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プレゼンの火蓋

 九月の空は高く、薄かった。

 真夏の熱がまだ地面の奥に残っているのに、光の角度だけが先に秋へ行っている。講義棟三階の視聴覚ホールへ向かう廊下の窓から、校庭のケヤキが風に揺れるのが見えた。

 放課後。

 講堂の時計は、午後四時を指していた。

 視聴覚ホールには、予想以上の生徒が集まっていた。

 高等部だけではない。中等部の姿もある。噂を聞いて来た者、興味本位の者、何となく席に着いた者。ざわめきは軽く、まだ責任を持たない野次馬の音だった。

 壇上の脇で、巫鈴はノートパソコンに指を置いていた。

 服装は落ち着いていた。

 紺に近いグレイのジャケットに、白いシャツ。目立つための装いではなく、場に言葉だけを残すための服だった。

 深呼吸はしなかった。

 そういう儀式に頼ると、自分が揺れる気がした。

 客席の後方には、文化部の面々が散って座っている。

 琴美は腕を組み、萌香は落ち着かなそうに膝を揺らし、ズーハンは壁際でじっと会場を見ていた。翔吾はノートを開き、何かあればすぐに記録できるようにしている。真平だけは一番後ろにいて、表情の読めない顔で壇上を見ていた。

 巫鈴は一枚目のスライドを映した。

 白地の中央に、ただ一文。

 ――あなたは、今日、学びましたか。

 ざわめきが、少しずつ薄れていく。

「本日は、お集まりいただきありがとうございます」

 マイクは使わなかった。

 大声ではない。けれど、言葉が前へ出る声だった。

「私は今日、皆さんに答えを持って帰ってほしいわけではありません」

 一拍置く。

「問いを持って帰ってほしいのです」

 視聴覚ホールの空気が、そこでようやく壇上を見る空気に変わった。

「今の学校制度には、多くの前提があります。たとえば学年という区切り。たとえば、毎日すべての教科を同じ速度でこなすことが当たり前だという考え方」

 巫鈴は、客席の反応を追いすぎないようにしながら言葉を重ねていく。

「それが誰のための制度なのか。私たちは、もう一度考える必要があります」

 スライドが切り替わる。

 文化部が集めたアンケート結果だった。

 棒グラフ。自由記述。質問しづらい空気。意見を言えない教室。否定されることへの恐れ。数は多くない。けれど、少ないから無視していい種類のものでもなかった。

「現状でいい、という人もいるでしょう」

 巫鈴は言う。

「でも、現状に苦しんでいる人がいるなら、その声に耳を傾けるのが学び舎の役目のはずです」

 自由記述の一部を、彼女は読み上げた。

「授業でわからないところがあっても、質問しにくい空気がある」

「先生に否定されそうで、意見が言えない」

「目立つと浮く」

 抑揚をつけすぎず、一つずつ読む。

 言葉そのものに温度があるから、余計な演出はいらなかった。

「私は、これを個人の弱さの問題だとは思いません」

 巫鈴は次のスライドへ進める。

 そこには、発言機会の偏りと満足度の乖離を示した図が出た。

「結果だけが求められて、過程への支援は置き去りにされてきた。声を上げた生徒が浮く教室では、学ぶ自由は最初から欠けています」

 最前列で、教師らしい男が腕を組み直した。

 隣の同僚と小さく視線を交わす。

 巫鈴は見た。

 見たが、そこに引っぱられなかった。

「努力は、正しく扱われて初めて意味を持ちます。私は、学ぶことを競争の道具にはしたくありません」

 会場は静かだった。

 静かだが、拒絶ではない。耳を澄ませている静けさだった。

「私は、戦いたいわけではありません」

 その一言で、わずかに空気が揺れる。

「誰かを責めたいのでも、否定したいのでもない。ただ、こう問いかけたいのです」

 スライドを消す。

 壇上の照明が少しだけ明るくなる。

「――これで、いいのかと」

 沈黙が落ちる。

 長くはなかった。

 けれど、短くもなかった。

 最初の拍手は、一人の女生徒からだった。

 それが二人、三人と増え、やがて会場のあちこちへ広がっていく。

 巫鈴はその音を聞きながら、安堵しないようにしていた。

 拍手は賛成とは限らない。感心と同じくらい、距離でもある。

 そのとき、最前列から一人の男子生徒が立ち上がった。

 空気がまた変わる。

 整った制服。胸元のバッジ。姿勢のいい立ち方。

 彼を知っている者たちの間で、小さなどよめきが起こった。

「花園凌央、総生徒会長。高等部三年」

 名前を名乗る必要は、本当はなかった。

 それでも名乗ったのは、立場を隠さないためだと分かった。

