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最終審議

 審議会の時間が来た。

 那須塩原学園、特別会議室。

 厚い扉の向こうには、すでに理事長、校長、教頭、PTA会長、生徒会代表、そして関係教師たちが揃っていた。

 窓には薄い光が差している。

 けれど、会議室の空気は明るくなかった。

 長机の片側に座る反改革派の教師たちは、表情こそ抑えていたが、その目には隠しきれない確信があった。

 勝った。

 少なくとも、彼らはそう思っていた。

 伊勢野巫鈴は、たしかに手強い。

 資料を積み、数字を示し、教師たちが長年「空気」として処理してきたものを、一つ一つ言葉にしてきた。

 だが、最後に彼女が立つのは一人だ。

 親族は不可。

 現在の部活動関係者も不可。

 本件に継続的に関与した者も不可。

 代理人を立てる権利は残しておきながら、実質的に巫鈴の周囲の人間はすべて排除した。

 伊勢野真平は兄であるため不可。

 日ノ本文化部の部員は、長期間活動を共にした関係者として不可。

 宮下翔吾も、記録係として深く関わっているため不可。

 花園凌央も、生徒会代表として本件に継続的に関与しているため不可。

 織田市子も、改革派教師として利害関係者に当たる。

 この条件で、あの少女に何ができる。

 大河原は、机上の資料を整えるふりをしながら、視線だけを扉へ向けた。

 岸田は口元にわずかな笑みを浮かべている。

 佐藤は、手元の記録用紙をまっすぐに揃えた。

 早乙女は、何事もなかったような穏やかな顔で座っていた。

 やがて、扉がノックされた。

「どうぞ」

 校長の声に、扉が開く。

 伊勢野巫鈴が、一礼して入室した。

 制服に乱れはない。

 背筋も、視線も、いつも通りまっすぐだった。

 その手には、分厚い資料の束が抱えられている。

 教師たちの何人かが、ほんのわずかに安堵した。

 やはり、一人だ。

 そう思った次の瞬間だった。

 巫鈴の後ろから、もう一人の人物が入ってきた。

 会議室の空気が、目に見えて変わった。

「……大野さん?」

 最初に声を漏らしたのは、校長だった。

 大河原の顔から、わずかに色が引く。

 岸田が目を見開く。

 佐藤の手が、記録用紙の上で止まった。

 早乙女でさえ、表情を保つのに一瞬遅れた。

 大野博美。

 前生徒会長。

 那須塩原学園で、教師からも生徒からも一目置かれてきた才女。

 そして、すでに任期を終え、現在の改革活動には直接関与していない人物。

 規程上、代理人として排除する理由がない。

 博美は会議室に一礼し、落ち着いた足取りで巫鈴の隣へ進んだ。

「本日、伊勢野巫鈴さんの代理人として同席いたします。大野博美です」

 静かな声だった。

 だが、その声だけで、先ほどまで反対派教師たちの胸にあった勝利の予感は、音もなく崩れた。

 理事長が博美を見た。

「大野さん。あなたが代理人を?」

「はい。本人より委任を受けております」

 博美は一通の書面を差し出した。

 事務局の教員が受け取り、内容を確認する。

 やがて、理事長に小さく頷いた。

「規程上、問題ありません」

 その一言で、もう覆せなかった。

 巫鈴は一言も発しなかった。

 ただ、隣に立つ博美の存在を、どこかまだ信じきれないように感じていた。

 自分一人で立つ覚悟は、していた。

 それが正しいと思っていた。

 けれど今、隣には、かつて自分が初めて心から尊敬した人がいる。

 論理だけでは人は動かないことを教えてくれた人。

 正しさに、届く言葉を与えられる人。

 博美は椅子に座る前、巫鈴にだけ聞こえる小さな声で言った。

「背筋は伸ばしていなさい。目は伏せない。泣くのは終わってから」

 巫鈴は、ほんのわずかに息を呑んだ。

「……はい」

 審議会が始まった。

     

