波紋の朝
――朝。
まだ秋の名残が微かに香る風の中、那須塩原学園の校門には生徒たちの雑談が交差していた。制服の上から羽織るパーカーやカーディガンに、季節の移ろいが滲んでいる。
伊勢野巫鈴は、いつも通りの時間に校門をくぐった。
耳にはイヤホン、手には文庫本。通学路を歩く姿は普通の生徒そのものだったが、すれ違う一部の生徒が視線を送っているのに、本人は気づいているのか、いないのか。
「巫鈴さまっ!」
ズーハンの張りのある声が、校舎前の広場に響いた。
「……さまって言うのやめなさいってば」
「だって最近、SNSで知の女王って呼ばれてるヨ。尊敬の意ヲ込めて──」
「呼び捨てでいいよ、わたしまだ16歳だし」
苦笑いで返す巫鈴の背後から、シャオが飛びつくように現れた。
「パォ~! 巫鈴、今朝のおはようSNS投稿、地味にバズってたね!」
「してないし」
「なんで!? 日常投稿しようよ、博美先輩とのプリクラでも!」
「……どうしてあなたが持ってるの、それ」
シャオはにんまり笑って巫鈴の耳元で囁いた。
「ふふふ、ズーハンがこっそり現像した分ヨ」
「なんで裏で回ってるのよ……」
そんなやり取りに、やや遅れて翔吾がやってきた。肩に鞄を引っかけ、どこか眠たげな目つきのまま。
「おはよー……みんな元気だね。まだ朝のHR前だよ?」
「翔吾、もうちょっとシャキッとしなさい」と巫鈴がジト目で言う。
「睡眠時間が改革されてないからね」
「うまいこと言ったつもり?」
笑い声がはじけるように広がった。
――その一方で。
窓の外に薄靄が残る中、那須塩原学園の職員会議室では、蛍光灯の白だけが冷たく点っていた。
「――それでは、本日の連絡を始めます」
校長が穏やかに口を開いた。
いつものように、各学年からの報告が淡々と続く。
だが、その空気が変わったのは――
「一点、重要な通達です」
校長が眼鏡を指で押し上げると、手元の資料に視線を落とし、言った。
「本日より、当面の間、放課後に教員が行っていた校外の見回りを中止とします」
その一言に、数人の教師がピクリと眉を動かした。
「……え? 見回りの中止?」
ぽつりと誰かが呟いた声を皮切りに、ざわざわとした空気が広がる。
「中止って、どういうことですか?」
「トラブルもあったのに……」
「保護者の要望もありますよ?」
ざわつく中で、英語科の岸田が声を張った。
「……校長。これは、あの例の生徒の提案が、いよいよ実行段階に入ったということですか?」
――静まり返る空気。
誰もがその名前を出すのをためらっていた。
校長はしばし沈黙した後、静かに口を開いた。
「伊勢野巫鈴さんの改革提案については、すでに理事会での協議を終え、いくつかの施策が試験的に実行される段階に入っています」
「やはり……!」
「現場の意見は無視ですか!?」
「実務も、責任も、我々が担うんですよ?」
不満と動揺が一気に爆発した。
保健室の安藤が、間を縫うように言った。
「でも……彼女は、教師を敵視しているわけではない。先生たちも救いたいって、はっきり言っていましたよね」
「言葉では何とでも言える!」
「そもそも、学校運営を生徒に委ねるなんて……」
「生意気だ。やりすぎだ!」
声のトーンがどんどん強くなる。
まるで、抑えていた怒りが、正当性を得たかのように。
校長はしばし黙ったまま、すべての声を受け止めるようにしていたが、やがて静かに語りかけた。
「教職とは、変化を教える仕事でもあります。もし、我々が変化を恐れて拒むだけなら、それは教育ではありません」
――静けさ。
「この改革が正しいかどうかは、私もまだ分かりません。ただ、少なくとも、伊勢野巫鈴という一人の生徒が、自分の頭で考え、足を運び、対話し、言葉を尽くしたその姿勢に対して――我々大人は、耳を塞ぐことなく応じる責任があると考えています」
それでも、全員が納得したわけではなかった。
数名の教師は、椅子に沈みながら腕を組み、苦い表情のままだ。
「……そんな理想論で、現場が持つんですかね」
「現実を分かってないのは、どっちですかね」
小さな嘲笑が混じる中、校長はそれをいなすように、やわらかく言った。
「今日のところは、通達事項としてお伝えします。ご協力、よろしくお願いします」
