表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/14

波紋の朝

――朝。

まだ秋の名残が微かに香る風の中、那須塩原学園の校門には生徒たちの雑談が交差していた。制服の上から羽織るパーカーやカーディガンに、季節の移ろいが滲んでいる。

伊勢野巫鈴は、いつも通りの時間に校門をくぐった。

耳にはイヤホン、手には文庫本。通学路を歩く姿は普通の生徒そのものだったが、すれ違う一部の生徒が視線を送っているのに、本人は気づいているのか、いないのか。

「巫鈴さまっ!」

ズーハンの張りのある声が、校舎前の広場に響いた。

「……さまって言うのやめなさいってば」

「だって最近、SNSで知の女王って呼ばれてるヨ。尊敬の意ヲ込めて──」

「呼び捨てでいいよ、わたしまだ16歳だし」

苦笑いで返す巫鈴の背後から、シャオが飛びつくように現れた。

「パォ~! 巫鈴、今朝のおはようSNS投稿、地味にバズってたね!」

「してないし」

「なんで!? 日常投稿しようよ、博美先輩とのプリクラでも!」

「……どうしてあなたが持ってるの、それ」

シャオはにんまり笑って巫鈴の耳元で囁いた。

「ふふふ、ズーハンがこっそり現像した分ヨ」

「なんで裏で回ってるのよ……」

そんなやり取りに、やや遅れて翔吾がやってきた。肩に鞄を引っかけ、どこか眠たげな目つきのまま。

「おはよー……みんな元気だね。まだ朝のHR前だよ?」

「翔吾、もうちょっとシャキッとしなさい」と巫鈴がジト目で言う。

「睡眠時間が改革されてないからね」

「うまいこと言ったつもり?」

笑い声がはじけるように広がった。

――その一方で。


窓の外に薄靄が残る中、那須塩原学園の職員会議室では、蛍光灯の白だけが冷たく点っていた。

「――それでは、本日の連絡を始めます」

校長が穏やかに口を開いた。

いつものように、各学年からの報告が淡々と続く。

だが、その空気が変わったのは――

「一点、重要な通達です」

校長が眼鏡を指で押し上げると、手元の資料に視線を落とし、言った。

「本日より、当面の間、放課後に教員が行っていた校外の見回りを中止とします」

その一言に、数人の教師がピクリと眉を動かした。

「……え? 見回りの中止?」

ぽつりと誰かが呟いた声を皮切りに、ざわざわとした空気が広がる。

「中止って、どういうことですか?」

「トラブルもあったのに……」

「保護者の要望もありますよ?」

ざわつく中で、英語科の岸田が声を張った。

「……校長。これは、あの例の生徒の提案が、いよいよ実行段階に入ったということですか?」

――静まり返る空気。

誰もがその名前を出すのをためらっていた。

校長はしばし沈黙した後、静かに口を開いた。

「伊勢野巫鈴さんの改革提案については、すでに理事会での協議を終え、いくつかの施策が試験的に実行される段階に入っています」

「やはり……!」

「現場の意見は無視ですか!?」

「実務も、責任も、我々が担うんですよ?」

不満と動揺が一気に爆発した。

保健室の安藤が、間を縫うように言った。

「でも……彼女は、教師を敵視しているわけではない。先生たちも救いたいって、はっきり言っていましたよね」

「言葉では何とでも言える!」

「そもそも、学校運営を生徒に委ねるなんて……」

「生意気だ。やりすぎだ!」

声のトーンがどんどん強くなる。

まるで、抑えていた怒りが、正当性を得たかのように。

校長はしばし黙ったまま、すべての声を受け止めるようにしていたが、やがて静かに語りかけた。

「教職とは、変化を教える仕事でもあります。もし、我々が変化を恐れて拒むだけなら、それは教育ではありません」

――静けさ。

「この改革が正しいかどうかは、私もまだ分かりません。ただ、少なくとも、伊勢野巫鈴という一人の生徒が、自分の頭で考え、足を運び、対話し、言葉を尽くしたその姿勢に対して――我々大人は、耳を塞ぐことなく応じる責任があると考えています」