 まず、反改革派の教師たちから申立ての趣旨が説明された。

 大河原が立ち上がる。

 声は低く、整っていた。

「本日の申立ては、伊勢野巫鈴さんの改革案そのものの全否定を目的とするものではありません」

 その言い出しは、慎重だった。

「しかしながら、一連の活動が、教員への不信を煽り、生徒間に過度な緊張を生み、校内秩序に混乱をもたらした可能性は否定できません」

 岸田が、資料を一枚差し出した。

 廊下での生徒滞留。

 掲示板前のざわめき。

 教師の指導に対する巫鈴の発言。

 翔吾による記録。

 それらが、時系列に沿って並べられていた。

 言葉は整っていた。

 露骨な敵意は、どこにもない。

 だからこそ、質が悪かった。

「改革の意義については、審議に値するものと認識しております」

 大河原は続けた。

「しかし、手続きと節度を逸脱した行動まで容認すれば、学校運営に重大な影響を及ぼします。特に、教師の指導に対して生徒がその場で異議を唱える空気が生まれることは、教育現場の秩序を損なうものです」

 校長は、黙って聞いていた。

 理事長も表情を変えない。

 PTA会長は、手元の資料に目を落としていた。

 大河原は、最後に言った。

「したがって、伊勢野さんの最終審議参加資格については、慎重に検討すべきであると考えます」

 申立ては、そこで終わった。

 会議室には、紙の擦れる音だけが残った。

 巫鈴は、ゆっくり立ち上がった。

「反論します」

 声は静かだった。

 だが、震えてはいなかった。

 博美は隣で、何も言わない。

 巫鈴自身に話させるためだった。

「まず、私たちの活動は、生徒会の正式な議題化を経て行われました。教室協定案、補助アンケート、反論権の保障、教育制度改革案、いずれも無断で実施したものではありません」

 資料が配られる。

 活動経過。

 提出日。

 関係者。

 承認手続き。

 記録の扱い。

 匿名化の方針。

 それらが整然と並んでいる。

「次に、廊下での件についてです」

 巫鈴は、別の紙を開いた。

「当該時間帯、生徒たちは掲示板前に滞留していました。通行の妨げになった可能性はあります。ですが、教師への暴言、物理的妨害、集団的な抗議行動は確認されていません」

 大河原の眉がわずかに動く。

 巫鈴は続けた。

「私は、岸田先生の指導に対し、移動を促せば足りる場面ではないかと確認しました。これは教師の指導権を否定するものではなく、当該事実の確認です」

 岸田が口を開いた。

「しかし、あなたの発言によって周囲の生徒がざわついたことは事実です」

「はい」

 巫鈴は認めた。

「私の発言が、周囲に影響を与えた可能性はあります」

 会議室の空気が少し動いた。

 巫鈴は逃げなかった。

「ですが、影響があったことと、騒乱を扇動したことは同じではありません」

 博美の目が、わずかに細くなる。

 巫鈴は続けた。

「また、宮下翔吾くんに『見たことだけ、あとで書いて』と言った発言についても、記録を促したことは認めます。ただし、その記録は特定教師を攻撃するためではなく、事実経過を整理するためのものです」

