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波紋の朝

 翌朝、職員室の空気はいつもより少しだけ硬かった。

 硬いといっても、怒号が飛ぶような種類のものではない。

 湯気の立つマグカップ。

 めくられる出席簿。

 パソコンの起動音。

 新聞を折る音。

 そういう日常の音は揃っている。

 けれど、その下で何かが引っかかっていた。

 視聴覚ホールでのプレゼンの話題は、すでに教師たちの間を一巡していた。

「見ました?」

「途中からですが」

「ずいぶん人が集まっていたようですね」

 口調だけなら穏やかだった。

 だが、「プレゼン」ではなく「あれ」と呼ぶ者が二人いて、その呼び方だけで距離が分かる。

 担任は湯呑を置きながら、上唇だけを少し持ち上げて言った。

「まあ、生徒が意見を持つこと自体は悪くありません」

 一拍置いてから、

「ただ、少しやり方が派手でしたね」

 社会科の大河原が鼻で息を鳴らす。

「派手、で済む話ですか。あれは半分、扇動でしょう。制度批判を生徒の口でやらせるのは感心しませんな」

「やらせる、じゃなくて本人が考えたんじゃないですか」

 家庭科の岡村が言った。

「なお悪い」

 大河原は即答した。

「勝手にやる生徒を止められないなら、教師の統率が効いていない証拠です」

 窓際で資料を整理していた市子が、顔を上げずに言った。

「統率、ね」

 その二文字だけで、職員室の空気が少し揺れた。

「授業は軍隊じゃありませんよ、大河原先生」

 大河原の眉が動く。

「秩序は必要です」

「ええ、必要でしょうね」

 市子はそこでようやく顔を上げた。

「でも、秩序と沈黙は違います」

 何人かが手を止めた。

 その沈黙を、担任が咳払いで切る。

「ともかく、提案書は職員会議に回します。正式な手順は踏ませますので」

 言い方は穏やかだった。

 けれど、市子には分かった。

 回すとは、必ずしも進めるという意味ではない。

   

 同じころ、教室では別の波が広がっていた。

 巫鈴が戸を開けると、昨日と同じように何人かが顔を上げた。

 ただ、今日は視線を逸らすまでが少し長かった。

 見られている。

 敵意だけではない。

 判断を保留した観察。

 それが、かえって厄介だった。

 巫鈴は席に着き、鞄から教科書を出す。

 周囲の空気は、露骨には刺してこない。

 だが、距離の測り方が変わっている。

 後ろの席で、誰かが言う。

「昨日、動画見た?」

「見た。なんか、すごかったけど……」

「花園会長が立ったのが一番びっくりした」

 別のところでは、

「正論っぽいけどさ、あそこまでやる?」

「でも、ちょっと言ってること分かる」

「分かるけど、関わると面倒そう」

 そのどれもが半歩引いた声だった。

 賛成も反対も、まだ責任を持たない場所にいる声。

 巫鈴はノートを開きながら思う。

 これが波紋なのだ。

 中心から離れるほど、輪郭はぼやける。

 けれど、確かに広がっていく。

 前の席の女子が、振り返るでもなく小さく言った。

「昨日の……ほんとに自分で考えたの?」

 問いかけというより、確認に近い声だった。

「ええ」

 巫鈴は答える。

「文化部のみんなにも手伝ってもらったけど、言葉は自分で選んだ」

 女子は少しだけ黙った。

「……そっか」

 それだけ言って、前を向く。

 拒絶ではない。

 かといって、味方でもない。

 それでも昨日までよりは一歩、近い場所だった。

   