それでも、全員が納得したわけではなかった。

数名の教師は、椅子に沈みながら腕を組み、苦い表情のままだ。

「……そんな理想論で、現場が持つんですかね」

「現実を分かってないのは、どっちですかね」

小さな嘲笑が混じる中、校長はそれをいなすように、やわらかく言った。

「今日のところは、通達事項としてお伝えします。ご協力、よろしくお願いします」

再び蛍光灯の白が、会議室に冷たく降り注ぐ。

教師たちは各自の資料をまとめ始めるが――

その誰の胸にも、「伊勢野巫鈴」という名前が、はっきりと焼きついていた。

それが、波紋の始まりであることに、気づかぬまま。

巫鈴は教室の扉を静かに開けた。

その瞬間、空気が変わっているのを肌で感じた。

昨日までの、距離を取るような視線も、探るような沈黙も――もう、なかった。

「おはよ、伊勢野さん!」

前の席の女子が、軽く手を振った。

「……おはよう」

少し戸惑いながらも返すと、すぐに別の声が重なる。

「動画見たよ、すごいじゃん。先生たち、本気で動き出すんでしょ?」

巫鈴は小さく息を吸い、視線を落とした。

机の上の教科書が、少しだけ新しく見える。

興味でも、反感でもなく――

そこにあったのは、確かに好意だった。

応援するでもなく、崇めるでもなく。

ただ、静かに背中を押すような、まっすぐなまなざし。

翔吾がノートを閉じて、軽く笑う。

「ほらな。風向きってやつは、ちゃんと見てる人にはわかるんだ」

「……別に、風を起こしたつもりはないよ」

「でも吹いたんだろ? 巫鈴さんが歩いたあとで」

巫鈴は窓の外を見た。

曇り空の向こうに、薄い陽光が射しはじめている。

それはまるで、長い冬の終わりを告げる小さな兆しのように――。


――ガラリ、と扉が開いた。

村山先生がファイルを片手に入ってくる。

いつもよりわずかに背筋が伸びて見えた。

「おはようございます。……みんな、席について」

声のトーンは変わらないのに、教室の空気がどこか落ち着いていた。

ざわつきも笑い声も、自然に静まり返る。

先生は黒板に日付を書きながら、一呼吸おいて言った。

「……今日、職員会議でひとつ大事な決定がありました」

巫鈴の胸が、ほんの少しだけ高鳴る。

チョークの先が止まり、背中越しに視線が教室全体をなぞる。

「放課後の“校外見回り”は、今日から中止になります。その分、みんなの自主性を信じて行動してほしい――以上です」

ざわ……。

教室の奥で誰かが小さく息をのむ音。

そのあとを追うように、少し温かい拍手が起こった。

ほんの数人。それでも確かに、響いた。

村山先生は笑みを浮かべた。

「……ね、いろんな意見はあるけど。誰かが動いた結果だ。あとは、どう生かすかを考えよう」

巫鈴はその言葉を聞きながら、手のひらの中でペンを転がした。

周囲の視線が痛くない。

むしろ、光のようにやさしく当たっている。

窓の外の雲が割れ、朝日が差し込む。

その光が、巫鈴の髪の先を柔らかく照らした。

――静かに始まる、新しい一日。

そして、“変化”という名の授業が、もう始まっていた。


――その頃。

職員室の奥、コーヒーメーカーの横に、小さな輪ができていた。

湯気の向こうに、険しい顔が三つ。

「……だから言ったろ。理事会が“生徒の声”なんて持ち出したら、こうなるって」

社会科の古参・大河原が、新聞を机に叩きつける。

「校外見回り中止だと? まるで我々が悪者扱いじゃないか」

理科主任の佐藤が、眉間を押さえた。

「まあ、時代だよ。保護者ウケもある。上は“生徒主体の教育”って言葉に弱い」

「そうやって流されてきた結果が、今だろうが」

大河原の声が低く響く。

「十六の小娘が学校の仕組みに口を出す。教師がそれを黙って見ている――笑わせるな」

黙って聞いていた古文教師の早乙女が、湯呑を置いた。

「……けど、理事会と校長が動いた以上、表立って反対はできませんね」

「表立っては、な」

大河原はゆっくり立ち上がり、窓の外の校庭を見た。

「現場でどう“評価”するかは、我々の自由だ」

彼の声には、冷ややかな確信があった。

「授業態度、提出物、協調性――数字は正直だ。

 どんなに理屈をこねても、記録に残るのは“教師の評価”だからな」

佐藤が苦笑を浮かべる。

「やり方が古いんだよ、あんた」

「古いからこそ、学校は持ってきたんだ」

その返しには、どこか誇りのような硬さがあった。

――そして、静かな敵意は、湯気のように漂って消えた。

けれど、確かにそこにあった。

巫鈴の知らぬところで、

新しい波紋の“逆流”が、ゆっくりと形を取りはじめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