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沈黙を測る光

――夜。

那須塩原学園・旧館二階。

雨が細かく窓を叩き、時計の針が七時を指す。

雨は声を奪い、ただ、時計の音だけが会話を続けていた。

かつて生徒会が使っていた会議室の灯りが、ひとつだけ灯っている。

「……全員、そろいましたね」

理科主任・佐藤が低く言った。

丸いテーブルを囲むのは六人。大河原、早乙女、岸田、樋口、村山。

どの顔にも、疲れと苛立ちが滲んでいる。

「それで、今日の議題は?」

岸田が腕を組み、苛立ったように問う。

「伊勢野巫鈴と、その背後にいる連中についてです」佐藤が答える。

「授業態度、校内の空気、職員会議の混乱――あらゆる源があの改革提案にある」

大河原が鼻で笑った。

「ふん。教師の言葉を数字で監視する? 生意気にもほどがある」

「だが、放っておくわけにもいかない。職務命令に背いて、生徒の自由を謳う教師まで出てきている」

「……例の灯の会か」

室内の空気が、一段重くなった。

早乙女がため息をつく。

「改革だの個性だの、若い子の理想に振り回されて、現場が崩れるのよ。私たちは教師。管理ができなくなった瞬間、教育は壊れる」

「ならば、形を戻すだけです」

佐藤が静かに言い、ファイルを開いた。

「再教育研究会を立ち上げましょう。名目は授業改善の研究会。実際は――現場の統率を取り戻す会です」

沈黙。

窓の外で稲光が走る。

「統率……つまり、生徒への締め付けか?」村山が低く問う。

「締め付けではなく、均衡だ。自由を謳う者がいるなら、秩序を説く者も必要だろう」

村山は黙ってカップの水を口に含み、何も言えなかった。

「……やれやれ。教師まで二極化か」

岸田が苦笑を漏らし、立ち上がる。

「いいでしょう。数字で縛るなら、こちらも数字で返す。評価表を統一します。誰も比較できないように」

「つまり、基準を潰すのね」早乙女が呟いた。

「ええ。戦いは印象でなく形式で決まる」

誰も笑わなかった。

会議室に響くのは、時計の針の音だけ。

その夜、那須塩原学園の闇の中に――沈黙の同盟が結ばれた。


翌日、放課後。

巫鈴は図書室の隅でパソコンを開いていた。

翔吾が静かにやってきて、画面を覗く。

「報告フォーム、投稿数が三百件を超えました。ほとんどが圧力的指導の記録です」

「三百……」巫鈴は指先を止めた。

「想像より速い。数字が、空気の異常を証明してる」

翔吾は頷く。

「でも、同時に向こうも動いてる。授業方針統一シートって書類、全教員に回りました。

 要するに、内容を一本化して比較を封じるつもりです」

「……早い。思ってたよりも、ずっと」

巫鈴は短く息をついた。

「でも、閉じるってことは、見せたくない何かがある。なら、見えないことを記録すればいい」

「見えないこと?」

「授業中、発言ゼロの教師。質問への反応時間。黒板が動かない回数。ノートの空欄率。……沈黙の証拠よ」

翔吾は思わず笑った。

「さすが。数字で沈黙を測るんですね」

「数字の檻を壊すには、数字の鍵を作るしかない。

 でも、戦い方は感情じゃない。敵を作るんじゃなく、構造を見せる」

翔吾は頷いた。

「灯の会にも共有しておきます。先生たちの中にも、動こうとしてる人がいる」

「知ってます。――織田先生」


夕方。

社会科資料準備室。

窓の外は群青の空。

電子ポットから沸騰音が、乾いた音を立てた。

「先生、知ってました? 再教育研究会が開かれたみたいです」

織田市子はお茶を淹れながら答えた。

「ええ。聞いてるわ。でも、動じないことね。焦らせたいだけよ、あの人たちは」

「わかってます。でも……沈黙で動く人たちほど、怖い」

市子は微笑む。

「あなた、また数字の話をしてる顔ね」

「……数字で戦わなければ、認めてもらえないんです」

「確かに数字は強い。だけど、歴史はいつも心が勝つのよ」

市子は黒板に一本の線を引いた。

白いチョークの軌跡が、光のようにかすかに揺れる。

「たとえば江戸の寺子屋。読み書き算盤を教えてたけれど、いちばん重んじられていたのは人倫だった。

 数字より、情けと道理」

巫鈴は静かに聞いていた。

「それが、いつから変わったんでしょう」

「明治のはじめ。国家が人を数え、教育が兵士づくりになったときね。

 数字は国の言葉になった。でもね、どんな時代も、数字の外側で人を信じた教師がいた。あなたも、そうなりなさい」

「……私が?」

「あなたは今、闘っているようで、実は回復してるの。教育を、人に戻そうとしてるのよ」

巫鈴は少しだけうつむいた。

「けれど私は教師じゃない。何を言っても、彼らには生徒の戯言にしか聞こえない」

「だからこそ、響くの」

市子はゆっくり言った。

「外から届く声は、制度を貫く。幕末の志士も、吉田松陰も、最初はうるさい生徒だった」

沈黙のあと、二人は笑った。

市子が言う。

「数字は速い。でも、心は遅いの。――歴史はいつも、遅いほうが勝つのよ」

巫鈴はその言葉を噛み締めるように頷いた。

「……数字の檻が閉じても、心は残る。なら、私は遅い言葉を届けます」

「ええ、それでいい。あなたの速度で」

巫鈴は立ち上がり、軽く一礼した。

夕陽が窓の端に沈み、教室に淡い赤が差し込む。

机の上に、一枚の紙が置かれている。

『教育現場タスクチーム会議 出席依頼――生徒代表 伊勢野巫鈴』

朱の印が、光に滲んだ。

巫鈴はそれを見つめ、小さく息を吐く。

(――今度は、沈黙の檻の中で、言葉を放つ番)