 大河原が言った。

「記録という言葉自体が、生徒や教師に圧を与えている可能性はあります」

「あります」

 巫鈴は、また認めた。

「だからこそ、私たちは匿名化、目的明示、個人攻撃の排除を進めてきました。記録の危険性についても、既に議論し、修正しています」

 資料の一部に、過去の生徒会議事録が示される。

 記録は万能ではない。

 記録を信仰しない。

 場を見る。人を裁かない。

 その言葉が、過去の資料として残っていた。

 反対派教師たちの主張は、一つずつ削られていった。

 活動は無断ではない。

 記録には目的と手順がある。

 廊下での件は、騒乱というほどではない。

 巫鈴の発言は強かったが、扇動とまでは言えない。

 申立ての根拠は、少しずつ細くなっていった。

 やがて、会議室には再び沈黙が落ちた。

 理事長も、校長も、教師たちも、PTA会長も、誰もすぐには口を開かなかった。

 巫鈴は立ったまま、資料を握っていた。

 反論はできた。

 言葉もあった。

 数字も、記録も、証言も、すべて揃っていた。

 けれど、巫鈴は言えなかった。

 さきほど、PTA会長が静かに口にした一言が、まだ胸に残っていた。

「伊勢野さんの改革によって、不安を感じた生徒もいる」

 それだけは、否定できなかった。

 論理で退けることはできる。

 変化への不安は、改革の必要性を否定する根拠にはならない。

 一部の不安を理由に、構造的な問題を放置することはできない。

 そう言い切ることは、巫鈴にはできた。

 だが、それをしてしまえば、自分が救おうとしていたはずの生徒の声まで、踏みつけることになる。

 巫鈴の指先が、わずかに震えた。

 その時だった。

「発言してもよろしいでしょうか」

 静かな声が、会議室の空気を割った。

 大野博美だった。

 前生徒会長。

 那須塩原学園で、誰よりも多くの生徒の声を聞いてきた人。

 教師たちの何人かが、思わず姿勢を正した。

 理事長が小さく頷く。

「どうぞ、大野さん」

「ありがとうございます」

 博美は一礼し、ゆっくりと立ち上がった。

 その動作に、無駄はなかった。

 怒りを見せるでもなく、味方を鼓舞するでもなく、ただ、必要な場所に立つ人間の落ち着きがあった。

「伊勢野巫鈴さんの改革案が、すべて完全だったとは申しません」

 巫鈴が、かすかに顔を上げた。

「進め方に拙さもあったでしょう。言葉が鋭すぎた場面もあったでしょう。不安を覚えた生徒や先生方がいたことも、私は否定しません」

 会議室の空気が、少し変わった。

 巫鈴を擁護すると思っていた者たちが、意外そうに博美を見る。

 博美は続けた。

「ですが、それでもなお、彼女がこの学校に差し出した問いを、私たちは無視してはならないと思います」

 博美は巫鈴の方を見た。

「伊勢野さん」

 巫鈴は黙って、手にしていた冊子を差し出した。

 博美はそれを受け取り、表紙を見下ろした。

「これは、那須塩原学園の教諭向けに配布された教育評論です。四月号に、こういう記述があります」

 ページを開く音だけが、会議室に響いた。

「『団体生活において、いじめや理不尽は常に存在するものであり、社会生活においては普通である』」

 読み上げたあと、博美は一度、冊子から目を離した。

「たしかに、理不尽は社会に存在します。いじめも、差別も、沈黙による圧力も、この世から簡単にはなくなりません」

 誰も口を挟まなかった。

「ですが、存在することと、教育の場でそれを普通と呼ぶことは、まったく違います」

 声は荒くなかった。

 だからこそ、逃げ場がなかった。

「生徒が学校に求めるものは、理不尽に慣れる訓練ではありません。空気の支配に従う訓練でもありません。勉強です。対話です。自分の考えを育てる時間です」

 博美は一歩、前に出た。

「それが阻害されているなら、それは単なる人間関係の問題ではありません。学ぶ権利の問題です」

 さらに一歩。

 博美は、会議室の壁に掲げられた校訓の前で足を止めた。

 ――すべての生徒に学びを。

 その文字を、全員が見た。

「那須塩原学園の校訓は、『すべての生徒に学びを』です」

 博美は静かに振り返った。

「ならば、問わなければなりません」

 冊子を閉じた。

 乾いた音が、机の上で小さく響いた。

「いじめによって学ぶ時間を奪われた生徒は、そのすべてに含まれていましたか」

 誰も答えなかった。

「教室の空気に押し黙らされた生徒は、そのすべてに含まれていましたか」