 一限と二限のあいだ、翔吾は教室の隅で小さなノートを開いていた。

 発言数。

 遮り。

 笑い。

 今朝はそこへ、新しい項目が加わっている。

 視線。

 言いさし。

 途中で止まる会話。

 数字にしにくいものほど、あとで忘れられる。

 だから先に書いておく。

 翔吾は、もうそれを理解していた。

「おはよう」

 巫鈴が通りすがりに言う。

「お、おはようございます」

 翔吾は慌ててノートを閉じかけた。

 けれど、途中で思い直して開いたままにした。

 それだけでも、前より少し変わっていた。

「昨日の記録、あとで見せて」

「はい。あの……コメント欄の反応も、少し分類してみました」

 巫鈴が足を止める。

「分類?」

「賛同、自己体験、傍観、反発、冷笑……まだ雑ですけど」

 巫鈴は一瞬だけ目を細めた。

「いいわね」

「えっ」

「その雑さ、大事よ。最初から綺麗な分類なんてないもの」

 翔吾は何か言いかけて、結局うなずいた。

 褒められたのに近いのだと理解するまで、少し時間がかかった。

   

 昼休み。

 生徒会室では、花園凌央が一人、昨日のプレゼン資料を読み返していた。

 机の上には印刷された提案書。

 脇には会議用のノート。

 そして、文化部の動画を止めたままのタブレット。

 扉がノックされ、副会長の今井律人が顔を出す。

「会長、例の件、どうします?」

「例の件じゃ曖昧だね」

 凌央は顔を上げる。

「伊勢野さんの提案について、だろう?」

「……はい」

 律人は少しだけ苦笑した。

「正直、職員会議待ちにした方が安全だと思います。今ここで生徒会が前に出ると、かなり面倒です」

「安全、か」

 凌央はその言葉を繰り返した。

 否定もしない。

 肯定もしない。

「安全であることと、役目を果たしていることは、同じじゃないよ」

 律人は黙る。

「彼女の提案をそのまま通すかどうかは別として、議題に上がった以上、読む責任はある。質問する責任もある」

 凌央は資料の端を指で叩いた。

「それをやらずに職員会議待ちは、生徒会の仕事じゃない」

 言葉は静かだった。

 だが、その静けさは巫鈴のものと少し似ていた。

「今日の放課後、文化部に行く」

「え?」

「資料の確認と、追加ヒアリング」

 凌央は立ち上がる。

「話すなら、本人と話したほうが早い」

「……教師側に睨まれますよ」

「だろうね」

 凌央は淡々と言った。

「だから、行く価値がある」

   

 放課後の部室には、鉄板の匂いではなく紙の匂いが満ちていた。

 机の上には提案書、集計表、ヒートマップ、台湾事例の要約。

 いつもの雑多な部室ではある。

 だが今日は、そこに簡易な作戦本部の顔があった。

「これ、こっちの数字と揃います」

 翔吾がノートを差し出す。

「ありがとう。ズレがないなら十分使える」

 巫鈴が受け取る。

 そのとき、扉が二回ノックされた。

 部室の空気が少し止まる。

「どうぞ」

 琴美が言う。

 開いた扉の向こうにいたのは、花園凌央だった。

 一瞬、誰も動かなかった。

 部外者というだけではない。

 場違いなほど整った空気を連れてきたからだ。

「失礼します」

 凌央は軽く頭を下げる。

「生徒会長の花園です。昨日の件で、少し話をしたくて」

「うわ、本人来た」

 萌香が小声で言う。

「聞こえてるよ」

 凌央が即座に返した。

 萌香が目を丸くし、ズーハンが「GG」とだけ言う。

 巫鈴は椅子を引いた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 凌央は資料の山を見て、それから部室全体を見回した。

