から補足した。

「別の立場からは、統治機構の空白とも分析できます。両論併記した方が、理解は深まると思います」

 教師が眉を寄せる。

「……ふたりとも優秀なのは分かるが、教室は議論の場ではない」

 静寂が落ちた。

 その帰り道。

 廊下で博美が言った。

「黙っているのが賢いと思ってた」

 巫鈴は足を止める。

「でも、伊勢野さん。あなたは黙らなかった」

「私はただ、自分が正しいと思っただけよ」

「正しいを貫くには、勇気がいる」

 博美はそう言った。

「あなたには、それがある」

 巫鈴は何も返せなかった。

 悔しいのではない。

 負けた感じとも違う。

 ただ、自分の中に今までなかった扉が開いたのが分かった。

 その夜、真平に言った。

「……今日ね。初めて、誰かに敵わないって思った。でも、悔しくない」

 真平は新聞から目を上げもせずに言った。

「そりゃ、尊敬だな」

 巫鈴は黙って頷いた。

 窓の外で、春の星がひとつだけ瞬いていた。


 時間が部室へ戻る。

 巫鈴は湯呑を置いた。

「二年に上がった春、博美さんに議事録を手伝ってって言われたの。……実質、生徒会室に引っ張られた」

「スカウトじゃない!」

 琴美が机を叩く。

「最初は疑ってた」

 巫鈴は目を伏せた。

「期待して、裏切られるのが一番嫌だったから」

「でも?」

 勇馬が静かに促す。

「でも、あの人は一度も私を否定しなかった」

 一拍置いてから、

「優しくもなかったけど」

 萌香が思わず笑う。

「どっちなのよ」

「要求が厳しかったの」

 巫鈴は少しだけ口元をゆるめる。

「あなたの言葉は鋭い。だから、刃の向きを間違えるなって。相手を切るな。次の場を切り開けって」

 勇馬が小さく息を呑む。

「……今の巫鈴さん、そのままですね」

「そう」

 巫鈴はうなずいた。

「論理の組み方だけじゃない。人を動かす言葉の選び方を、あの人に叩き込まれた」

 美優がそっと言う。

「それで……変われたんですね」

「うん」

 巫鈴は答えた。

「もう一度、人を信じてみようって思えた。だから今、伝える側に立ててる」

 誰も拍手しなかった。

 その代わり、部室の中で湯気だけが静かに揺れていた。

 そのとき、巫鈴のスマホが震えた。

 画面に一行だけ浮かぶ。

【博美】少し付き合いなさいよ。今すぐ。

 巫鈴の口元が、わずかにゆるむ。

 立ち上がり、カーディガンを羽織る。

 仲間たちは何も聞かない。

 ただ、それぞれの仕方で手を振った。


 職員用駐車場は、もう夕闇に沈みかけていた。

 白いプリウスのそばに、博美が立っている。

「来たわね」

 軽く手を挙げ、そのまま運転席へ乗り込む。

「少しドライブ。……というより、作戦会議ね」

 エンジンが静かにかかる。

 ヘッドライトが夕闇を割り、車は学園の坂をゆっくり下っていった。

 しばらく、沈黙が続いた。

 窓の外の灯りを見ながら、巫鈴が先に口を開く。

「……怖いです」

 博美は驚かなかった。

「でしょうね」

 それだけ言ってから、ハンドルを握る手を少し直す。

「今まであなたが相手にしてきたのは空気だった。でも、これからは利害も相手になる」

「利害……」

「教師の負担、保護者の不安、学校の責任、世間の視線。正しさだけでは動かない。けれど、正しさがないと崩れる」

 信号が赤になる。

 車が止まり、街灯の光がふたりの横顔を照らした。

「巫鈴」

「はい」

「改革は、制度を変えることそのものじゃない」

 博美は前を見たまま言う。

「誰が何を信じて、何を手放すかを決めることよ」

 鞄から、薄い紙束を取り出す。

 ホチキスで留められた、整った文字だった。

「運営理事会向け。要望書の叩き台。あなたの言葉を、通る言語に翻訳した」

 巫鈴の喉が小さく鳴る。

「……博美さん」

「感謝はいらない」

 博美は紙束の端を指で叩いた。

「その代わり、宿題」

「はい」

「一週間で、次の三つを揃えなさい」

 声は穏やかだった。

 でも内容には逃げ道がなかった。

「校外対応の受け口案。誰が最初に受けるか」

「先生の時間を戻す時間割案。どこを削って、どこへ返すか」

「反対の想定問答。不安をどう扱うか」

 巫鈴は紙束を見つめ、それから短くうなずいた。

「やります」

 博美はそこで初めて少しだけ笑った。

「いい」

 一拍。

「あなたは燃えやすい」

 信号が青に変わる。

「だから、燃料になるな」

 車がまた動き出す。

「灯す側に回りなさい」

 夜の街の灯りが、前方へ静かに伸びていた。

 未来の地図というより、通るべき手続きの列に見えた。

 巫鈴は紙束を胸に抱える。

 知の炎は、まだ消えていない。

 でも今は、誰かを焼くためのものではなかった。

 灯すための火になりつつあった。

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