 博美の視線が、教師たちをゆっくりと見渡した。

「先生に嫌われることを恐れて、手を挙げることをやめた生徒は、そのすべてに含まれていましたか」

 沈黙が深くなる。

 巫鈴は、動けなかった。

 自分が言おうとしていた言葉とは違う。

 だが、自分が本当に言いたかったことだった。

「私は、先生方の努力を否定したいのではありません」

 博美は言った。

「この学校で、多くの先生方が生徒のために尽くしてこられたことを、私は知っています。私自身、何度も助けていただきました」

 そこで、少しだけ声が低くなった。

「だからこそ、善意だけに頼ってはいけないのです」

 理事長の表情が、わずかに動いた。

「善意ある先生がいることと、傷ついた生徒が救われることは、同じではありません。よい先生がいることと、悪い仕組みが存在しないことも、同じではありません」

 博美は冊子に視線を落とした。

「理不尽は社会にある。だから学校にもある。そう言うことは簡単です」

 そして、再び顔を上げた。

「しかし、学校とは、社会の理不尽をそのまま再現する場所でしょうか」

 会議室の空気が止まった。

「それとも、生徒が社会に出る前に、理不尽に名前をつけ、それに押し潰されずに立つ力を学ぶ場所でしょうか」

 誰も、答えなかった。

「伊勢野さんは、完璧ではありません」

 巫鈴が、はっとしたように博美を見た。

「傷つき、焦り、時に言葉を誤りました。正しさを急ぎすぎた場面もあったでしょう」

 博美は、そこで初めて巫鈴に向けて、ほんの少しだけ柔らかい目をした。

「ですが、完璧でなければ声を上げてはいけないのなら、誰も最初の一歩を踏み出せません」

 巫鈴の喉が、小さく動いた。

「この場で問われているのは、伊勢野巫鈴さん一人の是非ではありません」

 博美は、理事長、校長、教師、PTA会長、生徒会代表を順に見た。

「私たちが、生徒の声を学校の一部として認めるかどうかです」

 冊子を、机の上に静かに置いた。

「痛みを見せた人を責めれば、次に痛みを抱えた人は黙ります」

 その一言に、場の空気がさらに重くなった。

「混乱は、彼女が作ったものではありません。もともとそこにあったものが、初めて見える形になったのです」

 博美は校訓を見上げた。

「秩序とは、声を押し潰して保つものではありません。声を受け止めても壊れないものを、秩序と呼ぶのだと思います」

 そして、最後に言った。

「どうか、伊勢野さんを裁く前に、彼女が差し出した問いを見てください」

 会議室は静まり返っていた。

「この学校は、生徒を黙らせることで保たれる場所なのか」

 博美の声が、静かに響く。

「それとも、生徒の声を受け止めてもなお、学びの場であり続けられる場所なのか」

 博美は深く一礼した。

「私は、後者であってほしいと願います」

 誰も、すぐには拍手をしなかった。

 誰も、すぐには反論しなかった。

 ただ、その沈黙だけが、今までの沈黙とは違っていた。

 逃げるための沈黙ではない。

 考えるための沈黙だった。

     

 最初に口を開いたのは、PTA会長だった。

「……大野さん」

「はい」

「私は、保護者として、不安があることは事実です。学校が変わることにも、生徒が前に出すぎることにも、不安はあります」

 博美は黙って聞いていた。

 PTA会長は続けた。

「でも、今の話を聞いて思いました。私たちは、学校に安心を求めすぎて、その安心のために誰かが黙っていることを見落としていたのかもしれません」

 会議室の空気が、わずかに動いた。

「うちの子が静かに通えているなら、それでいい。そう思っていました。でも、その静かさが、誰かの我慢でできているなら……それは安心ではないですね」

 その言葉に、巫鈴は顔を上げた。

 PTA会長は、巫鈴を見ていた。

「伊勢野さん。あなたのやり方に、すべて賛成しているわけではありません」

「はい」

「でも、問いを出したことまで責めるべきではないと思います」

 大河原の眉が、わずかに動いた。

 だが、口は開かなかった。

 次に、校長がゆっくりと資料を閉じた。

「本件について、整理します」

 その声は、先ほどまでより少し低かった。

「まず、本日問題とされた廊下での件について」

 会議室の視線が、校長へ集まる。

「提出された報告、目撃証言、当事者の説明を総合すると、生徒の滞留は確認されました。しかし、校内騒乱と認定するほどの混乱、または伊勢野さんによる扇動行為は確認できません」

