怖いまま、伝える
――夜。
窓の外は群青に沈み、部屋の明かりはスマホの白だけ。
巫鈴は机に肘をつき、流れ続けるコメントの帯を無言で追っていた。
コン、と扉。
「……どうぞ」
湯気の立つ湯呑を二つ載せた盆を手に、真平が入ってくる。
「寝る前に、少し休め。ほうじ茶、熱め」
「ありがとう。……お兄ちゃん」
「おまえは相変わらず感情を隠すのがうまいな」
ベッド端に腰を下ろした真平が湯呑を渡す。両手で受けた巫鈴の指先に、香ばしさが移った。
「……あれ、ずいぶん静かだったでしょ?」
「静かだった。けど、ちゃんと届いた。あの静けさは“黙って聞いた”静けさだ」
巫鈴はわずかに頷き、湯気の向こうを見据える。
「途中で、源内の名前を出したとき……空気が少し固まった。『難しいこと言う』って思われたかも」
真平は肩をすくめる。
「そう感じた奴もいたろうな。でも“怒ってるのに落ち着いてる”人間を初めて見た奴も多い。怒鳴らず変えようとする人間は、世の中に案外少ないから」
巫鈴の目がほどける。
「……ねえ。わたし、間違ってなかった?」
真平はしばし湯気を見つめ、静かに言う。
「間違ってたら拍手は起きない。“共鳴”だ。人の心は正しさより本気に反応する」
「……そっか」
立ち上がりかけた真平が振り返る。
「ただし、燃えすぎるな。火種は大事に扱え」
「わかってる。……これ、冷めるまで飲むね」
「おう。冷めるころには、次の策が浮かんでるだろうけどな」
扉が閉まる。ほうじ茶の香りと、微かな拍手の記憶だけが揺れた。
「明日は先生相手にプレゼンか……大人相手、正直大丈夫か?」
巫鈴は湯呑を見つめ、口の端だけで笑う。
「正直、怖い」
「珍しいな。おまえが“怖い”なんて」
「だって、あの人たちは“変えられる側”。子どもが制度を語るって、生意気って思われてもおかしくない」
真平は腕を組み、短くうなずく。
「そう思う教師もいる。けど、おまえが向いてるのは“人”じゃなく“仕組み”だ。なら立場は関係ない」
「……うん。誰が悪いかじゃなく、“次”を失わない設計を話す。怒りで戦えば相手が増える。設計で戦えば、仲間が増える」
「十六でその言い回し。伊勢野家の看板娘だな」
「看板は、風で落ちるよ」
「だから留め具を増やせ。――設計でな」
静寂の中、湯気だけが細く揺れた。
巫鈴は息を整えて顔を上げる。
「……怖いまま行く」
「いいプレゼンをしてこい。“先生”たちに教えてやれ。教室を動かすのは、誰かの勇気だって」
湯呑を包む手が少し温もりを取り戻す。
「明日、怖いまま――伝える」
運命の放課後。
事務員に案内され、会議室の扉をくぐる。整然と並ぶ椅子。書類の擦れる音、ペン先の小さなクリック。
エアコンの送風が、言葉より先に喉を乾かす。
学園の教師たちの視線が、一人の十六歳に集まっていた。
巫鈴は前へ出て、静かに一礼し、語り始める。
「まず、確認させてください。校外での出来事――たとえば万引き。これは刑法に触れる犯罪です。それが、なぜ“学校に連絡”され、学校がその子を指導しなければならないんでしょうか?」
ざわ、と空気が揺れる。
「家庭と本人の問題であって、学校が“責任”を問われる筋合いはないはずです。それなのに、問題が起きれば“学校のせい”。いつから、そんな全方位型の責任体制になりましたか」
視線が、聴衆を一人ひとりすくい上げる。
「教師の皆さんを責めているわけではありません。むしろ逆です。“何でも責任を負わされる立場”に、教師という仕事を追い込んだ――構造の話です」
「生活指導、服装検査、校外の見回り……それらは“教育”ではなく、“治安維持”の役割に近い。本来、教師とは“教える人”のはずです。ならば――その時間を“教えること”に充てるべきではありませんか?」
一枚の資料を掲げる。
「校外事案で“指導が足りない”と批判された先生のアンケートに、こうありました。『もう人を育てるのが怖い』。――私は、これが悲しい」