再び蛍光灯の白が、会議室に冷たく降り注ぐ。
教師たちは各自の資料をまとめ始めるが――
その誰の胸にも、「伊勢野巫鈴」という名前が、はっきりと焼きついていた。
それが、波紋の始まりであることに、気づかぬまま。
巫鈴は教室の扉を静かに開けた。
その瞬間、空気が変わっているのを肌で感じた。
昨日までの、距離を取るような視線も、探るような沈黙も――もう、なかった。
「おはよ、伊勢野さん!」
前の席の女子が、軽く手を振った。
「……おはよう」
少し戸惑いながらも返すと、すぐに別の声が重なる。
「動画見たよ、すごいじゃん。先生たち、本気で動き出すんでしょ?」
巫鈴は小さく息を吸い、視線を落とした。
机の上の教科書が、少しだけ新しく見える。
興味でも、反感でもなく――
そこにあったのは、確かに好意だった。
応援するでもなく、崇めるでもなく。
ただ、静かに背中を押すような、まっすぐなまなざし。
翔吾がノートを閉じて、軽く笑う。
「ほらな。風向きってやつは、ちゃんと見てる人にはわかるんだ」
「……別に、風を起こしたつもりはないよ」
「でも吹いたんだろ? 巫鈴さんが歩いたあとで」
巫鈴は窓の外を見た。
曇り空の向こうに、薄い陽光が射しはじめている。
それはまるで、長い冬の終わりを告げる小さな兆しのように――。
――ガラリ、と扉が開いた。
村山先生がファイルを片手に入ってくる。
いつもよりわずかに背筋が伸びて見えた。
「おはようございます。……みんな、席について」
声のトーンは変わらないのに、教室の空気がどこか落ち着いていた。
ざわつきも笑い声も、自然に静まり返る。
先生は黒板に日付を書きながら、一呼吸おいて言った。
「……今日、職員会議でひとつ大事な決定がありました」
巫鈴の胸が、ほんの少しだけ高鳴る。
チョークの先が止まり、背中越しに視線が教室全体をなぞる。
「放課後の“校外見回り”は、今日から中止になります。その分、みんなの自主性を信じて行動してほしい――以上です」
ざわ……。
教室の奥で誰かが小さく息をのむ音。
そのあとを追うように、少し温かい拍手が起こった。
ほんの数人。それでも確かに、響いた。
村山先生は笑みを浮かべた。
「……ね、いろんな意見はあるけど。誰かが動いた結果だ。あとは、どう生かすかを考えよう」
巫鈴はその言葉を聞きながら、手のひらの中でペンを転がした。
周囲の視線が痛くない。
むしろ、光のようにやさしく当たっている。
窓の外の雲が割れ、朝日が差し込む。
その光が、巫鈴の髪の先を柔らかく照らした。
――静かに始まる、新しい一日。
そして、“変化”という名の授業が、もう始まっていた。
――その頃。
職員室の奥、コーヒーメーカーの横に、小さな輪ができていた。
湯気の向こうに、険しい顔が三つ。
「……だから言ったろ。理事会が“生徒の声”なんて持ち出したら、こうなるって」
社会科の古参・大河原が、新聞を机に叩きつける。
「校外見回り中止だと? まるで我々が悪者扱いじゃないか」
理科主任の佐藤が、眉間を押さえた。
「まあ、時代だよ。保護者ウケもある。上は“生徒主体の教育”って言葉に弱い」
「そうやって流されてきた結果が、今だろうが」
大河原の声が低く響く。
「十六の小娘が学校の仕組みに口を出す。教師がそれを黙って見ている――笑わせるな」
黙って聞いていた古文教師の早乙女が、湯呑を置いた。
「……けど、理事会と校長が動いた以上、表立って反対はできませんね」
「表立っては、な」
大河原はゆっくり立ち上がり、窓の外の校庭を見た。
「現場でどう“評価”するかは、我々の自由だ」
彼の声には、冷ややかな確信があった。
「授業態度、提出物、協調性――数字は正直だ。
どんなに理屈をこねても、記録に残るのは“教師の評価”だからな」
佐藤が苦笑を浮かべる。
「やり方が古いんだよ、あんた」
「古いからこそ、学校は持ってきたんだ」
その返しには、どこか誇りのような硬さがあった。
――そして、静かな敵意は、湯気のように漂って消えた。
けれど、確かにそこにあった。
巫鈴の知らぬところで、
新しい波紋の“逆流”が、ゆっくりと形を取りはじめていた。