「伊勢野さん。素晴らしいプレゼンテーションでした」

 声は低く、よく通った。

 聞かせる訓練を受けた人間の声だった。

「率直に、感銘を受けました」

 会場の空気が、少し緊張する。

「ひとつ、質問させてください」

 巫鈴は小さくうなずいた。

 花園凌央の目はまっすぐだった。

 敵意ではない。試しているのでも、潰そうとしているのでもない。

 誠実に、刃を向けてくる目だった。

「あなたの話には、一貫して責めないという姿勢がありました」

 凌央は言う。

「ですが現実には、制度だけではなく、個人の言動によって傷つけられる人もいます。変化を恐れる者もいれば、既得の立場を守ろうとする者もいる。そうした相手に対しても、あなたは責めずに改革できると、本当に信じているのですか」

 鋭かった。

 だが、鋭いからこそ誠実だった。

 巫鈴はすぐには答えなかった。

 沈黙のあいだ、会場全体が二人の間に耳を澄ませているのが分かった。

「……信じたい、と思っています」

 ようやく、巫鈴は答えた。

「信じる、ではなく?」

 凌央が問う。

「ええ」

 巫鈴は彼を見返した。

「私は人間です。怒りもあるし、感情もある。傷つけられた記憶だって消えてはいません。だから、簡単に信じるとは言えない」

 そこまで言ってから、少し息を置く。

「でも、それでも信じたいのです」

 言葉が、まっすぐ前へ出る。

「私は壊すためではなく、作り直すためにここに立っています。過去を断罪したいわけじゃない。未来を設計したいだけです」

 沈黙が落ちた。

 けれど今度の沈黙は、さっきまでとは違っていた。

 止まっているのではなく、どこか深くで動いている沈黙だった。

 凌央は、ほんの少しだけ微笑んだ。

 それから頭を下げる。

「……ありがとうございます、伊勢野さん」

 視線を上げたその顔には、さっきまでの問いの鋭さと別のものがあった。

「あなたの問いは、確かに届いたと思います」

 会場のどこかで、誰かが息を吐く音がした。

 遅れて、もう一度拍手が起こる。

 今度の拍手は、さっきよりも少し深かった。

 巫鈴は、知らず小さくうなずいていた。

 火花が散った、とは思わなかった。

 勝ったとも、負けたとも思わない。

 ただ、ようやく話ができる相手に出会った気がした。

 知性が知性を試し、退けるのではなく、

 互いの奥にあるものを確かめ合う。

 そんな種類の対話だった。

 プレゼンは、そこで終わった。

 何かが決着したわけではない。

 けれど、何かが始まったことだけは、会場にいた誰もが感じていた。

________________________________________

 視聴覚ホールを出るころには、空の色が少し変わっていた。

 西の端だけが薄く色づき、校舎の窓に秋の光が残っている。

 廊下へ出た巫鈴のところへ、文化部の面々が一斉に集まってきた。

「巫鈴っち、やばかった! あれ完全に空気持ってった!」

 萌香が興奮を隠さず言う。

「問いを持って帰ってほしいは強かったわね」

 沙羅が短く評する。

「パォォ……会場、しーんってなってましたぁ……!」

 シャオが両手を胸の前で握る。

「GG。刺さってたな」

 ズーハンがうなずく。

 翔吾はノートを抱えたまま、まだ少し顔を赤くしていた。

「……あの、花園会長とのやり取り、すごかったです。ちゃんと、ぶつかってるのに、ぶつかってないみたいで……」

「それを対話って言うんだよ」

 真平が後ろから言った。

 巫鈴は兄の方を見る。

「……聞いてたの?」

「一応な」

 真平はそれ以上は多く言わず、少しだけ口元をゆるめた。

「勝とうとしなかったの、正解だった」

 巫鈴は、それには答えず、視線を窓の外へ向けた。

 校庭の向こうで、風が木の枝を揺らしている。

 今日のプレゼンで、何かが一気に変わるわけではない。

 反発もあるだろう。先延ばしも、沈黙も、たぶんまだ続く。

 でも、もう以前と同じ沈黙ではいられない。

 問いは投げられた。

 届いた。

 そして、返ってきた。

 それだけで十分だった。

「……火蓋は切られたわね」

 巫鈴が小さく言う。

 琴美がにやりとする。

「だったら次は、こっちの番ってことよ」

 誰かが笑う。

 誰かがうなずく。

 廊下の窓から入った風が、翔吾のノートの端をめくった。

 静かだった。

 けれど、その静けさは、もう待つだけのものではなかった。

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