おまけ 日常はネタの宝庫!
得名井太郎は大学生になっていた。
大学への登校中、得名井のすぐ隣で潔子の送迎車が減速し、窓から潔子が腕を出した。
「得名井、これ」
潔子はハート形の包装されたプレゼントボックスを差し出した。
「えっ……!」
得名井太郎は思った。
今? と。
今日は七月十四日である。
五か月遅れ、あるいは七か月早いバレンタインデーにしては、彼女はそっぽを向いていて頬を赤らめている。横目で得名井の表情を伺っている。
あまりにも本気だ。
「あ、ありがとう」
得名井は受け取った。何かの冗談にしても、中身がこの気候で溶けているとしても、彼女の気持ちは尊重したい。
「開けてもいい?」
「ええ、どうぞ」
得名井は包装紙を開く。こういうのは破るのがマナーと聴いたけど、得名井は綺麗にはがしたいタイプだ。
箱の蓋を開いた。
中には袋入りのかき氷が入っていた。チョコレートソース付きだ。
「庶民の口に合うものなんてわかりませんから、じいやに相談して調達してもらいましたの」
「ありがとう。大事に食べるね」
くるくると縦ロールを指先で巻きながら、潔子は恥じらっているようだった。
固まったかき氷を袋の上から崩しながら、得名井は歩く。
なぜ今日、これが自分に渡されたのか、得名井は思い至る。
「バレンタインデー、忘れてたから?」
二月、新作アニメの脚本で得名井は多忙だった。プロデューサーである潔子も同様だ。
その後もなんだかんだ新生活の準備や大学の授業などで、彼女とは仕事以外で話すことが減っていた。
「わたくしともあろう者が、商戦の代表格がごとき行事を忘れるなどありませんわ」
潔子は言い切る。その頬は赤い。
「ふーん……」
得名井はかき氷の袋を切って、齧りついた。
「冷たい」
「今ですの!?」
潔子の声が響く。
「ほら、こんなに暑いとすぐ溶けちゃうし」
「大事に食べると言っていたのはなんなんですの! チョコレートソースもかけなさい!」
「はいはい」
得名井はチョコレートソースの袋を切って、直接吸い付いた。
「なんなんですの!」
潔子の声が響いた。
◆
「ペリカンさぁーん! 一大事ですー!」
鳥琉のアジトに筧ナナが駆け込んできた。
突撃して来たナナを素早く避けて、倒れかけたカメラを鳥琉は受け止める。
「なんだ嬢ちゃん、俺に何か用か」
「絵の具がありません」
鳥琉は頭を抱えた。
「買ってくりゃいいだろ。そのへんの画材屋で」
「潰れちゃったんです! ナナが懇意にしていた画材屋さんが! この赤で描きたい絵があったのにギリギリギリ」
「その赤かい」
禁断症状が出てナナが爪を噛み始める。その手に握られたチューブに鳥琉は目をつける。
鳥琉はスマホを開いて仲間を招集した。
「全国の画材屋を徹底的に調べろ。パッケージは写真で送る」
撮影班は全国各地へと散った。
「青森ありません!」
「沖縄見つかりませんでした!」
「東京調査中です! 増援求む!」
共同グループにメッセージが次々と送られてくる。
「ありがとうございます、ペリカンさん……」
「いいってこと。同じ映画を作った仲間だろ」
「今度ナナの絵のモデルにしてあげますね。ヌードでいいですか?」
「……やめとく」
メッセージの流れが途絶えた。
絵の具が見つかったという報告は結局来なかった。
「駄目か。諦めて代用品でも探すか」
「絶対、嫌です! こうなったら海外に飛びますナナはふぎゃっ」
駆け出そうとしたナナがぶつかったのは、アジトに入ってきた煙管泰山だった。
「前見て歩きなさい! どんくさいわね!」
ナナの鼻から赤い鼻血が垂れる。
「痛いー……」
「やだブサイク! これでも詰めときなさい!」
泰山が鳥の羽のようなマントからポケットティッシュを取り出した。ナナは受け取る様子はなく、自分の指についた赤い血を見つめている。
「はっ、赤。この赤でなら……今描けるのでは……!」
血で床に絵を描き始めた。
「ああ、駄目だ……どんどん黒くなっていく……ギギギ」
「汚いわね! あとでちゃんと掃除しなさいよ! どういう状況なのよこれ」
「この絵の具がないってんで騒いでてな」
「染料ならあるわよ」
泰山がマントから染料を取り出した。
そのパッケージを鳥琉は読む。
「同じ会社だな」
「あったんですか!?」
ナナが飛び上がった。
「成分表もチェックさせてくれ。ああ、ほぼ同じだ。十分使えるだろ」
「なかなか手に入らないから箱買いしてるのよ。分けてあげてもいいわ」