 ポスター。

 ファミコン。

 紙コップ。

 統計表。

 混沌としているのに、不思議と全部が同じ空気に収まっている。

「……思っていたより、ちゃんとしてる」

「失礼ね」

 琴美がすぐに返す。

「思ってたより、って何よ」

「昭和居酒屋みたいな部室だとは思ってた」

「半分当たりじゃない」

 沙羅が冷静に言う。

 小さな笑いが起きて、場が少しだけほどけた。

 凌央は本題に入る。

「提案書、全部読みました」

 その一言で、部室の温度が戻る。

「率直に言うと、筋は通っている。少なくとも、感情だけの反抗ではない」

「それはどうも」

 巫鈴が言う。

「ただ、通すには弱い場所もある」

 凌央は提案書の一ページを指で押さえる。

「月次公開の負担。記録の客観性。教師側の事務負担への返答。ここは突かれる」

 巫鈴はすぐに言い返さなかった。

 その代わり、彼の指が止まっている箇所を見た。

「反対のための反対じゃないのね」

「君もそうだろう?」

 視線が合う。

「通したいなら、守りも要る」

 凌央は言う。

「理想だけでは、会議の机は動かない」

「……ええ。わかってる」

 巫鈴は小さくうなずく。

「だったら、追補を作るべきだ」

 凌央は続けた。

「試験導入。限定運用。協力教員の範囲。負担増の見積もり。反対派は、たぶんそこを突く」

「会長、なんでそこまでしてくれるんですか?」

 翔吾が思わず口を開いた。

 凌央は、彼の方を見た。

「役目だから」

 そう言ってから、少しだけ表情をやわらげる。

「……半分は、それ。もう半分は、昨日の問いがちゃんと残ったからだよ」

 部室が静かになる。

「僕は、生徒会長として声を受ける側にいる。でも実際には、声は上がる前に消えていることが多い。昨日、君たちはその途中を見える形にした」

 凌央は巫鈴を見る。

「だから、無視しない」

 それは宣言ではなかった。

 もっと静かな、しかし逃げない約束だった。

   

 日が少し傾いたころ、追補案の骨組みが机の上に並んでいた。

 試験導入は一部学年のみ。

 議事録は簡略版から開始。

 発言機会配分はモデルクラスで試行。

 月次公開は学内限定から始める。

「これなら、いきなり全部変える気かって反発は少し減る」

 凌央が言う。

「後退にも見えるけど」

 巫鈴が返す。

「そうだね。でも、前に進むための後退はある」

 真平が窓際から口を挟んだ。

「勝とうとするな。通そうとしろ、ってやつだ」

 凌央がそちらを見る。

「兄?」

「そう」

 巫鈴が短く答える。

「いいこと言うね」

「たまにね」

 巫鈴が言う。

 そのやり取りに、部室の誰かが小さく笑った。

 外では、九月の終わりの風が校舎をなでている。

 プレゼンの熱は、もう拍手の中にはなかった。

 その代わり、紙の上に移り始めていた。

 制度は熱だけでは動かない。

 数字と文言と段取りが要る。

 巫鈴はようやく、その入口に立っているのだと知った。

   

 帰り際、凌央は扉の前で一度立ち止まった。

「伊勢野さん」

「なに?」

「君は、たぶんこれからもっと嫌われるよ」

 あまりにも率直な言い方に、萌香が「うわ、言うなぁ」と顔をしかめる。

 でも凌央は続けた。

「目立ったからじゃない。仕組みに触ったからだ。人は、間違いを指摘されたことより、慣れていた配置を動かされることのほうを嫌う」

 巫鈴は黙って聞いていた。

「だから、支持より先に、嫌悪が来ることもある」

「ええ」

 巫鈴は言う。

「それでも、やめないわ」

「だろうね」

 凌央は少しだけ笑った。

「だから、手順を間違えないで」

 巫鈴の目が少し動く。

「正しいことでも、通し方を誤れば、正しく見えなくなる」

 部室が静かになった。

「僕は、その危険を見ている」

「……忠告として受け取るわ」

「それでいい」

 凌央は軽く頭を下げた。

「では、また」

 そう言って去っていく背中を、誰もしばらく見送っていた。

 扉が閉まってから、萌香が大きく息を吐く。

「なにあの人。すっごいちゃんとしてるのに、ちゃんと怖い」

「GG。上に立つやつの目だな」

 ズーハンが言う。

「でも、敵じゃないですね」

 美優が小さく言う。

「今はね」

 沙羅が冷静に返す。

「味方とも限らないけど」

「それでいいのよ」

 巫鈴が言った。

 皆が彼女を見る。

「最初から全部わかり合える人なんていない。ちゃんと話せる人がいるだけで、十分よ」

 窓の外では、夕焼けが雲の端を薄く染めていた。

 今日もまだ、何も決まってはいない。

 それでも昨日よりは、少しだけ具体的に前へ進んでいる。

 拍手ではなく、議題として。

 共感ではなく、設計として。

 波紋は、もう消えずに広がり始めていた。

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