一拍。
「先生たちが、真に“教える”ことに集中できる環境を取り戻す。それが、私たちの未来に直結すると信じています」
会場の温度が、静かに移動する。
司会の教頭が咳払いしかけたとき、中央の生徒席で手が挙がる。
中等部・生徒会副会長、今井律人。
「議長、発言を求めます」
許可が下りる。
「伊勢野さんの意見に賛成します。僕の担任も、SNSトラブルで保護者に責められ、職員室で泣いていました。あれが本当に先生の責任か、疑問です。今、先生たちに“萎縮”が起きている。叱ることも、指導もできない。だったら、少なくとも“過剰な責任の背負わせ方”は見直すべきだと思います」
生徒席のあちこちで、小さな拍手が弾けた。
巫鈴は、その音を受け止めるだけだった。
保護者席の一角から、ためらいがちに手が上がる。
「共働きで、夜まで家にいない家庭もあります。『とりあえず学校に』って電話するのは、頼れる相手が他にないからで……」
巫鈴はそちらへ向き直る。
「その“不安”を否定しません。だからこそ“再配置”です。学校が全部を受けるのではなく、校外支援の窓口と連携して振り分ける。先生は“教育”に専念できる――その仕組みを作りたい」
舞台袖。
日本史教師で文化部顧問の織田市子が、腕を組んで待っていた。
「ふふ……あなた、本当に“恐ろしい子”ね」
「先生、それ昭和の少女漫画」
「引用くらい許して。――でも、泣きそうだった。“先生を責めない”って言葉。私たちが一番言ってほしかった」
「言わなきゃ、先生が壊れる。残るのは“授業をこなすだけの大人”。それは違う」
「……壊れたの、見たのね」
「小学校でも、中学でも」
「あなたが教師になったら面白いけど」
「わたしは、教師を救う側に回りたい。“先生”という名を、社会が守るように」
夕方、大学の中庭。
法学部の大野博美は、スマホに映る巫鈴の演説をまた最初から見ていた。
「また見てるんですか」同じ記録班の三浦が肩越しに覗く。
「何度でも見たくなる。この子、政界に行くかもしれない」
「マジっすか」
「この一言が完璧」
《先生たちが、真に“教える”ことに集中できる環境を取り戻す》
「“敵を作らない改革”は一番難しい。彼女はやってのけた」
「じゃあ博美さんは、見てるだけ?」
博美は静かに笑い、鞄から紙束を出す。
那須塩原学園・運営理事会向け要望書案。
「見てるだけじゃない。“手札”は切ってある」
午後、会議室。重い扉が低く響く。
議長席の向こうに“意思決定者”たち。硬い表情の列の中に、ひとりだけ空気の違う人物——大野博美。姿勢は無駄がなく、学生というより若手官僚の輪郭。
理事長が口火を切る。
「伊勢野さん。大きな注目を集めています。“教育現場の責任の見直し”は踏み込んだ提案です」
「“責任を免れろ”とは言っていません。“責任の再配置”を求めています」
「再配置?」
「校外トラブルは第一義的に保護者と社会の問題です。それを自動的に“学校の指導不足”へ帰す構造を見直す。先生は“教育”に集中できる。その方が、生徒にとっても良い」
保護者代表が反論する。
「でも、何かあれば学校に電話するのが普通でしょ? そのほうが安心――」
そこで博美が口を開く。
「“普通”は、正しさの保証ではありません」
空気が切り換わる。
「法学部の立場から“リスクと責任の構造”を分析しました。現状、教師が背負う責任の多くは、法律上の“教育職務”の範囲を超過しています。労務環境としても危うい。是正しなければ現場は持ちません」
巫鈴の胸に、熱が灯る。
(この人は、制度の内側から、同じ景色を見ている)
夜の職員室。
織田市子が同僚に問う。
「……伊勢野さんの話、どう思った?」
「正論。だけど怖い。今までのやり方が揺らぐ」
市子は微笑む。
「揺らいだっていい。人は、揺れなきゃ変わらない」