 岸田の表情が硬くなった。

 大河原は動かない。

「したがって、伊勢野さんに対する処分、および審議参加資格の停止は行いません」

 その一言で、部屋の空気が確かに変わった。

 巫鈴は、動かなかった。

 ただ、資料を握る指の力だけが、少し抜けた。

 校長は続ける。

「次に、改革案についてです」

 ここで、会議室は再び緊張した。

 処分申立てが退けられても、改革案そのものが通るとは限らない。

 理事長が、静かに口を開いた。

「伊勢野さん」

「はい」

「あなたの提案は、学校の根幹に触れています。すぐに全面導入するには、危うさもある」

「承知しています」

「だが、放置するには、もう遅い」

 理事長は、机の上に手を置いた。

「本学園は、教育制度改革案の一部を、来年度より試験導入する方向で承認します」

 会議室に、短い沈黙が落ちた。

 それは、さっきまでの沈黙とは違っていた。

 決定が、空気の中に置かれた沈黙だった。

 理事長は続ける。

「対象は中等部二年および高等部一部クラス。選択単位制、教科別ホームルーム、学習支援枠、生徒意見収集手続きの再設計を、段階的に導入します」

 教頭が、補足するように資料をめくる。

「詳細運用は、校長、教頭、担当教員、生徒会代表、保護者代表を含む検討委員会で詰めます。織田先生には、教員側の調整役として入っていただきます」

 市子が静かに頷いた。

「承知しました」

 理事長は、さらに言った。

「また、今回の学校側調査および廊下での指導対応についても、検証対象とします」

 その言葉に、反改革派の教師たちの空気が変わった。

 初めて、自分たちの側にも刃が向いた。

 大河原が口を開く。

「理事長。それは、教員の指導そのものを問題視するということでしょうか」

「違います」

 理事長は即答した。

「指導そのものではなく、指導がどのように記録され、どのように運用され、どのように生徒へ届いたかを確認するということです」

 博美が、わずかに目を伏せた。

 その言い方は、巫鈴たちが積み上げてきた言葉に近かった。

 人を裁くのではない。

 運用を見る。

 仕組みを見る。

 大河原は、それ以上言えなかった。

 理事長は最後に、巫鈴を見た。

「伊勢野さん」

「はい」

「あなたの問いは、学校を動かしました」

 巫鈴は息を止めた。

「しかし、学校を動かすことと、学校を良くすることは違います」

 その言葉は、褒め言葉ではなかった。

 むしろ、重い警告だった。

「ここからは、あなたの言葉も検証されます。あなたの提案も修正されます。あなたの正しさも、他の声と並べられます」

「はい」

「それでも、続けますか」

 巫鈴は、すぐには答えなかった。

 会議室の全員が、彼女を見ていた。

 かつてなら、即答したかもしれない。

 続けます。

 変えます。

 間違っているものは正します。

 そう言えた。

 だが、今は違う。

 支持する声もある。

 不安の声もある。

 疲れた声もある。

 教師の怖さもある。

 生徒の怖さもある。

 その全部を前にして、それでも続けるということは、勝つことではない。

 背負うことでもない。

 聞き続けることだった。

「……続けます」

 巫鈴は言った。

 声は大きくなかった。

「ただし、私一人では続けません」

 理事長の目が、わずかに動いた。

「私を信じる形ではなく、仕組みとして続けます。私が間違えた時に止められる場所を作ります。賛成も反対も、同じ机に乗せます」

 一拍置いて、巫鈴は続けた。

「それができないなら、この改革は失敗です」

 博美は隣で、何も言わなかった。

 ただ、ほんの少しだけ目を細めた。

 よく言った。

 そう言っているように見えた。

 理事長は、静かに頷いた。

「よろしい」

 それで、最終審議は終わった。

     

