プレゼンの火蓋
九月の空は、どこか透明だった。
真夏の名残を引きずりながらも、陽射しの角度には秋の気配が宿り、空気は澄んでいた。校庭のケヤキが風にざわめき、教室の窓辺に吊るされた風鈴がカランと鳴った。
講堂の時計が、午後四時を指していた。
壇上に立つ巫鈴の足元には、秋の陽が斜めに差し込んでいる。
私服といっても、ダークグレーのセットアップ。ウエストの絞られたジャケットに、黒のフレアスカート。シャツの襟元には、小さな金のピンブローチ。フォーマルさと清楚さを絶妙に共存させたその姿は、まるで若き国会議員か、財界のスピーチ登壇者のようだった。
プロジェクターのスライドが切り替わる。
【図1:那須塩原学園における、近年の学力推移と学習満足度の乖離】
「……つまり、結果だけが求められ、過程への支援は置き去りにされた。それが、私たちの現実です」
巫鈴の声は、静かだった。だがその静けさは、怒りを隠すためではない。
正しく、誤解なく、届く言葉を選ぶための、研がれた静けさだった。
そして、スライドが切り替わる。
【図2:現行の評価制度における分布と曖昧性】
「通知表をつける側とつけられる側、この関係性に対して私たちは無条件に従うしかないのか?」
「……私は、学ぶということを、競争の道具にはしたくありません」
ざわ……と、小さな気配が観客席の最前列で起こる。見れば、教師と思しき中年男性が腕を組み直し、隣の同僚と視線を交わしていた。
だが巫鈴は視線を逸らさない。
「努力は、正しく評価されてこそ意味がある。声を上げた生徒が浮くような教室では、本当の自由な学びなど存在しない」
間。
その間を制するように、巫鈴はふっと笑みを浮かべて言った。
「でも、私は戦いたいわけではありません。誰かを責めたり、否定したりするつもりは、ありません」
スライドが消え、ステージの照明がゆっくりと明るくなる。
「私はただ、こう問いかけたいのです――これで、いいの?と」
静寂。
そして、
――拍手。
最初はひとつ、ふたつ。
それがやがて、波紋のように広がっていく。
その中央。
壇上の巫鈴の前に、一人の男子生徒がゆっくりと立ち上がった。
文化部ではない。生徒会でもない。彼は……。
「花園凌央、総生徒会長。高等部三年」
その声は、響いた。
落ち着きのある低音でありながら、感情の輪郭を丁寧に保った語る者の声だった。
「……伊勢野さん、素晴らしいプレゼンテーションでした。僕は、率直に感銘を受けました」
ざわり。観客席の一部がどよめく。
「ひとつ、質問させてください」
巫鈴は、自然と息をのんだ。
目の前に立つ花園凌央。その瞳は、挑戦者のそれだった。
「あなたの言葉の中に、責めないという姿勢が一貫していました。ですが、現実には、傷つける者が存在します。制度の問題だけでなく、個人の言動によっても、傷は深まる。では、その場合も責めずに改革できると、あなたは本当に信じているのですか?」
鋭い。
だが、誠実だった。
巫鈴は、しばし沈黙したのち、
まっすぐに凌央を見つめ返した。
「……信じたい、と思っています」
「信じる、ではなく?」
「ええ。私は人間です。感情もあります。怒りもある。だからこそ、信じたいのです。それが、私が壊すのではなく作りたいと思った理由です」
――沈黙。
だが、心地よい沈黙だった。
凌央は微笑を浮かべ、軽く頭を下げた。
「……ありがとうございます。伊勢野さん。あなたの問いかけは、確かに届いたと思います」
巫鈴の胸の奥で、何かが揺れた。
知性と知性が交差し、火花が散ったわけではない。
それは、もっと深いところで、静かに響き合った感覚だった。
巫鈴は、知らぬ間に頷いていた。
ああ、私は、ようやく話ができる人に出会えたのかもしれない、と。
こうして、「学校改革プレゼン」は、ひとつの拍手と、ひとつの対話によって、終わりを告げた。
会場となった講義棟三階の視聴覚ホールは、放課後にもかかわらず予想を上回る人数が集まっていた。