窓の外、雲の切れ間に一筋の星が光った。


翌朝。

空は薄い灰色。

那須塩原学園の中庭を渡る風は冷たく、木々の葉をかすかに揺らしていた。

巫鈴は白いファイルを抱え、校舎へ向かっていた。

胸元には、昨夜届いた通知書。

《教育現場タスクチーム会議 生徒代表として出席要請》。

玄関前で、真平が待っていた。

いつもより少し真面目な表情だ。

「……行くんだな」

「うん」

「緊張してる?」

「してないって言ったら嘘になるけど、怖くはない」

真平は笑い、ポケットから小さなUSBを取り出した。

「これ、翔吾が徹夜でまとめた。授業記録のグラフ。先生たちの沈黙の時間を可視化してある」

巫鈴は受け取りながら小さく笑う。

「頼もしい参謀が多すぎて、逆にプレッシャーかも」

「巫鈴。お前のやってることは反抗じゃない。

 ただ、大人の世界に風を通してるだけだ。忘れるな」

巫鈴は頷き、言葉を選ぶように返した。

「うん。今日は、風を吹かせてくる」

――そして、彼女は歩き出した。

制服の裾を、冷たい風がやさしく揺らしていた。

 会議室は、重い沈黙に包まれていた。

 長机がコの字に並べられ、中央の席に伊勢野巫鈴。

 正面には校長と理事長。

 左右には十名ほどの教師たち――その中には、大河原、早乙女、佐藤、そして市子の姿もある。

 窓の外には雨雲。

 朝の光は閉ざされ、白い蛍光灯だけが淡く場を照らしていた。

 理事長が書類を閉じ、口を開く。

「それでは、特別会議を始めます。本日の議題は、改革施策に伴う授業混乱への対応」

 校長が続ける。

「伊勢野さん。あなたが提案したクラス制の再編と自由選択授業は、生徒の自主性を尊重する理念として高く評価しています。

 しかし一部教員から、現場の混乱や学力低下を懸念する声が出ており――その両面を検討する必要があります」

 巫鈴は深く息を吸い、立ち上がった。

「はい。――そのために、私は数字を持ってきました」

 翔吾がまとめたグラフがスクリーンに映し出される。

 授業中の発言数、質疑応答率、板書の更新頻度――教師ごとに色分けされた線が、静かに揺れていた。

「こちらは、改革導入前後の授業記録です。

 改革以降、発言数が減少したクラスが多数報告されています。

 しかし――その原因は制度ではなく、沈黙です」

 ざわ、と空気が動いた。

「沈黙?」大河原が眉をひそめる。

「はい。授業の進行を止め、生徒の質問を封じ、意見を無視する沈黙。

 それは混乱ではなく、抵抗です」

 会議室に、冷たい静寂が落ちた。

 雨が窓を叩く音が、やけに遠く響く。

「教師が生徒を数字で縛るなら、生徒も数字で教師を見ます。ですが私は、数字で裁きたいわけじゃない。――数字の裏にある人を見たいんです」

 早乙女が皮肉っぽく笑う。

「綺麗事ね。理想だけで学校は回らないのよ」

「そうですね。理想だけでは動かない。でも、理想がなければ教育は方向を失います」

 巫鈴の声は小さいが、確かだった。

 誰も息を飲まないまま、彼女の次の言葉を待っていた。