 会議室の扉が閉まった瞬間、廊下の空気が巫鈴の体に戻ってきた。

 足が、少し重い。

 肩も痛い。

 手にしていた資料の束が、急に重く感じた。

 博美が隣に立つ。

「崩れるなら、今よ」

「崩れません」

「強がり」

「少し」

「かなり」

 巫鈴は小さく息を吐いた。

「……通りましたね」

「試験導入よ」

「はい」

「全面勝利ではない」

「分かっています」

「処分も回避しただけ。向こうが完全に諦めたわけでもない」

「分かっています」

 博美は、巫鈴を横目で見た。

「なら、今だけは喜びなさい」

 巫鈴は、言葉を失った。

「喜んで、いいんですか」

「いいに決まっているでしょう」

 博美の声は、少しだけ呆れていた。

「あなたは今日、裁かれかけた。改革案も潰されかけた。それでも、ここまで通した」

 巫鈴の視界が、少しだけ揺れた。

「でも、まだ――」

「まだ、は明日でいい」

 博美は言った。

「今日は、あなたが一人で立たなかった日よ」

 その言葉で、巫鈴は何も言えなくなった。

 その時、廊下の角から足音がした。

 真平だった。

 その後ろに、琴美、沙羅、萌香、美優、勇馬、シャオ、ズーハン、翔吾。

 全員が、息を詰めたような顔をしていた。

 真平が最初に聞いた。

「どうだった」

 巫鈴は、少しだけ口を開いた。

 言葉が出なかった。

 代わりに、博美が答えた。

「処分なし。審議参加資格停止なし。改革案は試験導入として承認」

 一瞬、廊下が止まった。

 次の瞬間、萌香が叫んだ。

「よっしゃあああああ!」

「声!」

 沙羅が慌てて止める。

 琴美は拳を握っていた。

「通した……本当に通した……!」

 美優は、両手で口元を押さえている。

 シャオは「パォ……!」とだけ言って泣きそうになっていた。

 ズーハンは短く言った。

「GG」

 勇馬は、何度も頷いていた。

 翔吾は、巫鈴を見ていた。

 何も言わない。

 ただ、目が赤かった。

 巫鈴は、翔吾の方へ歩いた。

「宮下くん」

「はい」

「あなたが連絡してくれたから、今日がありました」

 翔吾は、首を横に振った。

「僕は、メールしただけです」

「それが、今日一番大事だった」

 翔吾は、唇を噛んだ。

 もう、教室の隅にいた少年ではなかった。

 巫鈴は、今度こそきちんと言った。

「ありがとう」

 翔吾は、小さく頷いた。

「……はい」

 真平が、巫鈴の頭に軽く手を置いた。

「よくやった」

 巫鈴は、いつもなら払いのけたかもしれない。

 けれど、その日はしなかった。

 ただ、少しだけ目を伏せた。

「お兄ちゃん」

「ん?」

「一人じゃなかった」

「ああ」

 真平は、短く答えた。

「見てりゃ分かる」

     

 その少し後。

 会議室には、まだ反改革派の教師たちが残っていた。

 大河原は、資料を片付けていた。

 その動作に乱れはない。

 だが、沈黙は重かった。

 岸田が、低く言う。

「……負けましたね」

 佐藤が眼鏡を外す。

「処分も通らず、案も止められなかった」

 早乙女は、静かに資料を閉じた。

「大野さんを想定できなかった時点で、こちらの負けです」

 大河原は何も言わなかった。

 やがて、ゆっくり顔を上げる。

「負けたのは、今日の場だ」

 岸田が見る。

「まだ続けるのですか」

「続けるも何も、導入が始まれば現場で問題は必ず出る」

 大河原の声は、冷えていた。

「改革は、通った後の方が脆い」

 佐藤は黙った。

 それは事実だった。

 制度は、紙の上では整っていても、実際の運用で必ず軋む。

 生徒は迷う。

 教師は疲れる。

 保護者は不安がる。

 その時、反対派が再び力を持つ余地はある。

 だが、早乙女は小さく言った。

「ただ、今までと同じやり方では無理でしょうね」

 大河原は、その言葉を否定しなかった。

 窓の外では、校庭に夕方の光が差していた。

 何かが終わった。

 だが、何かが始まった。

 そのことだけは、彼らにも分かっていた。

     

