集計者の椅子
――放課後。
那須塩原学園・事務棟の小会議室。
蛍光灯の白が、机の上の紙の端を冷たく光らせていた。
PTAアンケート――再設計版。
表紙には、すでに公正という言葉が踊っている。
《設問設計ガイドライン準拠》
その一行だけで、誰もが安心した顔をする。
巫鈴は、そこが一番怖かった。
(設問が公平でも、集計が歪めば意味がない)
机の向こうでは、教頭が書類をめくっている。
校長は穏やかな顔で座り、理事長は腕を組み、言葉を待っていた。
「では、アンケートの実施について」教頭が言う。
「配布はクラスごと、回収は担任経由。集計は――」
「集計は、こちらで行います」
その声は、穏やかだった。
だからこそ、室内の空気が一度で固まった。
古文教師・早乙女。
手には、薄いファイル。笑みは崩さない。
「学校側で集計し、結果を理事会に提出するのが最も実務的です。
保護者の自由記述も、教員が整理した方が混乱がありません」
校長が目を細める。
「……確かに、作業負担は大きい。だが、透明性も必要だ」
早乙女は頷いた。
「もちろんです。ガイドラインも守ります。
ただ、集計は専門的ですから」
専門的。
その言葉は、やさしい鎖みたいに聞こえた。
(来た)
巫鈴は息を吸った。
心臓の音が、白い蛍光灯に吸われていく。
「……一つ、確認していいですか」
理事長が頷く。
「どうぞ」
巫鈴は、まっすぐ早乙女を見た。
責めない。表情を崩さない。
ただ、問いの形で切る。
「整理というのは、具体的に何をしますか。
自由記述の文章を、要約するという意味ですか」
早乙女は一瞬だけ瞬きをした。
「ええ。要約と分類です。内容を項目化しないと、議論できませんから」
巫鈴は頷いた。
「つまり――書いた人の言葉は、集計者の言葉に変換されますね」
会議室に、薄い沈黙が落ちた。
教頭が咳払いしかけた。
校長の視線が、早乙女のファイルの上に落ちる。
早乙女は穏やかに微笑む。
「変換ではありません。整理です。
人の感情は、そのままでは扱えませんから」
扱えません。
それは教師の口癖だ。
そして、制度が人を折るときに必ず出てくる言葉だ。
巫鈴は視線を逸らさず、次を置いた。
「整理は必要です。私もそう思います。
だからこそ、集計者は一人では危険です」
早乙女の眉が、ほんの僅かに上がる。
巫鈴は続けた。
「集計は権限です。
それを一つの立場に集中させると、結果はその立場に寄ります。
悪意がなくても。——無意識で」
佐藤が椅子にもたれ、低く笑った。
「生徒が教員を疑っているように聞こえるな」
巫鈴は首を横に振る。
「疑っていません。構造の話です。
疑いが不要になるように、設計したいだけです」
理事長が小さく頷いた。
「具体案は?」
巫鈴は、白いファイルを開いた。
そこには、たった三行。
『集計者の分散』
『原文の保全』
『監査の同席』
「集計は三者で行います。
学校側、PTA側、そして生徒代表——つまり私たち」
教頭が思わず声を上げる。
「生徒が集計に入るのは……」
「入れます」巫鈴は淡々と言った。
「当事者だからです。
先生と保護者の間で決まる結論の中に、生徒の声が消えるなら、それは教育ではない」
早乙女が微笑みを崩さずに言った。
「自由記述には、個人名や教員名が出ることもある。
生徒に見せるのは危険よ。二次被害が出る」
巫鈴は、ここで一拍置いた。
反論はある。だが、勝ち方が違う。
「だから原文の保全です」
「……?」
「要約した結果だけが残ると、原文が検証できません。
検証できない要約は、ただの解釈です」
巫鈴は、紙を一枚机に置いた。
《自由記述原文は匿名化した上で、原本を封印保管。集計結果と紐づけ、監査で照合可能にする》
早乙女の瞳が、わずかに揺れた。
封印保管。
つまり、勝手に切り捨てられない。
校長が静かに言う。
「匿名化すれば、個人情報の問題は軽減される」
教頭がまだ渋る。
「しかし……生徒代表が監査に同席する前例は……」
巫鈴は答えなかった。
その代わり、真平の言葉を思い出していた。
——前例がないのは、悪いことですか?
理事長が、ゆっくりと口を開く。
「前例は、誰かが作るものだ」
その一言で、空気が切り替わった。
早乙女は、笑みを保ったまま、ファイルを閉じた。
だが、その仕草は納得ではなく撤退だった。
(集計者の椅子を奪われた)
巫鈴には、それが分かった。
会議が終わり、廊下に出たとき。
翔吾が待っていた。手にはノートPC。
「どうでした」
巫鈴は短く息を吐いた。
「……座れた。椅子の半分だけ」
「半分でも、でかいですよ。
集計権が分散したら、向こうは次に回収を潰します」
巫鈴は頷いた。
「配布と回収。導線は握られる。
そして回収率が落ちたら、保護者の関心が低いって結論を作れる」
翔吾が唇を噛む。
「じゃあ、先に——」
「うん。回収導線を、こちらで作る」
巫鈴は窓の外を見た。
夕暮れの雲が薄く裂け、淡い光が差している。
(問いを公平にした。
次は、声がちゃんと届く道を作る)
彼女の胸の中で、静かな設計図がめくれた。
そして、巫鈴は気づいていなかった。
職員室の奥で、誰かが別の椅子を引く音を。
——評価という椅子を。
静かに。
音もなく。
次の戦場の椅子が、もう動いていた。




