1.十三年前の約束
「リリア、泣かないで」
夕暮れの教会の裏庭に、六歳のトムの優しい声が響いた。
石造りの教会の壁にもたれて座る五歳のリリアは、小さな肩を震わせながら泣いていた。オレンジ色の夕陽が彼女の茶色い髪を照らし、涙で濡れた頬を温かく染めている。
「みんなが...みんなが私のことブスって言うの」
リリアの小さな手が涙でぐしゃぐしゃになった顔を覆う。村の同年代の子供たちから心ない言葉を浴びせられ、幼いリリアの心は深く傷ついていた。
「そんなことないよ。リリアは優しくて、いい子だ」
トムは真剣な表情でリリアを見つめた。まだ幼い彼の瞳には、純粋な誠実さが宿っている。
「でも、美しくないもの...」
しゃくりあげながら呟くリリアの声が、風に運ばれていく。
「美しいって何だろうね?」
トムは空を見上げながら考え込んだ。夕空に浮かぶ雲がゆっくりと流れている。
「お母さんが言ってたんだ。本当に美しい人っていうのは、心が美しい人なんだって。リリアの心はとっても美しいよ」
「本当?」
涙で濡れた瞳がトムを見つめる。希望の光が、その瞳にかすかに宿り始めた。
「本当だよ。だから僕は、大きくなったらリリアと結婚するんだ」
「結婚...?」
「うん。リリアを一生大切にするって約束する」
トムは小さな手を差し出した。
「指切りげんまん」
「嘘ついたら毒蠍の針千本飲ーます」
二人の小さな指が絡み合う。教会の鐘が夕方を告げる中、幼い二人は永遠の愛を誓った。
カーン、カーン...
鐘の音が夕暮れの村に響く。
「トム、ありがとう」
リリアの顔に、ようやく笑顔が戻った。その笑顔を見て、トムも嬉しそうに微笑む。
「リリアの笑顔が一番美しいよ」
夕陽が二人の小さな影を長く伸ばしていた。幼い心に刻まれた約束は、十三年後の運命を大きく左右することになる。
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十三年後——
陽だまりの中で、リリア・メルローズは幼馴染のトムと向かい合って座っていた。
村の外れにある小さな丘の上、二人だけの特別な場所。青い空には綿雲が浮かび、そよ風が草花を揺らしている。鳥たちの囀りと、遠くの村から聞こえる生活音が、のどかな午前の時間を演出していた。
今日はリリアの十八歳の誕生日——エステリア王国で成人と認められる特別な日。この日のために、リリアは亡き母の形見である一番良いドレスを着て、髪も念入りに結い上げていた。
今日こそ、トムが正式に結婚の申し込みをしてくれるはず。胸の奥で期待が高まる。十三年前の約束が、ついに現実になる瞬間が来たのだ。
「リリア」
トムが口を開こうとした時、村の方角から軽やかな笑い声が聞こえてきた。
振り返ると、金色の髪を風になびかせながら、一人の美少女がこちらに向かって歩いてくる。ローザ・ハートフィールド。三ヶ月前に大きな都市から商家の事情で越してきた、村一番の美女だった。
「あら、トム!こんなところにいたのね」
ローザの声は鈴を転がすように美しく、その笑顔は朝の陽光よりも眩しかった。完璧に整った顔立ち、透き通るような白い肌、そして宝石のように輝く青い瞳。
リリアは自分の平凡な容姿と比べて、胸の奥が苦しくなるのを感じた。
また、また彼女が現れた。リリアの心に暗い影が差した。
「ローザ...なぜここに?」
トムの声が微かに震えているのを、リリアは見逃さなかった。
「村のお祭りの準備を手伝ってもらおうと思って、探していたの。でも...」
ローザはリリアに気づくと、申し訳なさそうに眉をひそめた。
「お邪魔してしまったかしら?二人でお話し中だったのね」
「いえ、そんなことは...」
リリアが慌てて首を振ろうとした時、トムが立ち上がった。
「実は、リリアに大切な話があったんだ」
リリアの心臓が早鐘を打った。今日、十八歳の誕生日に、トムは彼女にプロポーズをしてくれるはずだった。成人を迎えた記念として、幼い頃からの約束を正式な婚約として結んでくれるはずだった。
ついに、ついにこの時が来たのね。リリアの心が躍った。
しかし、トムの次の言葉は、リリアの世界を根底から覆した。
「リリア...僕たちの約束のことなんだけど」
トムは目を逸らしながら続けた。その瞬間、リリアの心に嫌な予感が走る。
「あの...取り消させてもらいたいんだ」
時が止まったような静寂が丘を包んだ。風が止み、鳥の囀りも聞こえなくなった。リリアは自分の耳を疑った。
「え...?」
声にならない声が、唇から漏れる。
「君は本当に優しくて、良い子だ。でも...」
トムはちらりとローザを見てから、苦しそうに言葉を続けた。
「ローザは本当に美しいんだ。僕は...彼女に恋をしてしまった」
ローザが手で口元を覆い、困ったような表情を見せる。しかし、その瞳の奥に宿る勝利の輝きを、リリアは見逃さなかった。
「トム、私...そんなつもりじゃ...」
「いいんだ、ローザ。君に罪はない。君が美しいのは事実だから」
リリアは立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。頭の中が真っ白になって、何も考えられない。
嘘、嘘でしょ?十三年間の約束が——。リリアの頭の中で思考が混乱した。
「リリア、君を傷つけるつもりはなかった。でも、偽りの気持ちで結婚するより、正直でいたほうが...」
「私が...ブスだから?」
ようやく絞り出したリリアの声は、か細く震えていた。
「そんなことは...」
「私がブスだから、ローザさんの方がいいのね?」
トムは否定しようとしたが、言葉が出てこない。その沈黙が、何よりも雄弁にリリアの問いに答えていた。
ローザが慌てたように近づいてくる。
「リリア、そんな風に言わないで。あなたはとても優しくて、素敵な人よ。ただ...」
「ただ、美しくないのね」
リリアは立ち上がった。涙が頬を伝い落ちそうになったが、なんとかこらえる。
「分かったわ。お幸せに」
そう言い残すと、リリアは丘を駆け下りた。後ろからトムが名前を呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。
「リリア!待って!」
トムの声が風に流される。でも、もう遅い。十三年間信じてきた約束は、美しい少女の出現と共に脆くも砕け散った。