 夕方。

 日ノ本文化部の部室では、簡単な祝勝会のようなものが始まっていた。

 とはいえ、豪華なものではない。

 コンビニのプリン。

 美優が持ってきた焼き菓子。

 琴美がなぜか用意していた瓶ラムネ。

 勇馬が修理した古いラジカセから、昭和歌謡が小さく流れている。

「なんで最終審議通過祝いが昭和歌謡なのよ」

 沙羅が言う。

「勝利には歌が必要なのよ」

 琴美が胸を張る。

「それならもうちょっと選曲あるでしょ」

「昭和には全部ある!」

「雑」

 萌香はプリンを開けながら言った。

「でもさ、今日の博美さん、完全に弁護士だったよね」

 美優が頷く。

「すごかったです。怒っていないのに、逃げられない感じで」

 翔吾が小さく言った。

「言葉って、あそこまで届くんですね」

 巫鈴は、湯呑を両手で持っていた。

 博美は少し離れた椅子に座り、プリンの蓋を開けている。

「博美さん」

「何?」

「ありがとうございました」

「それは、もう聞いた」

「何度でも言います」

「なら受け取っておく」

 博美は、プリンを一口食べてから言った。

「巫鈴」

「はい」

「ここから、あなたはもっと苦しくなるわよ」

 部室の空気が少し静かになった。

 博美は続ける。

「案が通るまでは、反対派と戦えばよかった。でも、これからは違う。賛成した人の期待、反対した人の不安、迷っている人の沈黙。全部、運用の中で出てくる」

 巫鈴は頷いた。

「分かっています」

「いいえ。まだ分かってない」

 博美は、はっきり言った。

「でも、今はそれでいい。分かっていないことを分かっていれば、まだ進める」

 巫鈴は、少しだけ笑った。

「厳しいですね」

「優しいつもりよ」

「どこがですか」

「逃げ道を塞がずに言っているところ」

 その言葉に、真平が笑った。

「博美さんらしい」

 博美は真平を見る。

「あなたも、巫鈴を甘やかしすぎないように」

「俺は甘い担当なんで」

「役割放棄ね」

「役割分担です」

 部室に、久しぶりに軽い笑いが起きた。

 巫鈴は、その笑いを聞きながら、少しだけ目を閉じた。

 今日は勝った。

 正確には、通した。

 もっと正確には、始まった。

 でも、今だけは。

 ほんの少しだけ、この笑いの中にいてもいい気がした。

     

 夜。

 巫鈴は、自室でノートを開いた。

 今日のページ。

 最終審議。

 処分なし。

 改革案、試験導入承認。

 代理人、大野博美。

 宮下翔吾、連絡。

 日ノ本文化部、資料整理。

 真平、一人じゃなかった。

 そこまで書いて、ペンが止まる。

 しばらく考えてから、最後に一行を書いた。

 ――勝ったのではない。扉が開いただけ。

 巫鈴は、その文字を見つめた。

 扉の向こうには、まだ何があるか分からない。

 でも、閉じたままではなくなった。

 それだけは確かだった。

 窓の外には、夜の町の灯りがある。

 揃っていない。

 ばらばらで。

 弱くて。

 それでも消えていない。

 巫鈴は、静かにノートを閉じた。

 明日からは、革命ではなく運用が始まる。

 言葉ではなく、仕組みが試される。

 正しさではなく、続ける力が問われる。

 そのことを思うと、怖かった。

 けれど、もう一人で怖がる必要はなかった。

 扉は開いた。

 そして、その向こうへ進む足音は、ひとつではなかった。

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