高校生たちのざわめきに混じって、中等部の生徒の姿もある。SNSで話題になったらしく、「伊勢野巫鈴がプレゼンするらしい」と駆けつけた者もいれば、「あの文化部の子たち、またなんかやってる」と興味本位で来た者もいた。
その中心に、巫鈴は静かに立っていた。
紺に近いグレイのジャケットに、白のシャツと落ち着いたトーンのスカート。流行を追わない、むしろ地味と言ってもいいコーディネートだが、逆にその清潔さと凛とした立ち姿が、場の空気を引き締めていた。
手元のノートPCに視線を落とし、スライドを一枚送る。
最初の画面には、大きな一文。
――「あなたは、今日、学びましたか?」
その文字だけが、静かに照らし出されていた。
ざわめきが、少しずつ収まっていく。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
巫鈴が口を開いた。マイクは使わない。通る声ではないが、よく通る言葉だった。
「私は今日、皆さんに問いを持って帰っていただきたいと思っています。答えではありません。問いです」
場内に静けさが宿っていく。
「今の学校制度には、多くの前提があります。たとえば、学年という区切り。たとえば、毎日すべての教科をこなすことが当たり前だという認識。それが誰のための制度なのか、私たちは改めて考える必要があります」
巫鈴は落ち着いた口調で言葉を紡いでいく。
「中には、現状でいいじゃないかという声もあるでしょう。ですが、現状に苦しんでいる人がいるならば、その声に耳を傾けるのが学び舎のあるべき姿です」
スライドが切り替わる。
そこには、アンケート結果のグラフ。文化部が独自に実施した「学校生活の悩み」に関する集計だ。自由記述も含め、30人以上の声が拾われていた。
「ある中学生の声です。授業でわからないところがあっても、質問しにくい空気がある。ある高校生はこう言いました。先生に否定されそうで、意見が言えない」
一つひとつ、巫鈴は朗読していく。抑揚はない。ただ、丁寧に、一語一語を大事に扱うように。
「私は、これを個人の問題とは思いません。空気という言葉で包まれた構造的な問題です。だから、私たちは空気を変えるのではなく、風を起こす必要があります」
その言葉が終わると、しばらく沈黙が流れた。
そして、拍手。
初めて起きたそれは、一人の女生徒から始まり、やがて会場を包むような大きな拍手となって広がっていった。
「……素晴らしいスピーチでした」
その声は、観客席の最前列から響いた。
立ち上がったのは、一人の男子生徒。ブレザーの胸元には、金の刺繍入りのバッジが光っている。花園凌央。総生徒会長
観客の一部が息を呑む。花園が公の場に現れることは珍しい。
「伊勢野さん。あなたの言葉には、人を責めない鋭さがありました。これはとても難しいことです。ですが……一点、私から質問させてください」
巫鈴が静かにうなずいた。
「あなたが語った新しい風は、とても美しく、理想的です。けれど、現実には改革には痛みが伴うこともあります。既得権を持つ者、変化を恐れる者。そういった抵抗を前に、あなたはどう立ち向かうつもりですか?」
場が再び静まる。
巫鈴はしばし考え、口を開いた。
「私は、闘いません」
その一言に、ざわつきが起こる。
巫鈴は続けた。
「私は、誰とも闘うつもりはありません。変化に痛みがあるとすれば、それは敵がいるからではなく、習慣との別れがあるからです。私は、過去を否定するつもりはありません。ただ、未来を作るだけです」
会場に、再び拍手が起きた。
凌央は、その拍手が静まるのを待ってから、ふっと微笑んだ。
「……ならば、その未来に、私も同行したくなりました」
その瞬間、巫鈴は初めて「自分と同じ言語で語る人間」を見つけたような気がした。
戦うのではない。響かせる。
それが、言葉を持つ者の矜持なのだ。