「ありがとうございますダチョウさんーっ」
鼻血まみれの顔でナナは飛びついた。
泰山は素早く避けて、倒れかけたカメラを鳥琉が支えた。
◆
玄黄つめるは喫茶店に来ていた。
編集者として、得名井以外の複数の作家を受け持っている。その打ち合わせのためだ。
紅茶を口に含む。ゲラ刷りをチェックする。伸ばした背中は背もたれにつけず、椅子に浅く腰かけている。
腕時計を見る。約束の十二時から五分過ぎている。時間にルーズな作家にはよくあることだ。
紅茶を口に含む。ゲラ刷りをチェックする。銀縁眼鏡を上げる。腕時計を見る。
扉が開かれた。つめるが待っている作家ではなかった。この暑い中コートを着込んだ男だった。手には大きめの紙袋を下げている。
「いらっしゃいませ」
「奥の席を」
「どうぞ」
給仕に隅の席へ案内される。男は紙袋を置いて座る。
「ホットコーヒーを、お願いします」
「かしこまりました」
男の注文を受けて給仕は下がる。
つめるは紅茶を口に含む。ゲラ刷りをチェックする。腕時計を見る。時間は十二分すぎている。
男は立ち上がった。トイレの個室に入る。紙袋を机の下に置いていった。
つめるは立ち上がった。男が座っていた席へ向かい、紙袋に近付いた。
紙袋を掴むと、店の外へと出た。
「あのお客様、他のお客様のお荷物を」
「はい、注意してきます」
マスターと給仕が話し終える前に紙袋が爆発した。
ガラス扉が割れる。窓が割れる。椅子がテーブルが飛んでいく。
つめるが戻って来た。スーツには焦げ跡もなく、銀縁眼鏡も割れていない。
「………」
つめるは自分の席に戻り、紅茶を口に含んだ。ゲラ刷りをチェックする。
マスターは慌ただしく電話を取り、警察に通報した。
紙袋を持ち込んだ男はトイレの窓から逃走しようとしていたところを逮捕された。
◆
「チェエエエエストォオオオオオオ!」
田中冥土は朝の鍛錬をこなしていた。敷布団を破れんばかりに叩いている。
「いつもすごいね」
声をかけたのは時のアイドル、池輝暖詩だった。
「あいもはん、気付かんで」
「いやいや、僕のオーラが足らないだけだよ。ちょっと相談したいんだけど」
「なんでしょうか」
池輝は頬を掻いた。
「筋トレに……付き合ってください!」
池輝はそう伝えたつもりだった。しかし、前半の声量が繊細すぎて、田中の耳には届いていなかった。
田中にとって、男が男を愛するという行為は高尚なるものだった。
「承った。義兄弟の契り、結びましょう」
池輝はいい方向に受け取った。
「OKってこと? やったー!」
約束の日、待ち合わせ場所は駅前になった。
「田中君、おまたせ!」
池輝はサングラスと帽子で顔を隠して、私服で現れた。
田中は黒紋付を着ていた。
「オリエンタルだね!」
「参りましょう」
二人は映画館に入った。任侠モノが上映されている。
「筋肉をつける前に、イメトレってことだね」
池輝は納得した。
銀幕で男たちが盃をかわし、義兄弟の契りを結ぶ。
劇場を出た時に池輝は気付いた。
「あれっ、田中君泣いてる?」
「あいもはん」
「いいよいいよ、俺も感動しちゃったし」
喫茶店に入って感想戦を始めた。
「あの時の組長の言葉、しびれたよね」
「男の美学でありもす」
二人はメロンソーダフロートを頼んだ。
一つのグラスに二本のストローが刺さっている。
「ごめん、減量中なんだ」
田中が一人で飲み干した。
二人はトレーニングジムをおとずれた。
「いいよ! もっと追い込んでみよう!」
トレーナーが声をかける。
「はい!」
「チェエエエエストォオオオオオオ!」
二人はトレーニングで汗を流した。
併設のバーでプロテインを飲み、シャワーで汗を流して、二人はジムをあとにした。
夕日の見える展望台に来た。
「綺麗だね」
「池輝殿」
赤く染まった世界で、田中は池輝の顔を見つめた。
「今日は、よき日であったでありもす」
「うん、俺も楽しかった」
田中は頭を下げた。
「お友達のままで、よろしくお願いしもす」
池輝は頬を掻いて、それから言った。
「ああ、うん、これからもいい友達でいてほしいな」
二人は現地で別れた。
池輝は撮影の仕事に戻り、田中もメイドとしての仕事に戻った。
「田中君、泣いてる?」
得名井がたずねた。
「あいもはん」
「なにか悲しいことでもあったの?」
「……男が男を愛することは、難しいでありもす」
「うん? ……うん」
得名井と田中は天井を見る。
勘違いから発生した恋は、辛くも成就しなかった。