「このデータを見てください。発言率の高い授業ほど、生徒の理解度と満足度が上がっています。授業が対話である限り、数字も意味を持つ。 ――つまり、数字を敵にする必要はない。使い方を変えれば、檻ではなく、窓になる」

 校長が小さく頷いた。

 だが、佐藤が腕を組み、重く口を開く。

「あなたの言う対話は理想的だ。だが、現実の学校には均質化という責任がある。全員が自由に学びたい教科を選べば、教員配置が崩れる。制度は理想より先に成り立たねばならん」

「わかっています」巫鈴は静かに答えた。

「だからこそ、私は制度を動かす人間に訴えに来ました」

 理事長が少し身を乗り出す。

「では、伊勢野さん。あなたが言う教育とは何ですか?」

 会議室が静まり返る。

 時計の針の音が、ゆっくりと刻まれる。

 巫鈴は、ほんの一瞬だけ市子を見る。

 市子は何も言わず、穏やかに頷いた。

 巫鈴は、息を整え、言葉を放つ。

「――教育とは、記憶を残すことだと思います。点数や順位ではなく、誰と何を感じたかを記憶させる力。その記憶があれば、人はどんな時代でも学び続けられる。それを数字で測ることはできません。でも、確かに残ります。人の中に」

 言葉を選ぶたびに、彼女の声がかすかに震えた。

 それでも、まっすぐ前を見ていた。

 長い沈黙。

 やがて校長が、そっとペンを置く。

「……あなたの言葉には、温度がありますね」

 巫鈴は一礼した。

「数字が冷たいなら、せめて言葉は温かくありたい。――それが、私の改革です」

 その瞬間、会議室の空気がわずかに変わった。

 早乙女が何かを言いかけたが、言葉にならない。

 窓の外から薄陽が差し込み、スクリーンのグラフに光が射した。

 理事長が静かに締めくくる。

「本日の議題はここまで。――ただし、我々もまた学ばねばならない。

 伊勢野さん、あなたの言葉は重く受け止めます」

 会議は終わった。

 巫鈴は席を立ち、深く一礼し、出口へ向かう。

 廊下に出た瞬間、息がふっと抜けた。

 手の中のUSBが、ほんのり温かい。

(数字は檻でも、言葉は光。ならば――私は、光で測る)

 窓の外で、雨雲がゆっくりと裂けていった。


 夜。

 図書室の窓際で、市子がひとり、教員会議の記録を見つめていた。

 その背後から、声がした。

「先生」

 振り向くと、巫鈴が立っていた。

「会議、聞いてました」

「どうだった?」

「……疲れました。でも、よかったと思います。速い数字の中で、遅い言葉を出せた気がします」

 市子は微笑んだ。

「あなたはもう、ただの生徒じゃない。――教師たちにとっての鏡よ」

 巫鈴は首を振る。

「鏡は、光がなければ何も映せません。……先生が光をくれたんです」

 市子は何も言わなかった。

 ただ、窓の外へ視線を向ける。

 夜空に、雨上がりの月が浮かんでいた。

 月の光が、本の背を撫でる。

 新しい頁が、風にめくられようとしていた。


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